ヒカゲツツジの西多紀アルプス栗柄峠~御在所山~堂の峰~鋸山~三尾山
福徳貴寺~御在所山~堂の峰~鋸山2000年03月21日
三尾山~鋸山~堂の峰~御在所山~栗柄峠2002年04月06日
近畿の山城:栗柄砦 垣屋城(一枝城と西ヶ谷城) 栗柄東砦と栗柄南城(仮称) 福徳貴寺西城
ふるさと富士 丹波富士(三尾山)

校歌・故郷の山:進修小学校♪三尾の山に霧晴れて…♪
          大路小学校 ♪…歌声三尾にこだまして…♪
御在所山頂から堂の峰

福徳貴寺~御在所山~堂の峰~鋸山H12.03.21

三尾山の山麓を走っていると「コブシの花咲く三尾の森」の看板を見る (コブシよりほとんどがタムシバ?)と淡い黄色のヒカゲツツジを訪ねる山旅です。
朝のうち綾部の君尾山:残雪で濡れた体とズボンを乾かすつもりで西宮へ帰り道の篠山。多紀アルプスは三岳・西ヶ岳・小金ヶ岳が人気を独占。東多紀:八ヶ尾山/ 毘沙門山/雨石山や西多紀では佐中ダム周辺の夏栗山・黒頭峰は比較的知られた山域だがその西に連なる尾根に足跡を残す人は稀。
福徳貴寺山門にある”石風呂”

鋸山から鏡峠を栗柄峠に至る山域を今回逆走。落ち葉踏みしめ明るい林間の道はテープ類も少なく、はっきりした道はないが藪こぎするほどでもなく静かな山域で岩場も多く展望も楽しめる。堂の峰の名前の示す丹波修験道の道だったかも?。176号を草山温泉に向け倉本・坂本の先のカーブを曲がれば宮田山福徳貴寺(天台宗・比叡山延暦寺末寺)の大きな看板が目に入る。
鋸山と仁王岩(上部10m)

山門を潜ると左手に大きな石風呂がある。此処から170m程離れた畑の中で発見され年代不明だが石をくり抜いた長さ2m弱・幅1mの桶。本尊が薬師如来であり薬草風呂として入浴に使われていたものか?。雨乞いに使われていた伝説の竜の鱗(蛇の鱗)の遺品や伝承も残る。倶利迦羅不動瀧に棲む竜女を福徳貴寺の僧:祐盛(ゆうじょう)法印が成仏(悟りを開く)させ竜女が僧に謝して残したという三枚の鱗が天福・地徳・人貴の三徳表し福徳貴寺名の縁起。山門からの急坂を登って寺に向かう。福徳貴寺は聖徳太子創建・法道仙人が中興した天台宗の古刹で背山全山が寺域で一帯を五在所山(御在所山)。堂ノ峰も五在所山(西御在所山)で三角点のある御在所山(点名:浅木谷山)
倶利伽羅不動滝

にかけて隆盛を極めた大化年間(645-50)七堂迦藍や坊舎・塔頭等三十五堂宇が建ち並び春日町栢野に総門「大門」があった。大門からの参道が東鏡峠ではなかったか?。永正5年(1508)福徳貴寺合戦に堂宇を焼失し寛永4年(1627)比叡山の僧:円重法印によって再興され35の僧坊があったといい貞観年間(859-77)摂政藤原良房所領となると当寺を祈願所としたことから宮田山の山号を賜ったとされる。
宮田川の:左:栗柄南城・正面右に栗柄砦~福徳貴寺背後の堂の峰

安永9年(1780)建立された本堂は御在所山より移築された。聖徳太子の創建でこの寺も戦国期に焼かれ寛永4年(1627)再建元は裏の御在所山にあって春日町の栢野・大門に表門があったといい本堂右(東端)に踏み跡が続く。寺の脊山を巻くように進む目指す御在所山(444m 3等)は右手奥。そのまま進み堂の峰からの銃走路に出るが御在所山へ往復。多紀の南に西ガ嶽・北に堂の丸みを帯び均整のとれた山が望まれる。急坂を引き返し広く明るい林間の尾根筋を進み堂の峰(572m)の小広場へ出る。展望は期待できないが心安まる明るい場所。563mピークへの鞍部が高坂へ下る東鏡峠
間近に西ヶ岳が迫る・堂の峰付近

(PM12:50)で鋸岳(606m3等)からの展望は素晴らしい。山頂から北側の足元に見る仁王岩は大台ヶ原・大蛇嵓のミニ版の様相です。覗岩からなら上部に10m程の岩が見えるが基部からは30m程の岩場で頭部にケルンが見えていたような…その下に大黒岩始め多くの岩場が隠れている。これら北面岩場の様子と鋸岳の名を確認するには少し先のピーク辺りが絶好の展望所。一度は挑戦してみたいと思っていた岩登りのゲレンデも今では訪れる人もいないのでしょうか?。岩場の取付に向かうと思えるものは獣道かも?。鋸岳からの下降点が分からず(尾根通しが正解かも?)鞍部から谷筋を藪漕ぎで小阪へ出た。
(現地案内板 西紀町郷土史を考える会 参照)


三尾山~鋸山~堂の峰~御在所山~栗柄峠 H14.04.06

R175号線で向山連山(来週は低山徘徊オフでヒカゲツツジ観賞登山)の山裾を廻って黒井に入ってくると東方に三つの峰を並べた三尾山の特異な姿と西岳や御嶽に向かって多くのコブが鋸歯のような起伏を連ねる。標高僅か5~600m程の山々が連なる丹波古生層 (とりわけ五台山辺りから続くチャート)は愛宕山・三尾山や
覗岩から三尾山

西ヶ岳~小金ヶ岳~雨石山へと続き、剥きだした露岩は南画の世界を彷彿とさせる。硬い岩は快適なロッククライミング場を提供しているが基部に取付までが苦労のようでクライマーの姿を見ない。花々が例年より早い開花を迎え三尾の名物こぶしの花咲く三尾の森へも…桜も葉桜になる頃にはヒカゲツツジやミツバツツジが目立つ稜線なので三尾山~鋸~御在所山~栗柄峠に延長修正して丹波修験の道・西多紀アルプス縦走に出発です。中山から三尾山東峰へダイレクトに登るつもりだったが狭い集落内での駐車場所探しが億劫なので何時もの三尾山へ向うコースで佐中峠分岐。
城跡に咲くヒカゲツツジ

前回佐中ダム~鏡峠~三尾山の逆コース。鋸山~堂の峰~御在所山も2000年3月の逆コース。三尾山城も西峰と東峰の鞍部が近くなってくるとヒカゲツツジも目立ってくる。所々の谷間には三尾の花!!タムシバも岩壁をバックに白い花を浮き上がらせている。先ず東峰に寄って北正面の妙高山から向山・黒井城~五大山千ヶ峰や方向変え西ヶ岳~三岳を確認。展望は三尾本峰からなら間近に横たわる黒頭峰・夏栗とその奥に控える白髪岳・松尾山と一層素晴らしい眺望を楽しめるので 元の鞍部に引き返して西峰から本峰の山城跡へ向かう。
荒々しい山容の三尾山は此処から登りたくなります

ヒカゲツツジを前景に鋸のギザギザ尾根が続きドッシリと西ヶ岳と三岳がその奥に控える構図を此の先の岩稜歩きでもズット見続けることになる。山道の左右にヒカゲツツジのトンネルがお出迎え。三尾山頂(586m)から鏡峠までは前回・佐中三山黒頭峰・夏栗山の逆コース。佐中峠への分岐を過ぎるとすぐ現われる覗岩からは三尾の東面の谷間に白い蝶が舞っているかのようにタムシバの花が咲き、岩稜に沿ってヒカゲツツジの群落の中を進む。鋸山への主稜線は鋸歯状稜線を連ねて続く多くのコブは岩稜歩きと花を愛でながらの快適な楽しさを満喫。鏡峠までの稜線は佐中ダムから続く山道 と交錯して良い道が続く。鏡峠から木の階段道さえ現われる広い道となり佐中ダムへ下る作業林道です。
東多紀(鋸山稜線)タムシバと三尾山

林道分岐に古い案内板があり此処から踏跡を辿るコースになり多くのテープ類が鋸山~東鏡峠~高坂へと続く。鋸山ピークが近くなってくると北面が切れ落ちた急峻な山肌に切り立った多くの岩場を纏った山塊が現われてくる。ツツジ藪を分けてヤッと登り着く鋸山山頂も潅木の隙間から僅かに三尾・向山・五大山が望まれた昔と違い切開かれた山頂の展望は 多紀の三岳を始め小さな丹波の群山や京都丹波・摂津・播州方面の山まで展望の効かない部分はヒカゲツツジがカバーしてくれる。鋸山(3等 606m)からはミツバツツジやアセビ、雑木藪のなかにはヤブツバキも多くの花を足下に散りばめながらも未だ咲き残っています。いくつもの小さなピークを上下して東鏡峠(AM11:45)に着くが峠とは名ばかり春日町側へは

鋸岳山頂


踏跡さえ消えた明るい雑木の中に高坂への下降点を示すテープが続く。此処から堂の峰~御在所山への縦走に入ると踏み跡も薄くなり進むに従って間隔も長くなるが古い赤テープは残る。緩やかな尾根、似たような多くのピークを越え小広い自然林に囲まれた堂の峰(572m)には前回とコースは違うが10分違いの到着です。堂の峰から御在所山への鞍部へ急斜面を駆け下る が自然林のスリットを通して西ヶ岳と三岳が御在所の黒い山影が透けて見える。広い鞍部からは左手に栗柄への境界尾根を分けて南への枝尾根に続く 細い踏み跡を辿り急な斜面を登り切ると
三尾本峰への稜線から鋸山連峰と三岳

赤白測量棒の立つ御在所山(4等 浅木谷山444m)で湿っぽく薄暗い山頂に西面だけが開けて堂の峰の丸いピークが望める。立木が伸びたせいで此処からの西ヶ岳はよく見えない。三角点標柱も見当たらなかったが足で落葉を蹴散らしていたら腐葉土と化した落ち葉の下から白い三角点が顔を出した。元の分岐へ戻ってからは辿る尾根の左右に境界標識の尾根!や踏み跡が幾つもあるが目指す栗柄峠へと左右の車騒音を探り見定めて最後はヒノキの植林帯を県道69号線の栗柄峠の観音堂前駐車スペースに降り立つ。草山温泉方面へ向う97号との分岐から50m程・草山温泉へ向う97号線との分岐からも50m程の地点で栗柄は三方を山に囲まれた盆地で付近は大変珍しい谷中分水界。

鋸山北面のリッジ

鼓峠から日本海側と分かれた水は宮田川~篠山川~加古川を経て海に注ぎ栗柄峠の観音堂から 倶利迦羅不動滝に流れてきた水は滝の尻川~竹田川~由良川を経て日本海側に注ぎ込む二つの分水界があり栗柄峠を春日町側へ抜ける日本一低い分水界のある氷上町がある。観音堂の「蛇の枕」・龍の鱗のはなし・倶利迦羅不動の滝・谷中分水界等は定利山~高王山を参照ください。


栗柄砦 栗柄東砦と栗柄南城(仮称) 垣屋城 福徳貴寺西城

栗柄砦(栗柄城)
 330m 篠山市西紀町栗柄

貞観年間(859-77)藤原良房の所領した宮田荘は応安年間(1368-75)山名氏が丹波守護を得て板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱による山名氏清の敗死後応永年間(1394-1428)丹波守護となった細川氏が支配するところとなります。
栗柄峠

この宮田荘から京・丹波・但馬を結ぶ街道の要衝で最奥部に位置する栗柄峠が京都三和町と春日町への分岐点。此処はまた県道97号の通る鼓峠に源を発する宮田川水系と県道509号で桑原へ通じる無名の峠に源を発する杉ヶ谷川が僅か150m程の幅で平行に流れているが「倶利伽羅不動」付近で杉ヶ谷川が春日町へ向う県道69号沿いに突然流れを変え深い谷を形成して倶利伽羅不動の滝を降り由良川水系の竹田川を日本海へ流れでます。 宮田川は緩やかに篠山川へ流れ出て加古川水系となり瀬戸内海に下る谷中分水界となっており全国的にも珍しい河川争奪が見られる貴重な場所です。
栗柄砦・北東面の低土塁

栗柄峠から竹田川に沿って春日町へ向うと険しい山容を見せる三尾山には明智の丹波攻めでは黒井城主荻野直正の弟赤井刑部幸家が拠った三尾山城がある。天正4年(1576)第一回丹波攻め(黒井城攻略)に明智光秀傘下にいた八上城の波多野氏等丹波勢が示し合わせた?叛乱「赤井の呼び込み戦法」に不意を突かれ命辛々亀岡(亀山城)へと明智光秀が敗走したルートが栗柄峠から鼓峠?…へ篠山と京丹波の三和町間のルートだが平安期~からの古い集落:栗柄町から氷上(丹波市)春日町方面への丹波越えは行き止りの閉塞道。春日町側からの栗柄峠が開かれたのは江戸時代初め
南坂虎口の造出し(虎口は造出部を右に回込む平入虎口

の頃らしく”大石良雄の妻:りく”が篠山から宮田・板井・小坂から佐中峠を越え春日町へ入る但馬道ではなく栗柄峠を越え・黒井城下を春日町西端の天王坂へ回り青垣町から遠阪峠を朝来市に入った。栗柄砦要衝監視砦の場合栗柄峠に繫がるルートは 杉ヶ谷(栢野の大門から堂が峰山上の福徳貴寺に至り現在地の麓に遷った福徳貴寺の坂本へ下るか、
北東面の低土塁・切岸

栢野の北方:野瀬を経由して「くりや峠340m」から稜線を辿り点名:杉谷(484m)~定利(さだとし366m)山へ縦走して倶利伽羅不動の滝に降りるか?・峠を越えて栗柄ダム・サイトの県道509号(本郷に通じる道から)を栗柄峠に向かう。推測だが国領から佐中峠・鏡峠は三尾山城の警固があり 敗走ルートは栢野で二手に分かれ:高坂峠や福徳貴寺越えで宮田荘に出て栗柄-鼓峠を越える堀部兵太夫が光秀の影武者となり
同上から折れを伴う虎口部と低土塁

波多野氏方の畑牛の丞・細見将監らの待伏せに遭い討たれた。一方:光秀は栢野から野瀬経由の「くりや峠」を越え桑原・草山から山陰道(R9号)三和・友渕へ脱けたものか?友渕なら福知山城(横山城)攻めの向城がある。鼓峠-栗柄峠付近の複雑な河川争奪:谷中分水界の地。 西ヶ岳から三岳-小金ヶ岳への丹波修験の道は三尾山-鏡峠-鋸嶽から栗柄砦・栗柄峠を繋ぐ中継点でもあり、栗柄に観音堂・山伏の禊ぎ(修行を終えた最後の水行か?)の倶利伽羅不動の滝がある。 京都府・篠山市・丹波市へ三方への街道が交差する要衝だが
栗柄ダム

江戸時代初期頃までの丹波市側春日町方面への丹波越えは行き止りの閉塞道の為(上記参照)丹波市春日町からは栢野から野瀬の谷詰めで 「くりや峠」に立ち点名:杉谷-定利山-栗柄の観音堂へまた:くりや峠から栗柄ダムサイトを抜ける街道(県道509号:桑原栗柄線)を栗柄峠に至ったものか?。倶利伽羅の滝の向いの山頂にある栗柄砦は御在所山~鋸山~三尾山に続く山稜の東先端峰に僅か30m四方の削平地があり山道はその北端境界を御在所山へとのびているが此処を通過するハイカーで城址(砦)と気付く人はほとんど?いない。
栗柄ダムサイト509号(桑原・菟原に通じる)の右に栗柄東砦

雑木の中で展望はないが山道からは木々のスリットを通して春日町側の展望があり山間を但馬・京都・摂津へ抜ける街道が通じる交通の要衝で氷上・篠山との境に位置し黒井城の東玄関を監視する 重要な位置にある為荻野直正配下の砦?・三尾山城の出城!とされてきたが春日町側を望む場所に単郭で周囲の曲輪に堀切もなく南面に2-30cmにも満たない極低土塁が一部に残るだけ。城域の 輪郭が分かる程度の山城の伝承では荻野直正が明智勢を栗柄峠に壊滅させた頃、此処に砦を築いたともされるが東西に延びる曲輪の虎口は左右の曲輪間を回り込むように(横矢が掛る折れ?)斜上する坂虎口!?:平入り虎口。
観音堂側から栗柄南城と多紀アルプス西ヶ嶽

低土塁の他は城域周囲に空堀・竪堀等の防御設備を一切見ない。虎口等織豊系縄張は再度:第二次黒井城侵攻前に明智勢により築かれたものと推察される。八上城・黒井城を繋ぐ要所の分断を図るため金山城が築かれ栗柄砦も同目的と思えるが当初は三ツ尾山城への付城、三ツ尾城落城後は黒井城側(主に国領)への通行を遮断。宮田荘内の垣屋城や板井城も既に落ち:一般通行には高坂から鋸山稜を越え栢野で栗柄峠からの道に合流したものか?。三尾城は天正6年(1578)12月・明智光秀の部将:妻木主計助範賢の黒頭峰・佐中峠方面からの攻撃で落城している。
(栗柄峠・谷中分水界説明板参照)


栗柄東砦と栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城:仮称)
栗柄東砦(仮称) 310m 篠山市西紀町栗柄
栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城:仮称)  360m 篠山市西紀町栗柄

宮田の篠山市役所西紀支所から”黒豆の館”前を宮田川沿い県道97号が丹波市春日町側からの 県道9号(春日栗柄線)と合流する「栗柄峠」交差点からは東北正面の栗柄ダムサイトへ向かう県道509号(桑原栗柄線)が桑原・本郷・草山温泉や箱部峠をR9号山陰道の「菟原」へ通じる。県道69号は鼓峠を越えて本郷・草山温泉に向かう。友渕には横山城攻めの陣城:福知山城築城後は亀山城間の中継ぎの城(西の古城・東の古城)がある。
栗柄東砦:コミセン東側に落ちる竪堀

先述の県道509号は桑原公民館前で県道710号(本郷辻線)をとれば本郷交差点で県道97号に合流する。鼓峠と栗柄峠の谷中分水界・栗柄峠では宮田川へ流れ出る筈?の杉ヶ谷川が栗柄峠の観音堂近くで北へ突如流れを変える河川争奪地形が観られる複雑な地形。現状と江戸時代以前の街道筋とは一致しないが但馬・丹波方面・篠山・摂津方面・京丹波・京都方面の街道三ルートが交差する要衝にありながら現在まで街道監視等の城砦遺構は栗柄砦が知られていただけ!?。
横堀から竪堀となり落込む辺りの南曲輪と主曲輪(最上部)

栗柄東砦(仮称):県道509号の西側を栗柄ダム・東側を北から 南へ突出す低丘陵の南先端部:比高僅か20m程の丘陵頂部に監視砦があり!!上記三街道が監視出来る絶妙の位置にある。天正4年(1576)黒井城攻略に際し篠山八上城主波多野氏の突然の謀反「赤井の呼び込み戦法」に不意を突かれた明智光秀は丹波市春日町から 京丹波:三和町ー園部・亀岡へと命辛々逃げ帰った敗走したルートとされているが?江戸時代初期頃まで丹波市側春日町への丹波越え”栗柄峠”は行き止りの閉塞道の為、丹波市春日町栢野からは高坂峠越えか?北方の野瀬から谷詰め「くりや峠」を経由すれば
栗柄東砦:横堀から竪堀となり落込む(手前)辺り南曲輪と主曲輪(最上部)

栗柄峠に繫がるが!!…わざわざ京丹波・三和町側に出てから逆方向の栗柄峠-鼓峠越えの迂回は考えられない?。しかし鼓峠にある古戦場に光秀の影武者として討たれた”堀部兵太夫”の伝承が残る。堀部らが高坂越えか稜上にあった旧:福徳貴寺から坂本へ出て栗柄峠へ…一方:光秀は野瀬…くりや峠を越え三和町側へと二手に分れて敗走したものか?。栗柄峠が多紀郡(篠山市)・氷上郡(丹波市)郡境界の分断を図る鐘ヶ坂の金山城同様:要衝監視の重要地点として栗柄砦を
土塁囲いの主曲輪中央に祭祀(稲荷?)記念碑

築いたものと推察してみるが?、栗柄峠を挟んで呼応する位置にある栗柄東砦(仮称)の関連は不詳。城域の尾根筋南曲輪下の横堀から山麓のコミュニティーセンタ側近くまで長い竪堀を落としている。尾根続き東に堀切はなさそう(未調査)だが西の数段小曲輪上には北面から西尾根上に土塁を廻し 中央に何か?の記念石碑が建つ。一段高く広い土壇の南端にはサイレン塔(昼夜の時報チャイム等:現稼働中)施設が建つ。曲輪からは緩斜面をそのまま西尾根筋に同化して下る。
主曲輪を囲む土塁:北東面に509号を俯瞰

西尾根筋の古墓地址から少し下った処に細見家墓地!。 鼓峠を東へ越えた本郷に細見将監の館・本郷城がある。 将監は八百里城の畑牛之丞らと鼓峠に光秀軍を要撃し堀部兵太夫を討つが本郷城西の出曲輪だったか?。三和町が本拠の細見氏なので栗柄東砦が持城なら北方の丹波市境「くりや峠」付近にも未発見の城砦があるかも…!!。さて墓参道は麓の猪垣フエンス開閉口の作業小屋前・フエンス沿いはコミセン横や集落に抜けるよう?。栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城:仮称):宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領以来:摂関家渡領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。
栗柄南城:梶ヶ谷を詰めた尾根続き南端の堀切!

:貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかった。其の後も正安3年(1301)掃部某が不法により公文職を罷免され、悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…という。宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域、宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本から 最奥部の栗柄は宮田荘内だが葛川明王堂の所領として領主・官吏を異にしていたようで永正元年(1504)「明王院文書」によると
古い縄張りに突然現われる二重堀切!

大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切している。福徳貴寺は明王堂を奥の院としている。栗柄東砦は其の位置や縄張り規模からも要衝監視砦域を出ないが 福徳貴寺城と栗柄南城は尾根上に二重堀切と一条の堀切が 曲輪群を挟んで似たような縄張りの城。中沢氏の築城と推定するが此地には応安年間(1368-75)山名氏が丹波守護職を得て板井城はじめ多くの城砦群を築き明徳の乱に山名氏清敗死後応永年間(1394-1428)丹波守護細川氏支配となる。
栗柄南城:二重堀切

更に永正5年(1508)細川氏内乱に「細川澄元派の中沢氏・酒井氏一党と細川高国派の波多野氏・波々伯部氏・大芋氏に起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失。此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免されている。福徳貴寺南西丘陵上の城砦遺構は情報を得ているが未訪。栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)ともに此の合戦に波多野氏側?か中沢氏側?が使用したかは”古文書等:記録や伝承等”検証も出来ていないが先ずは栗柄南城が訪れる。
栗柄南城:北先端に数段の小曲輪

栗柄峠南正面の丘陵尾根先付近にあって山裾北面を宮田川が自然の濠となって流れる。栗柄集落南入口の西ヶ嶽登山口と八柱神社付近から愛染窟を経由して西ヶ嶽に至る御嶽修験道?との粗中央付近:574m峰から北へ延び出す尾根先の主郭部350mには二本の土橋付き堀切・尾根続き背後にも浅くなった堀切が一本あるが技巧的な縄張・構造を見ない。二重堀切には後の支配者により改修されているのかも!?。正安3年公文職を罷免され栗柄村に入った掃部某が一族徒党300余を率いて構えた砦か?…其の後:葛川明王堂領を請切した
栗柄南城:北先端に数段の小曲輪

大山荘の中沢氏・丹波守護職となった山名氏?…細川氏?・福徳貴寺合戦の臨戦に利用されたか・福徳貴寺合戦に勝利した波多野氏方が使用したか?。栗柄砦周辺に確認されている城砦遺構は天正6年頃!…明智光秀の八上城・黒井城間通行の監視砦として築かれたと思われる栗柄砦以外なく、しかも丹波市春日町ー栗柄峠は閉鎖道でルートが拓かれたのは江戸時代に入ってから!なので要衝監視なら春日町栢野の大門から
栗柄南城:二重堀切の北に主曲輪(東西15x南北28m程)

福徳貴寺や高坂道・栢野-野瀬から点名:杉谷~尾根伝いに栗柄峠か現:杉ヶ谷を栗柄ダムに至る県道509号があるが篠山市街地・本郷方面いずれに向かうにも遠いだけ!!。栗柄の明王堂は丹波修験道の宗徒らによる御嶽修験道場の里坊?に近い南城が明王堂入口を護る砦として機能していたものか?。丹波修験道は御嶽が主体。火打岩から(大タワ)多紀連山三岳へのルートには大峰修験道の宗徒等の襲撃をうけた際に福泉寺城”が築かれていた?様に栗柄南城も大峰修験と宗徒らの襲撃に備えた砦だったか…?。

福徳貴寺西城 ? 400m 篠山市坂本

JR篠山口駅前R176号から篠山川を渡った処で県道97号(篠山三和線)に右折し宮田川沿いに市役所西紀支所ー”黒豆の館”前を直進し西紀地区最奥の栗柄集落内栗柄峠を目指す。県道69号(春日栗柄線)分岐栗柄峠のT字辻で「倶利伽羅不動の滝・くりから谷中分水界」の 案内標識と案内板を見る。
県道97号から福徳貴寺西城

栗柄峠の倶利伽羅不動と観音堂栗柄砦・栗柄南城・栗柄東砦…等は 上記にUPしたが栗柄峠にあった明王院(延暦寺に属する天台回峰行の道場)を奥の院とする福徳貴寺が栗柄峠手前 (宮田川沿い県道97号南下流約2kmの坂本にあり寺号宮田山福徳貴寺(天台宗比叡山延暦寺末)で地名の坂本にも起因する・背後の全山が寺域で堂の峰・五在所山…鋸切山から
福徳貴寺側に落ちる尾根東先端の堀切

三尾山城へと岩稜尾根が延び明王院(観音堂)とともに山岳回峰の丹波修験の道場。栗柄砦は当初:三ツ尾城赤井幸家の砦説もあったようだが織豊系縄張り特徴!?がみられるところから明智光秀による丹波国黒井城攻略に築かれた砦と考えられているよう。ただ築城目的が金山城のように八上城・黒井城を分断するにしては江戸期まで栗柄峠から丹波市側を直接結ぶ街道はなく行止りの閉塞道だったよう!?。それにしても山間のちいさな集落内には栗柄砦以外にも 栗柄峠周辺に2-3城砦遺構が残る。
露岩層上の小曲輪

宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領となって以来:摂関家領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後 :近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかったが正安3年(1301)不法により宮田荘公文職を罷免された掃部某が悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない
50m程のフラットな主曲輪

宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…といい当該砦の一つが栗柄南城ではなかったか…?。宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域だが宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本から最奥部の栗柄まで宮田荘内だが葛川明王院の所領として宮田荘とは領主・官吏を異にしており 永正元年(1504)「明王院文書」によると大山荘地頭中沢元基が年契約で請切している。栗柄南城は古城をこの際に中沢氏が改修して監視哨として使用したものか?。
主郭西面を捲く帯曲輪

福徳貴寺は第31代用明天皇(在位585-87)の代に聖徳太子開基を伝え、法道仙人により中興され第36代孝徳天皇大化年間(645-50)三十五坊を数えたと云う。推古-大化年間(627-49):宮田荘が摂政「藤原良房」の所領となったとき、福徳貴寺を祈願所として荘園の名をとり「宮田山」を号し隆盛を誇った。此処福徳貴寺南西丘陵上に残る城砦遺構がある。栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)(仮称)ともに尾根上の曲輪群を挟んで下部と上部の一方には一条・一方を二重堀切を設けて遮断しているが縄張りに技巧的な構造を観ない?。
主郭部北端の二重堀切

応安年間(1368-75)には山名氏が丹波守護職を得て西紀に板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱に山名氏清の敗死後の応永年間(1394-1428)には丹波守護:細川氏の支配するところとなる。永正5年(1508)細川氏の内訌(内乱・内紛)に「細川澄元派の中沢氏・酒井氏一党:細川高国派に波多野氏・波々伯部氏・大芋氏」らに起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失した。
主郭部北端の二重堀切

なお此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免された。福徳貴寺西城は此の福徳貴寺合戦に使用されたものと思われるが合戦の攻防に当城に拠った勢力が澄元派の中沢氏らなのか?高国派の波多野氏らかは不明未調査です。城砦遺構については割愛し添付画像に委ねます。


垣屋城(一枝城と西ケ谷城)
垣屋城(一枝城) 女山? Ca270m 篠山市西紀町垣屋
垣屋城(西ヶ谷城) Ca280m 篠山市西紀町垣屋字西ヶ谷

県道97号(丹南三和線)宮田の篠山市西紀支所周辺の西谷城・板井城・内場山城等を昨日廻って見残した宮田荘内の城として最奥の栗柄砦を訪ねた後、垣屋へ戻りバス停の案内板「垣屋の史跡」に示される垣屋城の取付点を探す。案内図では八幡神社背後の山に垣屋城・西ヶ谷城と東端に一枝城があるが西ヶ谷城についての城史等は不明。
垣屋城(一枝城)遠望
垣屋城(西ケ谷城)登城口の八幡神社

丹波春日方面から栗柄峠、京都府側の草山・本郷から鼓峠を越えてくる街道を監視する砦規模の小さな城です。多紀アルプス群の鋸山へ向う登山口・高坂集落から垣屋集落を宮田川へと流れ出る合流地点に突き出し先端に丸い頂部を見せる小山があり此処が垣屋城とは検討は付くが田畑の奥には鹿除けフエンスが張られ 顕著な登路を見つける事が出来ず山裾沿いに進む。垣屋集落西端付近から町木の樫の巨木と鳥居が見える八幡神社に向かう。
垣屋西ケ谷城・一枝城間の尾根には秋葉社が

神社奥の谷筋には雛壇状の平坦段があり波々伯部氏一族の屋敷跡だったのでしょう!?。最奥は廃寺安養寺跡か石積みをみる。其の背後の尾根に西ケ谷垣屋城が在る。八幡神社は祭神に応神天皇と市寸嶋昆売命(いちきしまひめのみこと)を祀り建久元年(1190)平家(新田氏)の落武者の末孫波々伯部孫四郎が一の谷より逃れる途中、岩清水八幡に詣で加護を受けたので此処・在住の地に八幡社を創建したと伝えられます。
西ヶ谷古墳から続く北尾根上に垣屋城(西ヶ谷城)がある

西ケ谷垣屋城と一枝垣屋城の間を遮るように 枝尾根が延びてくるが尾根途中には秋葉社が祀られ麓から参道山道が通じています。此の尾根と一枝垣屋城の間の谷間には 幾段かの屋敷跡と思える削平地が拡がり上段の平坦段には城主・波々伯部孫四郎一族の墓と伝えられる宝篋印塔や五輪塔がある。
垣屋城(西ヶ谷城)北尾根端の堀切

垣屋城(西ヶ谷城)八幡神社の東北の谷筋に、ぬかるむ何段もの削平地があり此処が波々伯部氏の屋敷跡と菩提寺・安養寺跡だと思われる。波々伯部氏の本拠:淀山城のある篠山町辻に安養寺廃寺があるが関係・関連については不詳。藪の何もない急斜面を尾根先端部に出ると露岩の重なりが西ヶ谷古墳(1号墳 径20m・高さ3m)だった。
垣屋西ヶ谷城の堀切から主郭

古墳の墳丘部を出曲輪として見張り台にでも使用したものか。北に延びる緩やかに登り下りする尾根の鞍部に下方の屋敷群から登ってくる登城道だろうか? 短い竪堀状の窪地が尾根上の平坦地に登り着く虎口と思われる部分もある。尾根上の削平は粗く曲輪の段差もよく分からない程だが北の尾根を遮断する一本の堀切だけが城址!!である事を思い起こさせます。
垣屋一枝城側の屋敷跡!!に一族の宝篋印塔・五輪塔が祀られる

尾根末端部の古墳から東側へ間伐の林を降れば 宝篋印塔等や五輪塔が残されている武家屋敷跡!!です。垣屋城(一枝城)尾根道は明確になるがそのまま 主尾根は鋸山へと続くので斜面をトラバース気味に東側の枝尾根に移っていくと藪の尾根西側の一枝城の城域端に 突然土塁を伴う大きな一本の堀切が現れる。此処が垣屋城(一枝城)で、
垣屋一枝城側の谷:宝篋印塔

堀切と3m程の切岸を登ったところにも高い土塁があり細長い主郭に沿って左右に腰曲輪・帯曲輪が東へ降る尾根にも曲輪が続き、竪堀も見えるが密生する篠竹・矢竹と雑木藪の中では尾根筋も左右に数段続く腰曲輪・帯曲輪や其の切岸等の縄張り状況が良くわからない。室町時代初期(南北朝が分立した建武・元弘の争乱時期)宮田荘にいた波々伯部為光が波々伯部(ほほかべ)氏を称していた。
垣屋一枝城:尾根西端の堀切と主郭の切岸

足利尊氏が丹波篠村で旗上した元弘3年(1333)久下氏・波賀野氏・酒井氏等と馳せ参じて以降、尊氏の下で勢力を伸ばしてきた為光は源(八幡太郎)義家の四男・新田義国の三男・義安の孫・房光の裔(血族)といわれる。建武4年(1337)戦功により(為光は宇治川の合戦で討死しているが子の光則が足利義政に仕え)丹波国多紀郡地頭職に任じられ波々伯部保を賜わり淀山城を築城している。
垣屋一枝城東面:主郭と帯曲輪

垣屋城
を築いた波々伯部氏は辻の淀山城から分家した一族で菩提寺:安養寺を村名としていたが戸数も少なく垣屋に統合された。応安年間(1368-75)には山名氏に、明徳の乱(1391)に山名氏が守護職を失い代わって細川氏が再び守護職となり、応永年間(1394-1428)頃には細川氏の傘下に組入れられるが其の後衰退していく経緯の詳細は不明!!。垣屋は永正年間(1504-21)頃までは機能していたと思われます。山間に残された宝篋印塔・五輪塔が語る室町時代・永正年中(1504-21)波々伯部孫四郎基継の築城とされ其の子又五郎基恒のとき廃城となった様です。
垣屋城(一枝城)主郭と東側の帯曲輪

此の谷に残されている宝篋印塔や五輪塔の残欠も往時(室町時代末期)のもので孫四郎一族の墓と思われ 明治初期には14基あったそうですが現在は5基程が残されています。丹波守護の変遷を追ってみると戦国時代に細川氏や足利幕府の勢力に衰えが見え始めると、三好氏が勢力を持ち丹波守護細川氏の丹波守護代内藤氏(八木城)を支援し松永氏(久頼)が勢力を振るったが 天文年間(1532-55)波多野氏が勢力を伸ばしてくると八上城を築き永禄9年(1566)波々伯部光政が波多野氏らと松永氏を亡ぼします。
垣屋一枝城東南端付近:二段の帯曲輪切岸

垣屋の波々伯部氏と城史は孫四郎以降の動向が分からないが守護山名氏や細川氏の傘下に入ったが、やがて織田信長の”丹波攻略”が始まり天正5年(1577)明智光秀軍との戦いでは波々伯部光吉が八上城に籠城して戦います。翌・天正6年(1578)8月には同じ宮田荘の板井城(城主・山名小太郎)と共に波々伯部氏本拠の淀山城や 其の支城群の東山城・南山城・畑市城や平内丸・遠く離れている垣屋の城(一枝城と西ケ谷城)も、このとき明智光秀に攻められ落城したようです。
(戦国、織豊期城郭論ー 八上城研究会編 を参考)
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