中口山・ササバ・西光寺山/平石・猿藪・高山/虚空蔵山・八王子山 藍岡山城 |
ササバ〜中口山と同じく県道36号(西脇篠山線)黒石ダム近くの濫觴公園のある比述峠です(AM7:10)駐車場からピンクテープ (工事用か調査用!)を登山口として辿る。
少し西脇方面に車道を下ると見える「ここが源流…」ポスターからの道が正解かも!しれません。いずれはすぐに藪っぽくなり尾根通しには倒木と雑木で通過しづらくなるので 西側を巻くように測量用?の切り開きがある脇道を利用します。平石への枝尾根から主稜線?に出ると左手すぐ上10mは展望の岩場で白鬚岳〜尖山は目前に横たわっている。
右へすぐ100m程で4等三角点平石です。
首切地蔵・高山登山口から高山と猿藪?
(AM7:30)先の分岐点へ引き返します。これから先、益々混迷のルートとなりますが藪こぎにはなりません。踏み跡さえ無く余り北側の谷筋へ下りないよう注意・目標を定めて鞍部へ下降です。
やがて踏み跡らしきものが現れ、 これより先は展望も開け大きな岩場も現れ比較的高低差の少ない道が続きます。広く明るい尾根上となりますが、これからが難題の猿藪への急登です。岩場歩きに慣れていないと、特に猿藪から平石方面に下降
(そんな人いるかな)する場合は苦労させられそうですョ。手掛かりの岩は崩れやすく足場は浮石が多いので注意です。登りつめれば其処が狭い山頂・猿藪(AM8:15)です。
他に目立つ高い山は無いのでわかります。
!ここよりは、突然道が良くなり平石〜猿藪間コースが嘘のような快適な?登山道となります。この道は山南町の首切り地蔵からの道と合流して高山に続きます。思ったとおり大柿氏の赤布が現れ大呂峠へと続く様です。
道が良すぎてあっという間に高山山頂(4等三角点660m)で休憩する腰掛岩もあります。南面が開けて目前に尖山〜西寺山・和田寺山・中口山
と篠山側の山々/虚空蔵山・大船山・羽束山等三田〜北攝の山も遠望できます。
大呂峠より鹿避けネットにそっての直進は 20分程で先のピークに着くが、その先は踏跡もなし、少し手前から北へ伸びる下降尾根は目前の門柳山へ縦走可能だが藪は覚悟のこと。
大呂峠には地蔵尊が祠られており奥谷川…と彫られている。北へ下る峠道は10分位で林道に出て山南町の首切り地蔵尊へと続きます。逆コースの場合は入り口の関電の標識No73〜と1.5m幅の広い小道が目印になります。
途中にあるNo73は鉄塔への巡視路ですからそのまま広い道を辿って大呂峠です。峠より左折して住吉町側への下降ではすぐにネットに絡んだ頚椎と頭部に少し皮を残しただけの哀れな鹿の姿は胴など他に何も残していない。
お蔭で普通だと道を塞いでいるのですが跨がなくても通れます。県道36号(西脇篠山線)住吉町の住吉神社脇へ出てきて、いつもの長い車道歩きで濫觴公園まで戻ります。
西光寺の金鶏伝説 !!
大化年間に法道仙人開基と伝えられる
金鶏山・西光寺は寛永年間 (〜1626)頃まで山上にあったといわれます。西脇市側のコグリ岩付近の様子からも、此処が修験道の山として盛んであったことが伺え「法螺ヶ岳」の古名もあります。 山頂には奥の院と書かれた祠が祀られています(H12.03登頂時には真新しい祠になっていました)。山号が示すように、ここにも金鶏伝説があり、地元では正月が明けると、
暗闇の西光寺山の何処かで金の鶏が四方に金色の光りを放つといい伝えられています。勿論まだそれを見た人はいません。むかし・山上にお寺があった頃のお話です。
諸国を廻って修行を積んだ上人は、
麓の村人達の病気を直したり作物の作り方を教えたり、ありがたい説法をしていましたので上人の徳を慕っていました。上人は粗末な庵に住んでいましたが、目立つ立派な木箱が置いてあり毎朝その木箱に
お祈りしているので村人は不思議に思い上人に尋ねますと「この中には村が飢饉になったり、疫病に襲われたりした大事の折の村を救ってくれるものが入っている。この中を見るときっと悪い心を起すものが出てくるので
決して開けてはならぬ」と言います。見るなと言われれば見たくなるもの。上人が留守の間に村人が木箱の蓋を開けると、中には金の鶏が眩い光りを放っています。この話は村人が村人へと伝わり、
その話を聞いた旅人がある夜、庵に忍び込んでそっと木箱に手をかけると突然昼をもあざむく稲光と雷鳴が轟いて旅人は深い谷間に転がり落ちてしまいました。しかし上人は何事もなかったように寝入っています。
このことがあった数日後、上人は山から下りて村人に「私がしてはいけないと言ったのに背いたものがあった。私は此処を去って修行の旅に出るが木箱はここに残していく。皆が力を合わせ一生懸命働けばきっと木箱が
役に立つ時が来るであろう」そういって何処へとも無く去っていきました。<お上人様とは法道仙人だったのでしょうか!>それから後、この山の上には立派なお寺が建立され
金の鶏の話が人から人へと伝わって金鶏山西方寺と名付けられました。
W酒滴岩〜虚空蔵堂〜丹波岩・虚空蔵山〜八王寺山〜点名:草野〜417m峰〜草野 H15.05.17
香下の羽束山と共に毎年・山頂で御来光を拝する新春登山会が催され、三田市民にとって親しまれる虚空蔵山へはJR藍本駅より酒滴
(さかたれ)神社前を通り、舞鶴自動車道附近の"中ノ池"へ向かう虚空蔵堂への表参道コース・また反対に駅の北方にも取付点に案内標のある裏参道コースがあり
今回は両コースの中程にある酒滴岩から虚空蔵寺に至るコースです。なを篠山市側からは今田陶の郷の陶芸会館からも整備された登山道があり山頂経由で周回出来ます。丹波側・草野の舞鶴自動車道下に稲荷社(AM8:40)があり此処から
R176号「丹波の森街道」武庫川に架かる細田橋を渡ると三田市・篠山市の境界で、攝津の国に入り日出坂峠下って来ると 国道と武庫川に挟まれた田園風景の中に取り残されたような丘稜が有ります。目立つ麦藁屋根(茅葺だったか?)民家の背後の丸い丘が その名も
藍丸山砦です。
今田町:陶芸美術館・陶の里(右奥)背後の虚空蔵山
国道から街道筋の面影を僅かに遺す松並木の参道を兵庫県下最古の石の鳥居・酒滴神社を経て郵便局の分岐から真っ直ぐ舞鶴自動車道下へ向かう虚空蔵堂への表参道へ向かいます。左手(西南に見える森が
藍丸山城(藍岡山城)なので此処へも寄ります。このまま表参道を採って石舟を見て虚空蔵堂へ向かってもよいが、やはり展望の酒垂岩が魅力で酒滴神社へ引き返し
JR藍本駅手前左手に宅地跡の空地があって(AM10:00)その先・竹藪に続く山道が奥へと延びています。山道に入ってすぐ右上へと山に向かう分岐は「愛宕山」と彫られた石灯籠と祠の前に出ます。右手を背後の雑木林は傾斜を増して
酒垂(滴)岩と呼ばれる大岩の下に着きます。正面の大岩の壁面には主の居なくなった四角に掘り切られた 岩屋だけが残されています。此処に伝説の"岩山大明神"が祀られていたのでしょう!!。 左右に拡がる岩場の何処に霊水「酒清水」があったか見当もつかないが
下戸でも飲んで見たい清水ですね。
藍丸山砦付近から虚空蔵山
此処は登り易さと展望を得る為、左手の岩上部に出ると一気に展望が拡がる(AM10:15)。正面R176号に見える坂道の下で武庫川を渡るが、此処は武庫川の流れが極端に屈曲する「曲り」と呼ばれる地点にあり、
穴口山や焼山・須磨田三山等々、摂津三田の山の展望が素晴らしい。岩場の最上部から北方向へ蜘蛛の巣に悩まされながらも
明確な踏み跡を辿り「山」刻印の石柱と 営林局の境界見出標があるが、まだ暫らくは登りが続き小ピークに出る。「日本道路公団基準点標」の埋まるところが359mピークなんでしょうか!! 此処から下り道となり藍本駅北からの裏参道と合流し関電巡視路No44・No455の分岐点でもある三叉路 (AM10:33)を左上に進み、
次の巡視路分岐は右下に採って 谷筋に渡された危なっかしい丸木を渡って、表参道に合流する階段の途中の導標前に出る。 石段を登り切った虚空蔵堂
(AM10:45)右手の境内端に今は昔・七堂伽藍を完備した名刹岩辻山虚空蔵寺の栄華を留める為か再現されたらしい"鯱・鬼の棟瓦"が残されていました!!。
酒滴岩から「曲り」附近を望む
本堂からは今田・陶の郷(すえのさと)へ下れるが此処は人気の虚空蔵山への登山道を進みます。
急斜面の登りも役行者像の側を抜けると直ぐに"陶の郷"からの階段 登山ルートと合流すると日本六古窯のひとつ立杭に似つかわしく!!陶板の道標が迎えてくれます。露岩の尾根は直ぐに丹波岩へ、空蔵山山頂も直ぐ其処です。
四斗谷川に沿った今田の集落と田畑が拡がる。この平野を寿永4年(元暦2 1184)一万余りの軍兵を 引き連れた源義経は、平家を一ノ谷に攻めようと京都を発って、
丹波路から播磨の三草山に向かって駆け抜けていきます…このとき三草山(社町)に平家を破った三草山合戦はよく知られるところですね。虚空蔵山からは以前3等三角点・草野から「オロ峠」に出るつもりで縦走したが藪の399mピークを越せず
目的完遂寸前で鞍部に引き返し小野原の南・休場(やすんば)集落に降りたことがあり、
義経が疲れた兵を一時休ませた「休場」だったのでしょう!!。虚空蔵山登山のビックプレゼントが此処・丹波岩(AM11:05)からの展望です。
虚空蔵山北の露岩より八王子山遠景は西寺山〜尖山・白髪〜松尾山
霞む播磨灘方面には
清水寺・西光寺山から
三草山、北に和田寺山・西寺山〜尖山・白髪〜松尾や
多紀アルプスの連山、東に弥十郎ヶ岳・
千丈寺山・大船山・羽束山・
有馬富士、大野山等北摂の山々や三田ニュータウンから六甲の山並みへと眺望絶佳の展望台です。
手近で人気の山は千客万来なので早々に場所明渡して虚空蔵山頂(592m)へ移動。方位展望案内板やベンチはあるが此処もご同様。そのまま北への縦走尾根を辿り「陶の郷1.5km」の分岐鞍部(AM11:15)に着く。
此処にも陶板の標識が建ち、関電巡視路No.13の標もあり古い「オロ峠 」を示す板の標識も健在!!に残されています。さて此処からは丹波の里山に戻るが巡視路の為、
快適な細い岩雑じりの尾根筋は舞鶴自動車道と並行しているので常時響いている車騒が煩わしい。
…が右手に現れる露岩展望台からの景色が素晴らしく、向かう八王寺山〜山上山への 山並みの奥には松尾〜白髪の美しい山容と、鋭く突き上げる尖り山の鋭鋒が望めて小気味良い。
石造の第一鳥居(県指定酒垂神社参道)
八王子山を前方に見ながら降り立った鞍部の送電線鉄塔No.14には「この先未整備歩行注意」の標示板と、
ちいさなプレートが【→JR草野 ↑草野(オロ峠)】を示す分岐がある。山腹を捲く様に下って行く道は送電線巡視路で417mピークへ通じ、途中から東へ八王寺池から草野駅に出る林道もあるようです。
尾根筋を直進する(オロ峠)への藪っぽい雑木の道は二つのピークを通過して行きます。展望の無い540mピーク八王寺山は何時の間にか通り過ぎて急斜面を下り始めます。
以前は振り返ると虚空蔵山がはっきり望めたが今は尾根の先辺りから樹木の隙間に僅かにその姿を認めます。北に向って痩尾根を辿り3等三角点・点名:草野 (496m AM11:45)に着く。此処も以前は、
もっと広くて 小石の散乱する台地で、虚空蔵山からの潅木と雑木の縦走では唯一ホッと落ち着いて休める場所でしたが、
僅かに切り開かれた低い雑木に囲まれた狭い一通過点です。藪に隠れるように北に進む踏み跡を追うと、木枝を頼りの急な下降が続き 緩やかになってくると尾根は左右に分かれます(AM11:55)。
P416m附近の露岩尾根より三角点・草野と八王子山
右よりに直進する道は 399mの藪山を抜ければオロ峠ですが、
前回この藪山を抜けられず引き返して谷筋を今田の休場へ下った分岐です。右手の木枝にテープが有り「417ピークを経て油井」だが417mピークから草野へ間違って降ってしまった私には折角の標示も意味を成さず…低い山なのに、
こんなに降ったら標高が…(^^;!!と心配になるほど下がった頃前方に送電線17鉄塔が見えてきます。展望も良くなり稜上の露岩からは、今通り過ぎてきた三角点峰と八王子山が峰を並べて見えます。
東に海見山が迫って太平三山(中尾ノ峰・ 愛宕山・三国山)へと延びていきます。この岩場を降り立ったところが 17鉄塔のある鞍部で、八王子山から山裾を捲いて 此処まで巡視路が通じているので
逆走の場合で尾根ルートを辿る場合は 要注意箇所です。尾根を東へ少し登り返せば
417mピーク(PM12:05)です。虚空蔵山から八王子山の二つの峰を経て三角点峰へと緑のピークを連ねる稜線が素晴らしい。
P417mから虚空蔵山・八王子山・540m 三角点Pの草野
北方の山上山へ向かい油井へ降りて、そのまま油井城へ登ってみる当初の計画は此処でオフコースしてしまいます。どうやらピークの手前から左手に下っていく
巡視路が山上山へ向かうコースだったようですが417ピークへ着くと東へ踏み跡があるのでそのまま直進したのが大間違。しばらく踏み跡を辿って行くと、下方で犬の鳴き声や民家も見えたようなので!!?構わず
踏み跡も消えた急な斜面を降って八王子池からの林道に出て草野稲荷社(PM12:20)を通り草野駅前に出て来た。集落を山沿いを道なりに進んでJRガードを過ぎるとドンピシヤ、R176号の舞鶴自動車道下
・稲荷社の駐車位置に戻り着き(PM12:35)あらためて次の予定油井城に向かいます。
酒滴(垂)神社と酒垂岩
此処・藍本(藍本庄)は藤原鎌足が本庄の沃地に藍を栽培した事から名付けられ、
藍の西区には藤原鎌足の円形古墳が明治32年まであって刀剣等貴重品が 出土したといわれます。
R176号線沿いの馬場先(田圃のなか )にある石造の第一鳥居は 県下でも最古の在銘鳥居・応永2年(1395)丸部貞国が寄進造立したもので県指定文化財になっています。真っ直ぐ延びる旧参道を
通って第二鳥居U着き狛犬に見守られて随身門(潜り門)、石段を登って本殿前に出ます。
酒垂神社
もとは
日出坂附近にあった神社で本殿は享保12年(1727)三田藩主・九鬼隆抵により再建されたもので、文化8年(1811)在地の下垣内市佐衛門が奉納した算法額の写しが掛かります。本物は収蔵されて三田市指定文化財となっています。
平安時代・貞観年間(859〜877)疫病が蔓延して人々がその災に苦しんでいた時、一童子の「我は素盞鳴尊スサノオノミコトである。今天下悪疫流行を救うために神酒を与えて邪気を払うであろう。
汝等速やかに岩山に登れ、香気高い滴る水を飲んでその災難を救え」との神託を得て人々は岩辻山という、その山の頂上に登ってみると巨岩が露出しており、天然の霊 窟からは香気高い酒が流れ出ていたので、喜んで此れを飲むと病気は忽ちにして治まったといい、酒垂岩とも呼ばれた此処に神まつりをし、
岩山大明神として崇拝した事に始まったといわれます。
随身門に掛かる算法額
(市指定)
…神酒が流れ出たと伝える大きな渦の跡が岩に残っている。室町期・足利義持の時も疫病があり「酒滴」のことを聞かれ、早速取り寄せられました。
御蔭で熱病も癒えて元気になった将軍は、石の鳥居を三つも神社に建てられたといわれます。…妊婦が飲むと、親子とも病い知らずになるとも言われているこの霊水は「酒清水」と呼ばれ寛永年間(1624〜1644)
伊丹の酒造家・雑喉屋文右ヱ門が神社に参拝の折、霊水を持ち帰り元水に使用したところ、大変良質の酒が出来たので毎年酒垂の水を元水に使用した。今も社の裏には「水滴口」が保存されています。
(三田のはなし 参照)
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虚空蔵堂
丹波路の主要街道にあって藍新町宿場として栄えた門前通りから酒滴神社を経て裏山の虚空蔵山へハイキングコースが通じていますが、中腹に有る虚空蔵寺は昔・山号を岩辻山といい七ヶ寺の社坊
・伽藍を完備した名刹でした。聖徳太子が鏑射寺(北区道場)に滞在のおり、寺より西北にあたる霊峰・正法山の山腹に
虚空蔵寺を建立された。山形県の虚空院・京都嵐山の法輪寺と此処が日本三体虚空蔵といわれます。
縁結びの神様として知られ春の大祭(4月13日)には13才になった娘子を連れての参詣「十三参り」は、此処に参って守り札を受けなければ嫁入り出来ないという風習が伝わり明治初期まで賑わっていました。
虚空蔵堂
天正7年(1579)明智光秀の"丹波攻め"の時、
兵火に焼かれ焼亡したが幸い御本尊虚空蔵菩薩像は難を逃れ、三村但馬守等により再び伽藍は復興したが豊臣時代には寺領を没収され衰退、明治の廃仏毀釈により僅かに仏閣を留めるだけとなっていたが、
舞鶴自動車道工事を機に本堂だけはと大改築されました。
(本堂前の案内板等参照)
藍岡山城
藍丸山砦
藍岡山城(築山城・藍丸山城)
xxx 211m 三田市藍本字城山
三田市の最北部・JR藍本駅から酒垂神社を経て虚空蔵山へと舞鶴自動車道側に向かって虚空蔵山登山コースを歩き出す道すがら、集落と耕作地に囲まれた西方に小さな雑木の丘が目に付きます。
近くを武庫川に沿ってはR176号線が大阪・三田を丹波篠山へ抜け、県道75号線が播州・東条町へ抜けています。此処から小野・加古川方面や、三木市を経て神戸へ又北へは141号線の日出坂は摂津と丹波国境の要衝で、山裾の藍本庄は宿場として繁栄し 旅籠が軒を並べていたといわれます。今田へ出て西脇市や丹波氷上郡へも近い国境の要衝にあたる藍本は中世期以降宿駅となったところです。
その分岐にある藍岡山城は比高25m程の丘稜の最高所に主郭を置き尾根続きの西側鞍部を一本の空堀と竪堀で遮断しています。
藍岡山城(虚空蔵山登山・森本川沿い中の池ルートから)
本郭部の南側切岸と曲輪西側に低い土塁?見られ、南側から東へ続く腰曲輪等数段ある他の部分は曲輪間の削平もあまく、
切岸も不明確で判然としないまま城域端の耕作地に出てしまう。要害とも思えず当初は鎌倉時代(1192-1333)藍荘の荘官の居館と考えられ、城域の北裾は水濠を偲ばせる小川が取巻く様に流れている。
嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺した嘉吉の乱に加わった赤松一族の赤松教康が自刃し其の子・千童丸が伊勢に逃れ、成長して後この地に城を築き藍氏を名乗り初代城主・赤松(藍)伊勢守康則が藍姓を名乗り二代目
・加賀守と続くが天正7年(1579)三代目城主藍出雲守房清のとき、有岡城主(伊丹市)荒木村重が
三田方面にも勢力を拡げて此処へも攻めて来ます。出雲守は赤松氏の血をひく武勇の将、寄せ手の村重も歴戦のつわもだが、要所を要所をしっかり守っていてよく防ぎ城はなかなか落ちません。
西端の堀切と竪堀(西部と北部を分ける土塁状の高みから)
多くの城を落としてきた勢いに乗る村重軍は大勢、清軍の城兵は少数で毎日の戦いに疲れ、
一人また一人と討たれて益々少なくなります。多勢に無勢、次第に攻め立てられ落城も目前に迫ってくるようです。出雲守は良いことを思いつきます「藍の殿さん」!!。
落城後は廃城となったようです。藍氏は後(本庄丸山城を参照)森鼻氏を名乗る様です。城跡の立地位置や規模から見ても戦国期の戦闘で
其れほどの激戦があった処だとは信じられませんが・・永録年間(1558-70)三田の風雲児山崎左馬之助恒政(藍本の岡山城主!!?)を此処・藍岡山城主とみる説もあるようです。左馬之助は
烏山城・青野城・
城ヶ岡城(東野上城)を攻め落として 三田地方を領有し八景ヶ岡(城ヶ岡)に立石城
を築いたとされています。
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藍丸山砦(丸山城)
三田市藍本(日出坂)字丸山
JR藍本駅前から北へ向かい左上方に舞鶴自動車道を見ながら加東市東条町へ抜ける県道75号線を走り、
JR篠山線のガードを抜けるとR176号線に合流。正面東南方向の田圃の中に岡が見えるが一番手前の小さな丸みのある独立丘陵に寄ってみます。麓に建つ麦藁屋根(茅葺だったかな?)の民家が有るだけで 周辺に独特の雰囲気が漂っています。此処が日出坂で舞鶴自動車道の走る旧峠は辿れないが、
大きく弧を描いて丹波篠山と摂津三田・大阪への国境ともなる交通の要衝です。
藍丸山砦遠望
「丹波出るときゃ涙で出たか藍の日出坂唄で越す」灘や御影へ向った酒造りの蔵人が通った主要道の一つでもありました。東に流れる武庫川に挟まれた平野に拡がる田園の中央部に低い丘陵が延びています。
その一番北端の独立丘陵上に藍丸山砦があって藍帯刀が拠ったといわれます。藍岡山城の出城・砦として機能していたと思われるが城史・伝承はなく遺構も判然とはしない。東西は急峻な崖となり、
北東側からの参道(階段)を登ると山頂部の平坦地に弁財天を祀る社があり南端に土塁跡、西側に腰曲輪を思わせる平坦な場所も見受けられます。この丸山山頂に祀られた弁財天の社と丁子源蔵の石碑は国道176号線建設に伴い
明治28年(1895)此処に移転されたものですが、元は「丹波の森街道」三田市・篠山市の境界の細田橋から武庫川が大きく蛇行して丸山の麓を流れる処に丁子渕と呼ばれる場所があり、
幾度となく洪水に悩まされた村人が水の神様として弁財天をお祀りしたものですが丁子源蔵の話が伝わります。落ち武者・丁子(てこ)源蔵は藍に来て武を誇り、
村づくりにも力を注ぎ村人に慕われていました。其処へ弁がたち威勢のよい、もと今田城主の三村但馬守が播磨清水寺の戦いで油井の酒井氏に敗れ、藍本庄に来て三村と名乗り土着・帰農しました。源蔵は前から藍本に宿場町をつくろうと考えていたので 三村氏の力を借りようと相談をもちかけます。
藍丸山砦(弁財天の祠)
藍新町を設け宿を造り馬を置くようにしたが話は上手く続かず、
村を良くしたい一心だが意見も合わず何かと反目しあっていた。やがて村人は一人、また一人と三村氏についていき、源蔵は心落ち着く事無く今まで自分を支えていた糸も切れ、力尽きふらふらと武庫川の大きな渕に立ち身を投げます。
以来「丁子渕(てこぶち)・源蔵渕」と呼ぶようになったという…そのことがあって後、この地方に流行り病が広がり、日照りと大雨と次々と悪い事が起き「源蔵さんの怨念がたたっているのでは」と噂しあい、三村氏の耳にも入ります。
三村氏は村人と一緒になって源蔵が身を投げた渕の側に 石碑を建て懇ろに菩提を弔いました。流行病も天候不順もなくなって藍本はもとの平和に戻ります。三村氏は源蔵の分まで村おこしや藍新町の栄えるよう力を注いだそうです。
「藍の殿さん」
有岡城主(伊丹市)荒木村重に攻められた穴口山城の三代目城主・藍出雲守房清は家来達に竹の皮を集めさせ、藁人形を作りそれに竹の皮を着せて塀の周りに立て、余った竹の皮は城の斜面一面に敷き詰め、
頃を見計らって一斉に「ワアワア」とときの声をあげて 矢や鉄砲を四方八方へ射掛けます。寄せては「それ、城兵が討って出た。
今のうちに討ち取れ」と攻めかかりますが城の下まで来ると竹の皮が敷いてあるので、足をとられツルツル滑って思うように動けません。城兵と思っていたのは竹の皮の人形です。「城兵は残り少ない、攻め込め・攻め込め」「滑って進めないとは
…バカモン!!それなら竹の皮に火を点けろ」村重の軍は一斉に火を点け、
藍岡山城
(主郭切岸と西端の堀切以外遺構は判然としない!!)
火は見る間に風に煽られてゴーゴーと燃え、炎は天を焦がし煙は城と空をつつみます。城は呆気なく落ち、
城を守ろうと一計をめぐらしたが逆に敵に計られてしまいました。藍岡山城の出雲守だけではなく、同じ三田の青野城・青野貞政はじめ結構同じ作戦を実行し、しかも同じ手で失敗し落城の道を辿った例は多いですね。
何がって!…??? 竹の皮戦略で火をつけられ落城の憂き目にあって、なお且つ、ありがたくない言葉まで…このことから・何かへまをしたり、頓馬なことを言うと「お前は藍の殿さんかえ」と言い返して茶化されますよ。
(郷土の城ものがたり 丹有編 兵庫県学校厚生会 を参照)
姥(うば)が谷の水
JR藍本駅や虚空蔵堂前の案内板には三田の民話「うばが谷の水」の話が添えられています。姥ヶ谷が何処なのか不詳だが全国に残る飢餓や厳しい年貢の摂り立てに苦しむ農民の悲哀を伝える「姥捨て伝説」が三田にも残されています。
自分一人でも食い扶持が減れば家族が助かるだろうと、年寄りが身を捨てる場所として「うばが谷」へ向かうが、お婆さんの心を察して後を追いかけ連れ戻そうとする息子に「親の最後・ただ一つの頼みが聞けんのか」と言われ、
仕方なくお婆さんを背負って山に向かいます。息子が帰り道に迷わないようにとお婆さんは目印に木の枝を折ってゆきます。「うばが谷の清水」で別れの盃を交わしますが"どうして・この母を置いて帰れようか"と母を抱き、
我が家へ連れ帰ったという話です…
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