加西アルプス 善防山(善防城)〜笠松山〜熊野権現堂
東播磨 (五万図=北条)
善防山251m〜笠松山 244m〜権現堂  2002年12月23日

近畿の山城 善防城(善防山城・善防師城) 牛居構居
善防山から笠松山(中央)へとミニアルプスの展望

播磨には低山ながら露岩の稜線が続き、ミニ・アルプスを形成して標高の低さを感じさせない雄大な景色と周辺の展望を楽しませてくれる山があり、惣山・紅山が代表する 小野アルプス播磨アルプス・ 高御位山も人気だが善防山から笠松山への縦走も標高の低さからガイドブックには余り紹介されていないだけに 新鮮な喜びや感動があるかもしれない加西アルプス。ガイドの案内地図に寄らず自分の目で見・足で確かめ実感してください。山肌を削り取られた荒々しい姿の岩場が目立ち、今も特産の
長石(おさいし)が切出されている古くからの石文化が支えた加西の象徴!!は北条の五百羅漢や日本最古の石仏(白鳳時代・国の重要文化財)がある 古法華で代表されるでしょう。善防山と笠松山中間にある古法華寺には駐車場もあるので,此処から時間と体調に合わせて往復するのもいいですね。


善防山251m〜古法華〜笠松山〜権現堂 2002年12月23日

今回も善防池側から古法華公園駐車場に入ります(AM8:50)。 直ぐ上方には 深い岩の切通しがあって急斜な坂を古法華寺に行ける。切通し道の岩上に吊り橋が懸かっている。 縦走のため一旦81号に戻り善防中学校前〜公民館前を経由して下里小学校を目指します。小学校手前のバス停・下里農協前から入る未舗装の細い林道の方が登山の取付き点としては分かり易いと思います。
古法華自然公園側(2013.4.16)のダム湖から笠松山西方の山?

バス停・下里農協前 (AM9:00)横からは小さな池端を過ぎ林の中を抜け出て下里小学校からの山道と合流します。岩が風化し深い溝状になった道も直ぐ表面に凹凸が目立つ流紋岩で覆われる岩稜が続く快適な東尾根の肩に出る(AM9:12)。 150m余りの低山ですが此処からの展望は良く、点々と溜池群を見せる播磨平野が拡がり青野ヶ原の 自衛隊演習場や西脇市の 五峰山方面や 福崎市の鎌倉山辺りには白い雲がなびくように低く長く霧が山裾に纏わり付いています。東尾根の肩からは岩稜が鋭く立ちはだかり前山に突き上げ、その奥に善防山本峰が覗いています。
東尾根の肩から善防山(第二頂上の尖峰)と奥の本峰

第二頂上標識のある前山 善防山城「二の丸」にあたる。平坦地があり曲輪も数段あり西側下には石垣跡も見られる。主郭の善防山山頂へは5分程で着く。林との中に小広く平坦な山頂にはテーブル状の大岩が特徴の善防山(251m AM9:30)に着きます。 山頂本郭に出る前には2m程の段差で曲輪があり、雑木や枯れ草に隠されているが石積み補強されている様子。 さらに一段小さな曲輪は主郭を北側に囲むように続く腰曲輪。山名プレートのある所から北側へ降りれば曲輪の様子が良く分かります。さらに北の尾根にも曲輪が有るようです。
主尾根に出て下里川・加東市方面?を遠望

東西の尾根や谷筋は此れ以上望みようもない程の岩場が 強固な石塁となって 難攻不落の自然の要害を形成しています。北尾根は処々に露岩を覗かせるが、善防公民館付近の雑木林から比較的楽に登れそう??なので防備の曲輪が南面と同様の規模で北面にも造営されていたと思え、この城の歴史と共に調査記録にも期待したいところ。 山頂は雑木の中で展望はないが西へ下り始めると、前方に笠松山の尖鋒を中心とした 鋭鋒群が拡がるビューポイントがあり暫らくは播磨の超ミニアルプスの展望を楽しみながら急斜面を下り続ける。尾根が緩やかになる鞍部付近では土橋を渡ったような!!
善防山(善防山城主郭)山頂

(土橋は南北朝期等古い山城に見られる防禦形態で有事の際、土橋を切り崩せば堀切としての抗力を持つ施設です。 平城や丘城の土橋は、また別の使われ方もあるが…)笠松公園駐車場(私の駐車した場所)下から登ってくる ハイキング道と合流する。此の先の分岐では名物の吊橋コースを採るか西南側のピーク経由で古法華へ周回するコースを採るか、 ピークからの展望も良さそうなので迷う。公園駐車場から登ってくる切通しの車道の上に懸かる♪山の吊り橋シャ〜…少し揺れてスリル感を増強してくれます。渡りきれば岩盤に鎖が延びています。岩上に出れば直ぐ下に 古法華のお堂、近くにある長石(おさいし)採石場跡の垂直の岩壁は!!岩登りゲレンデとしてクライマーが何時も何人かは 取付き付近の広場に集まっているのが見える。古法華の最古の石仏が祀ってあったお堂とその石仏が保存されている宝物館の裏手に廻ると、
笠松展望台より善防山

何時の頃に置かれたのか説明板まで用意された七福神の石像がある(AM10:05)。 寺域ではあっても、何処に設置しても良いものではなく余り嬉しくない七福神ではあります。ともかく此処が笠松山展望台への取り付きですから目印にはなる。ほぼ直進して前方に展望台の見える笠松山に向います。岩稜と尖鋒の目立つ周辺の山の中で、 背後の善防山だけが山頂に雑木の冠を戴いて特異な姿を見せている。展望台へも直ぐ到着するが暑い灼熱の岩盤上を歩く 夏場だと快適な気分は多少削がれるかもしれないがコンクリート偽木の展望台に登れば平野の北に並ぶ低山は鎌倉山 ・五峰山・笠形山・千ヶ峰へと自然に私の郷の山に目が移っていきます。
吊り橋を見下ろすと…!!

西に七種山・明神山・南に西神や六甲の峰や白く光る播磨灘も望まれ、僅か200m程度の山だが360度の展望に恵まれています。笠松山山頂 (244m AM10:20〜30)の三角点は展望台の下にあって柱には幾つかの山名プレートが掛かる。この展望台へは以前、南側の水辺公園??側から谷沿いに踏み跡を辿り尾根へは藪を掻き分けこの展望台の西10m程の所へ出てきたことがあるが、 今日はその西への尾根を辿って熊野権現堂へトレースしてみます。藪道かと思ったが下降一辺倒の道には、 しっかり山道が権現堂(AM10:40-50)まで続きます。剣坂町へは参道となり古い石鳥居の建つ 石の階段を下ると石灯篭のある権現堂への参道入り口に降り立ちます(AM11:05)。葡萄畑の続く農道を抜けて古法華の公園駐車場へ戻ります(AM11:30)。
善防山・善防山城主郭西帯曲輪から望む笠松山

長石(おさいし) 笠松山の北東山麓は古くからの石切場で何箇所も山全体が大きく削り取られた岩肌を見せています。現在も採石が続けられています。岩石は今から約8000万年前(白亜紀後期)の火砕流や火山灰の堆積によってできた凝灰岩は加工し やすく節理や割れ目が殆ど無いので古くから「長石(おさいし)」として採石されてきました。 赤松氏の全盛期の頃、此々善防山に城を築いていた赤松満祐の弟・赤松刑部則繁の家臣の長谷川道院が隠れ住んで開拓した村で、名前の一字を採って長村と名付けられ、特産となった採石は「長石」と呼ばれています。
古法華の石佛群

古法華…寺の周辺には、 石仏が多く立っている。どの石仏も、石仏を祀る祠も、当地産の長石からできている。寺の本尊は浮彫如来三尊像で白鳳時代のものである。奈良の石位寺三尊石仏とともに我が国最古の石仏とされ、国の重要文化財に指定されている。 以前は奈良国立博物館に保管されていたが、今は寺の左手に建つ収蔵庫に収められている。


 善防山城 牛居構居(牛居城)

善防山城(善防城・善防師城)  善防山 251m  加西市西笠原町・三口町

下里小学校か農協前のバス停から登り始めて暫らくで辿り着く東尾根の肩から望む全山流紋岩で出来た善防山は、 これから辿る岩尾根の先にそそり立つ姿と周辺の展望は雄大で此処が 標高僅か250m足らずの低山とは思えない風格です。険しい岩場を伝う山城へは足拵えを充分に…。腰曲輪に囲まれた第二頂上 (二の丸か東曲輪に相当するのでしょうか!!)の平場の西面には 石積みが残ります。
下里コース:稜線は岩稜帯の急登が善防山二峰に続く(奥方が主郭)

さらに急斜面を下り緩やかな登りで最高所の主郭に着く。鞍部付近では短い堀切土橋を通過します。山頂付近だけが凝灰岩に覆われた善坊山山頂にある主郭 (一の郭)を腰曲輪が渦巻状に2〜3重に取り巻いています。南下へ数段(2〜3段)と東へも削平地が残っています。主郭から北尾根側へ(麓の善防中学校や公民館付近へ下れるかも!!)出れば 腰曲輪の様子。山頂が山城跡であることが良く分かりますよ。さらに下方へは、尾根の左右に曲輪が数段あり、中には石を一列に並べた小さな削平地がある。石垣ではなく石段程度。遊びで並べるには大き過ぎるので ??番小屋の跡かもしれません。
(善防山城東郭の石積

善防山山頂の本郭部を中心に東尾根の第二頂上と 北尾根に両手を広げたように険しい岩尾根に曲輪を連ねる連郭式山城ですが、縄張図等詳細や城史は不詳だが室町時代初期・応永年間(1394〜1428)頃に築城されたらしいと云う。しかし後の赤松満祐が播磨・美作・備前の守護職に就き赤松氏全盛の頃の永享年間(1429-1441)赤松満祐の弟で赤松(孝橋)刑部(左馬介)則繁(白旗城主・赤松上総介義則の八男「播磨鑑」では 赤松彦五郎刑部介則繁)が白旗城から移って築城したとするほうが無理がない。
善防山城東郭石積(第二頂上西面)

しかし余りにも峻険な全山露岩に覆われているような岩山の頂部の築城とは…!!。古法華寺は日本最古:白鳳(673-)の如来と 脇侍の三尊石仏(国重文)を本尊とする古刹であり、善防山にある善防山城は 善防師山城の別名もある。「坊や師」からは岩尾根が続く古法華寺背後の笠松山から善防山にかけて播磨修験の道場であり、善防山(善防師山)は山岳寺院なり講堂が建っていたのを城郭化したと考えれば、臨戦体制の築城計画に無理は無さそうですネ。赤松則繁は満祐から最も信頼されていたが乱暴者で応永31年(1424)京都の細川持之の邸内で事件を起こし将軍 ・足利義持の切腹の命に逐電し義持の死後ようやく許されて出仕した前科があった。
善防山頂(善防山城主郭)

嘉吉の乱(1441)以前は京都にいることが多く、乱の時は満祐に従って播磨に帰り、城ノ山城にいて全体の指揮をとっていたらしく…というより室町幕府の六代将軍:足利義教暗殺の首謀・総指揮者が善防山城主の則繁で宍粟郡安積城主 ・安積行秀が執行者とも云われます。嘉吉の乱に但馬口に出陣し幕府(山名軍)と戦うが破れ、追われて城山城(龍野市)に籠城する最後の決戦に赤松満祐は 安積行秀に介錯させて自刃します。
善防山城主郭東面切岸と一段下帯?曲輪

則繁は戸倉付近で山名軍と戦い九州へ敗走し、 城主のいない善防山城に残った僅かな留守部隊も火攻めによって山名軍に簡単に破られ落ちています。善防山本峰(善防山城主郭)山頂の本ノ丸櫓台状の側に標高を示した山名標と「姫路歴史山の会」による簡単な城址説明板が掛かる。それによると明治初期まで白骨体が木の葉の下に眠っていたと云う?。野晒し遺骨が550年以上も其のまま風化せず残っていたことに驚き!!?。
善防山城主郭西面岸と一段下腰曲輪:笠松山方面に展望良好

此処で風葬は出来ないネ)。此処にも全国各所に ・ほぼ同様の内容の”竹の皮”の落城伝説が記されている。敵勢が攻めてくる尾根筋に油を含んだ竹の皮を敷き詰め、敵勢は其れに足を取られ滑って攻められない。しかし敵はその竹の皮に火を放ったため城は炎に包まれて落城するという筋書き。全山岩盤・巨岩に覆われた険しい鎧山では、いかに大軍でも味方の将兵を無駄に失い・僅かな将兵しか居ないと思われる山城攻略は、 得る効果もあまりなさそう。
善防山城主郭-西郭間の堀切土橋

嘉吉の乱以前の城主:赤松則繁は京都にいることが多く、乱に際し市内北方の小谷城主:直操(満祐・則繁ともに兄弟)等とともに善防山城を出て、 但馬山名氏との攻防に但馬口等の守りに就いていたのでしょう。直操は生野峠の戦いに敗れた責任をとって自刃。則繁は兄:満祐等と 城山城に篭もるが一族自刃により赤松氏が滅亡の城。しかし則繁は【日本城郭体系第12巻】によると 室津に落ち延び、さらに倭寇となって朝鮮に渡り、清水将軍と名のって沿岸を荒らしたが、やがて九州に帰って少弐教頼と共に大内政弘を攻めたが敗れて播磨に戻ったが、播磨は山名氏が領国となっており河内の畠山氏を頼った。これを知った幕府は細川持常を派遣して則繁を討たせた。 嘉吉の乱後7年を経た文安5年(1448)則繁は隠れ家の当麻寺を囲まれて無念の自殺・その首は京都で梟された…という。
縦走路側の西郭:巨石群を囲む小さな削平段:城域西末端の物見砦?。

善防山城は「竹の皮」伝説ではなくとも焼討ちされ陥落したものか?。その後の歴史も不詳です。加西市史(熱心に市史を随時改定・加筆されているので、 最近発刊内容は知らないが…)に存在を否定されてきた牛居城(牛居構居)がある。善防山城を詰め城とする城主の居館が無いというが平常時も殆ど留守がちの城主に代わって赤松一族 の臣:牛居城主中村牛居之祐…が代官・城代家老として善防山城を預かっていた…とも考えます。中村氏も嘉吉の乱後は帰農し、 赤松家再興により牛居城も再建され戻っています。加西市内には三木城別所氏の幕下浦上氏の山下城がある。
善防山城西郭(物見櫓!?)から笠松山を望む

善防山城落城後・赤松家再興成って赤松氏によりに改修しながら 使用されものかは?…更に小谷城から在田氏の可能性は薄いが別所氏・浦上氏の可能性はありそうだが、在地領主の城とするには立地からは遠すぎる ・要害を通り越した峻険な岩山は荷が克ち過ぎる!!。播磨攻略・三木城落城後の秀吉軍にしても改修のない物見砦程度ならともかく、縄張りから織豊系の特徴が見られない様?だが主郭北尾根筋や山麓…等未だまだ未調査範囲もありそうで 今後の更なる資料や城址研究成果に期待したいところ。

牛居城(牛居構居)    加西市牛居町

牛居町にお住まいの前田氏(牛居之祐の直系子孫)から牛居構居の城主中村牛居之祐吉早について調査され、結果を纏められたとの情報メール戴き、是非訪ねたいと隣接の 野上城に寄った際にも広域農道?を中西町交差点に戻り、南へ緩やかな下り坂となる県道716号線:次の琵琶甲町を過ぎると直ぐ右手に牛居大歳神社の杜をみる。此の大歳神社境内に牛居城主:中村牛居之祐の顕彰碑と碑文が建てられている。 善坊山城と牛居構居が山城と居館の関係かは不詳。
四方土塁囲み!!の構居を思わせる畑地?

城域を大歳神社前の字名[殿垣内]の圃場が城館跡と云われるが堀・土塁等の遺構を見ない。大歳神社社殿をL字状に囲む牛居之祐吉早の顕彰碑背後:3m程の大土塁が牛居城(構居)跡としての遺構の一つとも感じさせるが… 大歳神社前の字名「殿垣内」から土塁状を遺構と考えられてはいない様?。しかし境内背後を割って走る県道716号東側農地と其の先端部が 深い峪状になった要害の地形から主郭・副郭の関係にも思えたが!!?。大歳神社境内と背後(北)から牛居町中央部を通る町道への分岐点辺り?。
牛居構居:大歳神社

広域農道側にポツンと石鳥居が残される空間があるが牛居城の歴史を何か知っているのかもしれません?
牛居城(牛居構居)の城主は赤松一族の 金鑵山城主中村六郎友之の嫡男で幼名:松千代丸が牛居の地【播磨風土記に「碓居」と呼ばれた地】に居を構えて姓を中村牛居之祐(介・助)吉早称したとあるが、秀吉の中国毛利攻め軍議(加古川評定に於ける別所吉親と秀吉の不和)による別所長治の離反に始まる三木合戦天正6年(1578)吉早は多可郡中野間の花ノ宮に移り (在田氏の野間は天正3年落城しているので此の地に帰農したか?)嫡男小一郎は牛居構居に残り、
大歳神社に建つ牛居城主:牛居之祐の碑

吉早の奥方「豊ノ前」も牛居構居に居たようだが三木城に籠城。三児(懐妊中で2児…とも)を連れ生家(但馬竹田とも・加東市三草とも諸説あるが)丹波市市島町へ逃れる途中・丹波市山南町奥野々に辿り着く。仮住まいのつもりが此処に定住・丹波中村姓の祖としての”豊の前”の墓所がある。牛居之祐吉早の活動時期が、名を改称した嘉吉年間と三木合戦前後の永禄や天正年間にもあって、 時空を越え同姓同名の”吉早”が二人存在していた事になるが、
本殿を囲む大土塁は…構居遺構ではないのかな?

先代の 同姓同名を継承する例は他にもある…!!?。中村氏の牛居構居は築城時期から善坊山城の城代家老だったともいわれ、其の関連からも嘉吉年間以前と思えます。初代の吉早は善坊山城主・赤松則繁の麾下で嘉吉の乱(1441)に城山城に立て籠もったが落城寸前に脱出して朝鮮に逃れたとも、家名回復の為(赤松氏方に付いて!!)各地を転戦したが果たせなかった…!?。応仁の乱(1467〜)に活躍する赤松兵部少輔政則が播磨 ・美作・備前三国の守護となり赤松氏を再興し、牛居城(牛居構居)は再建されます。
神社と県道を挟む向かいの圃場:郭状地形切岸下は谷

文明15年(1483)赤松政則は宿敵の但馬守護山名政豊との真弓峠(播磨国境)の戦いで大敗以後、度々山名氏との対立が続きます。明応2年(1496)政則の病没後は実権を握っていた浦上氏にも分裂が生じ、別所氏や赤松氏一族の国人達が 台頭してくると勢力拡大抗争へと播磨に動乱が深まってきます。「播磨鑑」によると赤松氏の臣・中村牛居之助吉早は多可郡中野間城の城主 【中野間周辺には幾つかの城が有り、其れ等を総称して野間城と呼ばれるので何処の城かは判らない! 別所氏一族の中野間伊賀守政廣が居城したとされる】 だったと記されます。
神社南正面に望む善防山城(下部の車道手前圃場が「殿垣内」

此の頃の牛居構の動向は不詳!!だが天正元年(1573)将軍足利義昭と 織田信長の交戦では同族 ・赤松家の有田伊賀守【多可郡中野間伊勢輪山城主(花の宮砦か片瀬砦)の事だろうか?】と共に戦功をたてたといわれます。 この有田(在田)氏の多可郡八千代町の野間や中町の段ノ城等諸城は天正3年(1575)別所重棟に攻められ落城し有田氏は滅亡します。天正6年(1578)秀吉の中国・播磨攻めに三木城を攻めた三木合戦には別所氏に付いていた中村牛居之祐も三木城に籠もるが同年:牛居之祐は三木城を出て一時・多可郡八千代町中野間の花ノ宮に移っている。 三木城には嫡男:小一郎が入り、三木城開城後は牛居に戻り(牛居城は廃城)其の後旧領に帰農し前田姓に改めた?とされます。
大歳神社の土壇は櫓か主郭跡!?

牛居町は近年まで全戸が中村姓と前田姓だけの一族の村だったと聞きます。小一郎のその後:野間花ノ宮の牛居之祐吉早の其後も不詳だが、
吉早の死去については慶長元年(1596)9月19日75歳 (逆算すれば大永元年(1521)出生)と伝えられ花ノ宮に吉早の墓所がある。
(加西のふるさと散歩 加西市教育委員会等を参照)
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