晩秋の渓谷と山城ロマンの高槻市 摂津峡・芥川山城〜芥川城〜高槻城址公園
大阪・摂津 (五万図=京都西南部)
摂津峡【三好山(芥川山城)〜中堂山】〜歴史民俗資料館〜高槻城 H15年12月10日
近畿の山城 :芥川城 芥川山城(芥川城・三好山城・原城・城山城)
         高槻城 (久米路山龍ヶ城)

摂津峡・小川亭附近からの三好山

先日は生駒山系の飯盛山へ三好長慶の河内飯盛山城を訪ねたので、 同様に長慶の全盛時代・高槻の芥川山城へ出かけてみます。長慶にはキリシタンしとて洗礼を受けた家臣が多いのですが、中でもキリシタン大名高山右近は此処・高槻城城主として知られますので後ほど、高槻市街地へ戻って、 芥川山城の前身・芥川城や宿場跡へ寄り高槻城へ向います。今年5月にオープンした「しろあと歴史館」も楽しみです。桜の名所・摂津峡は、 芥川が中堂山 228mと三好山 180m(芥川山城)の間を、 原から塚脇へ流れ出る途中に形成された峡谷で、 "上の口"から白滝茶屋 〜花の里温泉を経て"下の口"約4kmに夫婦岩・屏風岩・行者岩等の奇岩や険しい断崖の連続する様子を、耶馬溪(大分県)に因んで摂津耶馬溪とも呼ばれ昭和13年(1938)大阪府の 名勝に指定されています。
摂津峡・白滝

春には約3000本の桜が咲き秋の紅葉や夏には清流にと、自然との触れあいを求めて近郊から多くの人々が訪れます。摂津峡が北から西側を囲む 三好山には、この険しい天然の要害を利用して山城が築かれ、此処を拠点に三好長慶が一時期畿内支配を確立していました。山中には本丸・出丸が残り土塁や石垣遺構が往時の威容を偲ばせています。


 
コース 摂津峡(芥川山城180m〜白滝〜中堂山228m/芥川城〜高槻城 H15.12.10

三好山周回コース概要  大阪の奥座敷・摂津耶馬溪・桜の名所と色々形容される人気の景勝地・摂津峡へは高槻市バスの下の口から桜公園から 花の里温泉を経て白滝茶屋へ抜けるか、逆コースの神峰山寺口へ抜ける府道の上の口バス停から白滝茶屋へ向うのが一般的なハイキングコースですが、芥川山城のある三好山へは此れ等のコース途中から取り付く道を知りません。
塚脇最奥の集落から三好山

比高こそ僅か6〜70mですが 摂津峡へ入ってしまうと見上げる断崖絶壁に阻まれた山頂への 登路を探し得ず、 取り付こうにも川向こうへ渡るのが容易ではありません。高槻市営のLOOPバス!!?「塚脇行」に飛び乗って終点の塚脇で降りると北方に三好山が見えています。此処から細い集落に向う道は何処を・如何辿れば良いか判らないまま直進 ・・・車幅ギリギリの道なのに数台の車と行き違いながらも「黄金の里」老人介護施設?前に着く。
東曲輪群の井戸と整然と積まれ近世代の石積

西横に続く竹薮の車道をなおも進んで、石積みの棚田が続き数軒の民家のある集落に入ると、祠があり脇には棚田へ登っていく簡易舗装の坂道があります。この道を採って芥川山城の東曲輪群へと登り尾根を辿って 三好山山頂の本丸を目指し更に摂津峡へ 下降出来ればと思ったが、流石に北面と西側は断崖状となって摂津峡に落ち込みます。 本丸からは元来た道を「史跡 城山城跡」石碑のある鞍部へ引き返し此処から大手道を下降します。降り始めて直ぐに 大手門跡とも思える高石垣を見て、最奥部の民家まで降りてくると登城口にも石積みがあり、
大手道の水場貯水池にしては周囲に数段の石積がある。

竹藪の中や 尾根の上方にも石積みが見える。出丸から南へ延びる尾根にも連郭があり、その末端が此処に当ります。民家の脇を抜けスタート地点の祠前に出て来る ので、城廻には良い周回コースです。 往時の道を「黄金の里」へ引き返し、 紅葉に映える三好山を望みながら"下の口"を目指して摂津峡に向います。 遊歩道・温泉・茶屋と続く 観光スポットでもあるので道々のコース案内は省略します。
大手道取付き附近・藪中の石積はさらに上部にもある

行者橋から白滝を見て滝の右手から小尾根に出て萩谷へと東海自然歩道を辿らず、谷に沿って直進のコースは随分以前から歩道岩場部分が崩れ極端に細くなっているところがあり 岩場に慣れないハイカーには少し危険な程の箇所が有り、白滝の側には「迂回ルート」と標示はされているが、何処へ抜けるための迂回ルートなのかは指示されていないので、此処で判断ミスが起きるかも…!!。 谷を詰め作業小屋上部から高圧線鉄塔(西院線No.6)の建つ尾根へ出たが巡視路は送電線が何本か越える「市後谷林道」へ延びており「上の口」へ向うには遠い。展望の良いコースの様ですが、三好山の位置を確認して 作業小屋へ戻り東への稜線に乗って小ピークを目指します。摂津峡を形づくっている三好山に対峙する中堂山で此処から 摂津峡へ降り切った所が、崩壊した岩場のコースで細い通過地点の側でした。
本郭部・本丸址・北方最奥の高みは櫓台跡か?

芥川山城概要 芥川山城は谷筋の大手道を囲むように鞍部の西から南へ延びる尾根の 三好山山頂部に本丸を置く主郭部と、東側から南へ延びる尾根の 最高所に出丸を、さらに尾根続きに東へ延びる尾根上に東郭群があり、 その中央付近に出てくる大手道の鞍部手前には、崩壊著しいが左右には僅かに取り残された高石垣遺構が有ります。本郭側には石積みの井戸跡・土塁・
大手取付き附近 ・大手道に沿っての石積は屋敷跡?

広い山頂の本丸には城址石碑と祠が有るが北端の一角には6〜70cm程の盛土された櫓台跡らしい 高みがあって、此処に京都丹波側の見張り台が建てられていたとも思われます。東郭群には山城遺構が竪堀や明確な堀切こそ確認出来ないが凝縮されて残っています。周囲を土塁で囲まれた曲輪の虎口から出丸側に降りると土橋となる。 短いが深く掘り込まれた竪土塁、東郭の各曲輪跡には天文5年(1536)・享保3年(1718)等多くの墓石が点在して建てられています。さらに下ると石囲いの井戸や腰曲輪には整然とした石垣が残ります。


芥川城  芥川山城 高槻城

芥川城  190m  高槻市殿町8

JR高槻駅西北の芥川2〜3周辺は今も西国街道の宿場町(芥川宿)の面影を残す町家が有って一里塚址や[行燈商]や 酒屋の古い看板を見ながら教宗寺前を通り芥川小学校へと細い路地を抜け殿町8の芥川城址の碑に向かいます。直ぐ先の芥川遺跡公園!!?(発掘後埋め戻されたか整地されたか案内板以外何も遺構を示すものは何もありません )は行き過ぎですので戻ります。芥川城も殿町の名と「芥川城址」碑が建っているだけですが、その碑の建つ民家の門構えが立派で石垣等に在りし頃の 城をイメージしようと思ったが無理。JT新医薬研究所の西・高槻スイミングスクールの隣がポイントです。川沿いに堤防の車道を辿る場合はスイミングスクールの専用駐車場から東への坂を降りると直ぐですよ。
芥川城址石碑

芥川城の築城時期は不明ですが、芥川宿を根拠とした芥河(芥川)氏によって鎌倉時代後期には築かれたとされます。 芥川に沿った東側の芥川4から芥川2にかけて、教宗寺を中心に西国街道の芥川宿一帯の北側を城域として拡大形成されていったようです。応仁の乱(応仁元年 1467)による山名持豊と細川勝元との戦の中で、 芥川氏は三宅・吹田 ・茨木氏らと東軍に属して戦った頃には芥川城は芥川氏の居城だったが、やがて没落し史上からも姿を消してしまう。その後・延徳2年 (1490)細川政元がさびれていた芥川の再建に乗り出して北摂の 能勢因幡守頼則を城主としています。
芥川城址石碑碑のある側の民家

永正8年(1511)細川高国・大内義興等の連合軍と細川澄元らが船岡山(京・洛北)で戦い高国方が勝利した後、永正12年(1515)頃・芥川に新城が築かれたとされますが、 此れは能勢頼則が三好山に新城(芥川山城 )を築いて居城としたと考えられます。芥川氏と同様に、その後芥川城がどうなったのか史実を明らかにするものは無いようですが、天文年間(1532-55)末期に三好長慶が攻めて開城したとも!!・・芥川城は西国街道の要衝に位置しており、 芥川山城(新城)に移った後も城館は平時の居館として存続したと考えられています。
(日本城郭大系 新人物往来社 参照)


芥川山城(三好山城・原城・芥川城・城山城)  高槻市原   
三好山 180m

芥川上流の摂津峡は摂津耶馬溪とも呼ばれ三好山の山裾を北方から西側にかけて岩を噛み流れる峡谷は断崖絶壁を成す 天然の要害となっており、此処に築かれた山城は南と東へ延びる稜上に多くの曲輪が土塁・堀切・土橋・石垣等の防備が施されて連なります。永正12年(1515)頃 ・細川高国の重臣で北摂の土豪・能勢頼則が芥川城(高槻市殿町)から摂津から丹波亀岡 ・京都を結ぶ交通の要衝でもある
東曲輪群の高石垣・上部の曲輪に井戸跡有り

街道を望む三好山に新城(芥川山城)を築いて居城としたと考えられます。頼則は翌年に没し息子の源左衛門尉頼明が 後を継いでいます。能勢氏は大永6年(1526)能勢源五郎国頼の頃・高国の重臣:香西元盛と細川尹賢の不和が発端となり細川高国と晴元の合戦に発展し、 高国方についた能勢氏は安威 ・茨木の諸城と共に降伏開城して芥川山城を去ます。翌大永7年・桂川の合戦に細川高国が敗れると後細川晴元の支配下に入った。
東曲輪主要部虎口から出丸に向う土橋

天文2年(1533)室町幕府の管領(かんれい)として実権を握っていた細川晴元が入城したが、内部抗争が起こり京都へ移った後天文8年(1539)その間隙をついて 阿波の三好長慶によって京都を追われます。天文16年(1547)以降、三好長慶が政権を掌握して一族の芥川(三好!!?)孫十郎を城主に置き天文22年 (1553)以降は三好長慶自らが居城して三好氏の摂津の拠点とします。永禄3年(1560)河内国飯盛山城へ 拠点を移すまでの7年間、畿内の支配を確立 (芥川政権)していたが長慶が飯盛山城へ移った後、
東曲輪群主要部の土塁と虎口

芥川山城には嫡男義興が入るが永禄6年(1563)22歳で没し、後には三好長逸が入城します。永禄11年(1568)織田信長が将軍足利義昭を奉じて摂津に入り芥川山城を攻撃し城は落ちます。やがて信長は摂津支配を和田惟政 ・伊丹親興・池田勝正の三人に委ね芥川山城へは和田惟政がはいった。翌永禄12年三好長逸等・三好三人衆は将軍足利義昭の住む 京都六条の本圀寺を 襲撃するが惟政が逸早く駆け付けその功により三好方の入江春継の高槻城を与えられ移った。
大手道鞍部附近の高石垣・大手門跡!!

惟政の芥川山城は家臣・高山飛騨守(高山右近の父)が預かるが、元亀2年(1571)惟政・高山と池田勝正・荒木村重が白井河原で 合戦となり惟政は敗死、惟政の嫡男惟長が継いだが、元亀4年(天正元年 1573)高山飛騨守の嫡男・彦五郎(後の右近)に城を追われ、城主となった高山右近が高槻城に移って芥川山城は廃城となりました。


高槻城(久米路山龍ヶ城)    高槻市城内町   大阪府指定史跡(昭和25年5月)

京都と大阪を結ぶ中間部にあって広大な平野部には西国街道が走り、 淀川に近く水運に都合の良い交通の要衝に、高槻は城下町として発展してきました。元和元年(1615)「大阪夏の陣」では徳川方の重要な軍事補給基地として機能したようです。 高槻駅を南下・R171号線の大手町交差点を南へ渡ると高槻カトリック教会があり入口脇には イタリアから寄贈されたという高山右近の大理石像が建つ。 周辺には天主堂跡、 発掘調査で確認された近世高槻城の厩廓桝形門の石垣の残石や、野見神社には唐 門が残り今回は近くに有りながら気付かず貴重な遺構を見逃した本行寺山門は城の高麗門が移築されています。
遺構の無い公園内の池と石垣で高槻城をイメージ出来る??

右近の立像は水堀や石垣をイメージした小丘に建てられ、近くには新旧 !!?の城跡石碑がある。その西側!!にある島上高校敷地が本丸跡といわれます。今年開設された「しろあと歴史館」「歴史民俗資料館」等施設もあって、付近は大手町城址公園として市民の憩いの場となっています。平安時代中期・正暦年間 (990〜94)近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に居館を構え根拠地としたのが始まりで、南北朝期・駿河国の入江左近将監春則が 足利尊氏の命により 高槻城を継ぎ戦国時代初期にかけ当地を支配していたといわれます。永禄12年(1569)足利義昭を奉じて上洛した織田信長が芥川山城を落し、高槻の入江春景を滅ぼし近江国・和田城の和田伊勢守惟政(これまさ)を 高槻城主とします。 和田惟政はキリシタン宣教師を保護し、ルイス・フロイスを信長に謁見させるなど、宣教師たちからはキリスト教の父とも呼ばれた。
三の丸東端・堀に沿った土居跡か?(築地塀が続いていたかも!!)

惟政は元亀2年(1571)に白井河原(茨木市郡山)の合戦で池田勝正( 池田城)に敗れて戦死、代わって嫡男・和田惟長が後を継ぐが元亀4年(天正元年 1573)家臣の高山彦五郎(後の右近)に城を追われ、代わって高山右近が入って 在城(天正元年〜13年)した。 キリシタンであった高山右近は城内に天主教会堂を建て、 宣教師を招くなど熱心にキリスト教の布教に務めています。天正6年(1578)織田信長に叛した荒木村重( 伊丹城)に子や妹を人質に出していた右近は村重に従おうとしたが、信長が使いとして送ったオルガンチーノ司祭の降伏をすすめによって、信長方についたので高槻城を安堵されている。 豊臣秀吉の天下となった天正13年(1585)大名の国替えを行い、光秀との山崎の合戦
の功を挙げた高山右近は船上城(明石市)に6万石に加増されて移封されます。
高山右近の像・東の彼方に何を見つめているのだろう??

天正15年(1587)秀吉のキリシタン禁令が出され、改宗を拒否した右近は領地を没収され加賀の前田利家の下に身を寄せた。 慶長17年(1612)徳川幕府の禁教令により慶長19年(1614)国外追放処分を受けマニラに到着後の僅か40日後には熱病に冒され死亡したといわれます。豊臣氏が元和元年(1615)大坂の陣で滅亡すると、高槻城主には内藤信正(近江長浜)が入り以後、 米沢・喜多・彦阪・山田・土岐・松平・岡部等々譜代の大名が城主となり慶安2年(1649)山城勝竜寺の永井直清が3万6千石で入部し、明治維新まで13代約230年の歴史を閉じるまで藩政の中心となっていた高槻城ですが、明治7年(1874)鉄道敷設建設に伴い、 その石材調達の為に尽く破却されてしまいます。その後も学校の開設・工兵隊の駐屯や、戦後も現在に至るまで各種学校建設や公園の整備によって城址遺構は消えていきましたが、下水道工事等で地下より石垣遺構が発見されています。
(現地各所の大阪府教育委員会/大阪法務局の案内板 ・ 日本城郭大系・新人物往来社 を参照)


高槻市街地の散策
(大手町〜カトリック教会〜野見神社〜しろあと歴史館〜八幡大神宮)
戦国末期の高槻城主でキリシタン大名 高山右近は天文21年(1552)摂津高山(豊能郡豊野町)で生まれ、永禄6年(1563年)12歳で父や母・家臣達と キリスト教の洗礼(洗礼名ジュウスト)を受けたといわれます。キリシタン信徒であった主君・和田惟政と共にキリシタンとなった右近の父・飛騨守(洗礼名ダリオ)は主君・和田惟政の敵・荒木村重とむすび、惟政の遺子・惟長を追放し元亀4年 (1573)右近が高槻城主となります。
高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)

荒木村重が信長に反した天正6年(1578)、村重に子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし降伏を勧め開城します。 天正9年(1581年)イタリアから巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催したといわれ、山崎合戦には豊臣秀吉に仕えて功を挙げたが、明石に移封されるまでの12年間城主として高槻を治めます。
敷地内の高山右近像

高槻商工会議所の側には"高山右近天主教会堂跡"の石碑が建てられて野見神社前から「しろあと歴史館」へ向かえば "桝形門の石垣残石"が置かれ説明板も立てられています。これらの花崗岩は近世高槻城の"厩廓 (うまやぐるわ)桝形門"の石垣に使用されていたものとみられ、昭和60年・市立第一中学校体育館新築工事に先立つ発掘調査で 東側内堀跡から出土したもので明治7年(1874)高槻城破却時に堀底へ落ち込んだものと 思われ右側は木津川上流の山城加茂、左側は瀬戸内から搬入され矢穴列(石を割る際の穴の列)の形状から江戸時代初期に切出された事が判るそうです。 今年(H15年)3月に高槻城三の丸跡にオープンしたばかりの「しろあと歴史館」は近代城下町高槻をテーマとして高槻城絵図や出土品、 芥川宿の賑わいと人々の暮しを紹介したミラービジョンによる立体映像、淀川の三十石船や"くらわんか舟(高槻市が発祥の地)"等が資料・映像・模型で紹介され城ファンには鎧冑・剣・火縄銃・城郭の絵図や模型と無料で楽しめる。
高槻城厩廓(うまやぐるわ)の桝形門石垣の残石

八幡大神宮の創建は不明ですが、社伝によれば洪水によって応神天皇の像と白羽矢が此の地に流れ着き、此れを祀ったのが最初といわれ、応神天皇・天児(あめのご)屋根命・建御名方命(たけみなかたのみこと)を御祭神とします。 戦国時代には野見神社と共に八幡大神宮も高山右近の兵火に焼失したようですが、その後・牛頭(ごず)天王(現・野見神社)等とともに高槻城の守護神として歴代城主の崇敬厚く元和5年(1615)には松平家信が社領を寄進したと伝えられます。
(現地案内板 高槻市教育委員会 参照)

歴史民俗資料館(旧笹井家住宅) 高槻市城内町3-10 城址公園内

昭和47年9月に高槻市指定文化財の建造物第1号に指定された笹井家住宅(旧・紺屋町)は江戸時代中期の町家建築で、 妻入り本瓦葺は市内にある瓦屋根の中で最も古い形式手法を残している点で貴重とされます。
歴史民俗資料館 (旧笹井家住宅)

本来草屋根の小屋組である扠首組が、重い本瓦葺の屋根を支える為に一歩変身した姿であるといい、こうした特長は京都・亀岡との地域的つながりも示しているといわれます。この町家は昭和57年6月に 市立歴史民俗資料館の展示館として現在地に移転復元され、市内に残る民俗資料(農具・漁具・和菓子の型板や綿花・織機、寒天製造の用具)等を収集・展示されています。


西国街道(芥川宿と一里塚)
芥川一里塚は西国街道の宿場町「芥川宿」の東口にあたり市域では梶原(太閤道の走る若山316m〜梶原山284mの 南山裾・阪急上牧の西南)に有りました。 街道の1里毎に塚を築き榎・松等を植えて路程の目印ととたもので、丹波・八上城下にも1里松の史跡が残ります。淀川とともに重要な交通路であった西国街道は、 江戸時代「山崎通(みち)」といい京都・山崎と西宮を結ぶ脇街道として多くの旅人等に利用され、芥川は12世紀頃には既に宿(町)として 成り立っていたが17世紀初め徳川幕府によって宿場町としての姿を整え、参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠等が置かれ、享保19年(1734)の芥川宿絵巻には整然とした家並みや寺院・一里塚の様子が描かれています。
一里塚

時の流れの中で徐々に宿場町の面影が姿を消して行くようです。 僅かに残る格子窓の民家に往時が偲ばれます。街道の両側にあった芥川一里塚も今は東側だけが残り昭和16年(1941)5月に大阪府の史跡に指定されています。神恵山教宗寺(浄土真宗本願寺派・西本願寺 本尊・阿弥陀如来)は、寺伝によると当寺祖先の田淵久兵衛教宗が親鸞聖人の直弟子となった法名・了専が自分の邸宅を寺院に改めて弘安10年 (1287)に開創したもので後に聖人の勅号(朝廷から高僧仁賜る称号)に因んで、
教宗寺

教宗寺の号を与えられたといいます。 元禄5年(1692)に再建された境内に本堂・庫裏・鐘楼や安産の宮(市蛭子大神宮)が建ち、本堂脇には石風呂といわれる花崗岩製の石槽が置かれ昭和49年(1974)大阪府の有形文化財に指定されています。丹波・篠山市の福徳貴寺にも「石船」と呼ばれる石をくり抜いた長さ2m弱、幅1mの岩風呂がありますが、薬草風呂として使われていた医療器具 ?ではなかったかと想像してみます。
(現地案内板 大阪府教育委員会 高槻市教育委員会 参照)
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