北神戸丹生山系帝釈鉱山跡〜帝釈山〜丹生山〜シビレ山 端谷城・池谷城・大山寺城
北神戸 (五万図=神戸)
T淡河城〜浦川渓谷〜丹生山(516m)〜帝釈山〜岩谷峠 2000年07月22日
U衝原湖〜帝釈山〜丹生山(516m)〜シビレ山〜シブレ山 2002年11月10日
志染町三津田から・中央奥が呑吐ダム H15.6.29

有馬〜木見〜端谷城(Ca140m)  2003年10月18日
  三木〜木見〜池谷城(Ca102m)   2004年03月28日
  帝釈山173m〜三身山Ca200m(太山寺城) 2004年03月28日
関西百名山: 帝釈山 586m
近畿の山城:淡河城   淡河城西付城・南付城 端谷城 池谷)城
 丹生山城 三津田城(満田城)衝原城(未訪) 大山寺城
校歌の故郷の山 三木小学校 ♪丹生山の白い雲 美嚢の川の青い水・・♪
            三木中学校 ♪丹生山の峰高く・・・♪
             三木高等学校 ♪山遥かなる丹生に・・・♪
            三木北高等学校 ♪丹生の峰輝きて…♪

県道52号線の寺谷バス停から明石川の支流・枦谷川(櫨谷川)に架かる観音寺前橋を渡った北側にある雑木林で覆われた小高い丘陵の山腹に 満福寺(明石西国観音霊場18番札所 )の屋根が見えます。
端谷城遠望・観音寺橋から

寺へ向う正面の道は大手道で、 橋を渡った周辺には左右に平坦な空地や田畑があるが、此れ等の削平地には櫨谷川を水堀にして城主の居館や侍屋敷群・蔵等が建っていたと推測されます。 境内には城主衣笠範景の顕彰碑があって此処に端谷城がありました。寺の入り口に城跡碑や案内板があって満福寺境内の本堂の建つ「三の曲輪 」の直ぐ背後「二の曲輪」との間には大堀切が綺麗な状態で残っていて、神戸市内でも最も保存状態が良好な山城だといわれます。小さな城だったので残ったともされますが、地元保存会の努力でハイキング道として整備され各所に親切な案内板も設置されている。
満福寺の石段下にある城址碑

満福寺の境 内「此処が三の丸」山門へ車道 (一般車乗り入れ禁止)が通じるが、その車道を左に見て端谷城の本郭部「一の丸」へは、右手にある細い階段を庫裏!!の裏手へ抜けて、 北の尾根に向う登路を進みます。削平地に続く急斜な大土塁を越えた途端、息が止る程の感動を覚えます。さらに先に向う「二の丸」の高い切岸に威圧され土塁越しには三の丸に建つ満福寺の甍を見下ろして、境内のと二の丸の間にある大空堀に圧倒されます。
満福寺背後にある見事な土塁と空掘

明石川の支流・櫨谷の谷筋には池谷城・福谷城 ・城ヶ市城 ・城ヶ谷砦・鷹尾城・友清城など 衣笠氏一族のものと 考えられる多くの城や砦を築いていきましたが、其々の場所や城主・築城時期については資料の持ち合わせが無くて「兵庫の城紀行」の端谷城を参考に満福寺裏手の衣笠城の訪城記録に留めますが、遺構も残る同規模の池谷城へも 何時か訪ねてみたいものです。



T淡河城-浦川渓谷-丹生山-帝釈山-岩谷峠
 H12. 07,22

428号線に入り無動寺を過ぎ 下山口の岩谷峠を越え環境センタ先の駐車スペースに車を寄せて車道(淡河スカイライン)をひたすら淡河本町に向かって降る。左下方に深く切れ込んだ谷が浦川渓谷。淡河本町のT字辻に光照寺が・向かいの古い石道標(7:05)が丹生山への参道で 西国巡礼道でもある。丹生川沿い竹藪で覆われた断崖状台地の上が淡河城です。県道38号の交差点「淡河本町」のガソリンスタンドで左折三木方面へ進み、 次の淡河バス停で左の民家の先大手橋を渡れば藪の奥に消える細道が大手道で、藪の坂道を抜けると田園風景が広がります。奥の方の集落には2〜3軒の萱葺き屋根も見えます。
淡河城天守台跡に建つ城址碑 H20.02


左手の小公園が本丸跡・西に(西の丸)ある阿弥陀堂の白壁で囲われた一角は淡河氏歴代の墓所ですが調査中!!?。磨耗した石仏・宝篋印塔 ・五輪塔等々が中央に集められていました(7:20)。本丸と墓所以外は全て田畑で集落に向かう車道が走っています。光照寺前の道標にへ戻り丹生山への谷に向かう。河川工事中の横を抜けると、滑りやすい黒っぽい岩の小さな流れに出会う。 平坦な流れに沿って辿ればすぐに堰提に突き当たりますが左端は岩場のようですが下部は水門の様です。水抜きの水門なら自然の岩に穴を穿がたなくても ・・・と思うと不思議な造形に思います(7:50)。右岸の細い踏み跡を上部に出て川筋に沿って 貯水量の切れる谷に下りるまで暫く藪漕ぎだが谷に沿わなくても左手の踏跡を辿るのが正解だったか?。
竹慶寺跡境内にある淡河氏歴代の墓碑 H20.02

両岸が迫り深い淵や大きな釜をもつが:不釣合な小滝を越して進む。黒っぽい岩と谷中の暗さ・淀む淵が 秘境の趣(陰気さ)を漂よわせている。両岸のへつりは手掛かりも多く岩も固くて快適です。2〜3の釜や淵を経て2m程の岩場を抜けて谷が左へカーブする個所にこの谷最大の巴滝(2段6m)があり核心部でもあります(8:20)。ここも右岸を越すと 左岸上部の岩場に木造りと石造りの 祠が祀ってありバーコード付きの未だ新しい茄子が供えてありました。この静かな谷の先は砂防ダムを越したところで 遡行を終了します。ここも右岸を巻いて左岸からの丹生山参道に 合流する。R428へ出る分岐?の広場は幕営適地で、数m先に「鷹尾鉱山跡・淡河町の自然と文化を守る会」の標識と露天掘りの古井戸跡のような坑口があります(8:55)。
帝釈山山頂

ここで参道道と分かれ右手の谷に沿って進みます。シビレ山へ向かうつもりなので 巡視路と分かれ谷を詰め道が消えかかるころ、左の尾根に向かって短い藪漕ぎで尾根に出ます(9:25)。この短い尾根は谷を隔てた帝釈山〜丹生山〜の手前です。とりあえず送電線に沿って端の鉄塔の有るピークまで行ってみます。三木方面に雄岡山 ・雌岡山の小さな岡が平地に突き出して見えます。少し戻ったところに谷筋への巡視路が谷に伸びています。谷に沿うように随分古い道が現れます。古い石標が三叉路にあり不動滝と丹生山参道への分岐を示している(10:05)。先刻の短い尾根は 展望良好のパノラマコースです。丹生山参詣道は「清浄水」の石碑とそれらしい窪地・岩場の上部に不動尊が祠られています。この道もしばらくで右手より蝙蝠谷・シビレ山方面からの道と合流して「太陽と緑の道」として整備された見覚えのあるハイキングコースとなります。丹生神社まで気持ちの良い木陰と涼風の散策道が続きます。神社本殿の裏手から蝙蝠谷への踏み跡もあるが今回は帝釈山へ縦走です。
広芝池への下降尾根から帝釈山


丹生山(たんじょうざん 516m AM10:50)は 平清盛が福原(嘗て神戸・福原に都があった )に居た頃比叡山に倣って日吉山王権現を祀ったと云われ坂本の名が有りますね。丹生山の丹(タン=に)はズバリ赤を意味し、神功皇后が朝鮮出兵の際、諸所の神を集め祀って戦勝祈願したとき、ある神から「六甲の北の山から丹(赤土)を採って船 ・武器・衣服に塗って戦えば勝てる」という言葉に従ったことから「丹生山」と呼ぶようになったと言われ、丹生神社は明要寺を鎮護するために建立された神社で祭神・丹生都比売命を祀る全国丹生の地名ルーツといわれます。 少し引返せば帝釈山縦走路の案内標識にしたがって帝釈山頂の切り開き以外はずっと木陰の中にコースが続き帝釈山頂(586m 11:25)帝釈鉱山跡を経て坂本バス停への分岐(11:35)から国道の岩谷峠に辿り付きます(11:55)。この暑い時期でなければ 雉子ヶ墓山〜花折山や志久峠を尋ねたいところです。


U戦国悲話と古代遺跡が眠る山帝釈鉱山跡-帝釈山-丹生山-三津田道-衝原湖
 H14.11.10

私には丹生山地より、いまだに帝釈山脈の呼称が馴染みですが、 六甲山系の北西に500m前後の山々を連ねる丹生山地の最高峰・帝釈山から、須磨浦の源平合戦で源義経が鵯越の逆落し奇襲作戦をかけるため丹生山の峰を越えた義経道の伝承と日本最古の民家千年家が残る歴史の道と衝原湖を周回する サイクリングロードや鉱山跡もある明るく静かな山域です。衝原とは原野(箕谷付近・山田町原野)の突き当たりの意味もある、そんな衝原湖:呑吐ダムは 「吐く程呑む?」には少ない保水量だか静かに水を湛えています。
西神戸自動車道が跨ぐ衝原湖

このダム湖に対峙して北と西にはシブレ山・シビレ山がある。雉子ヶ墓山〜花折山に続いて縦走コースの帝釈山〜丹生山に此の二つの山も加えて歩きます。 今回の周回コースの基地は 箱木のサイクリングセンター(AM8:50)から、こうもり岩を見てこうもり谷からシビレ山を目指したいところですが、こうもり谷は入山禁止とのことですので85号線へ戻って"鴬橋"を渡って義経道〜丹生山への林道に入ります。 分岐毎にチョークで書かれた登り下りの矢印は丹生山への義経道に続いています。当日のみのイベントなら紙かテープ標示にして終了後は片付けて欲しいところです。丹生から帝釈は往復するつもりでしたが、歴史の道を敬遠し帝釈鉱山跡へのコースを採って帝釈山に向う。未舗装の荒れた車道 !!は稲荷社を祀る祠前まで続き、谷筋と合流して山道になります。自然石の石段の先に鎮座する稲荷社の柱に帝釈鉱山の文字が (AM9:28)・・
林道終点・稲荷社側の坑口

藪の中に踏み跡があり古墳を思わせる坑口に続き、人一人腰を屈めてヤット通れるほどの鉱道が 真っ直ぐ暗闇の世界に続いていきます。いくつもの枝道はありますが谷沿いに進んでいくと10分程で鉱山跡への分岐となり、正面奥に岩壁が見え水量は少ないが数段の高離のある滝が懸かっています。其処まで行く手前に"進入禁止"マーク看板の立つ 大きな鉱口があります。40m程戻れば元の分岐です。道なりに進み 辺りが緩やかになってくると帝釈山から岩谷峠へ降る尾根(AM10:00)に着きます。左へ採って 帝釈山へ向った途端に ロープ伝いの急斜・直登が待っています。展望の効かないルートですが、樹間を抜けて飛び出した"賽の河原"のような雰囲気だが一気に南方に展望が拡がる明るい露岩や石が点在する広場には3基の石の祠が祀られた背後が 帝釈山山頂(2等三角点 586m AM10:12)で丹生山明要寺の奥ノ院として梵天帝釈を祀ったことに由来する山名です。
帝釈鉱山跡


丹生山系随一の展望地で灘〜明石海峡へ東西に光る海の白さが眩く感じます。小広場を抜けて出発と同度に又展望皆無の雑木の中の登り降りが続き、シビレ山・不動滝コース(AM10:35)への分岐点迄来ると丹生山は近く、 最期の下りでは曲輪を思わせる!!幾くつもの平坦な段差を左右に見て「太陽と緑の道」道標に沿う広い山道に合流します。丹生山からはこの道をシブレ山へ向う三津田道を辿りますが、此処からの緩やかな山道に沿って続く杉林の中に現れる平坦地が 曲輪跡であることを確信します。この三津田道は、織田信長の毛利攻めと時を同じくして羽柴秀吉が三木城の攻撃に、あの悲惨な兵糧攻め「三木の干し殺し」に対して、丹生山にあった明要寺の僧侶達が三木城に呼応、厳重な警備陣をくぐり 兵糧を運んだ道の一つがこの三津田道なので、防護施設は無くても一時保管倉庫の曲輪群が有っても当然ですネ。義経道や3町石へ下る林道と合流し、 井戸への道を右に取れば丹生神社の石の鳥居前に出る(AM10:40〜55)。最高地点の神社は後にして左手の 石積の郭に行ってみます。
帝釈山山頂

郭の上には「明要寺跡・丹生城跡」石碑が建てられています。山上の寺にしては堅固な石垣が参道に沿って築かれています。寺を城砦化したものか !!・此処が三の丸なら石鳥居のある二の丸を通って、丹生神社へ数段の曲輪跡に沿っての参道、 階段を登ります。最期の急な石段を登り切ると正面に拝殿を見て、左手端に数段の小さな石積みを残した一角があります。寺社の祠に檀にしては強固過ぎ!!、山頂周辺で唯一展望も望まれる 所ですので櫓跡と思われます。丹生山頂を後にして分岐へ戻り 三津田道をシビレ山に向います。幾つかの淡河町へ降る枝道を分けて「シビレ山・こうもり谷」道標のある分岐を進みます(AM11:05)。途端にロープが続く直進の激登りですが直ぐに低潅木の明るく緩やかな尾根道になると展望開け露岩の点在する小広場「シビレ山古代祭祀跡」466m!!に着きます。小さな鞍部を登り返して縦走路の一通過点のような展望も無い高みが本来のシビレ山名のかもしれないが、 立ち止まる程のポイントでもなく先の古代祭祀跡をシビレ山としておいた方が雰囲気も有って良さそうです・・・(^^;
山か丘稜か? 衝原湖の先に雄岡山と雌岡山を望む


此処からは降る一方の道ですが結構急斜の続く所もあって、秀吉軍の厳しい目が有ったにしても三木城への物資補給の為の道にしては厳しくその苦役が偲ばれます。 送電線の巡視路となり鉄塔付近へ出てくると尾根からの見晴らしは良くなり、衝原湖の先・北西の平野には、わずか240m足らずですが周囲には山が無いので堂々と豊満な乳房をならべる雄岡山・雌岡山(どちらも播磨富士)が見えます。丹生山の黒い頭が シビレ山に続く尾根の向こうで、何時までも見送ってくれています。下方には山とも丘とも形容し難い平坦な森が拡がっています。そんな杜へはガレた露岩帯から藪っぽく薄暗い道となり「太陽と緑・・・」自然歩道は左手の衝原湖へと道を分けますが直進して(AM11:50)、 小谷を越えて廃畑のような所を抜けると未舗装林道に出て広芝池(PM12:10)に着きます。 池から衝原湖への谷に落込む西側の山が気になってきます。此処に周辺の名所等地図入り案内板があり、千年家4km・衝原湖 500m・満願寺へ1km程の地点です。 山の向こうは山田川(衝原湖)です。淡河川と山田川に挟まれた山としては、この山域と勝手に決めて登り口を捜して車道に出てきます。 近くに三津田城があることを知ったのですが場所等判らず、後日MLの城ファンの方から満願寺の近くと聞き、場違いの山を登ったことになりました。
山田川(衝原湖)を隔ててこうもり谷・こうもり岩

しかし此処にも堀切らしいものが有り、箱木氏の衝原城かその周辺警護の砦の関連がありそうだと思っています。判然としないまま藪尾根を往復して呑吐ダムサイト(PM1:25)に降りてきます。 西にNTT電波塔のシブレ山頂が見えますので帰路途中ですので簡易ルートの林道を辿って 寄ってみます。呑吐ダムから西神自動車道の下をくぐり抜けるとサイクリングロードの衝原湖大橋を渡って車道正面の「つくはら隧道」へ向います。手前にNTTDoCoMoのシブレ無線中継所に向う専用林道のゲート(PM1:45)があり、こんな所にも途中ゴルフ場があって談笑も聞こえてきます。舗装と未舗装を繰り返しながらの管理道には距離表示のある杭があって 1800mの杭が管理道の崖の端にあって山道が奥に向っています。NTT電波塔の裏の高みが山頂になっていて、脇道は直ぐ先で水道施設のようなタンクが設置された所があり、何処へ通じるのか広い整備された道が下っています。
シブレ山

頂上へは踏み跡らしき通過出来そうな藪中を突いて20m程のところにシブレ山(3等三角点 348m PM2:12)三角点標がある。 明るい小場だが展望はあまり良くない。無線中継所横から高圧線の延びていく方向に良く踏まれた道が続いていますが、地蔵尊や湿地帯(古代沼)を経て山田池に降り立つ道で、また何時か訪ねて見る後の楽しみにして、山道とは反対に藪を突いてNHK専用林道へ戻ります。 「つくはら隧道」を抜け車道を歩くと初めてジックリと「こうもり岩」を眺められた。滑落事故が多いからなのか・登山者のマナーの悪さからなのか!!現在こうもり谷は入山禁止地域です。サイクルセンタ駐車場(PM2:40)に帰り着きます。


淡河城 淡河城西付城と南付城  丹生山城
三津田城(満田城)
 端谷城 池谷)城 大山寺城


淡河城(上山城)  xxx 丘(平山)城  神戸市北区淡河町淡河(本町上山)

淡河(オウゴ)城は下河原停留所【淡河バス停となっているかも知れないが”道の駅淡河”が出来たので此処から 直接模擬櫓を目指すのが一般的かも 】から浦川(丹生川)の大手橋をわたり左手の岸上台地(河成段丘)比高約20mの突端に築かれた城で、淡河城址市民公園として整備?され最近は櫓が新設されたと聞いて再度訪ねてみました。
浦川に面した断崖を天然にの要害とした淡河城

上山台地一帯の東・北・西三方は川と垂直に近い切岸で囲まれた天然の要害を形成する河川段丘端に在り、播磨と摂津を結ぶ 国境に位置する要衝でもある。昭和51年の圃場整備で本丸と堀跡を除き遺構は破壊され天守台は稲荷神社の境内となった。此処に三木合戦の際・淡河城攻めた有馬氏の 末裔のあたる有馬頼寧氏の揮毫(昭和10年)になる「淡河城址」の石碑が建ち土塁・空掘が遺る。有馬氏が淡河城を攻めた軍功で此処に入り、東軍として関ヶ原の合戦に参戦して後・三田城に移り淡河は城史を閉じます。
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋

淡河氏についての其の後は未調査ですが有馬氏が三田〜福知山そして筑前・久留米藩主へと続くなか 秀吉方の有馬氏末裔・有馬頼寧氏と、別所方として散った末裔にあたる方と思われる淡河氏が同じ久留米の地に在ることに奇遇を感じます。 運命で敵対したが播磨赤松一族としての顕彰碑建立(昭和49年(1974)淡河合戦395年を記念)となったものか!鎌倉時代・承久の乱【承久3年・1221 武家の鎌倉幕府と朝廷の公家が戦った】に勝利した執権の北条氏が淡河荘を没収して翌・
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋

貞応元年(承久4年 1222)北条時房の所領となり、地頭職として補任された家臣北条(右近将監)成正が築城。 時房が伊勢の守護職を賜ったので時房の子・掃部助時盛を淡河荘に補任し居城とした。貞応3年(1224)執権北条義時の死亡で泰春・時房が鎌倉へ下向し、時盛も上洛して六波羅南方職に補せられ、淡河荘は時盛の子・越後守朝盛(時治?)に与えられ 淡河氏を名乗ったようです。南北朝期・暦応2年 (1339)後醍醐天皇に付き赤松円心則村に敵対して落城するが、その後の淡河氏は足利幕府体制下にあり・赤松氏に属し、 明徳3年(1392)には城主 :淡河範清が養子として赤松家より季範を養子として迎えて摂津・東播磨国境を守備した。
淡河城本丸の天守台

嘉吉の乱(1441)に赤松氏は滅亡・但馬:山名持豊に降伏するが、応仁の乱(1467-77)に赤松政則が赤松家再興・山名氏から播磨を奪還すると淡河氏も赤松氏に復帰して活躍する。文明18年(1486)には東播磨8郡の守護代となった三木城主・別所則治に属します。天文23年 (1554)有馬郡:有馬重則により淡河元範の淡河城は落城したが永禄元年(1558)淡河氏に戻って嫡男:範行が継ぐが次男:範政が丹波攻めに戦死して範之の養子:定範と続く。天正6年(1578)2月別所長治が織田信長に背いて、毛利方に付くと淡河城主:定範【別所長治の父:安治の妹を妻とし・幼ない城主長治を後見して尽くした・・・】は東播磨の諸領主らと三木城主別所氏に同調します。
淡河城本丸の模擬櫓

天正7年(1579)5月羽柴秀吉は花隈城〜淡河城〜三木城へと運び込まれる毛利方の兵糧輸送経路を断つべく先ず丹生山城を奇襲し 続いて弟小一郎秀長ら一千余騎に淡河城を攻めさせます。城主淡河弾正忠定範【別所長治の義理の伯父】は此れをよく守りますが、続く浅野弾正少弼長政【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々の叔父 ・山崎での合戦後に福知山城主となる】等に淡河城を囲まれ有馬則頼が萩原城・天正寺城等を付城に参戦した。「淡河合戦」では 秀吉軍勢のなかに、牝馬を放ち・敵の騎馬軍団を混乱させ、一度は敗走させた要因として創作された?伝承なのでしょうか。
淡河城本丸跡から模擬櫓と天守台

勝算なき戦いを見定めてか・秀吉方の総攻撃前に城から出撃した城兵を率いて定範は夜間・三木城に合流した奇略は有名!!。もぬけの空となった淡河城は落ち、三木城に籠城した定範も同年9月三木城攻防戦の大村砦!合戦に出陣し、 加佐八幡の森で一族郎党と共に戦死しています。羽柴秀吉に占領された淡河城は萩原城主有馬法印則頼に1万5千石の居城として与えられ、九州征伐・朝鮮征伐(文禄の役)に従軍し、 関が原の合戦での功により 慶長6年(1601)三田城へ(3万石で)栄転して城は廃された様だが、元和元年(1615)一国一城令が配布されて廃城となり元和3年(1617)に取り壊されました。
二ノ丸:竹慶寺跡に建つ淡河家廟所

城遺構は本丸と天守台・堀を残すだけとなっており幅15m・深さ3〜5mの堀に囲まれ本丸の南に高さ3m・東西50m・南北8〜16mの稲荷社境内に天守台を配する構えが当時の面影を残しています。本丸南東の二ノ丸(田圃の奥 )には江戸時代中期頃に廃寺となった城主の菩提寺・竹慶寺跡があり、其の境内跡には鎌倉時代以降・淡河氏代々の墓碑が白壁に護られる中に整然と並んでいます。
(現地城址案内板等を参照 I氏より淡河城顕彰の碑文写を頂き 修正再加筆)


淡河城西付城と南付城
淡河城西付城
  xxx山? Ca160m  神戸市北区淡河町淡河

天正7年(1579)三木合戦の際:羽柴秀吉軍は三木城周辺の支城や、別所氏に従う東播磨諸々の領主の城を攻め落としていきます。同年5月羽柴秀吉は花隈城〜淡河城 〜三木城へと運び込まれる毛利方の兵糧補給経路の封鎖を狙って・先ず丹生山城を奇襲し、続いて其の兵糧補給基地でもあり智将:淡河弾正忠定範【三木城主:別所長治とは 義理の伯父】が守る淡河城へは秀吉の弟:小一郎秀長ら一千余騎を向けて攻めさせ、東付城(R428号沿い無動寺付近か?有馬法印則範)・
簡易水道施設西の農道右藪中が西付城・コンテナ先からも侵入可

西付城(淡河城西ノ丸の西南方?浅野弾正長政)・南付城(西付城の南東へ約300m程:有馬則頼の長男・四郎次郎則氏)・北付城 天正寺城(杉原七郎左衛門家次)を築いて淡河城を包囲していきます。
続く浅野弾正少弼長政【石田三成・前田玄以等と共に 豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々の叔父・山崎での合戦後に福知山城主となる】等に淡河城を囲まれ有馬則頼が萩原城・天正寺城等を付城に参戦した。此の「淡河合戦」では一族・郎党・足軽人夫等を集めて、
西付城:コンテナ先からは谷を挟み竪土塁・谷底の土橋状を渡り主郭部に入る

車蔆(撒き菱)を敷き・逆茂木や綱を張り巡らせて防備を堅める一方、 近在より牝馬を集め・防戦準備を整えたところで「城では連日の様に城外に出て作業をしている・・・」と流布させ、これを聞いた寄せ手の秀長軍らはチャンスと捉え、 500騎ばかりで攻め寄せるが撒き菱に足を痛めて、攻め倦ねているなか、牝馬を放ち・敵の騎馬軍団を混乱させ、そこへ淡河勢が攻め込み一度は敗走させた要因として創作された?伝承なのでしょうか。
秀吉はきっと大軍で攻め寄せてくる筈・・・
西付城内の空堀遺構

淡河の小勢では護りも無理:勝算なき戦いを見定めて城に火を放ち・秀吉方の総攻撃前に城から出撃した 城兵を率いた定範は夜間・三木城に合流した奇略は有名!!。もぬけの空となった淡河城は落ち、三木城に籠城した定範も同年9月三木城攻防戦の合戦では大村平田村に谷大膳の陣を攻撃し、 大膳は討死するが定範も手傷を受けて逃れるが追いつかれ、加佐八幡の森で一族郎党と共に討死した。淡河合戦の東西南北の付城群でも淡河城直近の西の付城南の付き城を訪ねてみる。
淡河城西付城:北端曲輪の西面土塁

淡河城西付城へは道の駅から県道38号線を西へ、淡河郵便局の先・下河原の交差点から南への道へ入ればよいが、 屈曲して分岐する登り坂では初めてなら判り難い地区道。淡河城本丸・淡河氏墓所から400m程の距離だが先ずは西側田圃の中の直線道路南端の集落を目指して進む前方南西の丘陵端が第一目標?の西付城。正面丘陵が陰となり判らないが南奥部の丘陵内と 其の林道を挟んだ西側付近が第二目標?の南付城。西付城から南付城へ延びる農道は南付城の直ぐ南側で猪鹿防護ゲート・フエンスを開閉して 舗装林道が更に延びていくが、終点付近からはシビレ山・丹生山への丘陵尾根に繋がる三木市・神戸北との市境界尾根。淡河からなら帝釈山・稚児ヶ墓山の丘陵尾根とも繋がる。
西付城内の低土塁と横掘(空堀)

前ルートは兵糧搬入丹生山ルートの遮断・後ルートは淡河城側等から兵火を避けて 南方の北区山田町側へと老若男女が逃れようとしたルートだったか?。稚児ヶ墓山の名に三木合戦悲話が残る。ここから西南を望むと・帝釈山や丹生山から北に延び出した尾根が台地となって拡がっていますが、其の先端部は河川段丘の急崖となって浦川(丹生川 )に落ち込む天然の要害を形成しています。此の崖上に淡河城が在り:黒っぽい張りぼての模擬櫓と城跡看板が見える。天守台も無い筈の城跡に模擬の天守閣を建てる滑稽さからすれば未だまし。 低い段差や堀・土塁で曲輪を区分した城の遺構を、造成し毀してまで展望台を造り城跡公園として、子供の遊戯器具まで設置した例からすれば 遥かに救われます。
淡河城西付城中程の浅いが長く延びる空掘(横掘)


城跡看板だけでもよいが・以前から天守台に建つ稲荷社休憩所内に展示されている淡河城ミニ資料館の充実(淡河町の誇れる城の歴史資料・PR館 )・遺構の現状保存に努めていただければと思うのですが、主郭と主郭西・南の一部城域に遺構が残るだけ。内堀で囲まれた本丸と淡河家歴代城主の廟所となっている竹慶寺跡 ・二ノ丸付近までは、何度か過去にも歩いているのですが、城域は更に広く・南の浦川沿い西側へと田園一帯や集落を取り込んだ上山の台地の広範囲に拡がっています。
西付城:北端の低土塁曲輪・左手に空堀

東付城や西付城が余りにも淡河城に近いうえ、西付城と南付城は淡河城と同じ上山台地の河川段丘上にあって間を遮断する谷・川・崖も無いので、 淡河定範の奇策や城から出撃してきた城兵を率いて、そのまま夜間には三木城に向った作戦とは裏腹に、動向が監視出来る筈の位置に在った付城の性格・機能がよく分かりません …?先述の分布図には淡河城とのみ記されている範囲内の段丘西端部に沿って集落内の道を南へ進みます。最奥の民家から先・此処から段差のある田圃が並んでいますが、其の北末端からは藪尾根が北方に延び出しています。 登ってきた農道の西下の谷筋に池を見る。
淡河城西付城:北端曲輪切岸と低土塁・空堀土橋虎口

急斜面の藪尾根が見えています。 「ひょうごの城紀行」(神戸新聞総合出版センター)淡河城の項の文中には城砦が記されていないが城遺構の状況からは「西の丸」が其れに該当するところなのでしょうか?。多田暢久氏作図の「淡河西付城現状図」から此れを城名としておきます。 「・・・台地が西に突出して独立した郭を形成しており、空掘りと土塁に囲まれていたようである。この北側から約1メートルの丸太を並べた櫓の 遺構が見つかっている。 ここは重臣たちの館があったらしい。これらのすべては破壊されてない」・・・とも。淡河城西付城へは直進する農道脇の左手に「淡河簡易水道」施設があり、右手(西方)の田圃と藪地に沿う道の奥にトラックのコンテナだけが外され置かれている空地?に向かって進む。

淡河城南付城:貯水池”原池”右手の丘陵内

右手の藪中に下っていく踏み跡を 探して見てください。 猛烈な藪は数mで抜けられ、藪の少ない緩やかな尾根上の台地に出ます。 淡河城に寄ったのなら一帯が田園の中の二ノ丸から、 南ノ丸と三ノ丸の間を南西方へ約400m程、 丘陵西端に向って農道を緩やかに登っていくと「淡河簡易水道」施設前に出る。急斜面下には農道から見た池があり、尾根の西側も急な深い谷となって城域に入って直ぐの横掘りが谷まで伸びて落ちています。
淡河城南付城:西側の谷に面して長い一条の土塁が延びる


西側の谷寄りの曲輪端に沿って 50〜70cm程の低土塁を廻らす広い曲輪の中央部付近には、埋もれ浅くなっているが長い横掘りがあり堀に沿って低土塁が走る。北方の端にも同様の土塁曲輪があり外周の低土塁も1mを越える程になり、曲輪を補強して外面は2〜3m程の切岸を立て、土塁の切れ目からは 土橋付空堀を通る虎口となって不整地の尾根筋を下ります。
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淡河城西付城
  xxx山? Ca180m  神戸市北区淡河町淡河

淡河城南付城は西付城への分岐 :簡易水道施設から更に直進する農道の先・淡河水利組合管理の貯水池”原池”に接する南側。農道を挟んだ溜池の南側角から フェンス沿いに進むと二基の家型石造りの祠が祀られている側迄を北端として現状では南に約100m程で車道に挟まれる付近までが南端か?。 祠の南西裏側は急斜な谷・谷に面した曲輪(平坦地形で中央付近に
南付城:曲輪西端の土塁線

空堀とほぼ並行して引水用側溝が溜池側に延びる)沿いには南端の車道付近まで長い土塁(高さ2m程)が遺されている。南付城の農道沿い車道は南側に墓地 ・続いて鹿猪除ゲートがあり林道が丹生山側枝尾根裾に向かう。農道を挟んで東北側にも切岸明瞭?な段曲輪?が3段程続くが下段は藪地。下方の集落へ降りる狭い車道を挟んで北西にも 溜池と棚田があるが、付城との関連は不詳。下方の集落から真北へ下る田圃の中の車道・正面右手に淡河城が見える。
淡河城南付城:曲輪内の空堀!!

一面広い平坦地形・曲輪内の整地は荒く、周辺一帯が農地として造成された後地か、林業作業用の用材集積地だったか?、谷側に残る一条の土塁線が造成時の残土であったか?。曲輪中央付近の空堀(横掘)は付城内を分けるものか・単郭だったか ?・南面の土塁線・西の溜池境が残欠土塁跡と思える以外には、曲輪境を区分する土塁・切岸・掘等が無く城域の判断が付き難い。


丹生山城(丹生寺城)  神戸市北区山田町坂本

丹生(にぶ)山(516m)の山頂に 「史跡丹生山城 丹生山明要寺」の石碑があって、神功皇后の三韓征伐に由来する古話や、欽明天皇の三年(542)百済から渡来した太子童男行者が明要寺を創建したと伝えられ、福原遷都時の平清盛が日吉山王権現を祀って月参りしたと伝えられ、もとは南北朝時代に多くの僧兵を持つ明要寺の鎮守社となっていました。暦応元年(1338)以前に明要寺により城郭化されていき、南北朝期には僧兵をいて勢力を持っていて南朝方の拠点となって城将 ・吉川八郎兵衛尉経清等が護っていた。
丹生山城(明要寺跡)

そして戦国末期・毛利方についた別所氏を討つべく 秀吉軍の三木城攻めが始まって、別所氏に通じた荒木村重が花隈城より明要寺・丹生山経由で毛利氏から明石魚住へ送られた物資補給の中継所としていたようで、此処を守備していたのは志方城の幕下で神木(こうぎ)砦(加古川市平荘町)の城主・高橋平左衛門尉政純といわれます。 天正7年(1579)2月これら連絡や兵糧等の搬送ルート確保の為、三木城主・別所 長治が明要寺を城塞化したが淡河城との連絡をつけるに留まったようです。秀吉軍に攻められ 戦火により全山焼亡した事等 の歴史についての説明がされています。丹生山城落城のさい、侍児・稚児達が北東尾根伝いに帝釈山を越えて逃れたが東の山(稚児ヶ墓山)付近で秀吉方に見つかって 切り殺された悲惨な話を伝える「稚児ヶ墓山」と「花折山」については別項を参照ください。
丹生山城(明要寺跡から丹生神社側・本郭)

その後、秀吉の好意で復興した明要寺も明治初年に廃仏毀釈で廃寺となり明治 2年山王社は丹生神社と改称され現在に至っています。戦国史に例を見ない長期にわたる悲惨な飢餓作戦「三木の干し殺し 」の過酷な戦いにも脱退者は居なかったといわれます。しかもその頭・別所長治は25歳の青年武将でした。食料が尽き餓え苦しむ悲惨な城内の領民や兵の命を救うため天正8年(1580)1月、城主長治は一族とともに自刃し開城しました。


三津田城(勝尾山城・満田城・三田城) 152m   三木市志染町三津田字城ノ越

志染町三津田は明石や有馬〜姫路を結ぶ 湯山街道の要衝に位置し摂津と播磨を結ぶ最短路で、観応の擾乱(観応2年(1351)の光明寺合戦)や 文明17年(1485)赤松政則が播磨に入り山名氏と戦った時も、 山田から志染の三津田〜光明寺(加東郡滝野)へ抜けています。淡河川と山田川(衝原湖がある)の合流地点でもあり、二つの川に挟まれ三津田と戸田の境に延びる、
満田城本丸側から突出た曲輪と堀切道

低い山稜ですが山頂附近は岩山で絶壁に囲まれた狭い台地に三津田城があって満願寺の北東(三津田下)に城跡へは約400mほどで峠越えの道があります。古い石仏・石碑が寄せられた登り口には、 仏像を浮き彫りした石標「左 三木・小野 右 有馬・三田 」とあって此処が湯山街道であった事を示しています。車一台がどうにか越せそうな山道ですが、 途中には池や広い削平地が何箇所かありますが、畑地や畑地跡でもなさそうですので一部では庭木等の植樹がされているのかも・・、
満田城(土塁に沿って右回りに堀切道に)

すぐ其処が城址ですので 居住地域だったと思えますが土塁等構居の遺構は無さそうです。峠が既に堀切状になっていて「満田城址はこの上」の白い標柱が立っています。 山頂部附近は岩と絶壁で天然の要害となっており、本丸・二の丸・三の丸等曲輪跡や堀切・土塁・居館跡の遺構が残されています。本郭部から西北と東南の二方向に分かれる尾根上にも削平地が残りますが、篠藪が尾根と谷を埋め尽くし、薮蚊にも攻められて遺構の確認もジックリ 観察出来ません。
満田城本丸側の堀切道

写真こそ撮れませんが残存する遺構の状態は良く判ります。 東の明石出の道を隔てた高台には五輪塔が祀ってあるそうです。幡山・城の越の地名があり鎌倉時代から平氏9代、淡河氏4代がこの要塞の地を出城としたと思われ、兵達は下三津田全域に住んでいたらしく遊女田・小巻の名も残っている。築城や城主についての記録が無いので 別所氏配下のあった城と思われますが、有馬則景の子重則の時、三田・車瀬から居城を播磨国三津田(満田)城に移しています。有馬則頼は天文2年(1533)此処・三津田城内で有馬重則の 次男として生まれています。途中経緯不明ですが淡河や三木城の出城として20数年勢威を振るったとされますが、 天文23年(1554)有馬氏・三好氏が三木の別所氏を攻撃した際に落とされた城のひとつです。
満田城:西南(二の丸)から本丸虎口 (右端へ廻り込んで抜ける)

重則は永禄元年(1558年)永久秀が大和で兵を挙げた時これと交戦して戦死。父の死後は姉婿の阿波の三好之虎の世話になっていたが、 之虎が永禄3年(1560年)泉州久米田の戦いで陣没すると、則頼は剃髪して無清と改名し以後、有馬法印とも呼ばれます。その後、再び三津田城に戻っており有馬重則、則頼の出城として20数年間勢威をふるった山城ではあります。東から西への尾根は枝尾根を分けて 曲輪を連ねて東の主郭から北へ伸びる尾根には堀切跡等の遺構が比較的良く残されています。
(現地案内板等を参照)

衝原城 xxxm   神戸市北区山田町衝原

日本最古の民家「箱木千年家」の背後の小高い丘の周辺を 切岸や空堀が取り巻いている!!! 城主は箱木氏と伝えられる?? ダム工事で移築される前なのか!!??場所も何もかも 未詳・・・です
衝原城 (呑吐ダム側の山)?? 土橋と2m程の堀切跡は幻だったか??

以前三津田城が判らず、呑吐ダムの北、三津田へ向う車道の東側の山に登ったが尾根伝いに広く平坦な箇所が多く、途中には2箇所ばかりの堀切らしいものが有り、そのうち一つが土橋を伴う堀切 ??


端谷城(櫨谷城・衣笠城・寺谷城)  Ca140m  神戸市西区櫨谷町寺谷字城山

東西両面が天然の深く切立った断崖となり、城の規模は小さいながらも「一の曲輪(本丸)」にある物見台の北面には、 北から伸びる丘陵の尾根を完全に切断した深さ10mを越す見事な大堀切と空掘、さらには城域内各所に土塁・侍溜りや侍走りが設けられており、満福寺のある南側正面以外には侵入も容易でない要害にあって難攻の堅固な城砦を築きあげています。
端谷城・二ノ曲輪西面の切岸

二の曲輪(幅25m・長さ65m)は端谷城域で最も広い曲輪で、西神ニュータウンや淡路島・明石の海峡の展望も 楽しめます。 また急斜な西面には腰曲輪を設け、主郭より西南の尾根に曲輪が張り出しており、尾根上には幅広の土塁で囲まれた2段の曲輪が配置され、本丸・二の曲輪に対峙して 谷を囲むように防御しています。端谷城は櫨谷川(枦谷川)の谷筋に鎌倉時代中期には櫨谷保の保司として荘園を領し、文永年間(1264-75)衣笠法眼が諏訪大明神を氏神として勧請し、
二ノ曲輪から本郭部を望む

寺谷の満願寺と福谷の宝福寺(衣笠法眼の菩提寺)を、衣笠左衛門佐が友清に新長谷寺を建立し衣笠氏親族の菩提寺として建立しているので、 後記・赤松祐盛が衣笠姓を得て文応元年(1260)頃に入部した頃には 既に衣笠姓が存在していたことになります。室町時代・嘉吉の乱(1441)では 赤松満祐に従って衣笠政重・政景が活躍しています。ただ城砦の築城時期については不明です。衣笠氏は播磨守護赤松円心の弟・敦光から出た別所氏の一族で、飾磨郡夢前町の立舟野城(賀野城)主だった祐定の子・祐盛が祖とされ ています。赤松祐盛は赤松政則に属し、応仁の乱(1467-77)等で 活躍した軍功によって衣笠姓を得て入部し此処に城を築いたとされています。
【西南の尾根の曲輪・下の段の土塁道】

その後は福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い、 櫨谷の谷筋に池谷城・福谷城・城ヶ市城・城ヶ谷砦・鷹尾城・友清城など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いていきます。衣笠(五郎左衛門尉)範弘の子で、端谷城最後の城主となった 衣笠豊前守範景が衣笠氏代々の本城であった池谷城を端谷に移して本城とします。戦国期に入り別所氏(三木城)が勢力をのばし、やがて東播磨の覇者となった時、 別所方の端谷城は三木城の支城の役割を果たす事になります。播磨の守護職であった赤松義村は、第11代足利将軍義澄から亀王丸(後の将軍義晴)を預かっていました。
二ノ曲輪側に対峙する切岸/下の段の曲輪内側

永正17年 (1520)一族でのちの三石城主・浦上村宗が勢力を伸ばして、主君の義村を隠居させてしまいました。 義村は赤松の勢いを回復さしよう亀王丸を奉じて密かに置塩城を抜け出し端谷城の衣笠五郎右衛門尉範弘を頼ってきたのです。義村は此処で兵力を蓄えて翌18年(1521)には 亀王丸を先頭に御着まで兵を進めたが味方の弘岡左京進が浦上方につく裏切りによって失敗し、 東条の玉泉寺に逃れ範弘も端谷城に帰ってきました。やがて浦上氏と和解し将軍も亡くなったため、亀王丸が京に帰って将軍になりました。大永7年(1527)12月には 足利義晴が立寄った程に明石郡寺谷一帯を領して 其の威を誇っていたようですが、範弘の子・範景の頃、天文23年(1554)には三好長慶の攻撃を受けて落城しています。
二ノ丸の曲輪

天正6年(1578)羽柴秀吉の三木合戦で衣笠範景は、淡河城主・淡河弾正定範、野口城主・長井四郎左衛門時邦、志方城主・櫛橋左京亮(さきょうのすけ)伊則、 神吉城主・神吉民部少輔頼定、高砂城主・梶原景行、福中城の間嶋氏等と三木城主別所長治に従って、端谷城に立て篭ったが織田軍(羽柴秀吉)の侍大将織田七兵衛信澄・明石与四郎則実(枝吉城主)・生駒政勝・浅井新八等によって攻められ、籠城戦の末に天正8年(1580)2月落城し 廃城となりましたが、この時期の遺構が比較的良好に保存され今に残ります。
(ひょうごの城紀行 及び 寺谷里つくり協議会の現地端谷城案内板等を参照)



池谷(いけや)城(城ヶ谷構) 城山 102m  神戸市西区櫨谷町池谷字城ヶ谷

前回・端谷城を訪れた際、池谷城の存在を知ったが 何処にあるのかよく分からず、今回・櫨谷小学校の南方に、二つの小丘が並んでいるのに検討を付け山容から"城跡らしい!!?"西側の丘に向かったが、本命は中継施設の方だったか?。西側の丘は東面は崖、北面の民家裏も高い切岸で切り立っていた。民家横から堀底道のような山道は直ぐ上部の民有地に出た。
 

池谷城・民家の影になっている中継塔の有るのが本城ですが・・

西側は畑地だが、林の中には広い数段の平坦地が有り、平坦地を繋いで虎口を思わせる屈曲した通路もある。 他に城の防備を感じさせるものは何もなく、 ある筈の土塁・堀切も見当たらないので自然地形を単に思い込みで、そう感じただけかも知れないが。播磨守護赤松円心の弟 ・敦光から出た別所氏の一族で飾磨郡夢前町の立舟野城主(賀野城)祐定の子 ・祐盛が室町時代中期・赤松政則に属し、
池谷城と思い込んだ!!??西ノ出城??!!

応仁の乱(1467-77)等で活躍した軍功によって衣笠姓を得て入部し築城時期等は不詳だが、先に池谷城を築き後に端谷城に移るまで 居城とされていました。池谷城は城山の最高所Ca102mに物見台を配した本丸があり、随所に削平地や土塁・竪堀・空掘 ・堀切が設けられ良好な形で残っているといわれます。とりわけ竪堀・土塁群が物見台南東部に集中して設けられており 空掘底を利用して堀底道も遺っていると云われる。 永禄年間・衣笠氏は端谷城を築いて、此れまで居城としていた池谷城を廃城して移ったといわれます。池谷城と思い込んだ!!??西ノ出城??!!

要害とはいえ小さな橋谷古城の池谷城や端谷城ですが、三木合戦では別所方に付いて落城するまで池谷の城も支城として機能していたことでしょう。城域の土地所有者の立入り拒否及び、雑木藪で遺構が確認出来なかったり、 折り重なるように倒れた竹薮に侵入を拒絶されないことを願って・・・!!再TRYです・・・天正8年(1580)羽柴秀吉の三木城攻めの際、本城の端谷城落城と共に池谷城も落とされたと思われます。その後は端谷城を攻めた武将の一人、 明石与四郎則実(枝吉城主)が入って秀吉方の向城の一つとして機能したようです。

太山寺城   城山(本郭部)帝釈山173m・ 三身山(二ノ丸Ca200m)  神戸市西区伊川谷町前開

阪神高速北神戸線・前開インタを降りて伊川沿いに大山寺へは県道16号を東へ、太山寺温泉「なでしこの湯」の大きな看板を目印にします。 ラジウム温泉保養施設があり、県道筋を直ぐの所に堂々の仁王門があるが他所のあったものが室町後期 ・此処に移築されたそうで、その際に上層部は撤去され軒回りも 縮小された事が解体修理時(昭和28年(1953))に確認されています。創建年代は不詳ですが建築様式等から鎌倉時代末期頃と推定されます。
太山寺

仁王門(国重要文化財)を潜り数件の民家の間の参道を通って白い長壁が続く 塀の沿えば太山寺城の有った帝釈山(本郭部・県道トンネル上部)と三身山 ((二ノ丸!!)の碧を背にした太山寺の彩色も鮮やかな三重塔が見えてくる。なを伊川上流へと渓谷沿いに入っていくと 磨崖仏や奥の院へ通じ、県道トンネル手前(西)に道標もあります。奥の院の「閼伽井の水」は目の病に効くといわれます・・・また太山寺を囲む周辺の低山は八葉蓮華と称され、 コジイ・ウバメガシを主とする照葉樹林に覆われており、約160種類の植物が自生する県下最大の自然林で県の天然記念物に指定されています。
太山寺城・本丸!!??(帝釈山)

太山寺は鎌倉〜室町時代にかけて隆盛を誇り、南北朝期には41の塔頭・七堂伽藍を配し、末寺や末社を数社抱えて僧兵も養っていたという壮大な天台宗の名刹でした。大正2年(1913)国宝に指定された本堂は県下6ヶ所 14棟ある国宝建造物のうち、神戸市内唯一のもので昭和39年(1964)修復された鎌倉時代の大規模な仏堂は和唐折衷様式です。奈良時代に藤原鎌足の発願により長男・定恵和尚が開基、 孫の藤原宇合(藤原不比等の子!!)によって霊亀2年(716)に創建されたと伝えられる古刹です。
(現地案内板 神戸市 参照)
大堀切から帝釈山側へ直ぐ大岩の上に建つ籠堂!!??


仁王門まで戻り、県道を東へ進みトンネル手前左の農道を山に向かっても、右手へ入る細い道を磨崖仏・奥の院へとって、役行者石像を祀る帝釈山山頂を目指しても良い。 後者の方が判り易いかも・・・!!阪神間の山に陰気さは感じないが薄暗い参道に立つ石仏は山攻め、 城攻め登山には快適な気分にはなりませんね。本郭部と思える帝釈山山頂や三身山側の山頂部も平坦な地形ですが、素人の私には削平や曲輪遺構の痕跡が判りません。しかし二つの山の鞍部を10数mも深く切り裂いた堀切と切岸は圧巻です。其処から右手の帝釈山へ進むと 2〜3の斜傾した削平地や、浅い堀切らしい部分が有ったり、大岩上には籠堂のような建物があり、往時は木戸が建ち門兵が居た様な雰囲気です。
太山寺城

太山寺城の築城時期や城史については不明のようですが南北朝期・僧兵を擁していた寺ですので、有事の臨戦体制を山上に備えていたかもしれません。また周辺近場には池谷城(端谷古城)や端谷城が有って鎌倉時代中期・櫨谷川筋の荘園を領していた赤松方の衣笠氏の【応仁の乱(1467-77)以降】城となっていたとも思えます。同じ伊川谷町前開には室町時代中期・赤松氏傘下・明石氏の枝吉城の支城として築かれた伊川城が有ったので(場所不詳・伊川谷町前開字高畑山??)別所氏の城だったかも。いずれにしても播磨守護・赤松氏方の城の一つとして機能していたのでしょう。

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