播磨:加西市 五百羅漢・酒見寺〜小谷城
播磨:加西市  地図(五万図=北条)
加西:五百羅漢〜小谷山〜乳の井戸/憩いの村はりま〜西山城〜亀塚古墳 2006年01月22日

近畿の山城小谷城
校歌・故郷の山 北条中学校♪城跡の 緑に真白く映えて…♪小谷城
         北条小学校♪…強き力は 城山の…♪
小谷城主郭から続く横堀と堀切と西小丸の切岸

西脇市から県道34号で 角尾山城水尾の城山裾を縫って県道24号に入り峠を越えると加西市に入ってくる。別所町の三叉路で 24号を採ると加西インターに向かう。登山なら古法華の善防山〜笠松山も魅力だが直進して七種山や夢前三山への中国自動車沿いを西に向かうが今日は山城探索で加西市と神崎郡福崎町・市川町の境界尾根の日光寺山付近。先頃訪ずれた神崎郡神河町の 高峰城との関わりで高峰山城のある深山〜日光寺山の山塊 (現在レポート準備中)を歩いてみようと出かけてみます。
五百羅漢・羅漢寺山門の石造り仁王像

福崎の神積寺(薬師霊場第24番)に何度か来たが、 此の北から東方に延びる丘陵上にある二つの峰には無線中継施設が建ち、林道が延びていて余り登行欲は湧かなかった。また加西市北条石仏で知られる五百羅漢には西国霊場(新西国第29番)酒見寺があり、 北方に城山が見える。五百羅漢以外にも山麓に石仏があり”乳の井戸”の歴史探訪名所も有るので散策してみます。


加西市五百羅漢〜酒見寺〜小谷城〜乳の井戸  H18.01.22

北条町の北方・中国自動車道沿いに平行する車道に目立つ「五百羅漢」の標識が立つ。 北条幼稚園角を曲がると直ぐトイレ付き駐車場前が加西市観光の代名詞「北条の五百羅漢」です。周辺を散策しながら 【羅漢寺〜住吉神社〜酒見寺】中国自動車道下を潜って山手北側の小谷集落に入ります。正面の山が城山(小谷城)で山裾に登城口の陽松寺が見えてきます。
加西 ”いこいの村はりま”ランドマークの展望台

小谷城を降りて小谷公民館から西方に進んで行くと集落の山裾端にお堂が立つ。 お堂には「夜ばりこき地蔵」と呼ばれる石棺仏の小谷石仏が祀られ、更に西へ緩やかに下っていくと田圃が広がり、山側の丘陵上に八幡神社の建物が見える。 其の神社への参道口に白塀に囲まれた小さな瓦屋根の堂がある。寄ってみると乳の井戸の説明案内板が立ててある。此処より中国道を潜って駐車場に戻り、次の予定地・神埼町側の大貫(日光寺登山口)に向かった。
五百羅漢小さなお寺(天台宗北栄山)羅漢寺で南に北条小学校、西に北条中学校が隣接し小学校の校庭南には住吉神社と酒見寺が並びます。羅漢寺の入口(山門も門柱も無いが 門柱代わり?)には桃山時代末期:慶長15年(1610)2月刻印の仁王像が立ち、境内の奥には約400体(昔は500体程有ったと言う !)に及ぶ羅漢像等が整然と並ぶ。釈迦三尊像等ホンの一部を除いては頭部だけを彫っただけ。祈祷やお守りの人型を思い出す。
北条・五百羅漢

方柱形の石材で刻み出した荒削りの羅漢像の特異な造形美からは円空仏の荒々しさや、木食上人の微笑仏を思わせるものもある。 「いつ・誰が・何のために」造ったのか、何一つその言い伝えが残されておらず、明確にされるものはないが室町時代に作られたものと考えられていますので、陽松寺を創建した城主宇野(赤松)刑部少輔祐尚によって”嘉吉の乱”による山名軍との戦いの中で斃れていった赤松氏所縁の将兵や、 騒乱の巻添えで犠牲となった領民達を慰霊供養したのが起源と思われます。
酒見寺

…が 唐の時代の帰化人説もあり更に秦氏との関連も考えられる?ややこしくなるので全てが謎としておきましょう。「親の顔見たけりゃ北条の五百羅漢に御座れ」といわれるほどに表情や姿態に富み「必ず自分や親・子に似た顔が一体は有るので探して見て下さい」。高室石とよぶ加西市内で切り出された細粒であり 加工し易い黄土色の凝灰岩が使用されています。
酒見寺 加西市北条町北条
酒見寺多宝塔(国重文)
泉生山酒見寺(真言宗 本尊:十一面観世音菩薩 )は酒見明神【住吉神社=養老年間(717-724)創建で酒見寺の 守護神】に詣でた行基上人が神託により天平17年(745)建立されたと伝える播州地方の古刹です。聖武天皇の勅願寺として歴代天皇の帰依深く、中でも保元平治の乱(1159年)や天正年間の兵火で一山悉く消亡したが、 多宝塔(重文)と鐘楼は貞治3年(1364)八千草の春日山城(飯盛山城)主後藤基利の夫人・千女が寄進したといわれます。小谷城主が城下の古刹の荒廃を見過ごしてきたとは思えず、陽松寺を創建した城主宇野(赤松)刑部少輔祐尚によって住吉神社や酒見寺の講堂等が寄進・修復されたきた事でしょう。 寛永19年(1642)頃には再興されたようです。江戸時代には徳川家代々より御朱印を賜り姫路城主:池田輝政以来姫路城の守護寺として栄えた名刹です。
小谷の石棺仏・阿弥陀像

多宝塔は寛文2年(1662)の再建で、その優美なたたずまいと木組みの美しさは見事です。此れ等本堂・多宝塔・楼門等の酒見寺伽藍遺構は 建立年代が明らかなうえ宇仁郷(加西市大工町〜国正町付近)の棟梁・神田左衛門によるもので地元:宇仁山城麓の奥山寺伽藍と共に (此処奥山寺山門の案内板には神田作左衛門実清とあったが同一人物か?)加西市の貴重な江戸時代初期の建築遺構です。
小谷石造五輪塔
小谷公民館から案内標に従い、正面の丘陵上に”小谷城跡”の横断幕が掲げらている北方への地区道を進むと、車幅いっぱいの狭い切通し状の 坂道を抜けると、段差も高い広い平坦地(圃場?)を挟んで丘陵側に陽松寺が見えてくる。
乳の井

地区道沿い家屋の裏手:此の平坦地形の南側端に、祠に収まる二基の小谷石造五輪塔が加西市文化財(昭和46年3月30日指定)で室町時代初期の造立とあり”嘉吉の乱”による 播磨守護:赤松し一族の供養碑なのかも…?。一帯が「殿がち」と呼ばれた字名(殿垣内)からも小谷城主の居館や武家の屋敷跡だったのでしょう。
小谷の石棺仏
小谷の地蔵堂内に祀られる石仏は高さ1.71m・幅 1.10mの家型石棺の蓋石内側に阿弥陀坐像と6体の地蔵菩薩立像を厚肉彫した石仏は五百羅漢と同じ高室石製如来像で夜ばりこき地蔵と呼ばれ、 子供の夜尿症や涎たらしの平癒祈願を願う参詣者が多い事で知られています。水道施設工事の際に発掘されたといい、破損磨滅が目立ちますが全体の構図や彫刻の手法は光背に月輪を入れ、蓮華座は八重式の優れたもので鎌倉期の作風を留めていて造立年代は南北朝期:康永4年(興国6年1345)です。 加西市文化財(昭和46年3月30日指定)
乳の井戸

乳の井戸
八幡神社への麓:参道入り口の田圃に囲まれた溝の奥に井戸があり、昔から共同井戸として使用されているが、此の井戸は石垣の間から乳の様な白い水が噴き出し、暫くすると澄んだ水となる。 此の水は母乳の出のわるい婦人が八幡神社に詣って、この水を持ち帰り飯を炊くと必ず母乳の出が良くなるとの言い伝えから「乳の井戸」と名付けられています。
(現地 小谷石仏案内板・乳の井戸案内板・羅漢寺のパンフ 酒見寺案内板 版を参照)


 小谷城

小谷城  小谷の城山 218m   加西市北条町小谷字城山
『登山コースとしての説明は2006年1月の記録ですが、2016年10月訪城では加西市の「ふれあいの森つくり」事業として 河内城山下城ともに 「小谷城跡ふれあいの森」・小谷城跡保存会も結成され、ハイキングコースとして登山道の整備補修・案内表示板や 山頂主郭に東屋展望休憩所や俯瞰絵図の方位板等も完備・下草藪に足元も見えない状態だった西小丸からは「小谷石仏」へ降りて行くらしい?西へも明確な尾根道として整備され周回して古城ハイクが楽しめそうです』
陽松寺と小谷城

小谷城と云えば五大山城と姉川の合戦で知られる湖北の 小谷城(浅井長政のオダニ)ですが、播磨にも北条石仏で良く知られる五百羅漢の北・中国自動車道高架を潜る北側の加西市北条町小谷の集落に入ると僅か標高の城山(218m)がある。低山ながら眺望は南面に拡がり、山蔭なく展開する播磨平野が見渡せる展望所。東峰(主郭)から南西の稜上へと 曲輪を連ねる小谷(コダニ)城跡の小山塊がある。
陽松寺背後/登山口に立つ赤松祐尚と家臣の追善供養墓

此の城山(218m)で山麓に建つ祐尚山陽松寺の屋根が見える。山号からも赤松祐尚(すけひさ)菩提寺として建立され、小谷城登山口には供養塔が立つ。応仁の乱後:城主となった祐尚は 寺社の修築(住吉神社の改築・酒見寺の講堂寄進)等や圃場整理・市の開設等…領内の善政に尽力して領民から慕われたが、天文11年(1542)正月14日(祐尚の墓碑面より)播磨に侵攻してきた尼子氏を小谷城に迎え討つが敗れ討死にした祐尚と、此の戦いに討死した一族等の五輪塔群や祐尚追善供養墓がたつ。
小谷城からの展望図と景観・正面奥に善防山城が望める

尚:明石の 大蔵谷城(大蔵院)にも祐尚夫婦の墓がある。其の裏山にあり北条小学校・中学校の校歌にも謳われている”城山”の山頂部に 位置するのが此れより目指す小谷城です。ハイキングを兼ねれば栗田から鴨谷へ抜ける車道の峠〜小谷城〜猪坂峠から 乳の井戸の戻るコースが採れそうですがどうでしょうか?。本ノ丸東側の堀切から想像すれば、鴨谷側峠から尾根伝いの侵攻を充分想定しているので途中にも防護の遺構はありそうです。
小谷城本郭部南面を囲む横堀

小谷区公民館からは直上し車一台分の幅狭い車道坂道を陽松寺境内へ進んで行くと畑地でも植林用でもなさそうな 広い段差をもつ平坦地形を随所に見かける。陽松寺付近を構居とした家臣団の屋敷跡と思われます。合流地点に平坦地を見るが山頂付近まで 何も無い…と思ったら突然土橋付堀切!。此れは堀切ではなく東端最高所の主郭へと数段並ぶ曲輪群の南面切岸下に沿って囲い込む様に廻る空掘は、
4曲輪土塁から本丸の東屋・左前方草付き帯曲輪が南側土塁空堀に繋がる

南面斜面に対する防御の塹壕・土塁兼用の通路でもあり、補強?、幅の狭い帯曲輪となり本ノ丸下付近で 空掘状は消えるので通路兼用の様です。竪堀が2本ばかり続く。其の先で東端を回り込み尾根を遮断する堀切に出ます。空掘りが消えると本ノ丸南側の切岸が崩れている部分は曲輪に登る虎口だったか ?山頂部に1〜6の曲輪を並べ土塁と空堀がこれ等の曲輪を取巻き・帯曲輪兼通路で連絡させています。石垣もあったようで陽松寺改修時の石垣に転用されたとも云われる。
西小丸から主郭側4曲輪(最奥)・足元に五輪塔の残欠が一基残されていた


東の尾根先へは 犬走状の細い棚と竪堀なので、この部分に高石垣が積まれていれば鉄壁の備え?。天文年間(1532-55)には宇野氏が居城しているので長水城 (宍粟郡山崎町)を想像してみたが?。堀切を越え東西に細長く続く主郭・本ノ丸の平坦地を進むと1.5m程の段差下に広い曲輪があり、 太い木を輪切りにしたベンチ?がサークル状に置かれている。展望もなく余り快適とも思えない休憩所ですが、本丸と此の曲輪しか休める所は無さそう。
同・西郭正面土塁曲輪の左には竪堀

更に西に二段程でその下は、先程の本郭部を囲む空掘となる。猛烈な薮で尾根上は進めないので 土塁囲みの空掘を伝って下っていくと 樹間に福崎町方面に展望が拡がる。曲輪が続くと思われる尾根側に堀切 (空掘か?)が有り西郭群を分けているようです。下草と薮の凄い曲輪ですが三方が土塁で囲まれた曲輪もあり5m程の斜面を下ると北東へ深い竪堀が一本走っている。
横堀から主郭 (四ノ曲輪?)に入る土橋付き上り土塁虎口

空掘も深く大きくなるが西郭群の端付近では曲輪に沿って電光形に鋭角に屈曲する 掘底道となり虎口に繋がる。西尾根鞍部から陽松寺西方と猪坂峠へ向かう道は下草もなく遊歩道の様だが先でどうなっているかは保障出来ないが!!応永年間(1394-1428)初期:赤松氏の有力守護代だった在田氏三代目 :在田則忠が赤松 庶流家として独立し力を蓄えつつあった為、守護赤松家が 在田氏の動きを監視しつつ北播磨の支配の拠点として 出張所を設けたのが初めとされる小谷城は赤松満祐の義弟上原(赤松)民部大輔祐政(赤松義則が迎えた養子)が築城したともいわれる。
西小丸の土塁曲輪端の大堀切

嘉吉の乱【嘉吉元年(1441)6月:白旗城主の 赤松満祐が第6代将軍・足利義教を暗殺した】では足利幕府の 赤松追討軍:阿波守護の細川持常に赤松満政・貞村らが山陽道の正面から、別働隊の山名(宗全)持豊ら山名の軍勢に背後の山陰・但馬から攻められ、 満祐が書写の坂本城に籠もった時、小谷城を預かっていた2代直操 (なおもち:赤松義則の五男?、満祐の実弟で小谷城に出生したらしい!!が出家し網干・龍門寺の禅僧だった)が 法衣を甲冑に替え坂本城に駆けつけ上原民部大輔祐政を大将に善防山城赤松則繁(満祐兄弟の八男?)等とともに
土塁付横堀は東末端で土橋を北面帯曲輪へ、横堀は竪堀となり東面を落ちる

但馬口を守備し作用 ・宇野・粟生氏等と播磨・但馬境の生野峠(真弓峠)に幕府軍の山名・細川勢等の大軍と戦うが抗しきれずに小谷城に入って敗戦の 責任を負い自害したとも伝えられます。坂本城に迫る追討軍に満祐は城を捨て城山城に退いて籠城するが終に一族自刃して赤松氏は滅びます。 赤松氏の滅亡によって小谷城がそのまま廃城になったか山名氏方の持城となって、
西小丸側堀切間の北斜面に畝状竪堀

山陽道や但馬街道沿い警備の城砦群の一つとなっていたかは不明だが、赤松政則の赤松家再興後は入寺していた宇野能登守の他腹の兄が北条の酒見寺に入り、 還俗して得平氏を相続したと伝えられ代々、宇野氏が代官として派遣されていたとも伝えられます。永正17年(1520)守護代:浦上村宗(備前三石城主)の横暴で播磨・備前・美作三国の守護職だった赤松義村 (置塩城)は室津に幽閉され後・暗殺される。赤松氏は大永2年(1522)高峰山城に軍勢を集め 其の村宗の攻略に備えるが、其れを知った山名氏の侵攻に内輪揉めを止め山名氏に対抗し山名氏を但馬へ追返し天文年間(1532-55)には宇野(赤松)刑部少輔祐尚(すけひさ)が小谷城を改修し居城したという。
西小丸の土塁曲輪と主郭・西郭を繋ぐ通路兼横堀は西郭側で屈曲し虎口に繋ぐ

但馬山名氏の侵攻や天文7〜11年 (1538-42)には山陰の尼子詮久や浦上宗景等の播磨侵攻に…気の休まらない群雄割拠の時、小谷城はじめ多くの城砦が修築され使用されたのかも。更に天正年間(1573-92)頃の織田信長の播磨・但馬征伐や別所長治の三木城を攻めた 羽柴秀吉軍が三木城北方からの兵糧輸送や別所方援軍の阻止の拠点とした付城として使用したか?。 反対に別所氏によって修築したとも思われます!!?。遺構の現状からは主郭北面に長い帯曲輪・南面には土塁空堀(横堀)が通路兼用の帯曲輪・塹壕兼で東端まで延びるが現状では探索不能の藪:竪堀、
西ノ丸西端の堀切:土橋は曲輪南を廻り横堀沿いに虎口に至る

殊に西郭側の大堀切・畝状竪堀・土塁付き空堀はコノ字状に屈曲して虎口の平入上り土塁に通じる。此等の山城遺構のなかでも戦国末期の天正期頃まで改修され利用されてきたものの様です。三木城落城後・秀吉 (後家康配下の公儀奉行人)山城宮内少輔忠久により修築されたとも推察されるようです。
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