天々宇知栗」の親父は日置の「裸榧」 日置〜寺山〜天狗岩〜(曾地奥)/剛山
篠山市(五万図=篠山・園部)
T 磯宮八幡〜寺山〜天狗岩〜曾地奥〜磯宮八幡=北島〜剛山 2001年06月02日
U堂山砦〜鉄砲山〜寺山〜磯宮八幡 /泉〜宮山砦〜剛山 2004年07月18日

近畿の山城 : 堂山砦 弓月砦と安明寺砦 曽地城  曽地砦と曽地奥砦
 宮山砦と鉄砲山砦 井上城/ 剛山砦 畑市城・上宿城 洞中砦 後川砦
丹波の由緒  磯宮八幡の裸榧

剛山(井上城)と剛山砦(左端)

私のハンドルネーム”天々宇知栗”は、幕府に京を追われた足利尊氏・義詮親子が久下氏を頼り、丹波石龕寺(丹波市山南町岩屋)に身を寄せていた頃、義詮が再起を誓って栗の底部に爪痕を残した栗が実を結び、今もその実には爪の跡が残る テテウチ栗として伝えるが足利尊氏に由来するのが篠山市日置:磯宮八幡神社の裸榧(はだかがや)で、
剛山と磯宮八幡神社と堂山砦(手前の森)

大正14年内務省」石碑のある大きな榧の木3本のうちの一本で 国指定の天然記念物となっています。足利尊氏が戦勝を祈願して榧の実の皮を剥いて境内に植えたところ、成木となり実をつけたが 殻がなく渋皮だけの裸榧の大樹となりました。この木は世界に此処だけという珍木でもあります。これから辿る山域は「戦国無頼」で有名な八上城:丹波富士の高城山と弥十郎ヶ岳に左右を挟まれた名も無き!!不遇の山々です。
堂山砦:主郭と帯曲輪東面

曾地奥の集落から後川へ抜けて高嶽(574m)〜中山 (557m)を周回するつもりだが、天狗岩周辺で道不明・検討をつけていた道も行き止まりとなり、巡視路を鉄塔迄登ってみたが諦め引き返したが、目前の低山へも登ってみる。



T磯宮八幡神社〜寺山〜天狗岩〜曾地奥/北島〜剛山 H13年06月02日

R372号線で高城山北山麓を抜け日置で右折して学校給食センタの角を曲がると磯宮八幡神社へ杉やヒノキの大木が立ち並び此処は古市〜味間〜丹波市山南町へ続く旧京街道の名残を留めます。その並木に沿って進む八幡神社の鳥居前・右手に3本並んだ大きなカヤの木が有り、そのうちの一本には注連縄と石標があるので判るが今日の目的の一つ裸榧は世界にただ一本此処だけの珍木で国指定の天然記念物です。9月中頃〜下旬には一斉に実を落すが、持ち帰って種子を種を蒔いても普通の榧になるだけ。
天狗岩手前の本当の?天狗岩(露岩尾根)から望む高城山(八上城山)

神社から目前の寺山?天狗岩を縦走して 曾地奥集落を廻り込む様に高嶽 〜中山へ縦走し曾地中へ下り、磯宮八幡へ戻ってくる計画だが、肝心の天狗岩〜後川奥周辺で方向を見失い、今回は敢え無く失敗。曾地奥集落に降り・延々車道歩きの帰還は短い距離でもドッと疲れる。さて話を元へ・・直進して草地の道は猪除け電線が続きますが最奥の貯水池下で猪垣の途切れたところがあり、此処から池の上方へ出るが踏み跡も薄くなるが枝尾根に出ると明確な山道が右方向から延びてきています。雑木の尾根はMTB走行可能なほどよく踏まれた道だが見えるはずの高城山・弥十郎ヶ岳 ・大野山等の展望は望めず、薮の小場に白い!ボロボロの布を巻きつけた ポールの脇に寺山(3等三角点・点名:野々垣 385m AM8:45)が有りました。
剛山 :井上城南斜面の小曲輪群


山頂からは一方向だけ日置集落の一部田園風景が望めるだけ。それどころかワーンと音がするほどの蚊に悩まされ直ぐに退散です。左方向が開けおり其方に向かってしまったが下るだけの枝尾根。 主尾根には天狗岩まで立派に山道は続いているが、此の山も必携用具は・蜘蛛の巣払いと、逃げようともしない蛇を突ついてご機嫌伺い追いたてる小枝です。しばらくは雑木の傾斜も少ない道ですが展望が無い為に天狗岩まで随分長く感じられます。490mピーク付近の先で大きな尾根は左の枝尾根に入りやすいが 向かいの高見に天狗岩が見えるので直ぐ引き返す。
井上城西端:土塁囲みの曲輪(日影との濃淡で解りづらい!)

弥十郎ヶ岳が顔を見せ出す頃には尾根筋にも 露岩が目立ち始め天狗岩近しの予感です。三つばかりの瘤が続くあたり尾根も広く明るくなり岩尾根の最高地点と思われる所に着いた。山道は岩場の下を巻いて続いている。三角点は無いが高城山や弥十郎ヶ岳・大野山の展望は良い。暫し休憩していく(AM9:30)。樹木で見えず判らなかった天狗岩へは此処から下り登り返すと雑木で展望の無い天狗岩 (点名:八上村3等三角点 520m AM10:05)だ。三角点の角の字から先が欠けている。天狗岩少し先で踏み跡は ハッキリしないところも有るが三方に分かれているようだ。尾根縦走して三国ヶ岳までも興味あったが帰りが遠くなるので左の植林帯を尾根筋に沿って(AM10:15)曾地奥集落へ下り対峙する高嶽へ登るつもり…山が低い分、直に林道終点(数10m先は農地なので農道が妥当か)へ出て一般車道(此れも農道だった)に合流した(AM10:35)。
ナンジャモンジャの木

左折30m程でバス停「曾地奥」だっが気付かず右折して農道を進み車道終点近くの猪除けゲートのある林道に入った。この入り口には馬頭観音像等数体の石仏があり(AM10:50)てっきり古い峠道、先ずは順当と思ったが林道は直ぐ切れて関電巡視路(No141)となった。鉄塔に着くと展望が拡がるが目指す山は見えず最終予定の中山も随分遠いようだ。稜上まであがったがその先は薮で、しかも深い谷へ下り登り直さなければならないようで今回は諦めて別コースで挑戦することとする。元来た道を引返しバス停「曾地奥」(AM11:37 1H時間ロスして)から猪名川町・杉生/川西市方面への車道へ出る(PM12:15)。この付近・曾地口〜曾地中付近は「ほたるの里」です。曽地川沿いには5月:綿帽子を被ったナンジャモンジャの木が真っ白なプロペラの様な花びらを咲かせています。大きな葉に小さな細い花の為、僅かな風ににも反応して揺れて休まる時を知らず、カメラ泣かせの花ではあります。
磯宮八幡東参道口(燈籠)南に位置する堂山砦

この木は明治神宮外苑にあった木から種を譲り受け、五年後にやっと芽が出て播種後10数年して開花したといい、この木の側に案内説明板が立っていますが、さらに川沿い350m程先にも・もう一本有ります。何度も通り慣れた道ですが今日はこの道を歩きで車デポ地点の磯宮八幡神社へ戻ります(PM12:35)。日置の交差点に出る手前で気になる小山が見えますので一寸寄ってみようと北島集落に向います。山は剛山 (講山とも神山361m)で日置から見ると台形の山頂は城山井上城 です。


U 磯宮八幡神社〜堂山砦〜鉄砲山〜寺山/宮山砦〜剛山(井上城) H16年07月18日

R372号線・日置の磯宮八幡宮(そのTを参照)の南側には西端から緩やかな丘陵が東奥へと高度を上げて続いています。この西末端の平坦な稜上部分には鉄砲山の名があり西約2kmには八上城(高城山)が姿を見せています。八上の波多野氏を攻める明智光秀軍が此処から鉄砲を放った場所から 此の名がある。
曽地城:主郭帯曲輪の北端

前回は曾地から直接寺山に向ったが 今回は山城への訪城ですので西端からのロングコースを選びます。…が其の前に磯宮八幡宮の目の前に円墳のような丘があり、 民家と田圃の中にある円墳のような丘が堂山砦で空掘や低土塁・切岸を持つ数段(3〜4段)の曲輪が並んでいます。江戸時代頃にはお堂が建っていたところから 此の名が有るようです。
曽地城:主郭部西面の帯曲輪

堂山砦から 磯宮八幡宮へ戻り南側に抜けて前回直接・寺山へ取り付いた貯水池端への道から野々垣集落への車道を公民館に向った。山際から猪除けフエンスを潜って急斜面に取り付いたが直ぐ山道が現れて寺山迄続きます。比高僅か20m程で、 なだらかな登りが続く此も辺りは鉄砲山と呼ばれ、樹間から正面に見える高城山(八上城)に向って明智光秀軍が城攻めの際・ 此処から鉄砲を撃ったとの伝承地です。ピークもなくダラダラした上り一辺倒の道ですが寺山の三角点迄、更には天狗岩方面への尾根筋へも快適な山道が続いています。
泉地区から剛山(井上城)と宮山砦(右)

山頂も近くなってくると広いが斜傾する削平地や竪堀を見る。小さいが2段の曲輪を暫く進むと 前回探し回った寺山(点名:野々垣 3等三角点385m)の前に出た。此処が曽地城の主郭。北側の磯宮八幡宮から天狗岩へ縦走する場合は尾根筋の 腰曲輪沿いに東寄りを進むので、西尾根側に廻って曲輪の隅の草むらの三角点柱には気付かないところです。測量ポールや布が無くても分かるが展望はありません。天狗岩へ続く南への尾根筋も緩やかで通路兼用の長い曲輪が延びているようです。時折は藪っぽくて尾根筋を外れるが東山麓の曽地奥にある「天正の首塚」の伝承を彷彿させるに充分の山道です。天狗岩 (Ca420m)のピーク周辺が曽地砦ですが暑い時期に前回同様の迂回復帰は懲り懲りで遺構探しはPASSします。

曽地城(点名:野々垣 寺山三角点)


其れより日置・磯宮八幡宮の北方に剛山(講山とも神山・甲山361mとも呼ばれる山城)がある。此処も以前は東の北島地区から登ったが、今回は西の泉から宮山砦・鉄砲山砦そして本命・剛山の井上城へと、三つの城塞を連ねて訪ねます。 北山裾に泉集落と北島を繋ぐ踏み跡と、鉄砲山砦の東鞍部から山頂へは踏み跡が通じますが国有林の剛山への直接の登路は有りませんので下降時は要注意・ことに南の篠山川沿いは道無く、竹薮が続きおまけに途中に橋も 無いので大変ですよ・・・(^^ヾ






磯宮八幡神社の裸榧
  篠山市・日置167

建武の中興に功のあった足利尊氏は新政府に重用されるはずだったが 建武2年(1335)11月には政権に敵対するものとして 追われることとなってしまう。翌・建武3年(延元元年)1月には新田義貞・北畠顕家等の軍勢と京都で激戦して敗退し丹波に逃れた足利尊氏は 篠村八幡宮(亀岡市)で「旗あげ」して兵をまとめ2月初めには丹波路を播磨へと向うがその途中で此処、曾地(篠山市)の土豪・内藤入道道勝の館に立ち寄ってこの八幡神社へ参詣しています。
磯宮八幡宮

磯宮八幡神社は曽地・後川荘など四ヶ荘の総社でもあって承平3年 (933)京都・岩清水八幡宮より分霊を勧請し、末社50社とともに祀られ「五十之宮」ともいわれ民衆は勿論のこと領主・武将等の崇敬も厚く 八上城主・波多野秀治も武運長久の守護神として崇敬し保護してきたが、天正7年(1579)の八上城攻めの兵火で焼失したが翌年には再建されています。代々の篠山城主の加護も有り寛文12年(1672)に社殿を建立。
磯宮八幡神社の裸榧

現在のものは弘化5年(1848)に再建修復されたものである。磯宮八幡の境内にある大きな榧の木(幹周 5m・樹高 10m・樹齢推定600年)は、そのとき戦勝を祈願して神主!!(神仏混交の時代ですので)社僧の勝心がお菓子として差し出した 榧の実の皮をむき「我この社に来たりて大敵を退け天下平定・武運長久を祈願す。願望成就せば、この榧成木し無皮の実を 結ばしめ給え」祈り境内に植えたところ、榧の実は成木となり
ハダカガヤ・・!??  H21.10.09

実をつけたが突然変異により、堅い殻がなく渋皮に包まれただけの柔らかい実が成る裸榧の大樹となり、世界にただ此れ一本だけという珍木は大正14年国指定の天然記念物(1925年10月08日指定)となっています。裸カヤに成るか成らぬか、いま挿し木で二代目が育っているのことです。
(磯宮八幡現地案内板 丹波篠山五十三次ガイド 「篠山町百年史」他参照)



 堂山砦 弓月砦と安明寺砦  曽地城 曽地砦と曽地奥砦 宮山砦と鉄砲山砦
 井上城と剛山砦 畑市城 上宿城 洞中砦 後川砦


堂山砦  堂山 258m    篠山市曽地口字堂山

城址への道程はR372号線で上記:登山レポートの磯宮八幡宮を目指します。 いつもは八幡宮南側・注連縄が掛けられた三本程?のカヤの大木が立つ鳥居側を抜ける地区道脇の駐車スペースを利用。 北東端から竹林の中の道が東側の墓地や池へ抜ける様なので・東からも此の通路が登城ルートとなるようです。
主郭北東側の帯曲輪

上宿城が在る東側の県道12号線・曽地口からは、堂山砦のある西方へ向かう途中・池傍の公民館が 集会等予定がなく空いていれば 利用出来そうです。建武3年(延元元年 1336)京都を追われて 丹波路を逃れた足利尊氏が篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵し播磨へ向う途中此処 ・磯宮八幡宮で、戦勝祈願に榧の実の皮を剥いて 境内に植えたところ、成木となり実をつけたが殻がなく渋皮だけの裸榧となったという世界に唯一という珍木は有名です。
堂山砦主郭北東角の切岸と帯曲輪

その磯宮八幡宮鳥居の南側・正面に民家と田圃に囲まれた小さな独立丘陵は、 江戸時代(詳細不明ですが)山上に祠が祀られていたところから堂山と呼ばれるようになったという。祠の主祭神が判れば城主関連か?、 城史を解く手掛りが有るかも知れない?。空掘や低土塁・切岸を持つ数段(3〜4段)の曲輪を並べ、西側斜面から主郭へ入る土塁虎口の 遺構も見られる堂山砦が在りました。
堂山砦西面大手 !?の帯曲輪から主郭(正面奥)に入る土塁虎口

尾根幅!!?が広いので十分掘り切られていない浅い堀切 (空堀 )ながら曲輪は切岸加工もされています。ただ最高所にある10X15m程・方形の主郭部へは八上城を望む西側 ・西北の磯宮八幡宮から主郭に入る二本の大手道?が土塁虎口に通じており、真西からの通路は右手に空堀と切岸を越えて、城内最大の帯曲輪に入る。北磯宮宮八幡宮側)からの通路が此処で合流して、土塁に左右を挟まれた通路を斜上し、 主郭の切岸前を左に折れ右に上がる ・桝形状の虎口形状。
上図の帯曲輪下・腰曲輪の空堀と土塁下へ通路(大手道?)が延びる

此れを織豊系縄張りとして八上城攻略の為の付城と考えられているのかはわからないが‥ ?付城として疑問視されてもいるところです。 周辺の小さな砦群は・八上城の波多野氏と明智の付城の他、八木城の内藤氏 ・三好氏に対する守備とも、短期ではあっても波多野氏を追放して、 多紀郡を領した三好氏 ・内藤氏による攻防の砦の可能性も考えておく余地 ?もあるのかも知れません・・・。
主郭と南側の副郭(城内最大の曲輪)

東300m程には県道12号線が走り・三田方面から後川を越えて曾地川沿いや古坂峠を越えての食糧搬送経路を断つ為の監視所として上宿城と呼応して・また真西約800m地点にある安明寺砦(八上城)を望むが、此処は八上城内に入る朝路池への入口を監視する位置に有り 曽地城・曽地砦と曽地奥砦・洞中砦等と共に八上城攻略の重要な拠点と成り得ます。日置周辺の城塞は、八上城のお膝元直ぐ近くに有りながら在地土豪等支配の持城とかの伝承も無く・城主や城史不明の空白地帯です!!?。
主郭南:副郭切岸と下段の帯曲輪

しかし摂津方面からの池田街道・妙見街道や、 園部・亀岡方面からの京都街道・綾部方面から板坂峠を越え細工所から篠山へ入ってくる、其の咽元を押さえる剛山城(井上城)や畑市城・上宿城・曽地城や多くの城砦群が密集地帯。八上城を守る家臣団の城が無い筈が無いのですが”丹波志 ”等の記録に城史の記載不明が多く、この砦についても現状の縄張り遺構からは八上城を包囲する明智方の築いた付城として知られる様ですが、
堂山砦の副郭切岸下の南曲輪空堀

立場を変えれば八上城防衛や食糧搬送経路確保の為・地理的にも重要な場所です。 主郭を取巻く様な帯曲輪や堀切 ・空掘がある等、天文〜永禄年中に既に波多野氏方の城があり、八上籠城で空となった城を明智方が向城として改修したのかもしれません。天正7年(1579)秀吉軍の三木城攻めの際に荒木村重が明要寺・丹生山経由での山越えルートで連絡や兵糧等の搬送ルートを 確保した様に、明智光秀も飢餓作戦を採って八上城を囲みます。”食糧攻め”の警戒の網を潜って、秀治が統治していた三田の寺々からも食糧が運ばれていたのでしょう。
南曲輪切岸と堀切?(空堀)

その・後川奥を越えて曾地川沿いの道に「天正の首塚」があります。「三田の民話」にもこの話が伝わりますが、動きが目立つ峠道を避けて天狗岩〜寺山(点名:野々垣)から鉄砲山への尾根筋に在る曽地奥砦・曽地砦・曽地城・鉄砲山砦群や堂山砦に護られながら、食糧が運び込まれたのでしょう。運搬中に見つかった僧や民衆が捕らえられ首を打たれますが、葬られた人々の霊を祀ったのが首塚だといわれます。
(戦国・織豊期城郭編 八上城遺跡群に関する総合研究 を参照)


安明寺砦と弓月砦
弓月砦    xxxx Ca245m  篠山市八上上
安明寺砦  xxx Ca270m  篠山市野々垣字安明寺
弓月神社(正面奥の尾根に片堀切・左上に砦主郭部)

石見国(島根県 )の出身といわれる波多野清秀が管領:細川勝元からこの地を与えられ、殿町にある八上城の前身:蕪丸 (奥谷城)に城を築いた。此の奥谷コースをとって南尾根を本丸へ直接登り着く道さえも余り利用されない八上城登山コースが、この殆ど知られる事が無い二つの砦からも通じています。
弓月砦(八上城から東北尾根の末端に位置)

八上城から派生する 尾根続きのうち、芥丸・馬駈け場から東北へ長く延びる丘陵尾根先端に弓月砦・東への尾根末端に安明寺砦が在り裾から続く平野部の東約 800m程に日置の裸榧で知られる磯宮八幡が有る。南向いには八上城攻め最前線の付城だと?推察されている堂山砦 がある。弓月砦は要衝京街道(旧山陰街道)見張りの監視所。
弓月砦(片堀切の城域側の僅かな土盛状は土塁残欠!?


安明寺砦は井戸曲輪 (朝路池)への東登城口を守衛する木戸番を兼ねた出城だったと思えます。八上城へは整備された春日神社から主膳屋敷〜茶屋丸〜右衛門丸を経て本丸に向うのが一般ですが、此の春日神社口に山城の概念図が描かれた 「高城山」絵図が立てられています。春日神社からの縦走だと本丸から芥丸〜阿弥陀寺へと藤の木坂道を利用して周回される事でしょう。
弓月砦:最先端曲輪の北斜面(真下に旧街道とR372が並走する)

-弓月砦-高城山から東北へ延びる尾根は其の芥丸から更に延び、尾根の末端がR372号に落込むところ、コンビニ前からスタートして直ぐ 「正一位弓月大明神」の扁額を掲げる弓月神社に着く。尾根に向って正面の鹿除けフエンス網が巡るゲートを開閉して比高 20m程で直ぐ、堀切(片堀切!!?)尾根筋に登り着く。
弓月砦主郭から西に続く曲輪

完全に堀切られていないが尾根を北に向かう城域側に低くなった土塁残欠?を観る。片堀切道は尾根筋を芥丸〜八上城へ切り開きの歩き良い道が続くが、 弓月砦はコースとは反対側・弓月神社東上方部へと北へ向かう尾根末端の平坦地形が弓月砦北の尾根末端のピークに 円形の平坦地があり 西側に2段ばかり、北側にも1段の曲輪があり少し北下にも8mx20m程の平坦地があり其の先は急斜面となって落ち込むが、削平は粗く切岸の無い低い段差の曲輪は有るが土塁は無い!?。
弓月砦の片堀切

主郭部に小炭焼き窯跡ほどの円形凹部がある?。先端部の三方を除けば それほどきつい傾斜もなく、尾根筋も緩やかなのに城域周辺には、尾根が狭まる主郭の南尾根側の両斜面に自然地形の堀切状を見るだけで、 他に堀切・竪堀等防御施設は見当たりません。
安明寺砦(正面)と左端に高城山(八上城)

-安明寺砦-八上東面では最もR372号(デカンショ街道)に接近した位置で、旧京街道が山裾を縫って通じる京都・播磨や攝津方面への交通の要衝にあります。高城山 (八上城本丸)からの東北尾根末端に位置するのが弓月砦ですが、弓月砦手前の南から東へ突き出した低丘陵が野々垣地区に 其の先端を急激に落としています。高城山(八上城)から 東へ伸びる丘陵尾根の東先端部に安明寺砦が在りました。比高は僅か40m程ですが 西の尾根筋を除く三方は急傾斜で麓の民家・田圃端に落し込んでいます。野々垣口から安明寺砦の 南側の田園風景の中を西に入り、
安明寺砦(北側の竪堀から土橋付き堀切)

市の谷道や 馨子ヵ谷から八上城篭城将兵の生命線:朝路池に向う余り知られないコースがあり、下山コースとして案内道標が残っている筈です?。此のコースを下って野々垣集落への途中から西荘へ小峠を越え弓月神社口へ出て春日神社側に向うコースを選択される人も有るでしょう!!。弓月砦は旧京街道の要衝監視の砦ですが、
安明寺砦 :広い東曲輪

安明寺砦は八上城の朝路池に至る谷川沿いの登城口にあたり、城を守る重要拠点でもあり、侵攻に対する警護の砦だったのでしょう。訪城の取付きは南側からと思っていたが 鹿除けフエンスが取囲みます。フエンスを越えても蔓草や刺の多い灌木の藪漕ぎは避けたいもの。 野々垣公民館側から丘陵東裾を北に廻り、北端から民家背後の畑地跡?を、墓地に向かう参道から取付いて、
安明寺砦主曲輪と堀切側の土塁

墓地の前から左手の疎林の斜面を適当に尾根筋に向かい、尾根筋北・末端部の小曲輪(6X4m程)との間に出た。覗き込む下方には直ぐ民家の屋根。それ程の急斜面だったが 尾根筋は堀切部を除き比較的幅広で緩斜面だった。先ず着いた東端の曲輪が一番広い。 南側に一段低い小さな腰曲輪が付属している。
西尾根続きの堀切は左右端に土橋を伴う

西方へと朝路池経由で八上城へ向う間道
(搦手道か?・篭城戦の際当初 :三田方面から後川越えで運び込まれた物資・兵糧米は此処から運び込まれたと思われます。此の入口を監視出来る 堂山砦も当初は安明寺砦と呼応する波多野氏の城塞群の一つで、 後に明智軍の付城として改修されたと考えます)を見張る位置です。曲輪群は尾根沿いに西へ向かい、一段低く自然地形に近い12m程の曲輪を挟んで、12X20m程の主郭に着く。 西端に崩れかけ低土塁と一本の堀切が城域を遮断する。
堀切西の尾根に段差も見る広い平坦地は 山岳寺院跡!!?

幅7m・高さ5m程・切岸下の浅い堀切は両端に土橋が付く。尾根続き西へ緩やかな尾根が続くだけだがCa290m付近には、広い平坦地形も有る。防備施設は一切無さそうですが、 此の場所での平坦地は気になります。砦名の安明寺は所在等未調査ですが、耕作地は貴重のうえ山岳宗教全盛期の頃だったら此処が其の寺跡だったのかも?



曽地城   寺山(点名:野々垣) 385m  篠山市曽地中字西山

野々垣から 西南へ延びる 緩やかな尾根の山頂に寺山(385m)があり山頂付近の尾根筋に曽地城の遺構が残ります。野々垣集落から 登り始める尾根先端部は鉄砲山と呼ばれ、西方約2kmの距離に聳え立つ八上城が有り、城を目掛けて明智光秀軍が此処から鉄砲(大筒)を放った場所だといいます。 八上城を包囲する無数の向城・陣城が篠山盆地に点在していますが、置や曽地は八上城の至近且つ京街道に面した要衝にあって、ことさらに明智方の向城の多さが目立ちます。
竪堀・急斜だが堀底道の様!?

此処より北方・約1.2km独立山塊の剛山西尾根末端にも 鉄砲山砦があって同様に、光秀軍が鉄砲を放った陣城があります。この鉄砲山から八上城へは野々垣から街道を通らず山続きに到達できるので、織田方に曽地城・曽地砦・曽地奥砦 (高野山城)が利用される直前までは、僅かな期間だったとは思われますが、八上城の東登城口を守備し、兵糧物資を八上城へ 運び込む為の見張りや警護・守備についていた事でしょう!!?三田方面から曽地谷から殿町や野々垣へ尾根を越えて八上城へと食糧が運び込まれていたのでしょう?。
曽地城(鉄砲山砦への西尾根 )本郭部手前350m付近の小曲輪

曽地砦のある天狗山を経て堂山砦にも記した搬送ルートや悲劇があったのでしょう。それも八上城篭城が始まった当初の僅かな間だけだったと 思われます?。後川〜曽地〜八上城への兵糧搬送ルートは突き止められ、 明智の大軍を前にして曽地の防御施設や規模も、守備の兵も少ない小さな城砦群では防衛出来ず、名も無き?守将・城兵は八上へ篭城のため撤退。八上城を間近に望む絶好の位置に在る曽地の空き城・砦へは明智軍が入って即 ・八上城包囲網の向城として三田市側からの峠監視に機能したことでしょう。曽地城主曲輪から野々垣集落へと、西北へ延び出す尾根上にも曲輪が続くが、末端部の鉄砲山砦も元は安明寺砦と共に 八上城の朝路池に入る谷道を両サイドから押さえる城砦だったと思えます。
曽地城:帯曲輪北東から主曲輪

磯宮八幡南には堂山砦が在り、足利尊氏が篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵して丹波路を播磨(兵庫)へと向う際、磯宮八幡に参詣・祈願しているが、此の地の土豪・内藤入道道勝の館に立ち寄っており、 「丹波志」にも曽地城が此の時代に既に内藤氏の詰めの城砦等が築かれていたような記述がみえます。鉄砲山を番小屋・木戸門として、尾根伝いに登城道が有ったのかも??・・・野々垣公民館先の車道まで延びてきた末端から取り付いて登り始めて直ぐの平地 !!が鉄砲山と呼ばれた前述の場所ですが、稜上に此処がピークといえるような峰がないまま緩やかな登りが寺山まで続きます。 其の尾根筋に沿って城遺構が点在します。
曽地城帯曲輪北端から主曲輪


尾根中程には東西30m程 ・自然地形の広い平坦地があり、 東に続く尾根の北側には10mばかりの細いが深い竪堀が一条走り、土橋状の細い尾根を経て350m付近の切岸を見せる2段の小さな曲輪を越えると、緩やかな尾根上に遺構らしいものを見かけないまま、 高くも無い段差を越して三角点石標が埋まる寺山(点名:野々垣 385m)山頂に着きます。少し藪っぽい三角点の東側に出ると 帯曲輪に囲まれた本郭に立っているのが分かります。以前・日置から本郭部北東の小さな2〜3段の 曲輪へ登り着いたが周辺に防御施設が見当たらない。 南尾根を辿ると天狗岩(420m)には曽地砦があり、摂津・三田方面からの侵入に備えての 南北朝期の内藤氏の城と砦は、八上城を攻める光秀軍にとっても好都合・堀切等の僅かな改修を施して向城としたのでしょう。曽地の地頭職にあった内藤氏の居館が何処にあったかは分かりませんが、
曽地城:帯曲輪北端土塁?から主郭

建武3年 (1336)再び京都を追われた 足利尊氏が丹波へ逃れた際は篠村で挙兵し、内藤三郎左衛門尉(入道)道勝の居館に入って逗留したといわれます。”曽地館”は上記の堂山砦が最も 適所の様に思えますが・・・!!?。当時の寺院跡なのかもしれません。磯宮神社の裸榧もその時に生まれた伝承なのでしょう。その詰め城が此の曽地城だったのでしょうか !!内藤氏は、この頃に足利尊氏より桑田郡や船井郡を授られ丹波守護細川氏の守護代として天文年間(1532-55)八木城を築いていますので 一族で移ったのでしょうか?

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曽地砦と曽地奥砦 (高野山城)
曽地砦    天狗山433m  篠山市曽地中字西山
曽地奥砦(高野山城) 高野山? Ca500m 曽地字高野山

曽地城が 八上城東方面を護る最後の重要な防衛線の拠点になっていた様相が尾根続きの小さな城砦群を訪ねて感じられます。それだけに 「丹波八上城攻め」の明智光秀の軍にとっても八上向城の要所ですが、八上城の懐近い此処まで侵攻するには深くなかなか近づけなかった事でしょう。
曽地砦:北東へ延びる長い土橋状の尾根筋

普通・八上城への登山口は北面のR372(デカンショ街道)側ですが、殿町からも辿れます。さらに堂山砦・安明寺砦と曽地城が谷間を挟んで警護する 野々垣地区からは、高城山北東尾根の山裾を谷通しに朝路池に至る道が有ります。朝路池には八上城の落城伝説が残りますが、其の前には 羽柴秀吉が三木合戦に使った飢餓作戦を、明智光秀も採って城を囲み、波多野氏方の将兵が籠城する八上城へは、かつての領地:三田市側からも民衆・僧等が警戒の目を潜って救援の兵糧物資を運搬しています。
曽地奥砦・ジャンクションピーク上の主曲輪

波多野氏に加担したとして 捕らえられた人々は次々に惨殺された「天正の首塚」が、三田方面から後川奥を越える曽地川沿いの道に残されています。これに関連した話は三田市側にも「三田の民話」の中に載せられています。デカンショ街道(京街道 )の警戒は事のほか厳しかったでしょうから、三田方面から後川を越えて八上城への物資搬送ルートとしては峠や曽地集落の谷筋から曽地奥砦と曽地砦間の鞍部を野々垣へ越えて、八上城内の朝路池に至るコースが先ず考えられます。 ==曽地奥砦==曽地地区と野々垣地区間の尾根上に並ぶ曽地奥砦〜曽地砦〜曽地城の各城砦群が物資輸送の警護に当たった事でしょう。以前・野々垣公民館から安明寺砦と谷間を挟んだ鉄砲山砦(後:光秀の向城となり 此処から八上城に大砲を撃った)から曽地城に行ったので、今回は少し先にある得寿寺から中池を経て奥池手前から、 曽地城砦群の尾根に向った。
曽地奥砦・露岩の多い最高所の曲輪

曽地側からは「ナンジャモンジャの木 」(上記そのT参照)が白い花を咲かせていた頃に、曽地川沿の「蛭石橋」(山や谷に入るのには、一歩下がって気後れしてしまいそうな名前)から向った。 広く緩やかな登りに輸送ルートだったかな?と思っても・・!!?・・みたのですが。野々垣側も細いながらも谷沿いに確りした道が続いていたが、 直ぐの倒木や谷筋の崩壊で歩き辛くなる。尾根筋に出て鞍部からは曽地奥砦を往復する。
曽地砦Bとでも呼べそうな平坦地・帯曲輪状が残る主尾根ピーク

490mピークの先に三つの尾根と交差するジャンクションピークの山頂付近一帯が曽地奥砦ですが、荒れた露岩の多い尾根上に苦労して削平されただろう 平坦地が2〜3段ある。高城山(八上城)から南に延び出す尾根筋は、野々垣地区の谷筋を詰め殿町【八上城の全身:奥谷城(蕪丸)が有り八上城にも通じる】へと越える348mの尾根を経てCa500m程の曽地奥砦 (高野山城)至り、西南500m程で丘陵最高ピークの天狗山(3等 520m)に至る。主尾根筋を辿れば殿町と曽地奥を結ぶ峠道は 後川へも通じています。波多野氏側にとっても、光秀方の向城としても監視の重要拠点となっていたようです。

曽地砦C?:曽地砦B?からの野々垣側に露岩の多い平坦地形?がある


==曽地砦==元来た道を引き返し峠の鞍部から登り返す途中にも 砦跡かと思えるようなピークが在って、古墳の墳丘部を均した様な円形マウンド状の台形地有り、2m程の切岸と東側から曽地側向う尾根に帯曲輪を廻した様な容が見える。踏み跡を野々垣側に降る尾根途中(100m程だったか?)にも、 大きな露岩が散在する中に数箇所・狭いが平坦地もあり、素人目ながら気になる?地点です。野々垣側へ延び出す枝尾根上にあって、曽地側から野々垣へ越える峠道を警護する様な位置に有ります。「曽地砦B・C」とでも呼べそうな感じですが如何なのか?。 いずれも一帯は尾根筋以外・両側ともに急傾斜の地形が続きます。県の埋蔵文化財行政地区マップ (県立考古博物館)には、此の丘陵尾根には高野山城(曽地奥砦)と曽地城のみ表記されている一帯です。
曽地砦(A)南西端小曲輪の北側:土橋状の細い尾根の両サイドに竪堀が走る

曽地砦(A?から上記の曽地砦B・C)や鉄砲山砦等、探せば未記入・未調査の八上城砦群や、光秀軍の向城が隠されているのかも知れません (特に曽地奥砦から八上城への尾根上に?)。曽地砦(B?)ピークから曽地砦【戦国:織豊期城郭論 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究の、 縄張り図と城郭分布図のみ参照しての訪城なので、曽地砦(A)以外のB・C等の城砦記載を知らない・・が!】に向かう。緩やかな尾根の幅が狭くなり、土橋状になってくると、其の先に小さな曲輪らしいマウンドが見える。 浅い空掘りを廻した小曲輪には、空掘側に曲輪の領域半分を占める程の土塁状の盛り上りがみられます。 帯曲輪状に小曲輪を 北側に回りこむ細い尾根筋は、此処で両サイドに竪堀を見る。土橋状の先で野々垣の得寿寺の背後に延び出す尾根分岐の、420mピークに小曲輪群の主郭部(10u程)を置く曽地砦の中央部に入る。
曽地砦(A)南西端の空掘?と土塁付小曲輪

曽地奥砦からは東北へ約 1.6km・曽地城からは南西へ約1kmの位置にある。主郭の北や東に2〜3段の削平段があり、曽地城に向う東方への尾根筋は約7〜80m程の土橋となって続く。此処から野々垣の得寿寺へ谷沿いに降る道が有るようだが曽地城に向う。 土橋末端付近には土橋付き堀切が有った様ですが?気付かなかった。なだらかな尾根が曽地城最南端の主郭切岸下まで続く。其の主郭部手前の鞍部付近にも土橋付き堀切が有った様だが、縄張り図と付き合わせながらでないと、 気付かない程浅くなっていたのかも知れない?。曽地城についてのレポートは上記の曽地城に譲ります。曽地城からは以前:鉄砲山砦からトレースしているので、 今回は西へ延びる短い尾根から急斜面を谷に下って得寿寺前に降り立った。


宮山砦と鉄砲山砦
宮山砦
 宮山 Ca240m 篠山市泉字宮山
鉄砲山砦  鉄砲山 251m 泉字鉄砲山

篠山城の南を走るR372(デカンショ街道)は東へ向うと八上城の山麓を通り日置東交差点(曽地口)に差し掛かります。右折すれば磯宮八幡宮ですが、 左折すると直ぐに篠山川に架かる泉橋を渡ります。 篠山川に沿って東へ延びる丘陵の最高地点が剛山(講山とも神山・甲山361mとも呼ばれる山城)の独立山塊は、篠山川を水堀として、 京への主要街道に面し綾部から若狭・丹後方面への分岐点ともなっている要衝です。
鉄砲山砦本郭部から剛山

泉地区の公民館の角から正面に見える鳥居を潜り八幡神社の奥に進む。R372から般若寺城細工所城へ向う県道702を結ぶ車道からは、お椀を伏せたような丘が宮山砦で鉄砲山砦 そのUの写真を参照)に立寄ってから本命・剛山(井上城)へと三つの城塞を連ねて訪ねます。
=宮山砦=八幡神社の拝殿横から 少し登れば小さな祠のある山頂?です。山頂と呼ぶには比高僅かに 15m足らずの丘の上で3〜4m幅の空掘りの先からは、 細長くほぼ真っ直ぐな尾根上を階段状に小さいが数多くの曲輪が続きます。 祠の最高所からの展望は優れませんが 指呼の間に八上城が見えるはずなのに…下方に向って曲輪の続く様子が判るだけに、初っ端に目前に現れた空掘りに俄然 ・興奮しますが此処は古墳が多く、今立っている場所も古墳なので 此の古墳の環壕なのでしょう?其の墳丘を削平して造られた稜上の小曲輪群は尾根に沿った東西に通路兼用の帯曲輪が囲んでいます。
宮山砦(最高所は古墳、前の空堀は古墳の濠!)

各々の削平状態は良好だが堀切・土塁もなく、曲輪の段差も低く防御設備の弱い城に城史を語る伝承もない。此処も八上城を包囲した光秀軍の向城の一つの様です。緩やかな尾根沿いに城域を抜け出たと思ったら深く長い トレンチ溝の様な堀切道!に出た。北側は湿原帯、南へ下る道は泉地区へ抜ける道かを確認しなかったが戦時中?の鉱石運搬用道路だったのかもしれません。この堀切道?の先の藪山に鉄砲山砦があり、其の南面や剛山山頂南側直下にも大きな鉱口を見かけましたから。
=鉄砲山砦=宮山砦の東約150m・標高や高低差がなくて 尾根の鞍部とも呼べないが堂山と鉄砲山の間の堀切道!から鉄砲山へは幅広のトレンチ溝の様な此の堀を越すが切立っていて大変です。 それ以上に其処から先の藪もひどいので、剛山北側の山裾を捲いて北島地区へ抜けると思われる踏み跡を辿ります。途中・藪に赤いテープ(登山や営林用ではない!!)があるところから適当に藪を突いて尾根に出た。
鉄砲山砦本郭西1段下曲輪(藪ですが)からの八上城

最高所だけが砂の地表を見せているが周辺は全て藪の中で、 主郭一段下の小さな腰曲輪と正面に八上城を望む位置から、此処にも砦が有ったのか・・・と思わせます。明智光秀の軍が八上城を包囲した際 ・此処から鉄砲(大筒)を放った場所として、字名に鉄砲山の名が記されています。 1992年の発掘調査での出土品や削平地から砦跡と証明されたが、前方や足元を覆う雑木藪に、とても縄張りを推し量る事も出来ません。雰囲気は 岩崎城(この城は八上城に背を向けて篠山盆地の西口を監視しています )と良く似た感じに思えます。削平地以外には何も確認出来ないまま藪を漕いで元の道へ戻ります。少し先で右手に又も赤く長いテープを見ます。 奥に黄色い国有林の注意看板を見て良い山道が通じます。剛山山頂まで境界監視用の道が続いているようです。


井上城と剛山砦
井上城(剛山城)  剛山(神山・甲山) 361m   篠山市泉字剛山

日置の磯宮八幡宮からは北方に剛山の独立小山塊しか目に入らないので直ぐ分かります。この小さな丘陵帯が全て城!!?なのか此処に四つもの城塞が潜んでいるとは思えません。山城跡であることだけは確認していたので、今回は泉地区から宮山砦 〜鉄砲山砦を訪城して井上城を目指してみます。 …登路を知らず…鉄砲山砦を降りてからはそのまま剛山の北側・山麓の藪っぽい水平道を詰めてみます。
篠山川に架かる小嶋橋から井上城を望む

最後の一つ・剛山砦の位置が分からず、剛山山頂の井上城からの激下降で尾根を取り違えたらしく行き着けなかった。 以前・北島地区から美しい富士形に魅せられ登ってみたが此方にも登路なく、山裾の溝を飛び越え藪を抜け山頂へ急斜面を直登します。北島集落から望むと富士型の綺麗な山で篠山川が山裾を濠として囲らされた、山はさながら山城の雰囲気です。北島橋手前に桜酒造工場があり、近くにスペースが有るので車を寄せて出発します(PM12:50)。 薮で展望も無い山頂への道は 結構急斜面もあり、御覧のように山頂部はなだらかな平地で、おまけに数段の曲輪を感じさせる部分もありました。
尾根上曲輪の沿って2〜3段・犬走り状?の細い帯曲輪が走る

北島橋を渡り集落の最奥の民家手前から 右折して西ノ堂や泉へ抜けると思われる鞍部目指します。 峠まで薮の刈り込みがされており楽々到着します。山頂に向って途中までは明確な踏み跡が有りましたが、何時しか消えて薮漕ぎで山頂に到着します(PM1:20)。だいぶ進んだ頃、北島地区への分岐となり山側への踏み跡はやがて藪の中で消えてしまったが、そのまま谷状を詰めていくと此処まで見かけなかった岩石が散乱し 堆積しているところも有る。其処からは粗(ほぼ)直登する ルンゼ状の急斜面となったが、突然削平された台地に出てきて驚いた。
井上城(櫓台側の竪堀上部の石積)

竪堀を上り詰めて来たようで其の切り口付近に石積が見える。直ぐ横の削平地に先には北斜面に 突き出すように方形に石垣を積んだ櫓台遺構と思われます。只・参考にした井上城の縄張り図資料には、竪堀や石垣遺構に付いての説明は有りません。なを本郭部付近の南側直ぐ下方(10m程)にはポッカリと口を開けた鉱口があり、 少し下方には錆びたワィヤーが残っていたような??鉱口はおろか大事な空掘りの写真もバッテリ切れで添付出来ず残念です。東からは篠山盆地へ入るメインロードの京都街道が亀岡方面から通じ、北側からは京都 ・船井郡から板坂峠を越えて藤坂川が篠山川と名を変え細工所城から車塚 を経て曽地口付近で合流します。
空掘よりだいぶ西下方の北側に櫓台跡が !!

この要衝に加え山裾の南側を流れる篠山川を水掘りに、崖状の急斜面を構成する天然の要害ですので 曽地城 同様に、東方約1.5kmにある波々伯部氏の淀山城と呼応する、八上城主:波多野氏方の城が有ったのではないかと思われます。しかし此の城も天正期の明智勢による八上城の向城として使用された可能性を 推察されています(山レポートその1に写真追加)。丹波の山城では珍しい空掘(横堀)遺構もあり堀の東端は石積みが有り、削平が甘いのか崩れているのか、袋小路状態の中には小広い曲輪となっているようです。 此処へも空掘等の写真追加や縄張り図・記事の再確認と、剛山砦を探して再訪する必要がありそうです。
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剛山砦  xxxxx260m    篠山市北嶋字東陽寺

剛山山頂の井上城(剛山城)主郭から山麓の篠山川に向かって 南に張り出す短い東端の枝尾根末端部の ピーク付近の平坦な尾根上に剛山砦がありました。井上城から約200m程の距離で南に突き出す細く狭い尾根ですが、井上城側から剛山砦へ向かうには長く見通しの効かない急斜面の下降では、短い枝尾根で判断しづらいとおもいます。篠山川に架かる小嶋橋を渡り井ノ上集落を抜け東陽寺(廃寺)跡が有ったという山裾へ廻り、 南端部辺りから溝を跳び越えて、狙い定めた尾根末端の台形地形のピークを目指します。
谷越しに望む急斜面上の剛山砦

平成 6年(1994)12月に発見された 剛山砦の築城や城主等は不明です。植林帯の隙間を通して谷を隔て、崖のような急峻な向い側に台形の緩やかな尾根が見える。平坦地というより、 高低差の無い細長い台地、 曲輪の段差も殆ど区別できない尾根を南に向かうと、此処だけは比較的曲輪の輪郭?が判る10mばかりの円形のマウンドが有った。北面の尾根沿いの城域を除き三方は急斜面で、主郭部からは 南へ落ち込む眼下に篠山川が流れ、 福住を経て天引峠を越え園部へと京都街道【R372号(デカンショ街道)】の要衝を監視する砦として、また井上城の枝城か出曲輪として 機能していたと思われます。10u程の円形の狭い本郭を中心に尾根南北に2〜3段の小さな削平段が有るだけの砦跡は、指摘されなければ気がつかない・・(^^ゞ   しかし東斜面のある 2段ばかりの小さな削平地は判る。
剛山砦主郭部(北の尾根側から)

井上城に向かって北尾根を辿ると、 倒木や僅かの間・竹の目立つ緩やかで幅広い尾根上で、大きく捲くことも無かなかった。浅いが土橋付きの堀切も有る様だが気付かなかった。鞍部らしいところもないまま・山上の井上城まで急斜面の連続する尾根は城域を区分する為のものか?。 防備の設備は他に何も無さそうです。剛山が八上城を包囲する付城として使用された場合、付城に付随した見張りの砦とも考えられます。篠山川を挟んで直線距離で西約2.5km地点に有る八上城の東口の押さえとして、 重要な位置を占めているようです。
(戦国・織豊期城郭編 八上城遺跡群に関する総合研究 縄張り図集を参照)


畑市城と上宿城   もう一つの畑市城(平内丸)は後日の予定

日置の磯宮八幡宮の東・R374号(デカンショ街道)日置東の交差点から 古坂峠を越えて後川(しつかわ)から 猪名川町へ抜ける県道12号(川西篠山線)に入って直ぐ、左手に低い丘陵が見える。弥十郎ヶ嶽の西尾根から北に派生した 枝尾根が篠山川近く迄、北に向って突き出して丘陵の其の北端付近には畑市地区の南西奥地に畑市城が、 尾根続きに上宿城が有って末端が上宿地区に落ち込みます。
曽地川から上宿城遠望・畑市城は山陰で見えない

上宿城への登路は此処からと思いながらも、無住の寺と小さな墓地のフエンスを越してまで入る勇気!!?も無く、他に取付きを探しても無く迂回したが、最終は急斜面に長く深く掘られた竪堀に沿って上 宿研修センタ側の此処 ・無住の寺と墓地に降りてきたのですが・・・。
畑市城と上宿城の中間部にある土橋!?

山裾に沿って南側の廻り込みながら赤穂谷の貯水池に出た。このまま県道筋まで出れば洞中砦のある厄除八幡社へ出る。谷筋に沿って詰めて行くが山麓を取囲む 猪垣フェンスは何処からも出入り出来そうな開閉口が無く、仕方なく杭を足場にして乗り越え尾根に向う薄い踏み跡を追ってみる。此処を登り切れば尾根筋は既に畑市城の城域に入る。尾根を北に降れば 300m程で上宿城の主郭部に行き着く筈です。
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畑市城
    xxx330m   篠山市畑市字池谷

日置堂山砦の真東 ・県道12号(川西篠山線)と曽地川を挟んで対峙する丘陵上に上宿城があり其の尾根続きの東南には畑市城があります。畑市地区から谷を詰めるのが正規の訪城ルートかもしれないが 曽地口の赤穂谷側から強引に取り付いて先に畑市城の主郭部についた。弥十郎ヶ嶽から西に派生する尾根上にある畑市城ですが、この弥十郎ヶ嶽西617mの尾根上にも ”平内丸”と呼ばれる城跡が有り、
畑市城域中央の曲輪(本丸郭!)

なぜ!!こんな高い所にと思われる位置に戦国末期?波々伯部平内の城がありますので”平内丸”は此処・畑市城のその又”詰め城”だったのでしょうか!!。それとも辻の南山城 (嵐城)も弥十郎ヶ嶽から北へ派生する尾根上370mにあり、時代はグッと遡り室町時代中期・嵐四郎が拠っており、
平内丸と呼ばれる城遺構も池谷の畑市城も上宿城に至っても、全て山城の尾根の堀切がなく、 自然地形に近い削平地を残す状態からも、建武頃から室町期にかけ勢力を誇った頃の波々伯部氏の城だったと思われます。 その後は山名・細川やがて波多野氏へと属して、波々伯部氏の保全に努めたが弱体化に城は廃城となったか、補強修復される事も無く旧状のまま残されてきたのかもしれません?東西約50m程の間にある二つの高みに 曲輪を並べ西部が主郭部の様す。
畑市城・二つの曲輪を結ぶ帯曲輪

二つの曲輪を結ぶ尾根上の削平は甘いが尾根の左右下部には2〜3重に帯曲輪が周っています。弥十郎ヶ嶽の西尾根から北に派生する枝尾根が更に北西部で枝別れして 北に延びる尾根の分岐ピークに有って 東北麓には波々伯部神社を祀り、辻の淀山城を中心に南山城や東山城があり、 此処畑市地区からは曽地中へ抜ける古道が通じていたようで、其の峠の尾根近くには在地豪族・波々伯部氏が築いたとされる畑市城があります。波多野氏の台頭で、その傘下に
入り波多野七組の一方 の旗頭として波々伯部治良左衛門が活躍した永正5年(1508)頃迄には、上宿城と共に?八上城の東の守りとして築かれていたのでしょうか。 削平が甘く土塁や切岸加工等防備補強に改修された様子も無く、自然地形を残す城跡に八上城攻防の時期まで 存続していたとも思えません?。
畑市城・北端部の片堀切

しかし京街道(R372号)を望む北側を主に帯曲輪 ・腰曲輪を重ねる畑市と上宿、二つの城は主要街道を監視する砦城として光秀の 八上城攻め直前までは機能し、その後は付城の一つとして光秀軍が利用したのでしょうか。曽地川沿いに三田方面から八上城への食糧等物資輸送の監視に就いたのかもしれません。 主郭部から更に北西に延びる尾根上に 自然地形に近い曲輪が続き 右手に一本の片堀切を見て畑市城を抜出し、細長い土橋状の尾根を辿って上宿城の城域の入ります。
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上宿城    xxx310m   篠山市上宿字法ヶ谷

(上記の続き)土橋!!を抜け少し斜面を登り始めると直ぐ平坦な段差を見る。 あっけなく上宿(かみやど)城城域に入ってきたようです。先の畑市城に比して上宿城の方は此処・城域東側に南北に 曲輪群を置く主郭部が、まだ削平状態や曲輪の切岸等の状態が良く残されています。更に西に続く尾根上にも削平の悪い曲輪群があり更に西の鞍部の先・尾根の西端部にも
上宿城南北曲輪群の北主郭

小曲輪があるが、此の鞍部から北下に向っては急斜面に深く長い竪堀が一本走り、 上宿地区の西安寺(無住)の墓地側の竹林となっている平地まで延びています。畑市城から上宿城に来たが、直接上宿城へは 此の上宿研修センタ内空地!?に駐車させてもらい、西安寺へ鹿除けフエンスを開閉し、小さな墓地を抜け、此の竪堀沿いに取付けば東西尾根上の曲輪群の西郭に登り着きます。
上宿城北郭:北斜面の段曲輪


人為的ですが山仕事用の杣道にしては手懸かり・足掛かりも無い急斜面で、地崩れや水流による自然地形でも無い ?(切岸!!)様だが深くて明確過ぎる溝に縄張り図では(竪堀!?)”?”マーク付です。曽地口から後川を経て三田や猪名川へと摂津へ抜ける 県道12号(川西篠山線)とR372号(デカンショ街道・京街道)の交差する要衝に有り淀山城を本拠城として、
上宿城南北曲輪群の南郭群切岸

東山城・南山城や畑市城等・・在地豪族波々伯部氏一族による領地支配の諸城砦が築かれているが、 其の西口境を監視する城が有っても当然のような位置に有りますが城主等の城史は不明です。篠山川・R372号線を挟んで 対岸の剛山にある井上城と呼応し、周囲には八上城防衛の・後には反対に
上宿城南北曲輪群の南主郭

八上城包囲網の付城群ともなる城砦が 点在していることを思えば、上宿西安寺(無住)の墓地から稜上まで延びる竪堀は防備の為というよりは、光秀軍の向城となった上宿城への堀切道や迎撃 ・追撃用のシューター!!?とも思えます。ただ此の竪堀は現状から見て ・あまりに深く明瞭に残るので 後世の木材切出し・
上宿城:東西尾根から南北尾根曲輪群に入る虎口部?

木ズラシ用で出来た溝とも思われますが、落とし口の尾根上は幅狭い土橋状から片堀切状に落ち、切り出した木材を置く場所も・直接投げ落としたにしても落とし口の幅が狭い!!?。近年の(戦中・戦後?)もの直下に墓地と無住ではあっても 西安寺や民家の側。
上宿城:東西尾根上の土橋付き浅い空堀

緩斜な50m程の尾根先は広い平坦地形で、直接地区道からの木材搬送が可能!!。竪堀は下部で切れ急斜面が現:墓地へ落ちる。木材は何処へ飛んで行くか判らないが墓地続きの裾に元 :墓地跡か広い竹薮と、更に二段程の平坦地が有る。波々伯部氏が、次いで八上城の向城として内藤氏・三好氏が利用し多紀を領した 三好氏が暫時此処に拠った城か?。
上宿城東西尾根西の竪堀(片堀切)?

更に明智軍の付城として使用されたと思える上宿城に拠る武家屋敷跡の一つが此処 に在っても!!?‥・・。上宿城は東西・南北に延びる長い稜上の 丁字付近にある城域の尾根上を断ち切る程ではないが土橋付き堀切(空堀)と、長い尾根道が三方の郭群(西安寺背後の東西と、 南と北の郭群)を区分しているようです?。
竪堀(片堀切)?:尾根上はS字の土橋状!!?

東西尾根上の 削平の粗い曲輪群 ・土橋付き堀切も浅く、前後に切岸土塁による防備の工夫も見ない。 光秀軍が八上城の向城として旧城の東部分・ 南 北の尾根上の遺構に大きく改修された形跡はなさそうです?。南北には切岸加工された腰曲輪・帯曲輪が長い平坦地形を挟んで形成され、北郭から要衝のR372号線を正面に監視出来る北側急斜面には幅狭いが切岸処理された 4〜5段の曲輪を積む。
上宿城:西安寺墓地上から見る竪堀(片堀切)?

西面は 曽地川沿いの県道12号線が摂津三田・能勢・池田方面に通じる街道監視・街道を挟んで堂山砦・正面奥には八上城を望み、尾根続きに畑市城にも通じる位置に在る。東西尾根とは異なる縄張りを呈しています。
(戦国・織豊期城郭編 八上城遺跡群に関する総合研究 縄張り図集を参照)


洞中砦  赤穂谷山 280m   篠山市曽地中赤穂谷山

足利尊氏の丹波篠村での挙兵に由来する伝説と世界に此処だけという珍木裸榧で知られる 磯宮八幡宮の東・R372号(デカンショ街道)日置東交差点を右折して、古坂峠を越えて後川(しつか わ)から猪名川町へ抜ける県道12号(川西篠山線)に入ると、西に先日訪城した 堂山砦の半円形の森が見え、
左近稲荷前から洞中砦

東には畑市城・ 上宿城のある丘陵が突き出しています。後方(北)には井上城のある剛山の姿が見えています。 県道に”丹波猪村”の看板を見て曽地川を渡ると”ホタルの里”曽地中地区へ分岐する三叉路に”厄神前”バス停があり 厄除八幡社の鳥居が建っています。正面に石段の参道が続きますが登り口の灯籠脇に 4〜5基ばかりの欠けた五輪塔と宝篋印塔残欠が寄せ集められ祀られています。 石段を上りきった左に八幡社が建ち、
厄除八幡宮参道

右手へは直ぐ踏み跡も途切れる尾根道を辿れば直ぐに、細長い削平地を残す洞中砦です。摂津方面からは永沢寺や後川奥を経て曽地奥から、また能勢・猪名川方面は後川上から古坂峠を越えて篠山盆地に入ってくる街道筋に面しているので、その監視の砦の様です。「三田の昔話」には後川奥から曽地奥へ峠を越えて、籠城戦となった八上城へ兵量を運んでいた 僧侶達が斬首された伝承を伝える『天正の首塚』がある。
洞中砦・城域中央部の浅い堀切と東郭

史実!!と築城の意義からも在地領主の監視の砦だった様ですが、反対に八上城向城の一つとして見張り所があったのかもしれません。緩やかな尾根上の曲輪の中央付近は浅い堀切が有って、平坦な削平状態の良い東側の曲輪に出る。 更に東へ続く緩やかな尾根へは猪避けフエンスを越えて進んで見ますが、城域を示す防備の堀切等遺構は見当たりません。城域中央部の堀切も二つの曲輪を区分するだけのようです。
(戦国・織豊期城郭編 八上城遺跡群に関する総合研究を参照)


後川砦   城山 540m   篠山市後川上字城山

八上城北山麓を東に向かい日置東交差点で県道12号 (川西篠山線)に右折し、曽地奥集落との分岐を過ぎ ると直ぐ洞中砦にむかう厄除八幡宮の 鳥居を見て古坂峠に向う直線の緩やかな登りにかかる。洞中古墳1・2号を民家側と田圃の端に見て、四十九院跡・弥十郎ヶ岳へ向う登山口を過ぎるとヘアピンカーブ連続の登り坂を過ぎると城東トンネルが現れる。
後川砦主郭西部の石積み


古坂峠(城東トンネルを南へ抜けたところ)上部から南へ延びる 稜線末端のピークに後川砦がありました。篭坊温泉に程近い後川上集落北の背山ですが、仰ぎ見る険しい急斜面の山容と 集落からの取付き不明の為、少し道程は長いが城東トンネル南口から尾根に出て尾根筋を南下して辿ってみます。
後川砦主郭西部

洞中砦のレポートにもあるように 八上城籠城には、 三田市側からも曽地や後川ルートで軍用救援物資が運ばれたいた様です。曽地城・曽地砦・洞中砦や弥十郎ヶ岳には波々伯部氏の平内丸や此処・後川砦も攝津三田市や猪名川町との境界に近い丹波篠山への入口を守る八上城城砦群の最前線基地として、其の守備に当たっていたのでしょうか?。天正7年(1579)明智光秀の八上城攻略による 兵糧攻めに際し、籠城を支援する為・曽地村の寺々からは、おそらく曽地奥砦からの尾根伝いに八上城へと兵糧を運ぶ修行僧がいました。
後川砦南東部の断崖頭から後川上集落を望む

後川砦主郭西部の石積

「三田の昔話」にも後川奥から曽地奥へ峠を越えて八上城へ兵量を運んでいた僧侶達が 斬首された話がありますが、此の道筋には『天正の首塚』が有って四十九院の修行僧達も捕らえられ首を撥ね殺害されたのでしょう。多くの僧房も焼かれた事でしょう。肝心の後川砦について築城時期や目的 ・城主等は不明の様ですが、北方の尾根筋を除く三方は、直ぐ目の前に見えていて比高200mの急峻な斜面に囲まれ、さらに山頂付近一帯は 露岩の目立ちます。東西約80m・南北25m程の狭い城域の西方の最高所に露岩を載せる主郭がある。土砂が流れてか此処以外の各小曲輪共に傾斜していて削平状態は悪い。厳しく険しく・しかも狭い曲輪域を確保する為か、
後川砦最高所の主郭

主郭西側小曲輪に下部には大きな露岩を挟んで高さ約 1 .5mの石積みで造成加工されていました。城域の南と南東側には何れも5〜10m程mの大きな垂直の露岩を多く見かけます。 しかし緩やかな北側の尾根に堀切は無く・周囲の斜面にも竪堀は無さそうです。北尾根から辿ると直接・主郭部北面の6〜8m切岸に着き城砦と判るが、東方に曲輪が延びているので登城ルートは
後川砦主郭から南西に削平の荒い二曲輪だが石積が遺る


県道筋後川上集落の古坂峠への入口にある墓地か、弥十郎ヶ岳への 竹谷林道入口反対側付近から此処に通じる道があるのかも?。しかし此処から南側への上部は断崖絶壁。石積み遺構の少ない丹波の城砦群の中でも、土留め以外の用途で石積み ・石垣が見られる数少ない城遺構が残る事で特筆の砦です。
戦国・織豊期城郭編 八上城遺跡群に関する総合研究 を参照)
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