子午線と海峡の町 明石市天文科学館〜明石城〜船上城/大蔵谷城〜稲爪神社
兵庫・明石 (五万図=須磨・明石)
天文科学館〜明石城址公園〜船上城〜魚の棚  H15年12月14日
近畿の山城:船上城明石城 大蔵谷城

垣明石天文科学館

神戸方面から明石の兵庫県自動車運転免許試験場を訪れた人にとって車窓から望む天文科学館の時計塔や、明石駅ホームに降りたって北方の樹木に囲まれた丘陵(赤松山台地)に、 三層から成る二基の隅櫓を白い長塀が繋ぐ優雅な明石城の姿は強く印象に残っている事でしょう。平成元年「日本の都市公園 100選」・平成2年には全国桜の名所100選に選ばれた公園ですが、
明石城 ・剛の池から望む稲荷郭の石垣

兵庫南部地震では重要文化財に指定されていた櫓等の損壊を受けた明石城修復で一時期、その姿を隠していた「坤(ひつじさる)櫓」と「巽櫓」が高石垣の上に美しい姿で復活しています。 わたしには小学生だった頃の息子と二人で廻った昔を懐かしく思い出しながらの散策です。
彫師の匠・左甚五郎は明石の生まれだともいわれ、また今年のNHK大河ドラマでスポットを浴び一躍 ・播磨の宮本武蔵に人気が集まりますが、剣豪が明石で成した仕事を知る人は少ないようです。明石城址公園内に武蔵の庭園が造営中です。 武蔵は姫路城主・本多忠政が明石の初代城主となった、娘婿の小笠原忠真に協力させる為に派遣して城下の町割り等の事業に携わっています。
明石城址公園

高山右近が城主だった船上城も明石城の西にあり東には柿本人麻呂を祀る柿本神社や名水・亀の水(播磨三名水!!)の近くには、日本の標準時・子午線の町として 「天文科学館」があり明石駅へ戻ってくれば港町明石の顔が魚の棚(うおんたな)です。[蛸焼き]も蛸の本場!!明石では、 だしに浸して食べるもので、一般的な蛸焼きと区別するためか阪神間では「明石焼き」とも呼びますが、此処明石では「玉子焼き」なんです。
明石城天守台

なんやかや・・・・歴史と観光の散策には此の 「玉子焼き」を加えて 妻と同伴です・・・・明石駅北側直ぐ・城域の外堀内には 武家屋敷の跡・織田家長屋門があり(道路工事中のため写真は斜から)この前を通って長屋門の元・持ち主!!の船上城址へ歩いて訪ねます。 赤穂市へ足を伸ばせば今日12月14日は義士祭り。忠臣蔵の町へも食指は動くのですが時間も ・・予算も無いし・・遠いので!!・・・(^^;近場で済ませます。


「時の道」天文科学館〜明石城〜織田家長屋門〜船上城〜魚の棚  2003年12月14日

「時の道」日本標準時子午線標示柱・柿本神社・月照寺
源平合戦の舞台:須磨浦を過ぎ瀬戸内の海岸線を眺めていると明石海峡大橋が見え、暫らくして目を転じると丘の上に白い時計台が見える。明石のシンボル「明石市立天文科学館」ですが、此処【正確には!!?柿本神社から月照寺を通って 明石市立文化博物館へ抜ける「時の道」の明石天文科学館裏手】に 日本標準時の基準となっている東経135度の位置を示す「子午線標示柱」が建てられています。
「亀の水」

山陽電鉄人丸前から明石城址公園に至るコースは源平合戦の史跡から明石城遺構・歌碑・科学館・博物館そして城址公園へと短かい散策コースに見所が凝縮された歴史ハイキング格好のお奨めルートです。R2号線人丸前から明石天文科学館への緩やかな坂道を登り始めますが、JR線沿いに西へ左折すると 天然水ブームの頃ポリタン持参で来た事のある「亀の水」です。
「馬塚」

今も平日・休日問わず多くの人が給水に 訪れていますが、 江戸時代から涸れる事無く湧き続ける播磨の三名水の一つです。亀の水手前の幼稚園と明石天文科学館下の一角に長寿院が在り 「明石藩主松平家菩提所」の案内板があり8代城主直明から15代斉宜(なりこと)の廟所があるのだが、 その墓所へは周囲を半周したが、ストレートに入って行けず、墓石の立並ぶブロック塀の前を天文館へ向ったら 車道側に古い石碑が目に入った。須磨・明石は源平合戦の遺跡の多い所です。此処「馬塚」は寿永3年 (1184)一ノ谷の合戦に 敗れて西へ落ちる途中に平経盛の子・経正(敦盛の兄)の馬を埋めた所といわれ馬塚碑が建っています。 馬塚を通り過ぎ先程の寺の駐車場隣が明石天文科学館ですが、今日は寄らずにその正面入口の北にある石段に向います。石段途中には燈籠(常夜燈だったか!!?)と大きな石碑には人丸山・柿本神社と彫られています。柿本社の参道へ入る手前に万葉の歌人・柿本人麻呂の詠んだ百人一首にある 「あしびきの 山鳥の尾のしたり尾の ながながしき夜を ひとりかもねん」の歌碑があって鳥居を潜り上がると 柿本人磨呂を祀る神社と、西隣が月照寺です。
明石城二ノ丸門


日本子午線標示柱は月照寺の山門手前・天文科学館の時計塔を背にして、街燈かな??と思うような姿です。 昭和3年(1928)京都大学観測班が行なった天体観測によって人丸山上を通過していることが分かり昭和5年(1930)此処に標示柱が建設され昭和26年(1951)再観測で現在位置に移動して設置された「トンボの標識 」の愛称で呼ばれる標準柱は高さ約7m、上部は籠状の球は地球を表しています。球上には「あくつ島(日本の異名)」を象徴するトンボ (あきつ)が乗っています。柿本神社前に明石海峡展望台のような広場があり 日時計のモニュメントや明石を詠った歌碑が建っていて、「奥野細道」等で知られる松尾芭蕉の「蛸壺や はかなき夢を 夏の月 」の句碑「蛸壺塚」もある。
柿本神社・月照寺・トンボの標識・蛸壺塚等 「時の道」入口!!

正保元年(1644)伊賀上野に生まれ元禄7年 (1694)大阪が終焉の地となった芭蕉は関西以東・関東・東北に足跡を残していますが、関西以西の明石にも立寄っていたのですね。 句に詠われる蛸壺漁の歴史は古く縄文時代〜弥生時代には既に行なわれていたといわれています。曹洞宗月照寺(明石西国33番霊場)の豪華な山門(四脚門)は元和4年 (1618)小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城取壊しの際に薬医門【文禄3年(1594)建立】を拝領した明石城の切手門は屋敷郭の正門に使用されたもので、 門の大小に関係なく正面に本柱を立てて扉をつけ、 後面には控柱を立て本柱と控柱を同じ屋根下に収める門を薬医門といわれます。この門は明治6年(1873)月照寺山門として移築されもので、 H7年の地震では倒壊したが後に修復再建されています。月照寺山門前の石段道を下った所が「亀の水」・直進する住宅内の道は本松寺に出る。入口には 宮本武蔵作庭の庭がある旨の案内板が有ったが 公開はされていないようでした。道なりに進めば市立文化博物館前です。
明石城天守台

明石は 明石原人やナウマン象の化石が発見された所ですので、その方面に興味が有れば楽しめる所ですが、其処は薬研堀と箱堀の直ぐ側です。東の丸入口の石垣が見えていますのでそのまま城内へと進みます。「時の道」を明石城公園に出て 駅前から織田家長屋門前を通って旧明石城の船上城へ寄れば本日の行動終了。 後は本日のメイン!!?玉子焼きの店を探しながら魚の棚(うおんたな)商店街でトロ箱から這い出す蛸や、 飛び跳ねる生きの良い魚の並ぶ市場で、赤く美味しそうに茹であがった蛸か、蒲鉾かクギ煮でも土産にと寄ってみます。城ファンにとっては明石城の櫓がラベルになった海苔がいいのかも!!。
月照寺・明石城切手門の遺構

船上城からはR250号を引き返して商店街手前の樽屋町に6人も入れば 一杯の玉子焼きの店に入ります。店内にメニュは有りませんが黙って座れば!!此の店では20個500円の安くて美味しい玉子焼が出てきます。青海苔や削り節を振り掛ける一般的にいう「たこ焼き」とは違いますよ。 阪神間では「明石焼き」と呼ばれるが明石では「玉子焼き」です。だしに浸して食べる柔らかくてアツアツを口にするとファーッと中で溶ける。駅前や商店街を外し穴場探しも楽しいもの。
(明石市・明石観光協会現地案内板等 参照)


 明石城址(鶴の城・喜春城) 船上城 大蔵谷城

明石城(鶴の城・喜春城・人丸城・錦江城)  赤松山(人丸山) xxm  明石市大明石町

JR明石駅のホームに降り立つと直ぐ北方に見える明石城は、水鳥が泳ぐ外堀の先に緑の芝生に覆われた三の丸庭園と、 その上に東西に長く築かれた高石垣には2基の三層櫓が建ち、櫓を結ぶ白い城壁は均整のとれた美しい姿で出迎えてくれます。 篠山城と同様に坤櫓に続く北側には天守台が築かれていますが天守閣は建設されず、
明石城・三ノ丸門

四隅に三重櫓の巽櫓・坤櫓・乾櫓・艮櫓
(本丸東北の鬼門にあたる櫓として重要だった。 明治初期に学校建築用材として解体された)が築かれました。そのうちの南側の2棟の巽櫓は船上城の遺材・坤(ひつじさる)櫓は京:伏見城の遺材が使用されたと伝えら、 此の2棟が昭和32年(1957)6月18日:国重要文化財の指定を受けています。二の丸 ・西曲輪・帯曲輪には6棟の二重櫓が、三の丸・北の丸には11棟の平櫓が築かれ、明石城全体では20の櫓・27の楼門があった様です。
明石城・薬研堀と三ノ丸石垣

本丸・二ノ丸・三ノ丸へと一列に曲輪を並べた連郭式平山城の南面を、 高石垣が堅固に護り、二基の櫓が優美に映り明石城の表の顔を見せていますが、北面から北東側にかけては桜堀・薬研堀・千石堀・中堀・剛ノ池(鴻ノ池か!?)が外濠となって廻り、 池と池の間から城内へ通じる道も、 枡形虎口を持つ石垣も堅固な城門で護られています。本丸から高石垣の下を二ノ丸・三ノ丸へと移動していると、二ノ丸高石垣下に小さな四角に囲われた石組みと石碑が建てられている 。第八代城主:松平直明 「遺愛の御茶ノ水」の井戸跡で、在城中の天和2年〜元禄14年(1682-1701)日常に、この水を使用してお茶を点てられたと云われ、明石場内で最も良い水が出る井戸として親しまれていました。石垣ばかりに目が向きがちですが市立・県立中央図書館から西へと、此れ等の水濠外縁の沿い、城域西北端の陸上競技場付近にかけては高い土塁状や、 曲輪跡と思われる平坦地も所々に見かける。
三ノ丸北門の枡形虎口

天然自然の大池を要害として取り込んで利用されているが、池の水面の高さが異なることで、 明石川からの引水等灌漑?・干害を意識した工事がなされたものか?、独立した複数の池がそのまま利用されたものか。 また池の外周に見る土塁状?についても武家屋敷等縄張りの報告・解説書等を知らないので、 周辺の遺構?は判ってくるまではペンデイングにしておきます。兵庫南部地震で損壊した櫓や石垣の修復工事には、可能な限り元の姿を保つ為にと解体は避け、 櫓をそのまま持上げてレールに乗せて移動されるという「曳屋工法」が採用されています。
明石城・坤(ひつじさる)櫓と巽櫓

修復の木材・瓦も再利用して鉄骨を使用しない等、江戸時代初期の建築技術を残す為の配慮が成されています。美しい隅櫓が平成11年に完了し、 震災前には一部しか残っていなかった櫓を結ぶ土塀も、 宮内庁の記録が発見され正確な構造もわかった為に復元されていますが、城壁土塀脇には、外側の芝生公園からは見えない様に 親切過ぎる展望デッキが取り付けられてはいるのですが、 此処だけは以前のまま崩れて土塀の消えた石垣縁から市街地や海を望んだ古城の雰囲気の方が良かった。海岸線と並行に細長く延びるR2号線沿いに山陽道が 通るこの地から北へ丹波・但馬へ道が別れ、南は淡路・四国へ海路(明石海峡)が通じる交通の要衝は、 大阪城の西の守りというか、西国への押えとなる軍事上の重要拠点ともなります。
稲荷郭側から坤(ひつじさる)櫓

明石城は天正13年(1585)秀吉による国替えで明石則実が 枝吉(しきつ)城(神戸市西区)から但馬・豊岡城に移った後、高山右近が枝吉城に入るが船上(ふなげ)城 (明石城)を築いて移った。その右近が国外追放となり秀吉の直轄領となった後:元和元年 (1615)の一国一城令により破却されます。徳川幕府は西国の諸藩を牽制する播磨の国堅めの城として、姫路城と共に明石を重要視して新城が建設されたのですが、元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川氏は元和3年 (1617)信濃国松本8万石の城主 小笠原忠政(後に忠真:徳川家康の曾孫)を、大坂の陣での戦功により明石・三木・加古・加東4郡10万石を領して明石に転封され船上城に入って 開かれ明石藩が出来ます。
二の丸側から巽櫓

一国一城令が出された後の新城完成【元和5年〜】後:小笠原忠政が現在の明石城に移った為、三つの明石城が存在したことになります。元和4年(1618)2代将軍徳川秀忠より、 譜代大名の居城として相応しい築城命令が降りた。同じ頃・伊勢桑名より姫路城主として入った本多忠政(忠真の岳父、姫路城主・忠政の娘を妻としている)を後見役として、幕府の直轄工事として奉行に村越三右衛門吉正が 派遣され庭園で有名な小堀遠江守政一も来て、始まり元和6年(1620)には一応明石城を完成させます。築城の用材は一国一城令によって廃城となった船上城・高砂城・枝吉城や伏見城・ 三木城等から流用されたといわれ、船上城の織田家長屋門【明石城外堀の南西:大明石町2丁目(市指定文化財)】や伏見城の医薬門【曹洞宗月照寺の山門】が場外に残されています。築城と並行して城下町を整備し、その町割りを本田忠刻(忠政の長男)の客臣として招かれた宮本武蔵が行った事は先にコメント済ですね。続いて明石の浜にも防波堤を築き、 難工事の末・数年がかりで湊を完成させています。小笠原忠真は寛永9年(1632)豊前小倉藩に15万石で転封となり、九州鎮護の最高責任者となっています。
坤櫓下部・正面に天守台

明石城は幕府直轄地になったが、譜代大名の居城として翌 :寛永10年には戸田 (松平)光重が入部し、寛永16年(1639)美濃加納藩に転封されると、大久保忠職(ただもと)が入り慶安2年(1649)肥後唐津藩に転封 されると、藤井(松平)忠国(丹波・篠山城3代目城主 )が其々7万石で入城しています。松平信之・本田政利と城主は交替し、天和2年(1682)には松平直明が越前大野から6万石で入部以後、そのまま明治維新まで十代続くことになり、「松平忠国までを先の松平氏」・「松平信之以後を後の松平氏 」と呼ばれています。 明治4年(1871)廃藩置県によって明石県の県庁となり翌明治5年の廃城令の対象となるが、もともと天守も取り壊すべき城郭もなく櫓や曲輪跡が残り官営地管理となる。
巽櫓と二の丸間の虎口門(大手門!!)

姫路県に統合され飾磨県と改称されたが明治9年(1876)兵庫県が誕生し、 建物は民間に払い下げとなり明治14年(1881)県が解体作業を行ない北東の艮櫓は解体され、旧藩士等の努力で儀願書が提出され明治16年(1883)国の許可が下りて本丸の巽・坤櫓が公園として整備することで保存される事となったが、 明治30年頃には北西の乾櫓も解体された様です!!。明治31年(1898)皇室の御料地となっていたが、大正7年(1918)に県が御料地を借り上げ県立明石公園として開園・昭和7年(1932)現在の城址公園になっています。
(明石城をめぐる歴史の旅・神戸新聞総合出版センタ 現地説明板:明石市教育委員会 日本城郭大系・新人物往来社等参照)


船上城(林ノ城・明石城・明石古城)
    明石市神明町船上字古城

キリシタン大名で知られる高山右近の築いた船上(ふなげ)城跡は明石市の西・明石川河口の西岸にあって R250号線の大観橋を渡った、郊外にある明石警察署や住宅地に囲まれた田圃の中にポツン と墳丘のように残された小さな塚がある。 山陽電鉄・西新町駅の南西600m付近にありますが、所在地が分かっていないと車道からは 民家の陰となって判りにくいが、明石警察署への分岐西に直進入れば
船上城遺構・織田家長屋門


小さな疎水(古城川)があり南側に農地が見える。10数mで疎水沿いの小道は畦道になるが 田圃の広がる南東側の雑木が茂る高さ2〜3mの塚状の土盛が見える。田園開発から僅かに残されたような此の場所が船上城の本丸跡と考えられる 6〜7m四方の狭い台地の上に古城稲荷社の祠が祀って有ります。城址説明の小さな案内板と 「古城大明神」の赤い鳥居と幟の立つ小さな祠の周辺を隈なく探したが船上城址の石碑は見つからなかった。 北方から本丸跡の東側を南へと流れる古城川はその堀跡だったと思われます。
船上城址古城大明神

かつて小規模ながらも三重の天守を持ち城門、塀、 港を備えた海岸に近い平城は惣構えの城下町を形成していたという・・・が辛うじて残されている城址周辺に此れ等を偲ぶ遺構は見当たらないが、明石城外堀の南西端近く、車道脇に船上城より移築されたといわれる 唯一の遺構織田家長屋門 【大明石町2丁目(昭和45年:市指定文化財)】が見えてきます。 天和2年(1682)松平直明が越前大野から入部し、やがて元の織田姓(信長の叔父の家系)を名乗り明治4年の廃藩置県まで 歴代家老・重臣として仕えた武家屋敷の面影を残す貴重な遺構で、建物は江戸時代初期のもの、 門の止め金は室町時代後期の様式を伝えているとして明石市指定文化財となっています。「惣構え」の城からは明石城や 尼崎城の様に直接・望海浜の海岸から防波堤兼土塁の濠が城内に通していたのでしょうか?。明石警察署の西方・船上城域を北から東を廻ってを南下する深い灌漑用水路が望海浜公園の西端へ延びている様で、此処に港を築き ・物資搬入や軍用には直接海上への運河となっていたのでしょう。 しかし幾度となく高波冠水の被害の度に荒れる防波堤の補修の労力も 大変だった事でしょう!!。
護国寺蜜蔵院の油掛地蔵尊

明石海峡大橋を望む望海浜公園は高い防波堤の内側にあって、グランドゴルフに興じる人の姿を見かけるだけですが、天和2年(1682)明石藩主として入封した松平直明(越前松平 )は淡路島を望み白砂青松のこの浜を愛で、 此処に茶亭「望海亭」を建て楽しんだと云われます。この望海公園入口と車道を挟んだ向いには真言宗大覚寺派護国寺密蔵院があり、大きな地蔵尊 (報徳大地蔵尊 15m)が建てられています。平安時代:延喜4年(904)観賢僧正により創建されたと伝えられます。境内入口を入って直ぐ東には、てんぷら油を頭からかけて開運・健康・安産等の現世の利益(りやく)を叶えて下さる有り難い地蔵さんとして親しまれた 油掛地蔵(別名:一願地蔵)があります。 「お経を唱えながら静かに頭より油をかけて、心よりお話するように(一願)お願いして下さい。必ず御利益が有ります・・院主」との案内板が堂の柱に掲げてありました。貴重だった筈の油を地蔵像に掛けながら、 必死の思いで願掛け祈ったものでしょうが、由来・縁起は色々有るのでしょう・・・!!全国的に「油掛け」の地蔵尊信仰が残っている様です。

古城川(疎水)を濠とした船上城


石仏なら明石市にも近い「山であそぼっ」島田さんも訪れているかも ? また油掛地蔵信仰について把握されているかも知れません。狭いお堂の中に数名のおばさん達が入り、地蔵尊前に伏した女性と・其の仲介者の話を熱心に聞いておられる。 繁華な市街地を離れ ・海岸にあって漁港から少し距離があり、寺町でもない此の一帯にはきさくな下町風情の親しみをも感じた。明石は水路を淡路島から阿波へ、陸路は山陽街道(西国街道)を摂津から播磨へと結ぶ交通の要衝に、 船上城も室町時代・播磨の赤松氏が此処に砦を築いたのが始まりとされます。 永禄年間(1558-70)か天正年間 (1573-92)初期には別所氏の支配下にあって、三木城主・別所長治の叔父別所山城守吉親が明石川西岸の地に三木城の支城として林ノ城を築き大屋肥後守が居城していたという。
船上城に細近い望海浜公園

三木合戦終結後の天正8年(1580)秀吉の部将・蜂須賀小六正勝等が此処に入城したといわれます。 天正13年(1585)羽柴秀吉は大名の国替えを行い,攝津国高槻城4万石から明石城へ6万石の加増で入ったのがキリシタン大名の 高山右近重友(友祥)です。国替えで但馬・豊岡城に移った明石則実に代わって、本当の!!明石城(明石氏の枝吉城・神戸市西区枝吉)に入ったが、築城家でもあった右近は明石海峡の戦略的な位置に有り ・大坂城を守る要として、海岸に近い明石川西岸に船上城を短期間のうちに改築し城下町として整備します。明石川河口の西部一帯には港を築き藩船の繋場として秀吉からは大船二艘を与えられたといい、大阪湾防衛の水軍拠点として、また宣教師の便や瀬戸内海を航行する官民船の便を図り,堺に来る貿易船の為の中継港としても 機能するよう造られた。完成後は枝吉城を破却して移っています。しかし右近の新天地での熱心なキリシタン布教活動により、仏教徒は明石から寺を棄てて逃げ出したか追放されたといわれます。
船上城の本丸址と内堀跡

天正15年(1587)3月九州の島津攻めに出陣したが 島津降伏後の同年6月・秀吉のキリシタン禁止令により、高山右近は領地を捨て、信仰の道を選んで追放され領地は没収されます。右近は親しい大名の間を転々としたが、徳川家康のキリシタン禁教令により国外追放となり、 マニラで亡くなりました。その後明石は秀吉の直轄領となり黒田甲斐守長興、池田利政等が城主となります。 慶長5年(1600)10月 ・関ヶ原合戦後、戦功のあった池田輝政が 姫路に封じられると輝政の男・家老の池田左近利政に預けられ、慶長13年(1608)頃には輝政の甥・池田出羽守由之が入ります。由之は明石川に堤防を設けたりして 周辺の整備を行いました。
古城大明神を祀る船上城


当時の明石川は氾濫が多く海峡の潮流や風も強くて、 海際の船上一帯は絶えず被害に悩まされていたので、由之は明石川右岸に堤防【出羽殿堤】を築き周辺整備として松を植えたり、河口には水門を開いて船を通わせ海中に200m程先まで波止「古波止(ふるはと)とよばれています 」を築きます。元和3年(1617)信州松本の小笠原忠政(後に忠真ただざね)が明石藩10万石の領主となり船上城に入るが徳川秀忠の命で、新たに明石城を築城して完成するまで船上城にいたが、 その後・元和5年(1619)船上城は火災で焼失し、自然に消失して廃城となったようです。平成3年・明石市教育委員会の調査では、屋敷境の溝跡が検出され焼けた瓦類や17世紀初頭の唐津焼、織部焼等が見つかり、 本丸のまわりに武家屋敷が広がっていたことが裏付けられています。

(明石市 明石観光協会 日本城郭大系・新人物往来社 等参照)


大蔵谷城(大蔵谷陣屋、大蔵砦、大蔵谷構)    明石市大蔵本町18-40

明石城公園近くの病院に母を連れ定期的に来る機会が出来た為、診察待ち時間1〜2時間以内で廻れそうなスポットを探してみる。明石城や其の前身の枝吉城へは 直接歩いて周囲を散策してみたが、他に車で出かけるには地理不案内の上 ・駐車場探してウロウロする時間も無い。むかしは白砂青松の海岸線・何処にでも駐車できた市役所〜大蔵海岸沿いに出てみる事にした。 此の一帯・フェリー乗り場付近は殆ど変わっていない様だったが、明石海峡大橋の完成に合わせて埋立て整備され、明石海峡大橋を眺望する海浜公園は観光スポットとして大きく様変わりしていた。 明石大橋の姿を見て 淡路島に渡る「たこフエリー乗り場前から海岸沿いのR28号線を走って大蔵海岸公園の駐車場に入った。 R28号線を北に渡って山陽電鉄人丸前駅付近までにある、播磨赤松氏や源平合戦ゆかりの史跡:大蔵谷城・稲爪神社 ・腕塚神社を廻ってみるつもりです。

大蔵海岸公園から明石海峡大橋を望む

R28号沿いに建つロイヤルパレス(大きく綺麗なホテルらしいが 既に廃業)の横からスロープと階段の道を北側へ下っていくと旧西国街道(山陽道)筋の大蔵谷宿です。住宅地内を真直ぐ延びる道は神社手前の十字路に出る。此処から約80m程の突き当りに稲爪神社が建つ。十字路を西には 60m程の処に大蔵院が在る。先ずは此の大蔵院(だいぞういん)に向かいます。大蔵院は参道入口の二本の門柱には臨済正宗・大蔵禅刹とある。臨済正宗黄檗派 (明治期に黄檗宗と改められています)の禅寺で本尊に 観世音菩薩像(伝:定朝作)を祀り、境内の祠には青面金剛の石仏が祀られています。確認しなかったが梵字ではなく、浮彫り像なら「山であそぼっ」島田さんに教えてあげれば・・・と思ったが、 彼は近隣の加古川市民 ・既に別サイトの石像コーナーに画像と共にアップ済かも。座禅によって悟りを得る仏法を取り入れた曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三宗が日本の三大?禅寺ですが、門柱に「禅宗」と書かれた寺院を見ると本当の宗派は何 ?と確かめたくなります・・・(^^ゞ此れに雲門・法眼等の中国禅宗五家があり、七宗派があるようです。大蔵院参道入口に明石市教育委員会の「大蔵院」案内板が立つ。 【嘉吉元年(1441)赤松円心の孫、赤松祐尚(すけなお)は大蔵谷に陣を構えた。居城を三木城に移すにあたり陣屋のあとを寺院にしたといわれている。墓地に赤松祐尚夫妻の墓があり夫妻の法号の「見江院」「大蔵院」が 山号と寺名になっている。平成12年9月】 「赤松家系図」等によると嘉吉元年:赤松満祐が足利将軍義教を殺害するという「嘉吉の乱」が勃発する 僅か1ヶ月前の嘉吉元年 (1441)5月に満祐の弟:祐尚は亡くなっている?ので、嘉吉の乱の際:幕府追討軍の細川方・山名(宗全)持豊軍を迎え撃つため、小松原構(高砂市荒井町)の小松原永春が大蔵谷に祐尚により建てられていた寺院に陣を構えて守備しています。満祐に付いて山名軍と戦った永春親子ですが、嘉吉の乱に赤松氏が滅亡した後、 子の春武は山名持豊に従って加古清房を名乗って別府城(加古川市)を築き城主となっています。
大蔵院(大蔵谷構・大蔵谷城跡)

大蔵院は「嘉吉の乱」に赤松祐尚が陣を敷いたのではなく、 祈願や先祖の菩提・・・!!等の創建事由はよく分からないが、高僧を開創に招聘し建てた寺院の創建者であれば、 赤松祐尚夫妻の菩提寺であっても・なんら不思議ではない。祐尚夫妻の墓所前に佇んでいると境内 ・墓所の清掃を終えられた住職が戻って来られ、改めて戒名の説明を受けた見江山大蔵院る。寺院の瓦 ・墓所のは赤松氏の家紋:左三つ巴や足利氏所縁か?二つ引両の紋がみられる。小松原氏は弘長元年(1261)鎌倉で三浦義村の子・律師良賢が謀叛を起こした際、赤松盛忠が執権:北条時政の孫重時に従って、 これを鎮圧し其の功績により 高砂の小松原城に入り小松原と改姓したと云う。嘉吉の乱に赤松満祐の弟・祐尚が大蔵谷に陣を構えたとされますが、祐尚は永享年間(1429-41)英賀城(姫路市飾磨区)を築き、祐尚の没後 ・一族で姻戚関係にあった三木通近が入って大規模な城の改修を行い岩繋城と城名を改めてもいます。嘉吉の乱により滅亡した赤松一族の大蔵谷城がどのように存続し、機能していたのかは分かりませんが、 赤松宗家の勢力が衰えてくると一族の別所氏が三木城を居城として播磨に勢力を持ってきます。 大蔵谷城も三木合戦までは英賀城の支城的役割をもっていたと思われます。姫路市飾磨の英賀・高砂・魚住そして大蔵谷城等の諸城は、 海上輸送により京・大坂への物流集積の拠点として、旧西国街道(山陽道 )の要衝監理・監視の任に当たっていたのでしょう。
大蔵院墓所の赤松祐尚夫妻の墓

別所氏の台頭により高砂・魚住と同様に大蔵谷も竹矢来等の簡単な防備施設だけで、 三木城への補給基地となっていたのでしょう。天下布武を唱える織田信長の中国毛利攻めの軍議が決裂して、 別所氏の三木城攻めが始まった天正6年(1578)多くの播磨の領主は三木別所氏に付いて総大将羽柴秀吉軍に対抗した。大蔵谷城へは部将高山右近が攻めていますが、三木城に居城を移したとは合戦を前に :城郭としての堅固な設備も兵力も無く・抗しきれない事は分かり切っているので、三木籠城と決めて大蔵谷城を捨てて出たものでしょう。三木城への一大補給基地となった魚住城も、毛利軍や紀州雑賀衆の援軍に 大方は任せて三木城へ籠城に向った事でしょう。廃城となった大蔵谷城が城主【此の時期:英賀城の三木通安が居たとされるが!!?】により寺院として改装する等の、時間や資金の余裕は無かったでしょうし、 直ぐ後に迫った大蔵谷城攻めの高山右近勢によって近在の稲爪神社等も兵火を受けて燃失していますが、右近の軍は留守部隊もいない空き城の大蔵谷城を攻め、怒った右近が中庸に立っていた稲爪神社を焼いたものか?。 焼かれた館の飛び火が届く程の距離(直線で100m程)にある稲爪神社に向います。
(現地:大蔵院案内板 等を参照)


稲爪神社    明石市大蔵本町6-10

大蔵海岸公園駐車場から R28号沿いに西に少し戻っていくと、ロイヤルパレス(大きく綺麗なホテルだが既に廃業)が建ち、其の横からスロープと階段の道を北側へ下っていくと、住宅地内を真直ぐ延びる道の突き当りが稲爪神社で神社裏手の北側は R2号線に面して名前からも由緒有りげな休天神社が、此れもR2に面して直ぐ西北にある(寄らなかったが・・!)。神社手前約80mの十字路に出て、西には60m程の処には大蔵院が在ります。此れ東西に走る道路が旧西国街道の 要衝で大蔵谷宿が有った処です。嘉吉の乱の際・此処に赤松氏方の小松原永春が布陣した大蔵谷 城(大蔵谷構)址とされ、 北方僅かに450m程先の熊野皇大神社(東人丸町)に本陣を置いた細川・山名の幕府追討軍と対峙したと言う。陣や勢力の動向がよく分からないが現状からは想像も出来ない程近距離での睨み合いです!!。
稲爪神社

案内板には赤松満祐の弟 :祐尚が陣したとの説明ですが、 嘉吉の乱勃発の1ヶ月前に死亡している祐尚ですので疑問が残りますが、寺には此の赤松祐尚夫妻の菩提を弔う墓石が祀られています。また天正6年(1578)三木合戦により、 羽柴秀吉軍の部将:高山右近が大蔵谷城を攻めた際には、 其の兵火によって稲爪神社の社殿は焼失し、仮社殿を熊野皇大神社の建つ「北山」に移されていたが、寛永14年(1637)元の場所に再建され、時の明石城主 :松平光重によって稲爪神社の仮社殿がおかれていた北山の地に、熊野三権現【熊野坐神社 ・熊野那智神社・熊野速玉神社】を勧請されたのが熊野皇大神社の起こりといわれます。さて旧西国街道筋から正面に 楼門の見えている稲爪神社に進み、楼門を潜ると立派な「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」の彫刻に驚かされます。 播磨の宮大工:伊丹利勝(文禄3〜慶安4年)作ですが彼こそ左甚五郎の別名とされています。大坂貝塚市の出身とも。 正没不詳の名工には種々逸話や伝承が付きものですね・・(^^ゞ さらにビックリ。小さな子が走り回り嬌声も ・・・境内の本殿前はxxx保育所と共存共栄? 神社裏手はR2号線に面し、ごく普通の街中の神社ですが、 古い由緒を伝えます。ご祭神に大山祇神(オオヤマヅミノカミ)・面足大神(オモダルノオオカミ)・惶根大神(カシコネノオオカミ )の三神が奉られる。
神社の由緒には先に神功皇后が神託により 三韓征伐に向かった伝説(明石の住吉神社他に有る)の続編の様な伝承がありました。 日本史上・最初の女性天皇となられた第33代推古天皇【欽明天皇の 皇女で蘇我馬子の姪:592〜628】の時代:三韓(朝鮮半島)から 「鉄人」と呼ばれる不死身の武将を総大将として8000余の大軍が日本国に来襲してきました。 全身を鉄に包まれた「鉄人」の軍隊は破竹の勢いで九州の防人軍の守りを突破して勢いに乗じて都へ向け進軍を続けます。 朝廷は勇猛で知られた伊予国の越智(小千)益躬(おちのますみ)に勅命を下して迎撃に向かわせます。出陣に際し:一族の氏神である大三島の大山祇神社に必勝祈願を行って九州へと向かいます。
稲爪神社楼門(神仏混淆名残の仁王門の様!!だが注連縄で神社?)

その圓越智益躬をもってしても 「鉄人」軍を止めることは出来ません。彼はここで一計を案じ、偽装降伏して都までの道案内をするとみせて其の間に、鉄人の弱点を見つけて一瞬のスキを狙う作戦にでます。越智益躬に導かれた「鉄人」軍は、 瀬戸内海を通って播磨室津の港から上陸して、明石の和坂のあたりにさしかかった時、突然天地も裂かんばかりに稲妻が走り、雷鳴が轟きわたり、大三島の大山祇神社祭神の大山祇神が姿を表します。大雷鳴に好機を授かり ・馬上でおののく鉄人の足の裏に弱点を見つけた越智益躬が放った「鬼射しの矢」は、足裏より脳天まで射抜くと云う心願が叶い、鉄人を倒すことができました。越智益躬は大山祇神が現れた大蔵谷の地に社を建て、 稲妻大明神と崇め奉ったということです。これがのち転じて稲爪神社と呼ばれる様になったと伝えます。
(現地:稲爪神社本殿の案内幕 フリー百科「ウィキペディア」参照)


腕塚神社    明石市天文町1-1

大蔵院では室町時代:南北朝期後の合一時期に起きた「嘉吉の乱」に赤松氏が陣を敷き、戦国期・三木合戦時には高山右近が攻めたという話。稲爪神社では白鳳時代以前:推古天皇の時代に三韓 (朝鮮半島 )から侵攻の不死身の「鉄人」を、大山祇神社祭神の加護により伊予国の勇将:越智益躬が防いだ伝承。そして此処:腕塚神社には須磨・明石における源平合戦古戦場の 伝承が残っていました。 R2号線から 「天文科学館」の標識を見て北へ進むと山陽電鉄人丸前駅を通りますが、其の南側一つ前を北西に入る住宅地の細い道の中に祠が見えてきます。姫路市飾磨の英賀・高砂・魚住そして大蔵谷城等の諸城は、 海上輸送により京 ・大坂への物流集積の拠点として、旧西国街道(山陽道)の要衝監理・監視の任に当たっていたのでしょう。塚が在った元の場所から山陽電鉄の高架工事により少し離れて現在地に移転され、神社として祀る事になったと云います。 平忠度(ただのり)の腕を祀った腕塚神社で、 腕・腰・足に関する病気平癒の神と信仰をあつめて参拝する人も多いといいます。此の故事から右手塚(うでづか)町と呼ばれていたのを、天文科学館が建てられた事で天文町と 町名が変えられましたが「子午線のまち明石」をPRするイメージにはなっているのでしょう。 元暦元年(寿永3年1184)源義経の奇襲攻撃が功を奏して圧勝した一ノ谷の戦いに敗れ、源氏軍の追撃を打ち払いつつ平氏の武将 :平薩摩守忠度(ただのり)
【天養元〜元暦元年(寿永3年 1144-84):平忠盛の六男で平清盛 ・教盛・経盛らの弟】が両馬川 【馬に乗った平忠度と岡部忠澄が川を挟んで戦ったところから此の名がついたと云う】 まで敗走してきたとき、源氏の武将岡部六弥太忠澄主従に見つかり忠度の従者は皆な討たれた。忠度も岡部忠澄を組み伏せたが、忠澄の家臣に後ろから右腕を切り落とされ遂に観念します。
腕塚神社

忠澄が名を訊ねても名乗らぬままに討たれますが、忠度の箙(えびら・矢を入れて背に負う道具)に結び付けられていた文に残されていた和歌
「行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の あるじならまし 忠度」により平忠度とわかり、智勇ともに優れた人を惜しんで涙しつゝ其の忠度 (享年41歳)の腕を埋めたと伝えます。「いき暮れて 木の下陰を宿とせば ・・・」の和歌が辞世の「旅宿の花」として、下記の「さざなみや・・・」が勅撰和歌集である千載集に「読み人しらず」として遺されています。寿永2年(1183)平氏一門が西方へと都落ちの際、忠度は一度都を出た後密かに引返して、 和歌の師:藤原俊成を訪ねて日頃から書き留めていた自詠の1巻を託した話は知られ、千載集を編纂した俊成が、忠度討ち死三年後:千載和歌集に残した中に忠度の歌を「故郷の花」と題して一首選んで入れています。 朝敵・平氏追討の勅令が出されている折、勅撰和歌集である為:名を伏せ「読み人知らず」として「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山櫻かな」 収めています。墓と伝えられる「忠度塚」も在るというが、神戸市長田区にも忠度の腕塚(十三重の石塔)が祀られ、胴塚も在って市文化財となっている様!!。更には岡部忠澄が菩提を弔う為・清心寺(埼玉県)にも供養塔があります。
(現地:腕塚神社由緒案内板 フリー百科「ウィキペディア」  参照)

たこフエリーと明石港旧灯台

大蔵谷城・稲爪神社 ・腕塚神社を廻って大蔵海岸に戻ってきたが、 後の寄り道には余り時間も無い。明石城近くの病院に戻るR28号線は淡路島連絡フエリー乗り場前で右折して明石駅 ・明石城方面に北上するが、以前・船上城まで歩いた「魚の棚(うおんたな)」商店街の一つ南側の、 本町・樽屋町〜明石川に架かる大観橋を渡る車道を採って港町の防波堤先端に向った。港町・岬町から樽屋町界隈は寺社が集中して多い地域で源氏物語の舞台・源平合戦所縁:平清盛の供養塔や宮本武蔵の作庭と云われる庭園もあって、 次回にでも歩いてみようと思う。
明石散歩のスタート&FINは明石城大手門!!

以前:江井ヶ島・魚住方面に出掛けた際に 「たこバス」を見たので今度は本州:明石と淡路島:岩屋を結ぶ明石港に元祖?の「たこフエリー」見物と、 此処にも有った明石市の歴史遺産:明石港旧灯台を訪ねてみた。明石海峡大橋の開通【平成10年(1998)】によって、一時は閉鎖も 検討されていたフエリーは現在:第三セクターにより運営を引き継がれ運行されています。其の明石港の西側防波堤の先端に白い灯台が有り、其処から淡路連絡の高速艇 ・たこフエリー等の入出港を見るつもり。
明石海峡大橋を背に入港前の「たこフエリー」

此処には白い灯台への防波堤付根部分には フエンスに囲まれた中に明石港旧灯台が保存されていました。此の灯台は江戸時代初期:明暦3年(1657)第5代明石藩主松平忠国 (丹波篠山藩から移封)によって舟人の目標とする灯明台として築かれたと云われ、明治以前の 「航路標識年表(1968年第五管区海上保安本部刊)」によれば、日本で15番目・近畿では4番目に築造された古い灯台で、 波戸崎灯台とも呼ばれた旧明石港灯台は、木造で建てられたものから受け継がれて、防波堤の拡充により沖合に新灯台が 建設されて役目を終えた昭和38年(1963)まで300年以上にわたり、明石港を出入りする船の澪(みおつくし )として航行の安全を見守ってきました。 現存する灯台としては全国で3番目・近畿エリアでは最も古い灯台として知られます。
明石港旧灯台

ところが第4代藩主大久保季任?(忠職ただもと)(1639-49)の頃に描かれた明石城絵図には、 明石港旧灯台のある場所に灯台のような絵が描かれ「トウロ」と書き記されていることが判明し、建築年代は明暦3年より 更に遡る可能性もあるとも推察されます。既に元和3年(1617)信濃国松本から入封してきた明石藩初代藩主:小笠原忠政(忠真)によって明石川河口と明石港の間に突き出す港町・岬町を城下町に整備し、船運の利便性から軍港 ・商業港として組み込まれた明石港の浚渫や、航行の目標として「澪」や灯明台を設置する台場が 築かれていたのかも知れません。 その後・代々の明石藩主による改修が行われ、菱垣廻船の活躍で「宝の船入り」と呼ばれ瀬戸内の物資交易の主要商業港として、淡路への連絡港として重要な位置を占めるようになってきました。
明石港に入港「たこフエリー」

大正時代の写真にも有る木製の灯明台は、 昭和7年に改修され灯台となり明石市が管理。終戦後・ 連合国の指令により昭和26年に国に移管されました。昭和38年3月灯台としての機能が廃止され照明機器等は撤去されたが本体そのものは国有財産として残されました。明石の貴重な歴史遺産として県と市が国に譲渡を働きかけ、平成11年 9月明石市に譲渡されています。旧灯台までは護岸工事(平成19年末頃〜)で当面?車は通行止めの様ですが、明石市民のランドマーク・タワーとして存在の認識と保存 ・管理(既に落書きも目に付く)に努めていただきたいものです。
(現地 明石港旧灯台の沿革案内板を参照)


善楽寺の圓珠院庭園 ・清盛五輪塔と源氏物語の里・蔦の細道     明石市大観町

大観橋の交差点南西方に法寫山善楽寺 (天台宗)が在る。戒光院・実相院・圓珠院から成る寺は白鳳時代 :大化年中(645-650)天竺の高僧・法道仙人の開基を伝え、平安時代:保元元年(1156)平清盛が再興した明石最古の古刹で、 最盛期には七堂伽藍・17ヶ院が在ったという大寺院です。
平相国清盛供養の石造五輪塔

圓珠院庭園は 江戸時代当初:元和4年(1618)宮本武蔵が明石藩主小笠原(本多)忠政の客臣として明石に迎えられ、同年:明石城築城が始まると、明石城下の「町割り」を担当すると共に、作庭にも其の才を発揮して、明石城内の山里郭 (御樹木屋敷と呼ばれ現在:陸上競技場となっているが案内板だけが外周外に立つ。南大手側に回遊式庭園が再現されています )・本松寺(明石市上の丸1)・此処:圓珠院庭園の作庭にも当たったと伝えられます。 庭園は圓珠院本堂の前方に位置する枯池枯山水庭園で、全体的にみて小規模ですが、石組みを中心として立面構成を重視し、 視点による庭景の変化と遠近感を取り入れ、水墨画を思わせる様な造りになっています。
圓珠院庭園(宮本武蔵の作庭)

善楽寺の山門を潜り、 圓珠院庭園・本堂を右に見て正面一番奥、無量光寺の山門との間を隔てる様な植込み塀の角に、巨大な石造五輪塔が建つ。此の五輪塔は清盛の死後:養和2年 1182)善楽寺の僧(清盛の甥:忠快法印)が、自分の念持仏:地蔵菩薩を与えて "善楽寺の本尊とせよ”と、寺領500石を寄進して 寺を再興した清盛の徳を偲び、冥福を祈り建立したものという供養の五輪塔で高さ3.36mの花崗岩で鎌倉時代の作造で明石市(昭和51年)指定文化財です。
無量光寺山門

其の前には文学好きで知られた江戸時代初期:慶安2年〜(1649〜)第 5代明石藩主松平忠国によって建てられた「明石入道の石碑」と「光源氏古跡明石の浦の浜の松の碑」”明石の上 ”を偲んだ忠国自詠の歌碑が残され、周辺一帯「源氏物語の里」としてフィクションの世界ながら彩を備えています。明石入道は平安時代の中庸 :紫式部が著わした世界最古の長編ロマン小説源氏物語の主人公光源氏と其の恋人”明石の上”の父であり、善楽寺戒光院が其の明石入道が住む「浜辺の館」跡という。 入道は多くの館を所有しており,四季折々・宴を催す際の苫屋や、念仏勤行の堂を建てており、物語では須磨から移り住む光源氏に海側の「浜の館」を提供したという。
明石入道の石碑

山側の家(岡辺の館・神戸市西区櫨谷町 )には明石入道の家族が住んでいたという。明石の上と光源氏の間に生まれた"明石の君 "に逢う為に通ったという「蔦の細道」が平清盛五輪塔とは垣根を隔てた月浦山無量光寺(浄土宗)は江戸時代初期の生保年間(1644-48)江井ヶ島から現地に移されたといわれ、山門【播磨の出身と云われる名工 左甚五郎作を伝えられる総檜造りの山門で、稲爪神社の楼門にも彼の手になるという作品が伝えられる】前に有って「蔦の細道 」の説明案内板が立てられています。無量光寺山門前の白壁沿いの路地道が「蔦の細道」で光源氏が「浜の館」から”明石の上”に逢う為に通った道と言われています。
「蔦の細道」

無量光寺は光源氏が月見をした寺といい「月見の寺」とも呼ばれ、また境内に源氏屋敷や月見の松 ・源氏稲荷が祀られています。源氏屋敷に住んだとも云われる ?様ですが、源氏が”「明石の上」の居る目と鼻の先の善楽寺「浜辺の館」へ、又は二人の間に出来た子”明石の君”に逢う為に明石川沿いの道を神戸市西区櫨谷の 「岡辺の館」へ進んだとしても、無量光寺からは逆方向なので通い道とは考え難い。彼が明石川河口の川端公園付近に住んでいたのなら、此の道を通ったとして矛盾は無いのですが?遠回りして通ったのなら「さなぎさん 」と呼ばれる旧県社の伊弉冊神社付近に在ったにかも?。光源氏の「浜の館」は何処に在ったんでしょうね ? 其の伊弉冊神社が川端公園から岩屋神社・明石港へと歩きはじめた岬町交差点の先で、神社裏手に出たので (さなぎさん の大看板が掲げてある)正面に廻ってみる。神社の由緒書き等は見当たらなかったが本殿横の小さな庭に「2代目三本松」の標柱が立てられている。
岩屋神社の月見之松

三本の松が接触する程に隣り合って植えられている。いまに雌松?なら姦しくなるのかも・・・(^_-)-☆ 伝承等は未だ未調査 !!・・車道の岩屋神社・住吉神社標識を見ながら明石港へと向った。式内社岩屋神社の社務所・神殿前の庭にも光源氏ゆかりの「月見之松」の伝承があった!!。4世紀中期:第13代成務天皇 (稚足彦)の勅命により、淡路島:岩屋より御皇神を御遷になり創建以来、稲爪神社と並ぶ東播磨鎮守神の古大社として、また・歴代の明石藩主の崇敬も篤く、氏神として藩主自ら参拝されていたと云われます。古くから伝わる岩屋神社夏大祭の海上渡御神事「明石浦のオシャタカ舟」は、明石市指定(昭和49年 無形民俗)無形文化財(旧暦6月15日:現在では7月第3日曜日)となっています。
伊弉冊神社の三本松

明石港の西にある岩屋神社は、伊弉諾尊(いざなぎ )・伊弉冊尊(いざなみ)・大日霊尊(天照皇大神)・蛭子尊(ゑびす)・素盛鳴尊(ぎおん)・月讀尊(つきよみのみこと)を御祭神とする神社で、明石浦の名主:前浜の六人衆(岩屋神社の御祭神六柱を現したものかとも思ったが・違うらしい・・(^_-)-☆!!)が新造船を造り、淡路島:岩屋に鎮座する神を此の地:赤石の国(明石市)にお迎えする際に船を明石浦の浜に着けることができず、西方の林崎前の赤石(明石の名の起源)のところに船を着け海難防止と豊漁を祈ったことに由来する神事です。
(現地:善楽寺・蔦の細道・岩屋神社案内板 明石市教育委員会・神社由緒案内板等を参照)

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