ヒカゲツツジの西多紀アルプス 栗柄峠〜御在所山〜堂の峰〜鋸山〜三尾山
篠山市  地図(五万図=篠山
T福徳貴寺〜御在所山444m〜堂の峰572m〜鋸山606m  2000年03月21日
U三尾山586m〜鋸山〜堂の峰〜御在所山〜栗柄峠   2002年04月06日

近畿の山城:栗柄砦 垣屋城(一枝城と西ヶ谷城)
ふるさと富士:丹波富士(三尾山)

校歌・故郷の山:進修小学校  ♪三尾の山に霧晴れて 光り輝くこの庭に・・・・・♪
          大路小学校  ♪明るい光りここに道 歌声三尾にこだまして・・♪
御在所山頂から堂の峰

三尾山の山麓を走っていると「コブシの花咲く三尾の森」の看板が見えます。その白いタムシバと、淡い黄色のヒカゲツツジを訪ねる山旅でしたが今年(2002)は余り咲いていないようです。 このような年は雨が多いといわれていますので、今年は大洪水の警戒が必要なのでしょうか!!。     


T西多紀アルプスの知られざる里山 御在所山〜堂の峰〜鋸山 H12.03.21
 
朝のうち綾部の君尾山に登り残雪ですっかり濡れた体とズボンを乾かすつもりで、西宮へ帰り道の篠山に寄ります。多紀アルプスは中央の三岳・西ヶ岳・小金ヶ岳が一方的に人気を独占していて東多紀の八ヶ尾山・毘沙門山・雨石山や西多紀では 佐中ダム周辺の夏栗山・黒頭峰は比較的知られた山域ですがその西に連なる尾根に足跡を残す人は稀なようです。鋸山から鏡峠を栗柄峠に至る山域を今回逆走しました。落ち葉踏みしめ明るい林間の散歩道はテープ類も少なく、はっきりした道は無くても藪こぎするほどではありません。静かな山域で岩場も多く展望も楽しめる素敵なコースです。堂の峰の名前の示すとおり丹波修験道の道だったのかも知れません。
福徳貴寺山門にある”石風呂”

176号を草山温泉に向け倉本・坂本の先のカーブを曲がれば宮田山福徳貴寺(天台宗・比叡山延暦寺末寺)の大きな看板が目に入ります。寺の山門(AM11:25)を潜ると左手に大きな石風呂が置かれており、元は此処から 170m程離れた畑の中で発見されたものです。造られた年代は不明ですが、石をくり抜いた長さ2m弱、幅1mの桶になっていて、寺の本尊が薬師如来である事から薬草風呂として入浴に使われていたものと思われています。また・雨乞いに使われたという伝説の竜の鱗(蛇の鱗)といった遺品や伝承も残されています。山門からの急坂を登って寺に向います。福徳貴寺は聖徳太子の創建で、法道仙人が中興したといわれる天台宗の古刹で、背山全山が寺域で一帯を五在所山(御在所山)と呼ばれ、堂の峰も五在所山(西御在所山)で三角点のある御在所山(点名:浅木谷山)にかけては隆盛を極めた大化年間(645-50)七堂迦藍や坊舎・塔頭等三十五堂宇が建ち並び、表山門がお隣の春日町栢野の大門という場所にあったと伝えられています。

鋸山と仁王岩(上部10m)
 
往時・春日町栢野の大門からの参道が東鏡峠ではなかったかと思ってみます。しかし、永正5年(1508)の福徳貴寺合戦でこれらの堂宇を焼失し、 寛永4年(1627)に比叡山の僧「円重法印」によって再興され、35の僧坊があったといわれ、貞観年間(859-77)摂政・藤原良房所領となった宮田荘で当寺を祈願所としたことから、宮田山の山号を賜ったとされています。 本堂は安永9年(1780)建立されたもので御在所山より移築されたものです。聖徳太子の創建でこの寺も戦国期に焼かれ寛永4年(1627)に再建、元は裏の五在所山にあって春日町の栢野の大門に表門があったといわれます。 本堂右(東端)に踏み跡が続きます。寺の脊山を巻くように進みますが目指す御在所山(444m 3等三角点 am11:55)は 右手奥ですのでそのまま進み堂の峰からの銃走路!に出ますが御在所山へは往復することになります。多紀の南に西ガ嶽・北に堂の丸みを帯びた均整のとれた山様が望めます。急坂を引き返し堂が峰に向かいます。広く明るい林間の尾根筋を進み堂の峰(572m Pm12:20)の小広場へ出ます。展望は期待できませんが心安まる思いの明るい場所です。
間近に西ヶ岳が迫る・堂の峰付近

563mピークへの鞍部は高坂へ下る東鏡峠(PM12:50)です。MTBだとこれより鋸岳にかけて 2〜3のピーク前後は岩場混じりの急坂通過がネックになります。藪こぎがない分楽でしょうが鋸岳(606m PM1:40)3等三角点からの展望は実に素晴らしい。山頂から北側の足元をみてください。 此処から見る仁王岩は大台ヶ原・大蛇ーのミニ版の様相です。覗岩からなら上部の10m程の岩部が見えますが基部からだと30m程の岩場です。頭部にケルンが見えていたような・・・此処からは見えないがその下に 大黒岩を始め多くの岩場が隠れています。これらの北面の岩場の様子と鋸岳の名を確認するには、も少し先のピーク辺りが絶好の観察展望所です。一度は挑戦してみたいと思っていた岩登りのゲレンデですが 今はもう訪れる人もいないのでしょうか。岩場取り付きに向かうと思われる踏み後らしいものはありましたが、獣道かも?? 鋸岳からの下降点が分からず(尾根通しに進むが正解のようです)に下った鞍部より谷筋を藪漕ぎで 小阪(PM3:00)へ出てしまいました。またまた遠回りの周回となりました。
(現地案内板 西紀町郷土史を考える会 参照)


U 三尾山〜鋸山〜堂の峰〜御在所山〜栗柄峠 H14.04.06

R175号線で向山連山(低山徘徊オフで来週ヒカゲツツジ観賞登山予定)の山裾を廻って黒井へと入ってくると 東方に三つの頂を突き上げる峰を並べた三尾山 (みつおさん)の特異な姿と、西岳や御嶽に向かって多くのコブが鋸歯のような起伏を連ねて続いているのが見えてきます。標高僅か500〜600m程の山々が連なる丹波の古生層、とりわけ五台山辺りから続くチャート(硅岩)は愛宕山や此処 ・三尾山や西ヶ岳〜小金ヶ岳〜雨石山へと続き、 剥きだした露岩は南画の世界を彷彿とさせる。
覗岩から三尾山

硬い岩は快適なロッククライミング場を提供しているのですが、基部に取り付くまでが苦労のようでクライマーの姿を今では殆ど見ることは無いようです。三尾山の姿が迫ってくると ツイ何時もの舞鶴自動車道トンネル下へ向ってしまいます。花々が例年より早い開花を迎えていますので三尾の名物!!「こぶしの花咲く三尾の森」看板も片付けなくては・・・桜も葉桜になってくる頃にはヒカゲツツジやミツバツツジが目立つ稜線です。いっそのこと三尾山〜鋸〜後在所山〜栗柄峠にコースを延長修正して 丹波修験の道・西多紀アルプス縦走の出発です。トンネル下の橋梁と林道に入って直ぐの処に登山者の車が止まっています(AM8:50)。
城跡に咲くヒカゲツツジ

一台は休憩小屋のところから始まる三尾山東面岩場に向う2名のもの。もう一台は三尾城跡で出会ったカップルのものらしい。 本当は中山から三尾山東峰へダイレクトに登ってくるつもりでしたが狭い集落内での駐車場所探しが億劫なので何時も通りで。三尾山へ向うコースで佐中峠分岐の覗岩までのガイドは不要ですね。前回佐中ダム〜鏡峠〜三尾山の逆コースです。また鋸山〜堂の峰〜御在所山も2000年3月の逆コースです。三尾山城(三尾城 )も参考までにどうぞ・・・西峰と東峰の鞍部に近くなってくると、もう花を咲かせたヒカゲツツジも目立ってきます。所々の谷間には三尾の名花!!・タムシバも岩壁をバックに白い花を浮き上がらせています。荒々しい山容の三尾山は此処から登りたくなります

先ず挨拶代わりに東峰に寄って(AM9:25)北正面の妙高山から向山・黒井城〜五大山千ヶ峰 やグルリと方向変えて西ヶ岳〜三岳を確認します。 これら展望は三尾本峰からなら間近に横たわる黒頭峰・夏栗山とその奥に控える白髪岳・松尾山を足して一層素晴らしい 眺望を楽しめるので、元の鞍部に引き返して西峰から本峰の山城跡へ向かいます。ヒカゲツツジを前景に鋸のギザギザ尾根が続きドッシリと西ヶ岳と三岳がその奥に控える構図を此の先の岩稜歩きではもズット見続けることになります。 山道の左右にはヒカゲツツジのトンネルがお出迎えです。三尾山頂(586m AM9:40)から鏡峠までは前回・佐中三山 黒頭峰・夏栗山の逆走なので補足だけにします。佐中峠への分岐を過ぎるとすぐ現われる覗岩(AM10:00)からは三尾の東面の谷間に白い蝶が舞っているかのようにタムシバの花が咲き、 岩稜に沿っては満開(例年より1週間は早い)のヒカゲツツジの群落の中を進みます。鋸山への主稜線は鋸歯状の稜線を連ねて続く多くのコブは岩稜歩きの快適な楽しさと、花を愛でての最高トレースを満喫できました。鏡峠までの稜線は佐中ダムから続く山道と交錯して良い道が続きます。鏡峠(AM10:18)からは 木の階段道さえ現われる広い道となりますが、いずれ佐中ダムへ下る作業林道です。
東多紀(鋸山稜線)タムシバと三尾山

この林道分岐に古い案内板があり此処からは踏み跡を辿るコースになりますが、今は多くのテープ類が鋸山〜東鏡峠〜高坂へと続いています。 鋸山ピークが近づいて来ると潅木の間からは北面が切れ落ちた急峻な山肌に切り立った多くの岩場を纏った山塊が現われてきます。身体を斜にしてツツジ藪を分けながらヤッと登り着いた鋸山山頂も潅木の隙間から僅かに三尾 ・向山・五大山が望めた昔とは違い、切り開かれた山頂からの展望は多紀の主峰・三岳を始め小さな丹波の群山や京都丹波、 摂津・播州方面の山まで・・展望の効かない部分はヒカゲツツジがカバーしてくれます。鋸山山頂(3等三角点 606m AM11:00)からはミツバツツジやアセビ、雑木藪のなかにはヤブツバキも多くの花を足下に 散りばめながらも未だ咲き残っています。

鋸岳山頂


いくつもの小さなピークを上下して東鏡峠(AM11:45)に着きます。峠とは名ばかり、もう春日町側へは踏み跡さえ消えた明るい雑木の中に高坂への下降点を示すテープが続いています。此処から堂の峰〜御在所山への縦走に入ります。 いよいよ踏み跡も薄くなり進むに従って間隔も長くなるが古い赤テープは残っています。緩やかな尾根、 似たような多くのピークを越えて小広い自然林に囲まれた堂の峰(572m PM12:10)には前回とコースは違うが10分違いの到着です。堂の峰から御在所山への鞍部へは急斜面を駆け下りますが自然林のスリットを通して西ヶ岳と三岳が、 御在所の黒い山影が透けて見えます。
三尾本峰への稜線から鋸山連峰と三岳

広い鞍部からは左手に栗柄への境界尾根を分けて、南への枝尾根に続く細い踏み跡を辿り急な斜面を登り切ると赤白測量棒の立つ御在所山(4等三角点 点名:浅木谷山 444m Pm12:30)で湿っぽく 薄暗い山頂に西面だけが開けて堂の峰の丸いピークが望めます。立木が伸びたせいで此処から仰ぎ見た西ヶ岳がよく見えません。三角点標柱も見当たらなかったが足で落葉を蹴散らしていたら 腐葉土と化した落ち葉の下から白い三角点が顔を出してきた。元の分岐へ戻ってからは辿る尾根の左右に境界標識の尾根!!や踏み跡が幾つも有る。 目指すは栗柄峠ですので左右の車騒音を探りながら見定めて、最後はヒノキの植林帯を県道69号線の栗柄峠の観音堂正面(倶利迦羅不動の滝)の駐車スペース前に降り立ちます(PM13:00)。

鋸山北面のリッジ

草山温泉方面へ向う97号線との分岐から50m程の地点です。草山温泉方面へ向う97号線との分岐から50m程の地点です。 栗柄は三方を山に囲まれた盆地で、 付近は大変珍しい谷中(こくちゅう)分水界となっていて、鼓峠から日本海側と分かれた水は宮田川となって篠山川〜加古川を経て海に注ぎ栗柄峠の観音堂から 倶利迦羅不動の滝に流れてきた水は滝の尻川〜竹田川〜由良川を経て 日本海側に注ぎ込む二つの分水界があり、栗柄峠を春日町側へ抜けると日本一低い分水界のある氷上町が有ります。観音堂の「蛇の枕」こと、龍の鱗のはなし、 「倶利迦羅不動の滝」のこと、谷中分水界等については定利山〜高王山で紹介していますので参照ください。



栗柄砦  垣屋城

栗柄砦(栗柄城)
  xxx 330m   篠山市西紀町栗柄

貞観年間 (859-77)藤原良房の所領した宮田荘は 応安年間(1368-75)山名氏が丹波守護を得て板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱による山名氏清の敗死後応永年間(1394-1428)丹波守護となった細川氏が支配するところとなります。この宮田荘は京・丹波と但馬を結ぶ街道が通じ要衝で、その最奥部に位置する栗柄峠が京都府三和町、氷上郡春日町への分岐点となっています。此処はまた県道97号の通る”つづみ峠”に源を発する宮田川水系と県道509号で桑原へ通じる無名の峠に源を発する杉ヶ谷川が、僅か100m程の幅で平行に流れていますが「倶利 伽羅不動 」付近で杉ヶ谷川が春日町へ向う県道69号沿いに突然流れを変え深い谷を形成して”倶利伽羅不動の滝”を降り由良川水系の竹田川を日本海へと流れでます。
栗柄砦・南東角の低土塁

宮田川は緩やかに篠山川へ流れ出て加古川水系となり瀬戸内海に下る谷中分水界となっており、全国的にも珍しい河川争奪が見られる貴重な場所です。栗柄峠から竹田川に沿って春日町へ向うと険しい山容を見せる三尾山が有り、明智の丹波攻めでは黒井城主・赤井(荻野)直正の弟赤井刑部幸家が拠った 三尾山城があったところです。天正4年(1576)黒井城を攻めていた明智光秀が、直正と八上城の波多野氏等丹波勢が示し合わせた叛乱 [赤井の呼び込み戦法]によって命辛々京へ逃げ帰ったのも此処・栗柄峠でした。 倶利伽羅の滝の向いの山頂にある栗柄砦は御在所山〜鋸山〜三尾山へ続く山稜の東先端の峰に僅か30m四方の削平地があり、 その北端の境界を御在所山へと山道が伸びていますが、登山目的で此処を通過する人で城址(砦)と気付く人は先ずいない?。
同上から折れを伴う虎口部と低土塁

雑木の中で展望は無いが山道からは木々のスリットを通して春日町側の展望があり、山間を但馬・京都・摂津へ抜ける街道が通じる交通の要衝で氷上と篠山の出入口となる境界に位置し、黒井城の東玄関を監視する重要な位置に有る為、赤井(荻野)直正配下の出城と伝えられていますが単に物見台かもしれません。それなら春日町側を望む場所に有り ・単郭で周囲に曲輪・堀切もなく70cmにも満たない低土塁が一部に残るだけ。切岸もなく、なんとか城域の輪郭が分かる程度・・の山城の伝承では、荻野(赤井)直正が明智勢を栗柄峠に壊滅させた頃、 此処に砦が築かれていたといいます・・・・が、周囲を低土塁で囲っただけで周囲に堀切等の防御施設は無く、明智光秀が再度の黒井城攻めに際して、陣城として築城されたものとも考えられています。
(栗柄峠 谷中分水界説明板 参照)


垣屋城(一枝城と西ケ谷城)
垣屋城(一枝城)   女山!? Ca270m   篠山市西紀町垣屋
垣屋城(西ヶ谷城) xxx Ca280m   篠山市西紀町垣屋字西ヶ谷

県道97号(丹南三和線)宮田の篠山市西紀支所周辺の西谷城・板井城・内場山城等を昨日廻って見残した宮田荘内の城として最奥の 栗柄砦を訪ねた後、垣屋へ戻りバス停の案内板「垣屋の史跡」 に示される垣屋城の取付き点を探します。案内図では八幡神社の背後の山に垣屋城・西ヶ谷城と東端に一枝城があるが、西ヶ谷城についての城史等は不明。
垣屋城(一枝城)遠望
垣屋城(西ケ谷城)登城口の八幡神社

丹波春日方面から栗柄峠、京都府側の草山・本郷から鼓峠を越えてくる街道を監視する砦規模の小さな城です。多紀アルプス群の鋸山へ向う登山口 ・高坂集落から垣屋集落を宮田川へと流れ出る合流地点に突き出した、先端に丸い頂部を見せる小山が有り、 此処が垣屋城とは検討は付くが田畑の奥には鹿除けフエンスが張られ顕著な登路を見つける事が出来ず山裾沿いに進む。垣屋集落西端付近から、町木の樫の巨木と鳥居が見える八幡神社に向かう。 神社奥の谷筋には雛壇状の平坦段があり、
垣屋西ケ谷城・一枝城間の尾根には秋葉社が

波々伯部氏一族の屋敷跡だったのでしょう!!?。最奥は廃寺:安養寺跡か?石積みが遺る。其の背後の尾根に西ケ谷垣屋城が在る。 八幡神社は祭神に応神天皇と市寸嶋昆売命(いちきしまひめのみこと)を祀り、建久元年(1190)平家(新田氏)の落武者の末孫:波々伯部孫四郎が一の谷より逃れる途中、岩清水八幡に詣で加護を受けたので、 此処・在住の地に八幡社を創建したと伝えられます。
西ヶ谷古墳から続く北尾根上に垣屋城(西ヶ谷城)がある

西ケ谷垣屋城と一枝垣屋城の間を遮るように枝尾根が延びてくるが、尾根途中には秋葉社が祀られ麓から参道山道が通じています。 此の尾根と一枝垣屋城の間の谷間には、幾段かの屋敷跡と思える削平地が拡がり、上段の平坦段には、城主・波々伯部孫四郎一族の墓と伝えられる宝篋印塔や五輪塔が有る。
垣屋城(西ヶ谷城)北尾根端の堀切

垣屋城(西ヶ谷城): 八幡神社の東北の谷筋に、ぬかるんだ何段もの削平地が有り、 此処が波々伯部氏の屋敷跡と菩提寺・安養寺跡だと思われます。 なお波々伯部氏の本拠:淀山城の在る篠山町辻に安養寺廃寺があるが、関係・関連については不詳。藪の何も無い急斜面を尾根先端部に出ると露岩の重なりが見え近寄ると・此れが西ヶ谷古墳(1号墳 径20m・高さ3m)だった。
垣屋西ヶ谷城の堀切から主郭

古墳の墳丘部を出曲輪として見張り台にでも使用したものか?。北に延びる緩やかに登り下りする尾根の鞍部に、下方の屋敷群から登ってくる登城道だろうか?短い竪堀状の窪地が尾根上の平坦地に登り着く 虎口と思われる部分もある。尾根上の削平は粗く曲輪の段差もよく分からない程だが、北の尾根を遮断する一本の堀切だけが城址!!である事を思い起こさせます。
垣屋一枝城側の屋敷跡!!に一族の宝篋印塔・五輪塔が祀られる

尾根末端部の古墳から東側へ 間伐の林を降れば宝篋印塔等や五輪塔が残されている武家屋敷跡!!です。垣屋城(一枝城) :尾根道は明確になるが、そのまま主尾根は鋸山へと続くので、斜面をトラバース気味に東側の枝尾根に移っていくと、藪の尾根西側の一枝城の城域端に突然土塁を伴う大きな一本の堀切が現れます。 此処が垣屋城(一枝城)で、
垣屋一枝城側の谷:宝篋印塔

堀切と3m程の切岸を登ったところにも高い土塁があり 細長い主郭に沿って左右に、腰曲輪・帯曲輪が、東へ降る尾根にも曲輪が続き、 竪堀も見えますが密生する篠竹・矢竹と雑木藪の中では、尾根筋も左右に数段続く腰曲輪・帯曲輪や其の切岸等の縄張り状況が良くわからない。室町時代初期(南北朝が分立した建武・元弘の争乱時期 )宮田荘にいた波々伯部為光が波々伯部(ほほかべ)氏を称していた。
垣屋一枝城 :尾根西端の堀切と主郭の切岸

足利尊氏が丹波篠村で旗上した元弘3年(1333)久下氏・波賀野氏・酒井氏等と馳せ参じて以降、尊氏の下で勢力を伸ばしてきた為光は、源(八幡太郎)義家の四男 ・新田義国の三男・義安の孫・房光の裔(血族)といわれます。建武4年(1337)戦功によって(為光は宇治川の合戦で討死しているが、 その子光則が足利義政に仕え)丹波国多紀郡の地頭職に任じられ、波々伯部保を賜わり淀山城を築城しています。
垣屋一枝城東面:主郭と帯曲輪

垣屋城
を築いた波々伯部氏は辻の淀山城から分家した一族で、その菩提寺 「安養寺」を村名としていましたが戸数も少なく垣屋に統合されました。応安年間(1368-75)には山名氏に、明徳の乱(1391)に山名氏が守護職を失い、代わって細川氏が再び守護職となり、応永年間 (1394-1428)頃には細川氏の傘下に組入れられるが、其の後衰退していく経緯の詳細は不明!!。垣屋城(一枝城)は永正年間(1504-21)頃までは機能していたと思われます。山間に残された宝篋印塔・五輪塔が語る室町時代・永正年中(1504-21)波々伯部孫四郎基継の築城とされ、其の子・又五郎基恒のとき廃城となった様です。 此の谷に残されている宝篋印塔や五輪塔の残欠も往時(室町時代末期)のもので、孫四郎一族の墓と思われ、明治初期には14基あったそうですが現在は5基程が残されています。
垣屋城(一枝城)主郭と東側の帯曲輪


丹波守護の変遷を追ってみると ・戦国時代に細川氏や足利幕府の勢力に衰えが見え始めると、 三好氏が勢力を持ち丹波守護細川氏の丹波守護代内藤氏 (丹波八木城)を支援し、松永氏(久頼)が勢力を振るったが、 天文年間(1532-55)波多野氏が勢力を伸ばしてくると 八上城を築き、永禄9年(1566)波々伯部光政が波多野氏らとともに松永氏を亡ぼします。
垣屋一枝城東南端付近:二段の帯曲輪切岸

垣屋の波々伯部氏と城史は孫四郎以降の動向が分かりませんが守護・山名氏や細川氏の傘下に入ったが、 やがて織田信長の”丹波攻略”が始まり天正5年(1577)明智光秀軍との戦いでは波々伯部光吉が八上城に籠城して戦います。翌・天正6年(1578)8月には同じ宮田荘の板井城(城主・山名小太郎)と共に、 波々伯部氏本拠の淀山城や其の支城群の東山城・南山城・畑市城や平内丸・遠く離れている垣屋の城(一枝城と西ケ谷城)も、このとき明智光秀に攻められ落城した様です。
(戦国、織豊期城郭論ー 八上城研究会編 を参考)

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