小さな山城にも落城伝説が…!! 火燈山〜穴口山 穴口山城/曲り城/鳥山城
三田市 (五万図=三田)
湊川女子短大〜点名:上相野〜穴口山 〜城山 H16年01月04日

森本城(右手の低丘陵)遠望(森鼻居館から)

三田のお話 
穴口城と姫塚 松ノ坂の甚五郎きつね
近畿の山城 穴口山城 曲り城址(堀城)  赤松館
         鳥山城  森本城
三田の古墳:大歳谷古墳群1号墳

湊川女子短大〜点名:上相野〜穴口山〜城山(穴口山城)〜波田大師  2004.01.04

R176号線「四ツ辻」交差点を左折して JR相野駅に向うと北方 (右手)に連なる丘陵の小さな起伏を見て、その山裾に北攝三田福祉の里の各種施設の建物群が見えてきます。「アルカディアあいの病院」の介護老人保健施設の看板を過ぎると湊川相野学園・女子短大前でJR相野駅も直ぐ其処。三田福祉の里の裏山で、山容からも惹きつける魅力があるわけでもなく 一般ハイカーには対象外の低山で、知名度さらに無い藪山ながら、以前より走破してみたい山域でした。三角点峰でもないが道路地図にも山名が載る穴口山から南へ派生する枝尾根には穴口城と姫の落城秘話が伝えられ、
中の池から火燈(ひともし)山【点名:上相野】中央奥

この山並みに遮られて北側を流れ下る武庫川が極端な屈曲をみせる「曲り」の様相を上方から見てみたいと思っていました。此処に曲り城がありコの字を描いて大きく迂回する須磨田三山周辺にも、幾つかの城跡がありますが此の山域にある丸山城も 「四ツ辻」交差点から、そう遠くない距離にあり続けて訪ねてみようと思っていたところです。R176号線の波田山大師前を下り、波田橋の手前にある板碑の建つ所から取り付けると考えていましたが駐車場が無いことや周回コースを考えていたので四ツ辻を左折してR309号に入り住宅地から 湊川相野学園女子短大(AM9:25)の北に出て、谷通しに林道を進むと正六池に出て(AM9:40)6〜7分で二つ目の大きな中之池の未舗装の林道終点に着きます。藪の中の細い道は時に踏み外してしまいそうだが案外よく踏まれているのは松茸山なのか?。
火燈山(点名:上相野)山頂

10分程で尾根末端の平坦なピークを越すと 西下へ続く踏み跡があり此れを辿って三角点峰の上相野へも寄ってみます。稜上の踏み跡は分かり辛い箇所もありますが概ね点名上相野(火燈山3等三角点 308m AM10:10)迄続くます。上相野はその山頂位置の字名から 火燈(ひともし)山とも呼ばれているようです。山道から5m程藪の中に入った所に三角点石標が有るが周辺が刈り込まれ ・倒れた測量棒等が無ければ気付かない平坦地形で、愛宕社が祀られていたという。山麓の篠山市今田へ向かう道は丹波街道のR176号線藍本から県道75号線を播州・東条町へ抜け此処から小野・加古川方面や、三木市を経て神戸へと連絡する播磨・摂津・丹波の国境筋の間道ともなっており、火伏せの愛宕社を祀るとともに穴口山城からは見通せない間道を終夜火を燈して見張った烽火台・見張台が有った所なのかも知れないと考えてしまいます。
波田橋南詰めの板碑

さて愛宕参道だったと 思われる山道(踏み跡程度)は更に南方に下っていくが、穴口山へ向かうべく尾根を引き返します。中之池から山道と合流して北へ向かう道は直ぐに平坦な尾根筋に出て東からの明るい尾根筋の道と会う。北への直進は赤テープが巻かれ、 白テープや黄テープが短間隔で続くが藍本側へ下り始め虚空蔵山が見えるので間違いに気付き引き返します。東への水平道も黄テープが続く。明るい潅木の道は展望こそないが気持ちがいい。少し藪っぽい感じのところを抜けると「境界見出標」が有り境界杭・境界石標・赤ペンキの立木がある側から15m程先の高みに出ると明瞭な広い(とはいっても幅1m弱)道に出て、二人会の山名プレートが掛かる穴口山(320m AM11:00)に着いた。縦走予定は波田橋側だが、先ず目標の穴口城へ南の枝尾根をとるが、山道は福祉の里の東山裾端にある津田病院側へ下っていくようです。踏み跡薄くなった尾根筋に沿って進むと丹波街道(R176号)を行き交う車を眼下に見通す位置に有り、津田病院と側にある西安大池、対峙する須磨田山塊南端に位置する黒谷山(374m)との間を抜ける街道警備の見張り所か丸山城の支城・砦ではなかったかと思われます。
穴口山山頂

緩やかな稜上に城址を偲ばせる防備施設を見ないまま!!??城山 (Ca309 AM11:10〜35)の差ほど広くない平坦地に立った。穴口山城は言われてみないと気付かない程遺構に乏しい城だが、南に一段低く主郭に沿って幅の狭い犬走りか??帯曲輪が捲いている。東端部は段差を持った小曲輪が 僅かに城址を留めているようです。尾根の南側は露岩に囲まれた急斜面となり自然の要塞を呈している。西南方に下る道も自然の堀や土橋のような細い尾根を伴っての急斜面を下って「三田福祉の里」の中程、 赤い屋根の施設背後に出た(AM11:45)。再度引き返し津田病院側に下る道を分けて穴口山山頂(PM12:05)に戻ってからは明確な境内尾根を辿って波田橋南詰め・R176号線側に建つ、古い板碑の所へ降りてきた(PM12:20)。 途中期待していた「曲り」の様相は樹間のスリットを通して断片的に垣間見えるだけだった。




穴口山城 曲り城  赤松館鳥山城(井草城) 森本城

穴口山城  城山 309m 三田市東本庄勝谷字穴口

R176号線の四辻交差点からJR相野駅に向うと右手前方に見える 「アルカディアあいの病院」 (北攝三田福祉の里)介護老人保健施設の背に連なる小山があり、湊川短大裏山の火燈(ひともし)山<点名:上相野308mから穴口山320mを経て 国道筋の波田山大師へと延びています。その山塊のほぼ中間部・穴口山の東南に派生する尾根の城山山頂部に城主穴口佐兵衛尉の拠ったという 穴口山城がありました。
R176号から穴口山城の遠望


穴口姫の伝承に見るような戦いがあったとも思えない。 南麓の「北摂三田福祉の里」勝谷側の集落や田畑 ・池周辺に武家集団の屋敷跡を思わせる場所が多い!!ので伝説の「姫塚」が在る場所が城主の居館跡なのかも…!!?。R176号線の四辻から波田山大師の峠を越えて波田橋に至る丹波方面へ抜ける主要街道を眼下に見下ろす要衝に位置しているが、南北30m程の平坦地を残すだけの小規模な単郭式の 余りに小さな城は堀切・土塁や曲輪の段差も不明確で防備施設としての顕著な遺構は未だ確認されてはいません。
穴口城(本丸と東曲輪)

南面の山頂直下は岩場交じりの急斜面が続き、西側も傾斜が急で土橋の様な細い尾根筋や、竪堀・空掘りを形成する谷筋があって自然の要害になっているが、穴口山へ続く緩やかな尾根筋になんらの防御施設も 見当たらないので、丹波街道筋の見張所・砦と考えられます。本郭部の最高所の東に1段の狭い平坦地が有り、唯一城址らしい遺構が認められました。天正6年(1578)頃:織田信長の摂津・播磨平定の際・羽柴筑前守秀吉による 三田攻めで落城したと伝えられ、下記の穴口姫の落城悲話を伝えています。
【三田市史 参照】


曲り城(堀城)  180m  三田市藍本曲り字前ノ垣

三田盆地の最北部藍本は 摂津と丹波の境界ともなり、播磨へも通じる交通の要衝であることは虚空蔵山と藍岡山城にも記しましたが、 此処から武庫川に沿って南へ約1km地点に「曲り」の集落があります。R176号線の波田交差点から波田南交差点「波田橋」までの僅か500m程の間で、南下していた武庫川の流れが穴口山塊にぶち当たり極端に曲折して北上していくU字峡です。
虚空蔵山(右端)と曲り城(中央・居館跡)遠望

流れは岩倉・須磨田へと黒谷山・遠城寺山・茗荷谷山・天神岳の山裾を縫って大きくコの字を描いて流れ、千丈寺湖からの水を併せて再び南下して行きます。「曲り」区の田畑に囲まれた舌状の台地南端に、 曲り公民館と赤い小さな 鳥居が建つ稲荷神社があって”曲り”の自然の濠に囲まれた此処に30m四方の小規模な単郭の曲輪が残ります。周辺が圃場整備される以前は周囲に水濠を廻らせた方形館だったそうです。神社の西側に昭和橋 ・東には鉄筋に 簡易アスファルト舗装の歩道橋が架かっているが、舗装が剥がれ落ちた隙間から 白く濁った流れが見えます。僅か300m程の間にある二つの橋は武庫川が極端に屈曲しての流れが三方を堅固な水掘として取り囲む突端部に位置した自然の水濠に囲われた天然の要害となっています。
曲り城(単郭曲輪跡に建つ稲荷神社と公民館)

室町時代中期・此処の一角に応仁の乱の頃(1467〜)有馬氏の 被官人であったと考えられる城主堀相模守の居館がありました。昭和50年代に圃場整備されるまでは周囲に水濠を廻らせ2m程の段差を持った単郭の構居・曲り城(堀城)がありました。また大安橋を渡った武庫川対岸山裾の西南端屈曲部附近に守りの塚と呼ばれる城主と一族の墓があって、此処は「曲り城」詰めの砦となった様で 「守りの塚」の名には伝承があります。
鉄筋の古い歩道橋からは武庫川「曲り」の様子がわかります H15.06.22

民から慕われていた領主・堀相模守は「自分の死後 全ての財産を自分とともに墓に埋め、もし災害が起きて皆が苦しむ事があったら墓を掘り返して村を救え」と言い残して死んだ。 人々は遺言を守って遺骸とともに財宝を埋めたが、後に墓を掘り返そうとしたものは何れもひどい目に有ったそうです。「朝日受け夕日輝く ベラ木の下に 小判千枚縄千束…」 村人は印として植えたベラ=(ベロ :馬酔木)の木の下に眠る相模守の資財が村を守ってくれるとして「守りの塚」と呼んで子々孫々に伝えたといいます。 【三田市観光協会の現地案内板 及び三田市史 参照】


赤松館
  181m  三田市東山字下中

いくつかの民話や伝承の残る 「長坂」から井ノ草・東山の一帯は、その昔御狩場となっていて、射止めた獲物をもって此処・赤松家の広場でくつろぎ一服され、その跡が近年まで 赤松家に残っていたといわれます。 南北朝期には播磨・備前・美作に巨大な勢力を誇っていた播磨守護・赤松満祐は嘉吉元年(1441)嘉吉の乱【将軍足利義教を殺害する事件】により室町幕府の命で山名(宗全)持豊10万の軍勢に追われ 満祐は自害します。ところが、その追討軍には赤松満政も加わており軍功により 播磨三郡を受領して播磨守護となったが山名氏と対立して追われることとなった満政は文安元年(1444)頃、此の地(天満宮の東・東山八幡宮の赤松邸)に落ち延びて隠棲した。
赤松館 H15.10.11

この赤松館伝承の地の南東約 50m程先の宅地となっている丘陵上にはこの頃の城が有ったと 伝えられますので赤松館がその居館ともされます。 また赤松館の床下には地下室・地下壕が設けられ敵が何時攻めてきても兄弟のいる清水寺(加東郡社町)へ逃げられるようにと、東山八幡宮〜井ノ草天満宮・烏山城を通って穴口城(勝谷・四辻〜JR相野附近)附近を出口とする抜け穴が掘られたと 伝えられます。播磨三草城の合戦にも負けた満政は従兄弟の有馬持家を頼って落ちたが翌・文安2年(1445)山名軍に付いた丹波守護・細川勝元の参戦により 摂津・有馬での合戦に大敗し、持家により赤松満政親子は自刃させられます。JR広野駅を西に見てR176号線が長坂にさしかかると 相野川流域土地改良区の大きな石碑が車道脇にある大畑口のY字路があり、右手の細い登り坂を採って井ノ草へ向います。武庫川に架かる昭和橋を右岸に渡り坂を登ります。河川段丘に拡がる東山集落内に入り公民館前を西へ少し下ると 古色蒼然として茅葺き屋根の民家が 西側の東山八幡宮と隣接して建っています。長禄元年 (1457)に建築され547年の歴史を持つが 老朽化し随分と以前に地下室 ・地下道は落下して危険な状況となっていますが抜け道伝説を増長させます。
赤松館隣接の八幡宮(有鼻池)

また古文書に「南朝参戦記」「赤松城」「武術秘伝書」等が残され三田の歴史と赤松氏を語る重要な家柄でもありました。隣接の東山八幡宮は赤松氏の氏神で白旗城の鎮守神・八幡宮をこの地に移して産土神とされました。 また東山八幡宮境内裏手には満政の家臣・中村八郎が建立したといわれる嘉吉年間の銘がある満政供養碑が有り、今も赤松館の主が守り祀っておられます。後に播州三木城主・別所氏が織田軍(豊臣秀吉)に滅ぼされたとき別所氏の 累家一族等もこの地に隠れ、鉄砲や皿等を八幡宮に奉納しています。赤松館東側の畑地は別所屋敷と呼ばれており、赤松氏に従った別所氏や三木合戦での別所氏滅亡で累家一族や遺臣等が此処に移り住んでいたのでしょう。
【三田市史 参照】


鳥山城(井草城・猪ノ草城・中村城・烏城)
  Ca170m  三田市井ノ草字才千池尻

井ノ草天満宮は亀山天皇の弘長4年(1264)京都北野天満宮から分霊を勧進して創立されたとされ享禄2年 (1529)藍の庄の鳥山城主中村広忠入道信斎が社殿を修補し、社地新田を寄進して領内の守護神として崇敬しました。しかし永禄7年 (1564)藍岡山城主?・山崎左馬之介に攻められ討死しこの時の兵火で天満宮は消失し再建されますが、
井ノ草天満宮

天正6年(1578)羽柴筑前守秀吉が三木城の別所長治を攻める際、勝谷の穴口城主・穴口佐兵衛尉との戦いとなり、通りすがりの神社に火を放たれ又も焼失。穴口城は本庄地侍の意地を見せ城を打って出るが落城。上記穴口城と姫塚の伝説と重複するので省略しますが、宏忠の子孫・秀宗が村と協力して再見したが、大破したといわれ度重なる再建で寛文5年(1665)のものが現在の社となっています。御祭神は菅原道真公で除災・疾病・危難・学問の神様として祀られています。
鳥山城(中村邸)の内掘・西南角から

天満宮の直ぐ北東の田圃の先に通称 「屋敷」と呼ばれ鳥山城主中村広忠入道信斎の末裔とされている中村家があって此処が鳥山城と比定されています。石垣に沿って西側には約1.2m×30mの内堀の跡(水掘)が北側へと廻り残っている。(注)今までの三田の城やお話の中で鳥山城は烏山城とされているが、文献でも烏山城と呼ばれています。又城の歴史や城域等も不明な上、圃場整備で地形も変わっているようです。すぐ西側には通称「屋敷田」があり先端は3〜4mの崖状になっており、さらに西へ低い段差の台地は武庫川の流れに阻まれて正明寺橋を渡ります。
鳥山城の内掘・北西角から

島山城と井ノ草天満宮の西方約250m程から南へと廻り込む武庫川を天然の濠として取込んだ広大な平坦地形内に在り、 圃場整備により周辺は大きく改変されているが天満宮を挟む地区道(県道309号線本庄から井ノ草を抜けR176号長坂の中程に出る)から現 :中村家の西に屋敷田・南に門田の字名が残る圃場や、北と東の少し高い位置も城域に含まれるのかも知れない?。

鳥山城:東北角から(濠が廻っていたが?圃場整備で旧状は不明

正明寺は天正年間に明智光秀により焼き討ちされ同時に鳥山城も落城したとか、天正6年(1578)時の城主 ・中村信昭のとき三木攻めの秀吉に攻められ落城したとも伝わりますが、それ以前・永禄7年(1564)藍岡山城主・山崎左馬之介に攻められ城主は討死し落城したともいわれます。中村邸の東側の高みに車道を挟んで峯原山正明寺がありますが、 居館城とするなら此処の方が適地と思うのですが…正明寺の北方に井ノ草大池・東方の堤防上にも沢上ノ池・沢下ノ池があって、池を結ぶように小川が流れています。
【三田市史 参照】


森本城(愛宕山城)
  愛宕山 Ca230m  三田市東本庄東向字風呂ヶ谷

R176号線”四辻交差点”を左折して西に向かうと、穴口山城の在る山塊を望みながらJR相野駅に向かう。右折すると千丈寺湖(青野ダム)方面に向かう県道309号線。本荘小学校の東を南方のR176号長坂に出る地区道に出ると、東向公民館があり、目前の低丘陵の南端部・標高230mに森本城が在りました。 城山のように見える中山(4等三角点312m)から西に派生する尾根の先端ピークに位置して、

森本城:U郭(副郭)の愛宕社と土塁

山頂に愛宕社が祀られていることから愛宕山城とも呼ばれます。中山と304m峰の尾根中程から派生する城山との東側鞍部は低く、深い谷が入り込んでいて公民館附近から田圃を隔てて望む城山は半独立丘陵状で、森本城の北には武庫川を挟んで本庄丸山城が在る。
森本城U郭(愛宕社と土塁)

森本城への取付きを山頂にある愛宕社への参道と決めて探したが既にお参りする人も絶えたのか参道へ続くと思われる踏み跡さえ消えている様だが、取付きを間違えていたようで、初登城は小学校前から進み・南面の山際に畑地・空地の見える最初の民家側から、猛烈な薮の谷筋沿いに進み、主郭部の下方:南西へ延びる広いが緩斜面の西郭部に入ったが実は!!も少し先:
U郭南面の切岸を開く土橋付き空堀(埋もれかけているが!!)虎口?
(参道拡張整備により改修されたものか?)

地区道側に建つ蔵と長い黒塀の大きな旧家側から 墓地に向かう方が無難で城域へも楽に早く到達出来る。墓地側から貯水池横を抜け、 其の上の枯れ池(下の池に送水する為にだけ、わざわざ堤防端を崩して送水しており、 元は城の用水池だったのかも!!?)からは、比高7〜8mの斜面上部に西郭部が有り、緩斜面の先に愛宕社を祀る副郭(約15X10m)は切岸と 土橋付き空堀(主郭の北東まで延びる)を廻す。
森本城主郭・U郭を囲む横堀は土塁を挟んで二重に廻る

土橋を渡って平入り虎口(空堀土橋状に見え・虎口で有った可能性はあるが、愛宕社設営時の参道改修により削土されたものか!!?)を副郭に入ると愛宕社が祀られ曲輪の左右に低土塁 (愛宕社を祀るため削平された残土か!!?)・東北部の祠背後を大土塁(土塁の上部幅と高さは共に約2m)で囲っている。
森本城主郭の物見台状の土壇

其の先は堀切が副郭と主郭を分けるが、堀切も東面は空堀(横堀)となって主郭の北西まで廻込み、西面は大竪堀となって落ちる。 小さな城だが主郭部南面の横堀を廻し、東端部の竪堀を施し・切岸は高く・完全独立性を強めている。主郭内(約35X10m)の東北角には 物見の櫓台状土壇 (約:高さ1.5m・幅5〜6m)を遺す。主郭内に土塁を見ないが周囲の切岸は高く、尾根筋?の東側が7〜8mと一番高低差があって深い。
U郭・主郭間の大堀切北端の斜面(竪堀)

鞍部の北に竪堀が一条・更に尾根続きを堀切って城域を終える様です。此の堀切と横堀東下端には”武者隠し”とも思える小さな池状の窪地が 有る。東に緩衝帯の様な緩斜面へ続く様だが、地形図では:この先307m峰や三角点峰 316mへ尾根続きとはならない複雑な地形に、 城域が続くとも思えない?。愛宕社背後の土塁延長線上を挟んで、
主郭の切岸

内側は主郭南側の堀切まで 外側は愛宕社を祀る副郭南側・土橋付き堀切へと二本の横堀で囲い、此の城については城主や城史不明だが鳥山城(中村氏の居城)と戦って落城したともいわれ、山麓に塚を築いて武具や馬具を埋めたと伝えられます。伝承の場所を知らないが 森本某氏の居館跡でもあったか??。「中世城館・荘園遺跡」には本荘小学校東北の隣接地は多田源氏の”城屋敷”と称されており、これらの城館との関係の推察を示唆されている。
主郭東の切岸下:空堀か?土塁囲みの武者隠し!!?

外部勢力なら此の地を攻めた藍本・藍岡山城主・山崎左馬之介か三田に触手を伸ばし山崎氏を攻めた 荒木村重の向城となったか、それとも 目と鼻の先にある森鼻氏の本庄丸山城の支城だったのではなかったかと、素人の勝手な想像が今のところは許されそうな城主や城史も不明の山城です。宝塚北部から三田にかけても多田源氏源満仲に関する伝説が残る土地柄。
森本城U郭から主郭へ延びる横堀と土塁

北方僅か7〜800mの位置には三田市でも最大規模の本庄丸山城もあるが城遺構の残存状態は、遥かに森本城の方が(城域は約:東西80mX南北40m程と小規模ですが)良好で興味深いものがある。分けても主郭を囲む横堀の遺構を内神城 (中内神)の他に三田の城では未だ例を知りません…。

(三田市史:古代・中世資料 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 を参照)



大歳谷古墳群1号墳   三田市東本庄

R176号線沿いに流れる武庫川を渡って浪田地区に入ります。武庫川は須磨田三山を北裾から東へ廻り込み四ッ辻近くの井ノ草・長坂でR176号線付近に接近してJR広野付近で再び川筋を見ます。武庫川が流れを変える須磨田地区の東:大谷山の丘陵を挟んだ東側には 青野川が流れ込む千丈寺湖も近く、三田市内でも古墳群の密集地帯ですネ。浪田橋から峠を越えて坂を下り始めるとXX病院があり、四ツ辻交差点までの左手丘陵側に金型加工等会社の建物が見える。
石室開口部

一番奥・一番高い位置へ延びる車道先に「大歳谷古墳群2号墳(径10m・高さ1.5m)」が在る筈?だが、車道は工場敷地内に入って行き立入り禁止。工場内倉庫群の先が丘陵先端部だが、其の途中にも立入り禁止の虎ロープやポールが見える。 2号墳へは諦めて須磨田や下青野に向う県道309号線を約300m程・東本庄公会堂から真直ぐ北方向かうと先程の工場群の建つ丘陵から、
玄室:奥壁と三角持ち送りの様子

南方に突き出す尾根先が急斜面で田圃に其の先端を落としています。その先端部:南方に開口する横穴式石室の古墳があります。藪でなければ南側田圃傍からも見えそうだが、丘陵先端部を分ける尾根筋の北側を抜けて墓地や、金型工場内へ通じる小道に入り、比較的藪の薄い部分を伝って大歳谷一号墳に向かう。築造時期は古墳時代後期(6世紀末)とみられる径18m・高さ5mの円墳で、墳丘の南側へ廻ると・羨道部が外され封土が開口部に流れ込んでいますが、
玄室から羨道部

其れでも大きく石室が開口しているので楽に入室は出来ます。開口部外が崖状なので石室内への土砂の流入が少なかったのでしょう。土砂が比較的固まっているので古墳を訪れる人は少なくないようです。残されている玄室部分の玄室長約4m・幅1.8m・高さ約2.8mで左右の側壁からの”持ち送り”が見られます。


「穴口城と姫塚」

城の南麓には落城の際・自害した姫の霊を祀ったという「姫塚」が伝えられています。 南麓なら勝谷大池や戎神社・こぶし山公園付近と思えるが…??場所は知らない。
戦国時代、織田信長の近畿地方平定中の"三田攻め "によって天正6年 (1578)頃・羽柴(後の豊臣)秀吉が穴口城を望む「長坂(四辻交差点の約1.5km大阪寄り附近!!)」までやって来て小休止したのか「秀吉の槍立て松」の名が残っています。直ぐ目の前(北西)にある東本庄勝谷の穴口山城【城主・穴口佐兵衛尉】を攻めて来て小さな城を取り囲みます。此処に拠った城主:佐兵衛尉は石や丸太を落して戦いますが、 大軍を前にして敗れることは覚悟しています。
穴口城・本郭直下は自然の要害

うっかり攻められないと 秀吉は暫らく様子をみる事にします。秀吉得意の干殺し戦法(兵糧攻め)かと佐兵衛尉は姫を呼び寄せて「このままでは干殺しになってしまう。父は明朝・城を討って出て本庄侍の意地を見せてやる。お前は其れまでに城を出て落ち延びよ」と、 形見の小刀を胸に姫は明け方に城を抜け出し麓に辿り着くが、敵兵に見つけられてしまいました。必死に逃げたが遂に囲まれてしまった姫は「此れが最後!!本庄乙女の意地をしっかりと見やれ」と言い、父の形見となった小刀で自害して果てます。 後に穴口氏の子孫によって此処に「姫塚」として懇ろに祀られるようになりました。
(三田のおはなし を参照)


松ノ坂の甚五郎きつね

R176号線の四ッ辻から西へはJR相野へ至り西北の老人養護施設の背後の丘稜には穴口山城がありました。東へは井ノ草や東本庄、国道を北へは峠を越えると JR藍本駅も近く藍岡山城の低い小丘が見えます。南へは直ぐ、長坂と呼ばれる緩やかな傾斜が続いてJR広野駅附近へ下って武庫川と合流します。此の長坂には幾つかの民話・伝承が残りますが、長坂から井ノ草の鳥山城等へも 寄ってきたので 関連地域の三田の民話をひとつ紹介しておきます。
森本城遠望(東向公民館附近から)

むかし、長坂の松ノ坂に「甚五郎」という雄狐が居り、井ノ草の城が谷に 「おさよ」、四ツ辻の千本に「こじろ」という雌狐が住んでいた。周辺の山々には多くの狐が住みついており、年に一度・稲荷大祭の夜、 松ノ坂で化け比べ大会を行っていました。「おさよ」と「こじろ」は、年々腕を上げたが、どちらも長坂の甚五郎に心を寄せており、反目するようになっていたので甚五郎は胸を痛め、どうしたら仲直りさせられるだろうと 考えていましたが、互いに相手の腕前を褒め合って仲直りさせる事が出来たという。 私の息子にも嫌味や文句を言わず、もっともっと褒めてやっていれば…と改悟の念で一杯です。
(三田のおはなし を参照)
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