別所氏に付いて三木合戦に散った国人領主の城(吉川町)毘沙門城・宮脇城・渡瀬城・市野瀬城・荒川城
阪神 (五万図=三田)
三木市吉川町・歴史街道の城砦巡り H17年10月29日・12月26日
近畿の山城 : 毘沙門城と宮脇城 市野瀬城
     渡瀬城 有安城 荒川城

渡瀬城(吉川高等学校)

毎年1月14日には正月の注連飾り等を一緒にして ”とんど”が行われますが、三木市(旧美嚢郡)吉川町では竹を組み合わせた櫓を組み、櫓ごとに数軒から十数軒が集まって行なわれ、最近は少なくなったが彼方此方に煙があがり、竹の爆ぜる音が聞こえていた様です。 三木城が秀吉に攻められた時毘沙門城(亀伏城・赤松城)に逃がれた別所氏の一族が、 さらに毘沙門地区内の別所という所へ逃げ隠れ住んだといわれます。”とんど”の竹のはじける音が鉄砲の音に似ているというので、それ以来・別所地区では”とんど”をしないそうです。三木合戦の悲話は 彼方此方に残っている。 間子の七不思議(多可郡中町)のひとつに、五月幟(のぼり)【鯉幟を上げない】というのがあります。此の地へ逃れてきた落武者が五月の節句幟を上げると旗挙げの標となり、攻めて来られるのを恐れたことから、 間子では五月の節句に鯉のぼりをあげないという・・・似たような伝説ですね。
西面から宮脇城:阿弥陀堂と殿墓のある丘陵(若宮八幡宮祭礼の御旅所も城砦?)

三田方面から三木へ抜ける美嚢川沿いに京都・摂津と播磨・姫路を結ぶ吉川道の要衝に有って”嘉吉の乱”では赤松満祐が「赤松峠」を越えて 足利将軍教義の首を持ち帰った道でもあり、南北朝期以後に播磨守護:赤松一族や、室町末期・天正期の「三木合戦」へと、戦国の群雄割拠と悲哀の栄枯盛衰を見つめてきた軍道・吉川町を訪ねてみます。吉川インター近く ・県道17号線には平成14年オープンした道の駅が有る。兵庫の酒米で日本一の質を誇る「山田錦」の産地で知られ、試飲コーナーや山田錦ミュージアム(無料)・吉川温泉が有り、絶好の”寄り道スポット”を提供しています。 日本一の炭酸ガス含有量(4110PPM)を持つ温泉といわれ、館前の休憩所では足湯(無料)も楽しめます。


毘沙門城 宮脇城 市野瀬城 渡瀬城 有安城 荒川城

毘沙門城と宮脇城
毘沙門城(赤松山亀伏城・赤松城) 赤松山 190m 三木市吉川町毘沙門字城越

毘沙門城跡は歓喜院が建つ場所の裏山(赤松山 190m)から 派生する尾根上には、 東側から四ノ郭〜一ノ郭(本丸)へと堀切で区切られた四つの郭で構成され、二ノ郭の南麓に有る歓喜院の境内は藤田氏の居館跡だったと伝えられます。 其の東方の谷に藤田氏の氏宮「歓喜院聖天堂(三間社流造り檜皮葺)」が有って室町時代初期の応永18年(1411)の建立とされ、昭和42年:国重要文化財に指定されています。 細い集落内の車道は最後の急坂を登って駐車場に行き着きます。
駐車場・三ノ郭麓から居館跡!の歓喜院

此処から望む歓喜院は山を背にし、 正面は深い空掘状の上の台地にあって如何にも居館跡を思わせます。駐車場も広い曲輪状で南は深い谷となり、背後は崖状の高い斜面上に三ノ郭が在って、集落上から 此処までには家臣団の屋敷跡を窺わせる平坦地が有りますが、駐車場周辺は車道や駐車場拡張工事によって 大きく変貌している様です。道は無く墓地裏手から藪を分けて低い鞍部を目指し、二ノ郭と三ノ郭鞍部にある堀切に出ます。 堀切から左右の鞍部へは5〜8m程の段差で其々の郭に登れますが、直ぐ前方の北面に大岩があり、覗き込むとビックリするほどの断崖 (15〜18m程)となって城域の北面を完全防備しています。
二ノ郭と三ノ郭の北面は15〜18m程の断崖

東へは下草と竹藪に閉口しますが細長い平坦な尾根が続き南側の雑木藪に隠れるように空掘りが掘られています。 更に東へ蜘蛛の巣を分けながら雑木藪を進むと、土塁付きの四ノ郭に到達するのですが、下草と藪の状態では目視は出来るが 写真では土塁の判断も出来ないだろうと思い、前進を諦め本郭側の西へ引き返します。二ノ郭側は竹薮の中。段差をもって並ぶ曲輪や谷筋を掘り下げた様な長い堀切が竹薮越に見えるのですが、荒れた竹薮の中では特徴の無さそうな縄張りに専門知識も無く、 城域内は暗くなってきたので歓喜院へ退き返し”山田錦の館”吉川温泉よかたんや、 酒米ミュージアムのある”道の駅”に立寄ってから社・西脇方面へと帰途についた。毘沙門城が城されたのは鎌倉時代末期・元弘元年 (元徳3 1331)の元弘の乱に反鎌倉幕府勢力として参戦し、篠村元弘3年(正慶2 1333)篠村での足利尊氏の篠村挙兵にも千種忠顕等と六波羅を攻めた際に、 播磨守護職:赤松則村(円心・赤松備後守?)が法嶺山常楽寺 (天台宗)を城郭化して拠った事に始まる様です。
毘沙門城・歓喜院裏手の堀切と二ノ郭の切岸

室町時代には別所氏方の国人領主藤田紀伊守が、赤松山の全域を整備補強して城郭化し居城。 26000石を領して知行したとされ、山麓には城下町を形成していたようです。 毘沙門城からもほど近い三田へ越える峠の”赤松峠”があり、 京都・摂津と播磨・姫路を 結ぶ吉川道の要衝は、度重なる戦いには軍道としても利用されたものか。 此処を押える為に毘沙門城が築かれたと推察できます。応永の乱 (応永34年 1427)や嘉吉の乱(嘉吉元年1441)では、足利6代将軍義教を謀殺して、其の首を携えて赤松満祐が京都から播磨へ戻った道か!。 同じ道を幕府の追討軍・管領細川持之や山名持豊(宗前)が越えた道か?。応仁の乱に細川勝元を 援護した家臣・三好之長以来、近畿に勢力を拡大していった三好氏が天文11年(1542)三好長慶が 足利義輝を擁立して幕府の実権を握るが其の義輝との仲が悪くなり、永禄元年(1558)京都中尾城や北白川の合戦で義輝を近江へ追放した際、 毘沙門城主:藤田河内守幸綱は三好長慶に付き参戦しています。
毘沙門城東・三ノ郭の空掘


戦国時代赤松山の山稜全域を城域として、 小野氏を祖とする吉川谷の国人・藤田氏の宗家であった藤田河内守広興(幸綱)の本城で一族に渡瀬氏・市野瀬氏等がいる。天正6年(1578)羽柴秀吉の三木城 攻めが始まると藤田幸綱は嫡男の右近と共に 三好方として参戦して別所氏に付き、幕下として三木城に籠城しました。天正8年(1580)1月・三木城が落ちると(城主別所長治は領民や残る将兵の命と引きかえに開城して自刃)藤田父子はこの地に戻り 将来の絶望感と別所氏一族の死を悼み、此処:毘沙門城か?下記:藤田氏館城の宮脇城で自刃して果てます。そして其の後・秀吉により毘沙門城や支城の宮脇城(藤田河内守の下屋敷と伝えられる)等も焼かれ落城しました。

宮脇城(稲田城)     xxxm  三木市吉川町稲田字屋鋪之内

市野瀬城から 毘沙門城に寄って県道17号線を西に向う。中国自動車道吉川インター分岐を社へと、 帰路の途中で通りかかる若宮神社の鳥居を見て境内の駐車スペースに入った。此のまま約350m程直進すれば 「道の駅よかたん」。美嚢郡吉川町が2005年10月三木市に合併編入しています。
若宮八幡宮(宮脇城主:藤田広興の造営)

此の街道監視の宮脇城(藤田氏下屋敷)が此処より東方約200m程の高台にあったという!。市野瀬城と共に毘沙門城の支城として築かれたものか、室町時代:藤田氏本拠の毘沙門城を築いた藤田河内守(幸綱)広興の館城となったものか! (永禄元年(1558)毘沙門城主:藤田河内守幸綱が三好長慶に付き、 京都中尾城や北白川の合戦に参戦して第13代将軍足利義輝と戦い、義輝を近江へ追放した等、城史については上記の毘沙門城を参照してください)。
県道側から宮脇城:阿弥陀堂「御旅所」

吉川川(美嚢川)沿いの南北 には、低く緩斜な丘陵が続き集落の間には多くの棚田を見ます。 若宮神社背後の丘陵が東へ延びていますが上部には田圃が有り、細い薮尾根の先は”吉川カントリー倶楽部”への丘陵に続き、 若宮神社の西から尾根の裏手を廻ってゴルフ場へも車道が通じています。 棚田の畦は土塁の様ですし、点在する高台に有る水の抜けた溜池は曲輪・切岸・水掘を連想してしまいます。 三田・三木・淡河方面からの監視は市野瀬城が、東条・淡河・箕谷方面から本城への監視と真下を通る街道筋の監視には若宮神社背後の丘陵が適している様です。
宮脇城北面の土塁:藪の崖下を吉川川(大沢川)が流れる

宮脇城の監視所か出丸跡!、城域や遺構を確定出来ず今回は一先ず退散しましたが、宮脇城(稲田城)は茅葺の阿弥陀堂が建つ付近で ・一帯の田圃は発掘調査され遺構や遺物が出土している様ですので、調査報告書等により詳細が判るでしょう。若宮神社秋の例祭では「めでた・めでたのサッサ 若宮様よ トコセ・・・」伊勢音頭が歌われ、天狗「猿田彦」とお多福「天和女」が先払いをつとめた神輿が、 西250mの若宮神社から此の阿弥陀堂前の「お旅所(神幸の途中・御祭神が休息される所)」にやってきます。現在では田圃となっている宮脇城(居館 :毘沙門城主藤田氏の下屋敷)は100m四方を土塁で囲み、五つばかりの曲輪群から構成されていたようで、 城の四方は切崖で北側は吉川川(大沢川)に落ち込み、南の阿弥陀堂側には幅5mの畑(土塁の基底部)が東西に走り、この前面を幅約10mの田圃(水掘)があり曲輪が其のまま田圃の形として残っていたが圃場整備され遺構は失われているようです。 発掘調査は此の圃場整備による事前調査だったのでしょうか?。県道17号線を挟んで南に迫る丘陵へは民家裏手から 「天王さん」を祀る祠横から段差の高い田畑が並ぶ山腹を抜け北西端の立木と藪の一角に向かいます。
圃場整備によるものか見た目以上に高く深い切崖;県道挟んで殿墓のある丘陵

三田方面から赤松坂を越え東条や三木の向う要衝を真下に望み東に深く大沢川が流れる、 此の丘陵部付近の方がズッと要衝監視の城砦の雰囲気が在り、毘沙門城の支城として西の入口を固める関所城としての 機能もあったものか?。宮脇城を眼下に望む位置に殿墓と呼ばれる城主:藤田氏一族を祀る墓所が在って墓石・一石五輪塔群が散在しています。天正6年(1578)三木合戦に別所方として参戦したが、三木城主 :別所長治が家臣の命と引き換えに開城して自害し、吉川に帰城した藤田氏ですが既に領地は無く家臣もいない、 行く末の絶望感と別所氏一族の死を悼んで父子は此処で自刃したとされます(三木合戦の際の城主は藤田河内守長矩と子の右近とも・・・資料未詳)。
殿墓は宮脇城主:藤田河内守を祀る石標か?

また河内守にはもう一人幼子がいて東光寺に預けられ仏弟子となっていたが、 血の絶えるのを惜しんで還俗させ権右衛門を名乗った。孫に朝盛がいて 若宮八幡宮の社僧となり、代々宮脇城と付近に土地を持っていて、元禄の頃までは土塁や堀がそのまま残っていたと云われます。其の後・秀吉によって毘沙門城や宮脇城(藤田河内守の下屋敷)等も焼かれます。詰め城であったと思える丘陵上の殿墓の 墓所の整備は一年一度はされている様ですが藪の中の円形小場に崩れた土砂や落葉に埋もれ・傾く墓標には領地に戻っては来たが、敗者の悲嘆・悲憤を感じさせます。「若宮神社」は社領田を寄進した毘沙門城・宮脇城主の藤田河内守広興により、延徳3年(1491)創建:造営されたとされます。以前の稲田地区に藤田姓は少なかったようですが「御旅所」側の民家も藤田姓。 過去帳等を追って城主藤田氏との関連を調べられた様ですが、江戸時代以前にまで遡ってはわからなかったようです。
道挟んで殿墓のある丘陵「天王さん」祠・左手上部に殿墓がある

なを吉川町公民館西を北へ抜ける道は商家らしい古民家が建ち並び街道筋の面影を残しています。県指定重要無形民族文化財「ヤホー神事」が有り、大沢座:中村座:畑座等の宮座制度があって、 此の宮座によって毎年10月1日に古式の神事が行われます。ヤホー神事は獅子頭を先頭に一同が行列を作り「棒振り・金棒引き・行燈持ち ・小鼓打ち ・締太鼓打ち等」が神楽歌を歌いながら境内を進み、神前で棒振りと馬に乗った子供、 蚊帳の中に入った子供との問答が行なって神事を終了する。室町時代頃から伝えられていると思われ、神と人との交流を知る上で興味深い神事です。 イヤホイ・・の掛け声とか、此処では”イヤァホ〜”の神楽歌からヤホー神事と名付けられた秋祭りです。
(播城志 現地:若宮神社のヤホー神事案内板 「お旅所」の案内板 兵庫県中世城館・荘園遺跡調査報告書 県教育委員会を参照)


市野瀬城(一之瀬城) 城山147m 三木市吉川町市野瀬

「石峰寺文書」によると小野真行(一ノ瀬右衛門三郎)が乾元2年(嘉元元年 1303) 石峰寺 (神戸市北区淡河町神影)へ田畑を寄進している。この真行が一ノ瀬氏を名乗っているので市野瀬を領していたと考えられており、吉川上荘を領した小野氏(後の藤田氏)の一族です。城の毘沙門城(城主:藤田河内守広興)の支城として南約900mに在る市野瀬城は淡河方面からの敵の侵攻に備えて築かれ 藤田玄門が居城していたとされています。
市野瀬城の城域より西方の田畑の端に土塁と堀のある小郭が?

藤田氏は天正6年(1578)三木城攻めが始まると別所方として参戦し、翌天正7年9月10日・兵糧輸送路の攻防では平田山に陣を構えた秀吉方の将 :山家陣屋の城主(綾部市)谷大膳亮衛好(もりよし)を別所・毛利連合軍が夜襲をかけた”大村坂の戦い”により、谷大膳は討死するが別所 ・毛利の軍も秀吉方援軍の前に惨敗し、藤田氏も此処で戦死した様で、
畑地にしては狭く,不釣合いな程に高い土塁

城址にある墓碑に 「市野瀬殿 天正7年9月10日」と刻られている。市野瀬城跡は県道17号(西脇三田線)と三木方面からは県道506号・淡河からはR428号から二ッ子町で分岐した県道355号が合流する処。美嚢川と名を変える大沢川と吉川川が流れ出る!市野瀬交差点の南側・吉川川沿いに東吉川小学校があり、裏手北方の蓮池背後にあたる低丘陵上に位置して、 単郭の曲輪と東端部に空堀・北方に湿田の堀跡を残し、丘陵に続く西部を堀切で遮断しているという。
市野瀬城の城域とされる東端曲輪を土塁が囲む

曲輪の南側・県道側の民家裏から蓮池東側は垂直に近く、岩を抱き込んでいる様な土壁状と急斜面になっている。西側に畑地と果樹園の平坦地があり、 高い台地(墓石が一基ある )の西が堀切となっている。荒れた果樹園か畑地?から少し登ると、主郭とされる竹混じりの雑木藪の中の曲輪となる。 北東から南のかけてU字状に土塁が廻り西に数段高い(5〜6m程)平地に墓碑が一基ある。見張り台か此処が本丸なのか?其の西が堀切となっています。資料に土塁の記述はないが単郭なので、曲輪と断崖状の東から南面にかけて下草で隠れた荒れた果樹 ・畑地が空掘の様です!。
下草と藪が茂る曲輪・市野瀬城

更に西の丘陵には数軒の民家と畑地になっていますが西に続く道沿いからは、 8x15m程の畑地を2m程の高い土塁で囲む所があり、西側との段差の北側は空堀状に掘られています。更に西端の標高150m程の頂部は近年?削平されたものか 25mx40m程の広い空地となっており手前(東)にも一段低い平地(此処も作業小屋がある)があり 南側は空堀状か急斜面?いずれにしても稜上の東を除き、三方の斜面は急で曲輪跡とも思われます。
(兵庫県中世城館・荘園遺跡調査報告書 県教育委員会を参照)


渡瀬城 xxxm     三木市吉川町渡瀬・吉川高等学校

渡瀬バイパス東の三叉路を西へ進むと 100m程先で県道17号東条町・社 ・西脇方面と加古川方面へ直進する県道20号が分岐します。北東の低丘陵に有安城が在りますので後で寄るとして先ず・三叉路を左へ入り南上方に見える吉川高等学校へ向かいます。県道354号からR428へ繋がる「総合中央活動センター」の案内標識に従って坂上の高校正門前を過ぎると”渡瀬古城跡・法光寺”の道標を見ます。 吉川高校も分岐下のJAから見れば急斜な高台に位置して見えますが、
学校背後の高土塁!と曲輪

城跡表示では更に高校背後の上部丘陵を指しているようです。しかし渡瀬城本ノ丸は此の高校敷地といわれ、建設にあたってはブルドーザーにより曲輪の土塁は削られ、 堀は埋められ整地され此の際・焼けた灰の層や書類等の焼け残り・壷や瓦 ・焼き米が見つかったといいます。 家臣団屋敷跡なら判るのですが現状からは本丸跡が此処だとは思えません?縄張り図や発掘調査研究資料等を見ていないので判らないが、背後の丘陵の高みからは校内全体が見渡せ、射掛けられれば逃げ場も無い!。 やはり此処が城跡か?最高所部は猛烈な薮で入れないし、南端部は共同墓地になっていますが、高校敷地の西にも 丘陵があり、二つの丘陵に 挟まれた中央部の鞍部に城の本丸があったとすれば、元は一つのなだらかな丘陵部の中程を深く(10数m?程)切り崩され開かれて、東西の低丘陵に挟まれた鞍部状となった平坦地に校舎・グラウンドが建設されているのでしょう!。
(南側から)手前に池・数段の平坦地上部には左添付写真の削平地

学校敷地内には館城や家臣団屋敷、 背後の丘陵上が ”詰め城”の構成に思われたが、城史(戦わず敗退したと云われる?)とは裏腹に案外と大規模・広範囲な城郭だったのかな・・・?。「渡瀬古城跡」の道標を見て民家の路地間を抜け上部の畑地へ出る細い通路は、高く急な畑の土手に挟まれて 城戸の”潜り門”か虎口の様。更に高い土手(土塁と思われる)の先は 5m程の断崖状で学校敷地に落ち込みます。 更に幅広の土塁は南の高みへ続き、三箇所の小場に各一基ずつ墓石が立つ。1.5m程の墓碑が渡瀬城最後の城主渡瀬好光の顕彰碑かは確認せず不明。
校舎背後の土塁曲輪・左の高みに墓と碑がある

西側が断崖状に削られた上の狭い台地に在った。裏手の丘陵には大小の平坦地が3〜4段あり、小さな池もあるが畑地にしては段差が高過ぎると思える所や、 三田〜明石を結ぶ美嚢川沿いの要衝は勿論、裏街道!の淡河・箕谷へ通じる県道側を監視するかの様に東から南側にも曲輪が廻っているようです。渡瀬城は鎌倉時代:宇多天皇の後裔・佐々木秀義が功を得て、源頼朝より吉川庄の渡瀬郷を賜り文治元年 (1185)末男の佐々木源十郎義範(渡瀬氏の祖)が、守護職として来住したのが始まりで此の地名を姓として渡瀬氏を名乗っています。山名氏の勢力を恐れた将軍足利義満が、明徳2年(1391)赤松義則や別所敦則らとともに山名氏清を攻めた ”明徳の役”で功績があり、義満から摂津・播磨に2万石の領地を賜り、其の5代目渡瀬右衛門綱光が此の地に渡瀬城を築いています。 其の後:渡瀬氏は盛清・盛久・高治・好高・好範・好光と続きます。天正5年(1577)秀吉の 「中国攻め」が始まると三木城主別所長治と共に秀吉に従ったが、翌:天正6年の毛利攻め軍議の決裂から 別所氏が毛利方に付いて籠城すると多くの播磨勢と共に渡瀬小次郎好光(重詮)も別所氏に従い渡瀬城に籠城して防御を固めます。
東通用門側(手前・北末端の削平地!・正面の高みに墓と石碑

好光の妻は別所長治の叔父山城守吉親の娘ですが、天正4年に病死していたが、別所氏縁家の関係から親しく交際があった。三木城へは好光の弟(二男)渡瀬小次郎重光と (三男)左馬助好勝に兵を付けて籠らせますが、三木合戦の籠城で重光は戦傷して帰農したといい、好勝は天正7年11月三木城宮の上で戦死します(自害だったか!)。小次郎好光は羽柴秀吉や有馬頼則からの誘いがあったが、 どちらにも付かず秀吉方の大軍勢を前にして、三木城落城前に渡瀬城に自ら城に火を放ち伊丹城の荒木村重を頼って落ち延びます。…が村重が織田信長に叛くと身の危険を察知して、好光の妹が嫁いだ本庄周防守宗正(京都北小路?)に潜み、三木城落城後の天正8年(1580)羽柴秀次に仕え有馬頼則の娘を妻に迎えています。天正10年(1582)山崎の合戦に功が有って3万石で 遠江国の横須賀城主(静岡県)となり、名を渡瀬左衛門佐重詮と称します。
南端最高所付近は4〜5mの段差で 帯曲輪状平坦地が廻る!

天正19年(1591)聚楽第留守居に秀次が就くと、加藤肥前・中村式部少輔・山内対馬等と小大名衆に付けられたが、文禄4年(1595)豊臣秀次が秀吉の怒りをかって高野山に追放され切腹を命ぜられると、重詮も下野国宇都宮で切腹し、領地は召し上げられ渡瀬家も絶えます。好光の子忠好は大阪城に入り秀頼に仕え慶長19年(1614)天王寺で戦死。その子忠宗は元和6年(1620)此処:祖先の地渡瀬に戻り帰農し子孫は続いたといわれます。
(兵庫の城ものがたり 兵庫県学校厚生会 を参照)

有安城   xxx山 150m    三木市吉川町有安字平須

美嚢川と吉川川の合流点を望む丘陵上にあって南側には三田方面と東条 ・加西・小野・姫路を結ぶ要衝・吉川街道が東西に走る県道17号線”渡瀬バイパス東”の三叉路から、美嚢川を挟んで南側には吉川高等学校のある渡瀬城が在り、 北側にも低丘陵の延びる山塊が見える。 其の丘陵上に渡瀬氏の支城となった有安城が有りました。城址の位置・城域については県の遺跡分布図に載っていなかった様で、
「渡瀬バイパス東」三叉路から有安城遠望

私の簡易地図にもPOINT表示はなかったが狭い山域なので稜線上を端から端まで歩くつもりで出掛けます。 登路は不明でしたが何時も此処からの帰路は 県道17号沿いに東条町へ抜け、西脇市から丹波市へ通じる丹波道への要衝監視の城だったようです。 丘陵の北山裾を中国自動車道が東西に走ります。その有安バス停先で有安古墳への道標が有ったのを思い出し、古墳訪問を兼ねて訪城してみます。墓地横を抜けてコミニュテイセンターへ向かう道らしいが、
有安城・北側の堀切と主曲輪

中国自動車道を北側に越える有安トンネル上の陸橋に向かいます。 此の中国自動車道トンネル上部が古墳にかかる為、此れを保存する為、 N.T.Pトンネル工法が採られ破壊されることなく残されています。墳土からは竪穴式円墳らしい。発掘調査済らしいが案内説明表示板等はなく、無く、周囲はフエンスで囲まれ”立入禁止”状態です。 此処から有安城へ尾根通しに・・と思っていたが中国自動車道の東方を見ると北側の住宅地から歩道橋が一本、 有安城側の丘陵に架かっているのが見えて一安心。 しかし陸橋を渡り切った途端に竹薮の中に入り込み夏場だったら大変そうですが既に城域に入っているようです。
有安城主曲輪・土塁側に石の祠

薮の中を道なりに進むと城域北端の堀切に出る。しかし左側(東)は急斜面ですが薮は薄く、歩きやすそうなので立木を利用して 稜上に出ると平坦な尾根上は、削平された細長い曲輪の様です。北端まで行ってみるが削平のあまい平坦地は切れて斜面を下っていくだけなので雑木薮を引き返し堀切から5m程の切岸を登って本郭部に着く。広い曲輪は小さな段差で曲輪を分けている様だが、その境界は雑木や下草の薮に埋まって曲輪の輪郭も見分けられません。此処には石の祠が祀られており、其の背後(堀切側)には低い土塁(70cm?程)が見られます。尾根筋が薮で分かり辛いが西方へ緩やかに下り気味に進むと3〜4m程の土橋付きの堀切が有る。
堀切上部の低土塁(祠の背後)

尾根の前後を堀切で遮断された長い主曲輪部は5〜6m程の切岸で囲まれ防御されている様子は、土橋付き堀切の北側に良く其の遺構が残ります。土橋付き堀切を西の曲輪に出ると一先ず、 薮から開放されます。横に拡がる平坦地の南側は雑木に遮られているが、展望が利けば本城の渡瀬城に呼応して美嚢川沿いに要衝の吉川道を望む位置です。草叢に五輪塔の残欠や台石、大きな墓碑か祠が建っていたのか30cm角程の石列が散在する箇所もある。北西端には参篭の堂と石燈篭・小さな社の祠が建つ。例年になく暮れの寒波で ・此の辺りにも珍しく降った雪を期待してか 4〜5人の子供が祠のある城跡に登ってきたが積雪も展望も期待出来ない。
主曲輪西面の土橋付き堀切

遊び場所として利用されるようで”渡瀬バイパス東”交差点からでも5分程で来れる近場だった。 再度・県道17号線を有安バス停に向かい、県道314号線を古川城へ向かったが実楽古墳に寄って 一枚写真を撮っただけでバッテリー切れとなり、ゴルフ場の為・遠望するだけで近づけないだろう古川城の訪城は諦めて此処で帰路についた。渡瀬氏は近江の佐々木源氏一族であるとされ、 佐々木源十郎義範が源頼朝から渡瀬郷を与えられた 鎌倉時代初期の文治元年(1185)来住して地名を姓としたといわれます。其の5代目渡瀬左衛門綱光が ”明徳の役”(明徳2年1391)に山名氏清の子:清重を討った功により2万石の領地を与えられ 渡瀬城を築いています。
古川城の模型 :西尾根から主郭部(吉川公民館)

天正6年に始まった三木合戦では別所氏の幕下だったが三木城落城以前の天正7年には好光自ら渡瀬城に火を放って、 伊丹城主:荒木村重を頼って逃れていますので、三木城や秀吉軍の動向を見ながら渡瀬城に籠もってどちらに付くとも動きを見せなかった頃から、既に有安城は放置され其のまま廃城となったようです。
(兵庫県中世城館・荘園遺跡調査報告書を参照)


荒川城   xxx山 150m 三木市吉川町上荒川168

R175号線の滝野社ICからは中国自動車道沿いに県道17号を直走る。「ひようご東条IC:道の駅とうじょう」から高速道を真横に見て峠へを越えて三木市吉川町に入ってくる。峠を下って直ぐ(R428と合流する渡瀬の三叉路に出る手前)、左折して北に向う県道314号を進むと吉川町では 最大山城だったといわれる古川城の裾を走る。
荒川城:西光寺への参道

一度は見ておきたかった古川城【井口備前守時重】へは県道沿いの公民館から谷沿い民家側から上部へ行きかけたが、ゴルフ場に出るだけで諦めた。城跡は発掘調査後・此のゴルフ場内に残されているというが加西市の満久城同様に目前に在って 訪ねる事の出来ない遺跡です・・・(^^ゞ 吉川の公民館1Fにショーケースに納められている 古川城のスケール模型で我慢するしか無さそうです。 古川城跡を右に見て北谷川沿いの県道314号を天津神社〜畑枝で東にとり舞鶴自動車道側へ向うと西光寺バス停がある。
荒川城:観音堂から西面の展望と 曲輪と西光寺


北側の民家と曲輪跡らしい段差のある数段の畑地の上方に西光寺(高野山真言宗)の堂宇が見えています。 県道を東に進めば西光寺と厄除八幡神社への参道口があり、 寺域の東へと低丘陵が続いています。寺下の広い削平段(耕作地)は家臣屋敷の跡だろうか!!。 参道を進むと本堂山門とは反対に丘陵側への階段が有り、高い切岸の平坦地が迫り出した上部には、 城主の持仏堂として建てられたという観音堂がある。
荒川城:西光寺南面

南西方面に遠望が効き竹藪 ・雑木が無ければ南下を通る県道筋の通行監視には充分すぎるほどに警備の睨みが利く。観音堂には横に石仏 ・五輪塔が祀られている。少し盛り上がった土塁状が荒川城の最高地点で尾根続きの末端部にあり櫓台跡の様です?。 此処からは少し下って緩やかな登り道が丘陵の高みに向うようですが、鞍部に堀切と土橋と思える遺構らしいものがあり?此処が城域の末端部と思えます。
観音堂から下る尾根先の鞍部には土橋と堀切?

寺域の西側にも広い平坦地が拡がるが削平は後世の開発によるものでしょうが南斜面の平坦地等・・・城域は三田市の広野と相野へ 二本の県道が丹波にも通じており摂津・東播磨の境界に位置して街道筋を足下にする高台に在る 荒川城は藤田氏本拠城:毘沙門城の北方警備の支城だったのでしょうか?城史や城遺構についての情報は「吉川町史」等では詳細が分かるのかも知れませんが、
観音堂裏手に櫓台状の土塁?


城史・城遺構の詳細は不詳ですが鎌倉時代から吉川の庄を領していた土豪:藤田氏一族の城砦群の 一つで、室町時代の末期には、三木城主別所氏の摩下に藤田澄之助・源三郎・与三兵衛等がいて、荒川城に拠っていたと云う。街道筋を渡瀬に向う県道314号線沿いの天津神社の北方の位置にある脇田城主:脇田小次郎と古川城主:井口備前守時重とは親交があったという。
西光寺西面:段差を持平坦地も曲輪跡か?

古川・脇田両城主が領有地横領等で小競り合いが有ったものか?・・・弘治年間(1555-57)井口氏が藤田氏の酒宴に招かれた帰路を、脇田氏が襲い丹波へ遁れたといい、井口氏の家臣が脇田城に攻め入り其の妻子一族を惨殺した伝承が残ります。今回・城探しで天津神社前を3度も通ったが脇田城の存在(位置)に気付かずに素通りしてしまった。
(吉川町史を参照)
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