東条川に沿って小沢城/豊地城/屋口城/小田城 秋津富士・片山城・念仏城
東播磨 (五万図=北条)
T東条谷に依藤氏の城を廻る 小沢城/豊地城/屋口城/小田城 H15.10.25
U東条の温泉と城と・・東条湖〜秋津富士〜秋津台 H14.7.20 H17.05.02
模擬の豊地城「誉田の館いろどり」二階は展望台

近畿の山城 小沢城(依藤城)  冷泉家・依藤塚小田城(名村田城)
  豊地城(東条城・拾市城・拾一城・都市城・依藤城) 片山城
 屋口城(矢口城・矢口砦)  田尻氏総領家館岡本城(念仏山構居・念仏城)

ふるさと富士秋津富士

中国自動車道と並走する県道17号の加東市東条町・天神北交差点から県道75号を東条川沿いに走る道は社から三田を経て摂津や丹波・京都へと繋がる重要な街道筋で南北朝期から 中世戦国の豊織期における「播磨平定」へと数々の戦乱の攻防が繰り返された軍道ともなっており、また今回訪れた城を含め、 周辺の城は中世播磨の豪族・依藤氏の本拠地の東条谷にある。
屋口城の遠望

依藤氏については同郷のYORIさんのお城見て歩きに詳しい。東条川沿いに依藤氏の小沢城・豊地城・屋口城・小田城等があり、 小沢城(依藤城)に建つ「碑」によると文治2年(1186)3月宇野八郎山城権守豊季が東条谷に入り依藤野を本拠としたようです。 大将源頼朝…の文字も見えますので文治元年・屋島や壇ノ浦等の 戦いの功により岡山宇野の豪族・宇野氏が東播磨の東条谷を賜り来住し依藤姓を名乗り、 南北朝後期には周辺地域の国人土豪を支配し豊地に居を構え、室町時代初期には播磨守護:赤松氏家臣として、
小田城(名村田城)

六代将軍足利義教による諸大名の家督相続にまで介入する圧力に耐え兼ねた赤松満祐が嘉吉元年(1441)義教を弑殺した嘉吉の乱に満祐が書写坂本城を本拠に 赤松教康を大将に浦上宗治・依藤太郎左衛門豊房・櫛橋・中村・別所ら諸将が幕府の赤松追討軍を迎え撃つが、 やがて赤松氏は滅亡し依藤氏も一時衰えるが寛正6年(1465)赤松政則が赤松家を再興すると、功績のあった依藤氏も復活して東条谷に領地を得て精力を持ち、有力被官として京都に詰めていたようです。

豊地城・城畑(しろんばい)土塁跡の墓地
発掘調査後は中央付近・県道バイパス道が走っている

後に豊範が依藤山に築城したのは応仁の乱 (1467-77)以降であり、城址に残る土塁の存在からは明応2年(1493)以降と考えられています。文明15年(1483)赤松政則が真弓峠(朝来郡生野町)の戦いで山名軍に大敗すると国人衆は政則から離れていき、京都では主力赤松軍の浦上則宗が小寺則職・依藤弥三郎・明石氏・中村氏の五人衆を豊地城!!に召集して合議し赤松政則を追放し、将軍足利義尚に有馬(赤松)慶寿丸を擁立し 赤松家臣団に突然・別所則治が登用され赤松被官筆頭に座ります。赤松氏の勢力が弱まってくると依藤氏は、浦上村宗の援助を得て三木城の別所村治と東播の覇権を争います。

豊地城西郭(辻堂:観音堂)から主郭大土塁と東郭の八幡社を望む

亨禄3年(1530)別所村治は丹波の柳本賢治を頼み、 豊地城の依藤氏との合戦では 細川方の浦上村宗が依藤氏を支援し柳本軍を相手に一ヵ月半にわたって戦い、村宗が賢治暗殺し・依藤氏は大将を討たれて混乱する柳本軍を撃ち破って敗走させ、同時に浦上村宗が別所村治の三木城を攻め落とします。 その後の依藤氏と別所氏の動向はよくわからないが、三木城を回復した別所氏が勢力を伸ばし東条谷を支配した頃には依藤氏も 太郎左衛門伝説とともに東播磨の歴史から姿を消してしまいます。この時の依藤氏は豊地城ではなく防御性の高い小沢城(東条町小沢)に拠ったと思われます。
屋口城西郭の帯曲輪

翌:享禄4年(1531)浦上村宗は攝津で戦死、永禄2年(1559)別所氏に攻められ没落したと思われる依藤氏の 豊地城へは別所重棟が入り屋口城とともに大改修を行い 三木城の北の押さえと北播磨侵攻の拠点としています。別所氏滅亡後は栗山氏(初代赤松氏の実兄景盛の子孫で依藤氏時代からの執権 )と変わる。 中谷町集落に栗山姓の標札が多い事に気付きます。時代の変遷の中で東條谷を領して源平〜南北朝期から戦国時代へと東播磨の出来事に深く関わってきた依藤氏と別所氏は、三木合戦集結による天正8年(1580)羽柴秀吉の「城割り」により 豊地城も取り壊されて長い歴史を閉じます。別所重棟は其の頃は庄山城(姫路市)に移り天正13年(1585)国替えで但馬・八木城に移封されます。



小沢城 豊地城  屋口城小田城
片山城  田尻氏総領家館 岡本城(念仏山構居・念仏城)


小沢城(依藤城)   依藤山 130m 加東市東条町小沢字北山

県道75号(小野藍本線)を小野市に向って走り上厚利の バス停T字路にさしかかります。豊地城と屋口城を訪ねる前に先ず此処・小沢城に立ち寄ります。上厚利で右折して学園道の標識を見て 緩やかな東条谷の坂道を北にとり、兵庫教育大学や社へ抜ける車道へはいります。この車道の小野と社境附近迄?が依藤氏の勢力範囲で「依藤野」と呼ばれています。
小沢城・小沢公民館附近から

冷泉為勝と依藤太郎左衛門恒殷が自刃した石碑が建っているのも此処です。 社町へ抜ける車道の火の見櫓が目印 の小沢公民館からは北方の丘陵尾根西端がやや小高くなっている処が依藤氏の小沢城で尾根上に 3〜5の曲輪を連ねており 南北にも少数の曲輪と空掘の遺構が残っている。農地から丘陵の向かう畦道の先で道も細くなり途中で分岐します。左は墓地への参道で右手を直進すれば城域に直接辿り着けたかも?、 様子が掴めず左手の墓地へ進み
西端曲輪・主郭側を分ける空堀・虎口

行止まりとなった墓地の西端から藪を突いて城域を東に進んで西の曲輪へと辿ります。直ぐに小川を堰き止めた様な湿地の水溜り状態の小池を見て不整地な緩斜面を進むと小さいながら整った曲輪に着く。 雑木がなければ明るくて見晴らしも良さそうで居住区としても此処一番の適地。この曲輪の背後に5〜6m程の高い切岸を回り込んで尾根上の削平地に出る。 小沢城で一番広い西曲輪に出ますが藪と蜘蛛の巣を祓いながら進むと雑木藪が切れた先で尾根が空掘状に削られた処に出た。
主郭西の土塁・腰曲輪:北端に竪堀!?

西郭と東の本郭部を断つというほどの堀切でもなく、曲輪への侵入に対する防備施設でも無さそうです。この堀底道は北へ下ると西曲輪の一段下の腰曲輪を経て 更に下方の曲輪??へ続いているようです。また南側が狭くなって下方から登ってくる道を抑える虎口と思えます。空掘りの先の藪の削平地が 主郭の南西下に位置する腰曲輪で、藪が薄くなった場所があって其処に陽を受け白く浮び上がる様な石碑が建っています。
小沢城主郭と土塁

明治20年3月辻氏建立の小沢城の顕彰碑は「碑」と書かれた文字の下に文治2年(1186)3月地頭職に任ぜられた宇野(依藤)八郎山城守豊季が東条谷に入り依藤野を本拠とし 此処:小沢に城を築いた様子が記される。後:豊秋の時に小田城に移った後も、豊地城の支城の一つとして機能していた様です。 しかし依藤氏の東条入りは応仁の乱(1467-77)以降であり城址に残る土塁の存在からも明応2年(1493)以降、虎口の有効的な防禦が見られないことから永禄年間(1558〜)以前と考えられる…と小野市史では記述しています。
櫓台跡!!の墳丘から

享禄3年(1530)三木城主・別所村治が柳本賢治等と依藤城を攻撃する。 此処で防戦した依藤城とは豊地城ではなく防御性の高い小沢城だと考えられます。享禄4年(1531)浦上村宗は攝津で戦死、依藤城は永禄2年(1559)別所氏に攻められ滅びます。その後・豊地城と屋口城は新城主・別所重棟(後:但馬八木城主)によって大改修され北播磨侵攻の拠点となり、在田(有田)氏の野間山城・貝野城等、西脇市や中町・八千代町に点在する赤松方の諸城は 天正3年(1575)頃には 悉く落とされていきます。三木合戦の天正6年(1578)頃には大沢亦太郎則顕が居城したと云われます。
依藤城(小沢城)の顕彰碑

城址碑のある東の端からは真っ直ぐに斜面を駆け下る竪堀を確認します。尾根上の最高所が30m×10m程の主郭で北側から 東へ低土塁が廻っている。 北隅に虎口ではないかと推定される窪みがある。東の堀切へ下って・城域中央部の空掘南側虎口状からの踏み跡は主郭南下から東下へと捲きながら段々と離れて小沢集落の方へ降りて行くので、西郭へ引き返し藪を墓地へと抜けて厚利集落側へ戻った。
(小野市史 及び城址顕彰碑 参考)


豊地城 (東条城・依藤城・拾一城・拾市城・都市構居)  70m  小野市中谷町字城ノ土居・字宮ノ内

県道85号線に出て東条川沿い街道筋にある豊地(明治期の合併で中谷となったが)は拾市とも呼ばれ中世期頃より十日市場がたち、 此処から三木市口吉川へ抜けて丹生山や三津田・淡河へ出る交通の要衝の地。赤松氏の家臣で東播磨の豪族・依藤氏の居城豊地 (といち)城がありました。 築城時期不明・幾度も城主が代わっているが始めは永良(赤松)彦太郎泰秀という(播磨鑑)。
辻堂 <観音堂>:豊地城西郭:(依藤氏居館)の堀跡

南北朝期には丹生山城や東条城(豊地城の前身か?)を拠点に金谷経氏が丹生山明要寺の宗徒や南朝方の兵を率いて戦っているが、建武3年 (延元元年 1336)東条城は足利軍に焼かれています。嘉吉の乱(1441)に没落した赤松家を応仁の乱(1467-77)では其の再興に力を尽くして活躍し 播磨を回復させた家臣依藤豊後守則忠が功績により東条谷を領して豊地城に入っています。豊地城や屋口城はじめ近在の城は永禄2年(1559)別所重棟に攻められ依藤氏は滅びます。
主郭の大土塁残欠

その後は別所氏により改修され北播磨侵攻の拠点となります。新進気鋭の赤松家家臣:別所に追われた旧赤松重家臣の 依藤一族は何処にどうしていたのか?、三木合戦前夜の天正6年(1578)別所長治が毛利方に付いて織田信長に叛旗を翻した際、細川館(細川城)の為純 ・為勝父子が別所方の誘いに応じなかった為、夜襲を受け滅ぼされますが、小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援の駆けつけるが敗走して東条谷から社・滝野方面に逃れようとしたものか?。
外濠跡(みやま保育所東側の宮地池)

厚利から小沢城西方の坂道を依藤野へ抜ける峠で細川冷泉為勝・依藤太郎左衛門は自刃しています。 東条町から小野市に入って直ぐ中谷町バス停の南西側・みやま保育園の東側には池や、八幡神社境内(豊地城東郭)は土塁が廻り、 東の崖下付近は外堀跡らしく、豊地城がかなりの規模の城であった事が想定出来ます。
豊地城中央郭(主郭大土塁と内堀跡(手前)

東条川の南にある比高 8mの河岸段丘上に位置する平城で、西に中谷川・東に大畑川や池と水堀に囲まれ天然の要害を成しており東西約250m・南北約200mの城域の南側には 幅約11m ・高さ約5mの土塁が現存しています。県道85号線に沿って中谷町を歩いて左右に拡がる平坦な圃場を此処が城址とは気付かないかも知れない。 城域の南西部に建つ辻堂【観音堂・加東郡四国八十八ヶ所第67番札所】が目印になります。そして此処に立った途端に一帯が豊地城である事に気付かされます。
八幡神社(東郭)濠跡に面した曲輪

辻堂附近は城主・依藤氏の居館跡で土塁の残欠があり、南面には幅 8mの空堀が曲輪の西端に沿って中谷川に続く溝谷(高さ約4m)の崖に続いています。 城域の北側に城畑(しろんばい)とよばれる櫓台と思える高台があり、その周囲には石積みの堀があり昭和55〜56年の圃場整備にともなう調査で 発掘された幅約3m・深さ約0.6m規模の堀内からは瓦・甕・一石五輪塔などが出土しており、豊地城は依藤氏の後に入った別所重棟によって堀や建物は改修されたが三木合戦終結後の天正8年(1580)6月羽柴秀吉のより播磨8城の「城割り」による取壊しが実証されるものです。
東郭の東面は車道を挟む宮地池(堀跡)に繋がる<東郭は豊地古城?>

平成21〜22年の調査 (観音堂の建つ西郭〜大土塁の残存する主郭の北・字名:城畑(しろんばい)間の農道沿い)に於いても幅12m・深さ2.5mの大規模な堀や、堀跡周辺からは天正年間前半頃の瓦が 大量に出土している。
(再訪した2014年・観音堂北側の発掘調査されていた圃場部等は南側の県道も北側に付替えられ小田上で県道75号に接続するバイパス道になっていた。 大土塁が遺る中央郭<主郭>北車道側には豊地城跡案内標識や広い休憩スペース?には城跡説明盤付き”といち城跡 中谷町”の石碑も設置されていた)
旧豊地城主郭?(東郭の八幡神社西面低土塁

兵庫県下に於いて戦国時代の瓦葺建物は三木城 ・置塩城・御着城・端谷城・有岡城(伊丹城)等の有力城郭にのみ使用されているだけに 今回:貴重な発見となっており別所孫右衛門重棟時代の主郭の位置も確定しています。引き続き調査は八幡神社東の外堀跡?から今回調査された主郭北にかけて実施されるようなので、依藤氏時代の古城主郭が八幡神社周辺なのか?解かるのかも!!? 都市構居は重棟居城時の名称か!?。破城を実施したのが一柳氏で(一柳直盛か?…直盛の死後は子の)直家が小野に所領を得て小野藩初代藩主となっています。
(小野市史 及び現地案内板 参考)



屋口城(矢口城・矢口砦・矢口構居)  西山(城山) 122m  小野市中谷町字西山

小野グランドカントリークラブを抜けて三木市に至る車道の西側を南から延びる万勝寺丘陵の尾根末端、西山(122m)にあって比高約 50mの山上あって中世末期の山城が、ほぼ完全な形で遺構を残されています。豊地城址から南西へ約600m程に位置する小さな丘陵に中世末期の山城が有り、
屋口城遠望

此れほどの遺構が宅地や開発の脅威を受けて大きく変わることも無く壊されず 遺されている事に先ず感謝です。中谷町の集落から中谷川に架かる橋を渡って屋口城のある丘陵の中央部目指して広く緩やかな農道の 坂を上っていく最奥の農地上部の池を見て城域に入ります。
屋口城西 U曲輪に入る虎口?と大空堀・U曲輪の東西には土塁を築く

振り返れば下方に田園風景が拡がります。先ほど寄った観音堂附近を見れば大規模な平城であった 豊地城の全貌がうかがわれます。豊地城は依藤氏が主であった以前・観応2年 (1351)足利尊氏に属して光明寺合戦(滝野)に出陣して討死にした 吉田左衛門尉伊賀守顕久(人皇59代宇多天皇の後胤・近江判官高満の一族という)が居城していたと思われます。また現在残されてる遺構からは戦国期・永禄年間(1558-70)豊地城の支城として築城され別所氏の家臣が拠っています。
屋口城北西・豊地城西の丘陵び在る吉田伊賀守墓所

東条谷にいた 別所長治の叔父、別所孫右衛門重棟の被官として稲岡和泉守・久米新兵衛等と共に吉田伊賀守盛秀もいた。三木合戦の始まる以前の城主は別所重棟とも、其の家臣で在地土豪の吉田伊賀守盛秀が居城ともいわれるが明らかではない。 三木合戦で別所氏が没落した後の吉田氏の動向も不明ですが、当地で帰農したともいわれ城の西方・池田町に吉田伊賀守の墓との伝承地がある。 大きな五輪塔の台座には一柳家の家紋とされる釘貫紋が彫られているが吉田伊賀守と一柳家の関連は不明…。
屋口城西U曲輪:空堀側の土塁線

墓所の建つ山林には松茸も採れたというが最近まで薮山で、代官所があったとも云われる新興集宅地へ向かう峠道。豊地城・屋口城を対角線に結ぶ三角点の一辺に位置して小田城へ通じる関所砦!!?か、東条谷を望む位置は荘園時代の代官所だったか?、矢口城の出曲輪・砦だったか…?。「横矢掛かり」「武者隠し」 飛び道具を意識した構造からも別所氏が豊地城に入って後、城の背後の守りを固める為に築いたか, 大改修したものと考えられていますが戦闘記録は無い!?。
屋口城・主郭下部の東曲輪(白滝神社)

三木合戦の後・依藤氏の豊地城は城割りされたが屋口城には実施された形跡がないのは、重棟が別所一族ながら秀吉方について三木攻めに参戦していたからでしょう?。それとも・その後の重棟や吉田氏の動向がわかりませんが、三木合戦の頃には既に廃城となっており、城割りの対象からも外されていたのでしょうかね!!一国一城令での破却も免れたようで、 中世の城の様子は土塁・堀切・稲荷社へ続く帯曲輪等に遺構が残されています。

屋口城西U曲輪:北東登城口側の低土塁と切岸


最高所にある主郭の東から南面にかけては高さ約1.5mの土塁が廻らされていますが, 北側は簡易水道の貯水槽設備で壊されたようで構造等は不明です。本郭部の高い切岸の東下には稲荷社が祀られた東曲輪があり、 主郭北側から腰曲輪(今は参道になっています)を経て到達とますが曲輪の東側は堀切が尾根を切断しています。此処は主郭に従属して戦闘位置に配置されていないので、城主家族・人質・食料の貯蔵等に使用されたと推測されています。
(小野市史 参考)


小田城(名村田城)  東山 67m 小野市小田町字拍子谷・字女谷・船木町字東山

県道75号を小野市街地へ向かって走っていると切通しを抜ける峠の手前に「船木」バス停がある。船木町と小田町境に位置して南から細長い河川段丘が北を流れる東条川の大きく彎曲する左岸に舌状に延びる丘陵尾根で比高僅か15-20m程だが東条川浸食により三方は絶壁で自然の要害となっている。
県道・船名橋側から:切通し堀切跡?に[小田城址]碑が立つ

加東郡社から久留美を通って三木に至る街道に面しており東条谷(豊地城)の出口を抑える西の拠点として此処に中世末期・依藤氏の城が築かれていました。 城域を分断している県道の切通しは堀切跡だったようです。峠を抜ける西側に「小田城址碑」が建ち、此処から城域の毘沙門堂【加東四国霊場第76番札所】へと小道が延びています。
小田城・船木バス停から

御詠歌に(朝日影毘沙門堂に輝きてみのり滴る名村田の森)とあるように 小田城は別名を名村田城とも呼ばれます。小田城の築城は発掘時の遺物から16世紀中頃から後半の天正年間と位置付けられ豊地城で石垣が導入された時期の 築造と見られています。また生活痕跡が希薄で屋口城と同様、 軍事的な豊地城の支城と考えられ依藤豊秋が創築したといわれます。
大手登城道!石祠の中には 五輪塔の残欠を祀る??

主郭への登城口は旧街道が通っていた城域の西北端から取付く登城道には古い墓所跡があり!!、五輪塔のうち(水輪)と思われる丸い石の残欠が 石祠の内に納まる。 墓所跡の曲輪の南には西櫓台と東櫓台があって(後年になって土塁を通路として開削されたのかも知れませんが?)その間が空掘となっている。此処から幅広い土塁上を東の腰曲輪へ進む。大手道には石積みを施した櫓台が、通路に沿っては敷石の石段が続いている事や、主郭の虎口・土塁や石積み等が残っており、鉄釘が検出された附近は大手門跡と想定されており、 発掘調査により素晴らしい遺構が確認されることでしょう!?…が現状では暗い竹薮の中での遺構探しです。
東・西櫓台跡の土塁

朽ち倒れている竹を片付けてた後で何とか!!状況を説明できる程度の写真を撮るのが精一杯です。とはいえ弥生時代の竪穴住居群のあった段丘部に設けられた城域は小さいながらも戦闘を重視した堀切・土塁・石積みを使用して櫓台には「横矢掛かり」の技巧的な遺構も見られる戦国末期の城です。しかし残念な事に・小野市史に云う遺構の中でも石段の残る大手口からの通路、 緩い折れを伴う虎口と櫓台があった主郭部の東条川側は
主郭部西端区分の石積土塁?

河川改修工事で切り崩され消滅、僅かに残された平坦地と南側から西側にかけて築かれた石垣積みの土塁(幅約4m・高さ約3m)が主郭を囲も比較的原形に近い状態で残っており、涸れた笹の葉が覆う土塁を手で拭うと 幾段もの石積みが現れます。「播州古城軍記」に観応年間(1350-52)足利尊氏が光明寺合戦 (滝野)の際 ・後陣として畠山阿波守国光が此処に 3000余騎で拠ったと云う古城ですが、其の前後の城史は不明の様です。
主郭部の石積み土塁

主要城主は播磨守護・赤松氏の家臣で依藤太郎左衛門刑部(介)少輔豊房。嘉吉の乱(1441)に弟:惟次(これつぐ)や中村・・粟生・藤田氏らと城山城 (竜野市)に立て籠もったが、幕府の追討軍:細川氏・山名氏の大軍に攻められて白旗城の宇野・大西氏の援軍を頼んで城山城へ引き返す途中、落城する城山城を見て揖保郡新宮町で兄弟は自害します。 此処(揖保郡新宮町千本)に天明6年(1786)旧加東郡小田の郷士 :依藤清兵衛が石塔を建てて供養した依藤塚が祀られます。
主郭南:毘沙門堂の建つU郭

歴代依藤氏の居城で応仁の乱(応仁元年1467〜文明 9年1477)で赤松政則に従った依藤豊後守が勇名を残しています。(東条谷の依藤坂では豊房の弟が自刃したとも!!!!)永禄2年(1559)別所氏により依藤氏は滅亡、それ以降に別所孫右衛門重棟が 三木合戦の少し前に豊地城の支城として改修したものか。土塁や櫓台跡から出土する土師器や備前焼き等遺物は16世紀末のもので依藤氏以降のものと推察されます。…!!三木合戦の折には依藤山城守光(満)勝が居城したともいわれます。 【追記】太郎左衛門後裔(西脇市の依藤氏)の方よりの情報により、小田城主に下記依藤塚の太郎左衛門(恒殷)とは兄弟の豊久 ・豊有の父子名を蒐集したが人物像等は不詳…!!。
(小野市史 参考)

冷泉・依藤塚   加東市東条町栄枝字嬉野<依藤野>

県道75号(小野藍本線)の上厚利バス停T字路から ”学園道路”を滝野・社方面に向かうと右手に小沢城(依藤城)の在る丘陵を望みながら 登坂にさしかかります。東条谷の坂道を北に越える峠に”依藤太郎左衛門・冷泉為勝の墓”の案内標識が立つ。小田城(小野市船木町)城主:依藤太郎左衛門は赤松満祐が足利将軍義教を暗殺した嘉吉の乱(1441)に 城山城(揖保郡新宮町)に立籠もり細川氏や山名氏幕府の大軍と戦い、城を出て白旗城に居る赤松一族宇野氏 ・大西氏等援軍を依頼し引返すが、既に城山城落城を知り近くの堂に入って自害した依藤太郎左衛門豊房が知られます。 …が自刃したのは豊房の弟・治郎左衛門太尉惟次で、豊房は赤松満祐の嫡男・教祐を因幡へ逃れた後どこかで?戦死したとも云われます。しかし新宮町浄福寺には豊房の墓として大きな五輪塔が祀られ其の伝承が残ります。
冷泉為勝と依藤太郎左衛門の石碑

此処・依藤野に建つ碑は冷泉(藤原)為勝と冷泉家の執事だった 依藤太郎左衛門恒殷の墓といわれ車道に面して壇が設(しつら)えてあり、二基の墓碑が建つが戒名がなく”依藤太郎左衛門之墓”とあるだけ!。 「播磨鑑」に太郎左衛門は土沢城主(加東郡東条町大字大畑 )とされ文明15年(1483)赤松政則が真弓峠(朝来郡生野町)の戦いで山名軍に大敗すると、主力の赤松五人衆(浦上則宗・小寺則職・依藤弥三郎・明石氏・中村氏)は赤松政則を追放する。 衰退する赤松家の家臣団に突然・別所則治が登用され赤松被官筆頭となって以降の旧臣:依藤氏は東条谷に別氏と領地覇権を巡って争う宿敵となります。天正年間の土沢城には元・依藤氏の家臣か別所氏家臣の土肥氏が拠ったとされ 依藤氏の動向は良く分かっていないが、東播磨に地盤を固めつつあったのでしょうか?三木細川荘領主の冷泉為純・為勝父子は当初は織田信長に付き羽柴秀吉の中国毛利攻めに参軍していたが軍議決裂・離反して毛利方に付いた東播磨守護三木城主別所長治から毛利方に付くよう誘われるが、
依藤太郎左衛門の石碑

依藤太郎左衛門等と秀吉方に通じており 天正6年(1578)4月:別所氏に攻められ冷泉氏は 東条に敗走する途中・此の地において敗死、為純の執事:依藤太郎左衛門は別所氏と覇権を競った往時の力も無く、救援に駆けつけるも時既に遅く、自責から冷泉氏の後を追って自刃し果てたと云う!!。依藤太郎左衛門の石碑は小田城跡近くにもある様 ?だが場所や其の由緒等は不詳。


片山城    片山 133m   加東市東条町岡本字片山

県道75号を西に向う東条川沿い((旧:美嚢郡)に小野市から加古川・姫路方面、東条町の中央部付近から南下すれば美嚢川沿いに三木市へと山陽・摂津・丹波・京都を繋ぐ交通の要衝。一の谷へ向った源義経や嘉吉の乱には赤松満祐が将軍足利義教の首を持って此処を抜け河合(小野市)の城に入り後日 ・此の東条町安国寺に首を葬り祀っています。
登城口の碩安寺<

幕府軍が赤松氏追討に攻込み、往時屈指の観光地・有馬温泉へと湯山街道が通り、さらには織田信長の播磨平定や中国攻めに、三木合戦には織田勢が別所方の諸城を攻める為、 東播磨の諸将達が三木城籠城にと走る軍道ともなったことでしょう。東条川沿い 「東条温泉とどろき荘」永久橋南詰に建つ 東条第一体育館からの坂道をとり東方へカーブする道を進みます。岡本公民館からの道と交差して山裾へ向う一本道の正面に惣持院が見えます。
片山城主郭(稲荷社参道)北側の切岸

天真山碩安寺(浄土宗知恩院末寺)の創建等は未詳ですが文化2年(1805)焼失した記録があるようです。 伝承によると源平合戦の寿永4年(1185)頃1武将が此の地に草庵をむすび日夜・念仏を唱えていた事から念仏信仰が伝わったといいます。片山城は此の寺の裏山に有り、山門脇から寺裏手の墓地へ続く車道は 墓地を過ぎ車止めの チエーンを跨ぎ更に進んでいきます。途中・右手に斜上する山道が片山城主郭に建つ稲荷社への参道だが車道も丘陵尾根に乗った辺りで 片山城への分岐道20m程で堀切跡を越えて稲荷社に至る。社殿改築によって原形を留めないが堀と確認出来る程度には残っている。北の碩安寺墓地側からの参道は稲荷社前で石段道ですが東端に城址らしい切岸(4〜5m)、
片山城主郭(稲荷社)

主郭西側には藪の奥へと一段の曲輪が捲いているように見える。築城年不明:城主は小宅志摩守高行と云うが詳細不明…念仏城の支城か?。稲荷社の建つ主郭の南に堀切があり、碩安寺墓地からの車道に出る。 其の先にも尾根筋に墓地が続き其の先の藪道に消えていきます。車幅の藪道を蜘蛛の巣を払いながら進む。荒れ過ぎていて前も見えない廃道は水を溜めて・ぬかるんでいるところもあるが東条・吉川を結ぶ旧道のようです。高い崖状の南に新定の宅地開拓の造成地が拡がり、いまも重機が活動中です。見晴らしの良い草地の広場に出たら其処には延命地蔵尊(仏像ではなく 文字が彫られている)小さな堂が建つ金比羅宮か!!。此処から下降路を辿り侵入禁止チエーン車止めのある安国寺への車道に出た。
主郭から南への尾根続きに堀切がある

藪を突いて城林城や念仏城に向うには2.5万図や5万図の地図を持っていても途中で道が消え読図と勇気・体力が必要かも!新定から丘陵部を迂回して戻る途中に浄水場があり、 張り出してきた丘陵先端部が10数mの岩の断崖が屏風状に拡がっている箇所があった。昔は地元でも知られた桜の名所だったらしいが、雑木に松や桜木は無かった様に思う。出来過ぎな程の自然の要害ぶりで丘陵上も城砦を想わせる。 ただ此の位置が要衝ではなくても間道・軍事上の利用価値が有ったか?城を築く目的等を考えながら 東条川沿いの道に出た。城名等は不詳ながら城砦があったらしいことが後で判った。


田尻氏館と念仏城について・・!!
田尻氏総領家館<總持院>     加東市東条町岡本字殿垣内

東条温泉「とどろき荘」をベースに念仏山構居(念仏城)・念仏構居(田尻氏館)・片山城・城林城等の城館遺構を探して歩き始めた山裾に「佛頂山・箒持院東條閣」の石標柱を見る。仏頂山總持院(曹洞宗)で其の山門に田尻総領家の館と掲げてあります。 總持院は田尻忠行を開基とし・三木合戦終結後10数年を経て、伝心祖印を開山に田尻家菩提寺として文禄年間頃(1592-96)に創建されたと云う。
田尻総領家館・総持院

三木市法界寺の過去帳にある「総持院殿前甲州大夫忠行大居士」が天正6〜8年(1578ー80)三木合戦の際・別所氏幕下として三木城に籠城し討死にしたとされる 田尻甲斐守忠行とされます。總持院背山の低丘陵山裾に二基の宝筐印塔があり其の一つは高さ1.12m・台座の上端には反花盛座があり、四面に 輪郭をとり内に格狭間をとり 塔身内面の月輪は大きく刻まれ、中に胎蔵界四仏の種子が刻まれ此れが別所氏の幕下田尻甲斐守忠行の供養塔といわれます…?が果たして…朽ちかけた古い木標に立てられていた「遠祖○○源氏xxx」との文字を見て、
田尻甲斐守の宝筐印塔(左)

其の事を明記はしなかったが参考とした記事に 総領家xx代:田尻氏より指摘を受けた。系図にx源氏とか○天皇を祖とすることが明記される事は重要な事でしょうが、歴史を追えば源氏も ・天皇も其の覇権を競い、権力闘争の中で継嗣の正鵠は曖昧で世襲・攘夷の善悪も一過性の中では 判断出来ません。東条の地に由緒正しき"XX源氏"の末裔:田尻氏が来住した経緯は?。重要な歴史の証人となる系図の信憑性は?、 複数の系図がある黒田官兵衛(如水)はじめ、権力で手に入れた豊臣秀吉(家康も!?)等の系図・売買の道具となった系図や、
岡本城虎口と副郭の切岸:堀切から南は深い空掘・北を竪堀が固める

また廃城後も江戸時代中期まで田尻氏が此処に住んだとされるが圃場整備で消滅した念仏構居(田尻氏館)比定地は何処?。 多々誤記載を指摘いただき推察記事を削除したところですが、田尻総領家・関係各位による”東条:田尻氏について”編纂された情報の公開を期待したいところです。そもそもの探訪の誤りは、總持院の裏山に在ったとされる念仏城…は裏山ではなく 西方の丘陵と判り再訪した。念仏構居(田尻氏館・岡本館?)について【播城史!! 】には總持院の北東220mの位置に在ったとされます。 県遺跡分布地図に示されていない空白の城館が東条町にも未だ幾つか残っている筈だが、念仏城は城史さえ不明。
岡本城):二重空掘の外空掘と土塁(1.5m程)

歴史の中で翻弄され表舞台に立つこともなかった一土豪の記録は、東播磨ではYORIさんがWebサイトで東条谷の依藤氏を詳細にレポート。歴史研究者から ・人物の存在さえ有名無実とされていた中村牛居之祐については前田さんが其の祖(前田氏も養子に入った中村氏の改姓)について調査された自著を出版されています。東条町における田尻氏と其の城砦群についても不詳・不明にはしたくないものです。 城主等の城史は歴史に残らず・遺構さえ残らなくとも、其の城砦があった証となる所在位置や城砦名だけでも残しておきたいと思うのですが…。
(加東郡誌・東条町史 を参照)

念仏城(岡本城・念仏山構居・念仏砦) 念仏山 ? 148m   加東市東条町岡本字殿垣内

岡本の總持院北東220mの位置に念仏構居が在った【播城史!!】とされるが圃場整備で消滅?位置さえ定かでない。南西山上には三木城主別所氏に与した 田尻甲斐守忠行が此の地を領し?守備した念仏城があったと伝えられている様です。 東条川沿い「東条温泉とどろき荘」からは 南方に比高約60mピークもはっきりしない低丘陵が猛烈な藪を想像させるスカイラインを見せて横たわっています。
岡本城(念仏城)主郭北面:空掘から竪堀

前回は總持寺の東方に有る貯水池傍の小社に居館跡を感じ、社の背後に広い2〜3段の平坦地を見て、其処から尾根筋に出る部分には土塁さえ見たが何だったのか…?今回は西に墓地を見て ・正面の貯水池脇から丘陵に向う山道を辿った。往時からの大手道と思える堀底道の様な斜面は、直ぐにも東側に主郭 ・西に副郭を分ける堀切状の鞍部に着く。
岡本城の主郭南面:空掘りと土塁(横矢掛)

兵庫県遺跡分布地図に念仏城の名は無いが岡本城として記載の東西のU郭を主要曲輪とする城山です。西郭 (副郭:30x35m)と東郭(主郭:40x30m)を分ける鞍部は堀切で、此処から今は西郭に入れるが、堀切を西郭沿いに少し下った処が切岸も低く虎口も有る。 堀切は南側へ延び大土塁を挟んで西郭側に堀切が竪堀状に走る。主郭側を西から南へと高い土塁(2〜3m)で囲まれた空堀が廻りこみ、 南中程では主郭側に櫓台状に突き出した部分と、外側土塁側にも幅広くなり横矢が掛けを可能として鋭角に折れを意識した部分がある。
主郭北東角の竪堀下には、更に2本の竪堀が落ちる

南から東側へは南東角に主郭に入る土橋虎口を挟んで二重空掘となり、外側の空掘土塁(1〜2m)は低くなるが主郭東北端まで廻り込んでいます。主郭東面に2本 ・北面には 東西曲輪の鞍部からの腰曲輪端から3本の短いが粗:等間隔に北斜面に竪堀が走る。短い竪堀下にも通路が北東端へ延びており、 通路東面へのコーナー部には、主郭からの竪堀に繋がり・更に谷の下方にニ本の竪堀が落ちる。
主郭南面の空掘と土塁は副郭との鞍部:主郭虎口まで続く

東への尾根続き鞍部に幅狭く堀切とも呼べない溝(近年の排水溝?)があるが堀切といえるものでもなく、緩やかな尾根通しに此の尾根最高所の151m峰を抜けて 上記片山城から安国寺へ向った山道に通じる様ですが、山麓から見た印象通りの藪尾根上に平坦地形は在るが 幅広く緩やかな尾根筋なので自然地形なのでしょう。この尾根を伝っていくと城林城にも連絡する・此処も往時からの道とされますが、 棘の枝木が多い藪道と、県遺跡分布地図にさえ城名が消えた城林城に向う熱意も失せて岡本城(念仏城!!)に引き返した。
主郭東:二重空掘の外側空掘と東南虎口付近の低土塁(0.7m程)

宅地・道路・ゴルフ場…と開発の進む一帯の中には、主郭に地表も見えない藪山ながら、 周囲に此れ程迄に完在する遺構を残す館城は少ない。城館の存在や遺構の保存が意識され始めれば、地元でも城史について研究が進むのかも知れません。公園化され無作為な整備拡張等で遺構消滅…なんて!!考え過ぎですかね?。西脇市の
矢筈山城にも城砦遺構があるが最近山頂まで公園化され遊歩道も整備されたと聞き、これから其方に向かいます。
(兵庫の中世城館・荘園遺跡 を参照)

東条湖・黒谷〜秋津台〜浦山〜秋津富士〜秋津台  H14.7.20 : H17.5.02

西脇市から県道566号を東条湖に向かい、色とりどりの三角屋根やログハウスが山腹に立ち並ぶ秋津富士に登ってみました。低山ですが地理不案内で近づくには大変なところです。全国の富士・ふるさと富士として紹介される事も無く、殆ど知られていないが(最近は少し知られるようになったかも?) 東条町では秋津富士と呼ばれ親しまれる ”ふるさと富士”です。
秋津富士山頂と(町指定)秋津3号墳

秋津台の分譲地が山頂近くの肩まで続き、坂道の左右には宅地への私有道路が迷路の様に入り組んで当初は地図を持たず山稜だけを目で追って、分譲地内の道に迷い何処をどう歩いたか思い出せないが、 車道続きに方向を違えて秋津台より 東の住宅地を詰め藪尾根を辿り、三角点峰に着いてしまい(^^ゞ?また平坦な藪尾根を辿って最後に秋津富士に出て正規?に登山口に降りて来た。 登山口にのみ”秋津富士”の標柱があったが、地図に山名も無く標高差で位置を確定するのもわかり難い所です。
秋津富士山頂から望む東条湖

その時の迷走記録からは 想像出来ないほど安直・短絡で、登山口からは10数分で絶景の展望広場が待っています2005年には秋津富士への案内板や登山道が整備され、東条町【来春2006.3には加東郡東条町・社町・滝野町合併で新 ・加東市が発足します】役場の地域 産業課のFさんから連絡を受け、東条町役場サイト等にも 記事を見てカメラだけ持って立寄った。舗装路のマンホールには5月の風に泳ぐ”鯉のぼり”の図柄が見られます。丹波市南部から西脇市・東条町にかけて地場産業として釣具・釣針製造が盛んで播州地方は全国的にも高いシェアを誇っている。

東条川(東条温泉とどろき荘付近から)


其の上・東条町の”鯉のぽり”は鮮やかな色合いや、奇抜な胴に金太郎や家紋等が描かれる「播州鯉」として知られるようで、東条川を泳ぐ(晒される )鮮やかな鯉幟の姿を一度は見てみたいものです。 西宮から郷里への帰路に無料の温泉をもらうのに、何度か”とどろき荘”に寄り西脇経由で素通りした町でしたが、源平の三草山合戦や光明寺合戦・そして嘉吉の乱や三木合戦…へと鎌倉〜室町時代の戦国期に京都・丹波・播磨・山陽道への要衝は 軍道としての歴史を重く刻んでもいる様です。秋津富士登山口にある文化財・若宮八幡宮や薬師堂や嘉吉の乱遺跡足利義教の首塚へも立寄ります。
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東条湖・黒谷〜秋津台〜!〜浦山〜秋津富士〜秋津台   2002.07.20

秋津富士への登山道は道標等も設置・整備されつつありますが、秋津台内の道は迷い易さも変わらず?、荒れた空き家が以前より目立ちます・・・H17.05.02 再び秀麗な城山(比延山城)の姿を左手に見て 566号線を走り、転げ落ちてきそうな婆岩の姿が見える下の"しら坂トンネル"を抜けます。 下鴨川で右折して東条湖に向う道はウォータヒルズ ・ゴルフ場を過ぎると東条湖ランドまではワインディングロードとなるので運転には充分注意をして下さい。
黒谷交差点付近からの秋津富士

黒谷の交差点を左折して県道75号線に入ると直ぐ左手、東条湖の東北に位置し低山ながら存在感のある富士型の端整な山が見えます。 中腹辺りに住宅地(秋津台)があって登行欲を削がれてしまいますが、此れが秋津富士(330m)と呼ばれ、頂上には町指定の秋津三号墳があってドーム状の石積みがほぼ完全な形で残っているとのことです。小さな「⇒秋津台」の標識を 見つけ秋津富士を正面に、南山麓に拡がる秋津台別荘地へと登っていきます。山裾を林道のような細く急な車道は山道を登っていくと表現したほうが似合います。 秋津台入口で早速、どちらに進もうかと思案の分岐です。分譲地区内の案内図に登山口の手掛かりもなく、見当つけて右回りの道に進みます。
秋津台最上部東側から秋津富士

簡易舗装の別荘地帯の道は 段々と網の目のように枝道が左右に分けますので、深入りすれば個人の別荘の庭に入り込んだり、下山後の駐車位置探しが大変なので 適当な広い路側に車を寄せて急坂を登り始めます(AM10:10)。山の位置など既に判らなくなり、検討をつけた先方の高みに向って歩くだけです。「宿り木へ 」の最期の看板と思える鞍部へ来てペンションとは反対の西へ出て見たが 段々下さっていくようなので引き返し途中から北??への道に入ってみる。どうやら正解かと思った道は廃別荘の玄関で行き止まり。別荘は玄関の先の小橋を渡って2階か3階が入口のよう!!。この突き当たりの別荘横からの斜面が山稜で山頂に通じているようです。 (直上に壊れた水道施設のような処あり)消えかけた山道は此処で消えますが踏み後程度は先に 延びている様です。雑木の藪ですが殆んど 高低さを感じさせないダラダラ道は何処がピークか分からないほどの平坦地に出てきます。 このあたりのどこかのピークが点名:浦山(3等三角点 374m AM10:45)だと後日、WWW検索の地図で確認した。
六方社前の「秋津富士登山口」導標

例の群集古墳は平坦に見えるこの山頂付近に 点在しているのかも知れません。藪ですが何処へでも進んで行けそうな疎林の中、しかし展望皆無で登山者のものとは思えないテープが目に付き始めます。僅かの距離にある此方のピーク(歩いていても気付かない)が秋津富士(330m AM10:50)です。 其方へ進んでいきますが何時の間には下り始めています。しかも今までとはうって変わった踏み慣らされ山道です。山道を下り始めて直ぐ、藪に隠れて確認出来なかったが、奥に大きな石積み跡が見えていたので、愛宕や権現社の祠跡かと思って素通りします。 此処にも古墳群の一つの岩室が荒廃していく姿を見せて、救いの手を待っているのかもしれません。下り始めには所々露岩もあるが湿っけた山道の雑草に隠れた岩は足掛かりすると滑りやすいので要注意です。ほんの7〜8分で別荘地最奥部の 車道に出てきました。なんと此処に「秋津富士登山口」の立派な!!?導標があります。 「六方社 東条秋津ロッジ」の前です。 しかし此処に至るまでの導標はこの後駐車位置に戻るまで見かけません。登山口までの導標が必要な迷い道です。
秋津台西側最奥部の車道から東条湖

結局は登山口と下山口を逆走してしまった形ですが、秋津台のメイズ・ゲームは此れから駐車場に戻るまで続けられます。「三角点峰・浦山から秋津富士へ 」と一つ尾根を越してきていますので、このまま秋津台別荘地の車道を降って行ったのでは、途中で開けた東条湖の景観が物語るように、トンデモないオフコースで東条湖を一周して戻ってくることになります。意識して東への尾根を越える道は 無いかと入り込んでは撤退の繰り返し。やっと南下へ続く道を当てずっぽうに降りながら、ゆっと駐車位置に戻ります(AM11:35)。知らずに辿り付いたとはいえ浦山の三角点も秋津富士の山頂位置も、墳墓の跡もはっきりと確認しないままの 山行に思いは残りますが、改めて最挑戦するのは遠い先になりそうです。
【現在(H17年)は東条町によって秋津台〜秋津富士へは、県道75号他に案内標識もあり、登山道も整備されつつあります】


黒谷若宮八幡宮本殿  東条町黒谷

県道75号黒谷交差点から東条湖ランド側への車道直ぐのところ。祭神に誉田別尊【(ホムダワケノミコト)応神天皇で八幡大神とも云われる】を祀る黒谷の若宮八幡宮の創建時期は不詳ですが、東条町唯一の国指定(昭和37年6月21日)重要文化財です。本殿は内陣板壁に「奉再興若宮殿御宝殿、永禄7年(1564)4月2日柱立、同日3日上棟」の墨書きがあり、 室町時代末期の永禄7年に再建された事が判ります。昭和43年 (1968)9月末に解体修理が完了し一部後補の変更部も復元。平成21年(2009)3月に葺替工事も完成。本殿正面の柱間が 3つあり屋根が軒に向かって長く流れ落ちる曲線も美しい柿葺(こけらぶき)の「三間社流造」で、正面軒唐破風付、軒先に用いられる唐破風の桁は向拝から身舎への登り桁となっており,このような流造りで登桁を用いた唐破風造りの神社建築は全国でも 類例の少ない貴重な遺構です。特に向拝虹梁の木鼻の裏側にある「柏葉と毛筆」の絵様彫刻は珍らしい。また向拝手挾の「菊・鯉・鶴・亀」など多彩な彫刻が美しく、龍鼻・象鼻にも室町時代末期の優れた技法が見られ、この種のものは大阪府〜和歌山県北部にかけて 見られる系統のもので、輪郭内いっぱいに薄肉彫りを 充填する特徴があるとされます。
【現地案内板・東条町(兵庫県教育委員会) 再訪による加東市説明文追加 参照】

秋津薬師堂   東条町秋津
東条温泉とどろき荘から東条川に沿っての県道75号(小野東条線)は中国自動車道高架を潜り、 三田市方面へ走ると黒谷交差点の先で”秋津薬師堂”の案内標識を見ます。県道側に建つ茅葺入母屋造の薬師堂がそれで、辻堂に祀られていた本尊 ・薬師如来坐像の胎内銘末尾には永禄11年(1568)12月9日とあり、当堂も様式・手法からみて室町時代末期(管領や守護が消滅した桃山時代初期)のものと推定され、当播磨地方における特徴の辻堂建築の形式を知る上で貴重な遺構とされています。
秋津薬師堂

柱は大面を取り、隅柱上にだけ舟肘木を組むなど意匠・構造ともに簡素な造りです。其の後 ・脇壇の安置された阿弥陀如来像の下面に宝暦6年(1756)の銘がある事から、この時期頃に内陣奥行を一間拡張して厨子を新しくし床・天井・柱間装置などに改修が加えられたようです。
(昭和42年(1967/3/31)県指定文化財 【現地案内板・東条町(兵庫県教育委員会!) 参照】

住吉神社本殿と百石踊  東条町秋津

海から遠い篠山市今田町にも・京都街道を播磨・山陽道へと抜ける途中の社町鴨川にも住吉神社と「蛙おどり」 の雨乞い神事の田楽が県指定重要無形文化財として伝わっていますが、此処・秋津の薬師堂の直ぐ近くにある式内社の住吉神社にも、同様の雨乞い神事「百万踊り」が伝承され県指定【昭和51年(1976)4月1日】重要無形文化財となっています。 住吉神社はもと森村(天神付近)に奉斉されていたが、元亀年間(1570〜73)に消失し貞亨4年(1687)に当地へ遷宮したと伝えられてるが、住吉大社の祭神【表筒(うわつつ)男命・中筒男命・底筒男命・息長芦(気長足・おきながたらし)姫命】のほか二神を祀られており、 既存の宮に合祀されたものと考えられます。神社建築で内陣と外陣が開放されているのは珍しく、各御神体が其々の宮殿に分かれて祀られていることも類例が少ないといわれます。 東条町指定(平成4年11月25日)文化財の住吉神社本殿付随身門は棟札から江戸時代初期・正保5年(1648)の建立で、向拝部の手挟彫刻や神殿の蟇股の彫刻が優れているが、拝殿からは見えないので残念です。
住吉神社本殿

秋津百石踊りは室町時代末期から桃山時代の初め頃に「雨乞い踊り」として始まったものと考えられており、記録によると享保17年 (1732)奉納の記録から昭和14年(1939)までに11回を数えています。入拝踊・忍び踊・大雨踊・都踊等の6曲があり、各踊りごとに心棒打ち(新発意=仏門の入って間もない新法師の意!)が狂言風の問答形式の口上で歌詞?囃子や太鼓に合わせて華やかに古式豊かに踊ります。 此の踊りを1回奉納するのに米百石分と云われるほどの経費を要することに由来しています。かつては各氏子ごとに踊座を持っていたが、大正末期に奉納されて以来廃れたようですが、現在は西地区に保存会が結成され伝統を継承されています。「新発意(しんぽち)踊り 」は丹波市でも”雨乞い・五穀豊穣”の念仏踊りの一種?として、氷上町や柏原町にも無形文化財として伝承されています。
【現地案内板・東条町(兵庫県教育委員会!) 参照】


嘉吉史蹟・足利義教の首塚    東条町新定

県道144号”新定”交差点の「安国寺」標識に従い南下 (坂を上り気味ですが)して寺の駐車場に着きます。白塀には”丸にニ引両”の瓦紋が足利氏所縁を示し、足利尊氏・直義が全国六十余州の国ごとに一寺・一塔を建立して戦没者慰霊と天下泰平を祈願した寺の一:播磨国の安国寺(臨済宗妙心寺派)で、 山門を入ると右手本堂前の枯山水石庭を見ながら本堂裏手の蓮池へと案内板に沿って進むと町指定文化財・宝篋印塔の説明板の立つ義教の首塚があります。 石組の基壇野上には殆ど完全な形で残された室町時代中期の凝灰岩製(高さ1.73cm)の宝筺印塔で軸石の四面に蓮華座付月輪と金剛界の 四仏の種子が刻まれたもので東条町の文化財に指定(昭和60年3月27日)されています。
足利義蕎の首塚

将軍と守護大名との紛争は先に応永6年(1399)足利義満に対し堺で挙兵した大内義弘の【応永の乱】があったが永享10年 (1438)には5代将軍義持の子義量が早世して後継ぎが無かったので、義満の子義持の弟で青蓮院門跡の義円が 僧から還俗して義教(よしのり)を名乗り室町幕府第6代将軍となる【永享の乱】が起こります。幕府と対立していた足利持氏(満兼の子)のとき、 義教は衰えた幕府の権威を取り戻そうとして、遂に義教と衝突し持氏を自殺に追い込みます。しかし義教は将軍の権力を過信してか、それとも重臣達の圧力を受けないためか次々と守護を粛清し、山名氏・京極氏の後嗣問題まで将軍が干渉し内政勢力の分断を図る強圧策等、 勝手な政治を行い政治不安を増大させ「次は我が身…」と警戒し恐れていたが、自領の一部を侵された播磨守護・赤松満祐(みつすけ)が弾圧に反発し嘉吉元年(1441)6月24日、京都の私邸に義教を招いて暗殺するという教硬手段に出た。 幕府の追討軍との戦いに満祐は赤松氏の本城城山城に立て籠もり自刃する【嘉吉の乱】が起こります。義教の首は赤松満祐が播磨河合の 堀殿城(小野市の河合城)へ持ち帰るが満祐は謀反の罪を悔い・其処から足利家ゆかりの播磨安国寺(東条町新定)へ大行列で運び盛大な法要を<同年7月26日に !!?>営んで葬ったのが此処に有る足利義教の首塚と伝えられます。遺体は足利尊氏の墓が有る等持院(京都市北区)へ運ばれたといわれ、此処には足利歴代将軍の木像が祀られます。義教の首塚は新大阪駅近くの崇禅寺にも伝えられ、 また十念寺(京都市上京区)には墓が有るといいどちらも五輪塔が祀られているのですが?
【現地案内板・東条町(兵庫県教育委員会!)及び石標の由来記 参照】
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