水尾城塞群 奥山寺〜愛宕山〜宇仁山 / 馬渡谷城〜青野城/水尾城
播磨 地図 (五万図=北条)
 奥山寺〜宇仁山城〜宇仁山(宇仁山砦)〜十王堂
   / 馬渡谷城〜青野城 2004年07月04日
近畿の山城宇仁山城と宇仁山砦 水尾城 馬渡谷城 青野城

宇仁山付近からは日食状態に見える水尾城を望む

山陽自然歩道の名残か近畿自然歩道として整備される以前に、 地域で計画されていたものかは知らないのですが、加西市内に入ってきて目立ち始めた「緑の回廊自然歩道」の案内標識に従って奥山寺に向います。 JR西脇市から滝野駅を経て加西市に入る県道筋には光明寺・闘龍灘 ・滝野駅前の歩道橋(鳴彩橋)を渡ると高瀬舟をイメージしたモニュメント、播磨中央公園に温泉と名所旧跡や見所が続きますが、 中央公園を過ぎると急に長閑な山間の田園風景に変わります。小さな峠付近の大工町や馬渡谷町、 峠を抜け出た河内町や満久町にも山城や丘城が点在しますので一帯は、北・東・南・西の各播磨、山陽道の北の間道として利用された要衝の街道筋でも有ったのでしょう。自然歩道の案内標識の他にも随所に石仏を彫り込んだ道標 (みちしるべ)を見かけます。登山対象からは外れた低山で藪もひどく、周囲をゴルフ場に占拠される山や山城には歴史からも語られる事なく忘れ去られてしまいそうな小さな城を訪れます。



奥山寺〜宇仁山城〜愛宕山〜宇仁山(宇仁山砦)〜大工町   H16.07.04

県道34号線を野間川に沿って走り馬事公苑への分岐を右に見ると昨日登った角尾山が野間川から 一気に高度を上げて聳え立ちます。 程なく西方には水尾城が見えてくるのですが今日も麓から写真だけ。 どうも側へ寄って行けない雰囲気です。何故って・・・・下記に重複しますので此処では省略します。西脇市水尾町を抜けて県道24号線の二ヶ坂 (甕坂=旧みかさか)を越えると加西市に入ります。
奥山寺仁王門

此の両市の境界を東西に延びる稜線上にある二つの峰・宇仁山と点名 :奥山寺には共に水尾城の城塞が築かれていたところです。加西市国正町の南山麓には青嶺山奥山寺があり、滝野町の播磨中央公園内を抜ける県道沿いに大工町から河内町( 河内城)や馬渡谷町(馬渡谷城と峠の車道を挟んで対峙する青野城)から満久町(満久城 )へも緩やかな峠道で通じています。先ずは奥山寺から宇仁山城に向います。「奥山寺越え」の旧道が西脇市側へと尾根を越して通じているようなので、大手筋とも思える此の峠から辿るのが本筋かもしれない。 しかし峠への道に気付くこともなく目前に見える立派な楼門(仁王門)に向っていました。高野山真言宗の青嶺山奥山(おくさん)寺は白雉元年(650)法道仙人の開基と伝えられる古刹で、大宝3年(703)火災に合い後、荒れていたが行基菩薩により養老2年(718)再興されましたが慶長6年(1601)にも火災にあったが慶長12年 (1607)本堂が再建され貞亨3年(1686)僧 ・隆俊によって修復されました。
奥山寺多宝塔

仁王門(楼門)は江戸中期の様式をよく残しています。鮮やか朱が映える多宝塔は石段を登り詰めた最上段にあって山の緑を背にして建っています。仁王門は江戸中期の様式を伝え市指定・昭和53年 /昭和60年解体修理)、多宝塔(昭和27年補修)と共に加西市文化財の指定を受けています。仁王門(楼門)は宝永6年(1709)に再建されたもので,木造3間一戸で入母屋造り、本瓦葺,上層の軒は扇垂木を配し、 大きく迫り出す軒を支える組手は三手先(みてさき)構造の組物、中備えには蟇股および間斗束をおく。全体的に木割が雄大で細部の手法は、和様を基調としながら一部に唐様が見られ、市内に残る此の種?の仁王門としては最も古い遺構とされます。多宝塔としてはやや小さいが姿も保存状態も良く棟梁は地元・宇仁郷大工村(加西市大工町 )の神田作左衛門実清と伝えられています。
奥山寺(4等 260m 宇仁山城)

庫裏からの 急な石段を登りきったところに本堂が、さらに石段が続いて多宝塔に着く。奥山寺の多宝塔から奥に続く山道は四国!!?八十八ヶ所 (どれもXX番はあるが寺名が無い)石仏道を周回して本堂に戻るのでしょうか?!。 暫く進むが段々と目的地が遠くっていくので巡拝道を外れて踏み跡もない斜面を直ぐ上部の稜線に出る。 殆ど藪で獣道程度の 時々消える薄い尾根筋を約20分程度辿って、井戸跡か”貯め水池跡”らしい凹部を見て直ぐ切開かれた平地に出た。其処が点名:奥山寺 (4等三角点 260m) で・・・多宝塔から15分位ですが踏み跡程度の道も藪で見失いがちです。
鉄塔のある城山南ピーク側からの水尾城 H17.4

宇仁山へ向う西への稜線は崖状の斜面を降って辿りますが、竪堀と竪土塁跡かと思える様相の場所も有ります!! しかし遺構なのか!!荒れて土砂が崩れているだけなのかの判断も出来ません。三角点峰から東へは台地(削平地)を捲くように、幅の細い帯曲輪が雑木藪の奥へ延びている様子です。 此処は水尾城の南面を守備する支城宇仁山城の在ったところです。東方へは平坦な尾根の両端を掘り切っては 西部と東部に分かれるようです。堀切を越え少し降って登り返すと数段の荒れた曲輪群を越え 263mの最高地点に着き此処が主郭です。周囲も下方も雑木と藪に囲まれ 展望もなく、縄張りの状況もよく確認できないが主郭と周囲の曲輪2段程は切岸は低いが(3〜4m程)良く分かります。主郭から先の尾根筋は「奥山寺越え」の旧峠へ出るのでしょうが 躊躇する程の猛烈な藪、 少し戻った鞍部!!付近から捲き降りるのかも分かりません。
南ピークより・絶壁上に水尾城の本郭がある H17.4

宇仁山城西郭の奥山寺(三角点峰)へ引き返し、 この時期だけとは思えないほど藪が深い上に倒木や棘木を避けて、尾根筋を避けて通る厄介なコースの上に殆ど 展望も望めないトレースが続きます。何処を如何進んでいるのか判らない状態で270mピークを越した辺りで樹木の間から西脇方面に少し展望が開けた。しかも視野の左端にはオッ・・・採石場のような大きな円錐状の 丸裸で露岩混じりの砂山が見える。此れこそ一番に行きたかった水尾城です。(砂山ではなく凄まじい程の岩塔の上の城)周辺の城同様に殆ど知られる事もない中世の山城ですが、 宇仁山城の本城とも言うべき城です。 西脇・加西・社と播磨地方は勿論、全国的にも多いゴルフ場が又此処にオープンし、ゴルフ造成の為急斜な山頂部にある 本郭部の遺構は残されるかも!!と期待したいが満久城同様にゴルフ場内のため側にも寄れないかも。水尾の城山が見えて程なく、 今までの藪山が嘘のような広い山道が現れた。
水尾城主郭から荒涼とした 岩屑で埋る城域を望む H17.4


道は草で覆われた尾根の南下へ続く様だったが直ぐ平坦な草地に出た。 露岩の上に小さな火臥の愛宕堂(祠)が建ち、その下方には三体仏が雑草の中から顔を出し 眼下に拡がる加西市の眺望を楽しんでいるかのようです。稜線から外れた南側の此処が愛宕山(Ca265)です。立見席ですが本日唯一の展望所は青野ヶ原(自衛隊演習場)や 雄岡山〜雌岡山善坊〜笠松山、六甲の山並みから明石海峡へと南から東へ180°のパノラマです。 此処から降れる道は無いので 、さっきの広い道に戻りますが消えかかった”火の用心”標識や錆びたベンチやゴミ箱を見かけます。藪を抜け出た快適さで途中の分岐(踏み跡らしいものがある程度)に気付かず先を進むと 尾根が一気に下がり四国八十八所霊場の石仏が続く尾根を違えた宇仁山が大きく見える。この後再度引き返し検討をつけていた尾根分岐を宇仁山に向い、此処から大工町に下ったが、丘陵上に堂が見える普明寺から ミニ霊場を経て愛宕堂までを往復する「愛宕山ハイキング道」でした。愛宕山への参道から藪尾根への分岐(水尾町の太鼓谷へ大工越えが通じていた )を直ぐの峰が宇仁山砦跡だった様ですが、 この時期では無理なのか、此処に削平地は勿論?土塁や堀切さえ有っても見つけ出せそうに無い。単調な!!藪のラッセルが続き宇仁山への 分岐も分からず稜線の西端近くまで来てしまった。
普明寺の四国ミニ霊場道から宇仁山(宇仁山砦!)

櫓や旗こそ無いが”水尾の城山 ”が往時の姿を復元したような姿を見せる。遺跡調査後は個人所有地なのでそのままになっているのでしょう。山麓がゴルフ場のグリーンに囲まれても 城域の此の姿は残して置いて欲しいものです。折角の姿も樹間越しでは写真にも収められない・・。この先は山 田町への鞍部に下るだけ(鞍部は山田越えだが先の大工越え同様かつての面影は露程にも残らず 道が通じていたことが信じられません)、又も藪中へ引き返し分岐を宇仁山(3等三角点 255m)の向います。雑木藪の中に倒 れた測量棒と三角点標柱を見つけた。南への枝尾根に暫く続いた踏み跡も途切れがち。 大工町へ降りてきて、 県道を奥山寺に戻る途中「愛宕山ハイキング道」のSTART地点・普明寺を過ぎる。車道脇に大師堂が建っているので覗いてみるが、扁額に「十王堂」とあり旧奥山寺が管轄のものらしい。 十王とは閻魔大王を筆頭とする十人の裁判官が冥府で死者を裁くという十王を祀って自分たちも極楽へ行きたいと願う十王思想ですが、本尊の地蔵菩薩が閻魔大王であることや、 十王が十三仏上位!?の三仏(阿シュク ・大日・虚空蔵の大菩薩)を除く10仏であることが分かれば生前の罪業を裁く裁判官や陪審員と云うより、本来は人々を救うのが目的なんですね・・・中国思想による十王と本地仏の関係は・・お前は”もう死んでいる ”と生への執念を断ち切る不動明王(泰広王)に始まり仏への道を易しく説く釈迦如来 (初江王)、 そして授業が進むと段々難しくなり・・!文殊菩薩(宗帝王)、普賢菩薩(伍官王)、地蔵菩薩(閻魔王)、弥勒菩薩(変成王)、 薬師如来(泰山王)、観音菩薩(平等王)、勢至菩薩(都市王)、阿弥陀如来(五道転輪王)となります。
宇仁山山頂(3等 255m 宇仁山砦)

引き返してきた大工町からの 車道を一つ南に下がって馬渡谷町に馬渡谷城が有るので峠の池の傍から寄ってみたが、雑木藪の中の急登、おまけに腰まで埋まり、足元も見えないシダを掻き分け、やっと辿りついた山頂部も雑木藪とシダの埋め尽くされ、 小さな曲輪や堀切は気付かず何の確認も出来ないまま尾根とも谷ともつかない?斜面を引き返した。この峠の南側には馬渡谷町側に山肌を大きく切り崩された険しい山容の山が見えます。青野城ですが此処へも 登城ルートがよく分かりません。南に延びる尾根に沿って野上町から青野町へ入ったが山は遠くなるばかり。もがこの山稜上に在るので此処へ寄った方が良かったが、下調べも出来ていなかったので諦めました。
(加西郡誌 現地・案内板 加西市教育委員会 を参照)


 宇仁山城と宇仁山砦 馬渡谷城  青野城 水尾城


宇仁山城   主郭(東郭) 263m(3角点は奥山寺には西郭 260m)  西脇市水尾町字宇仁山・加西市国正町字亀山
宇仁山砦 主尾根の宇仁山255mへの分岐254mピークか?(訪城不達・遺構未確認) 加西市大工町字宇仁山

古刹・奥山寺からの訪城ルートは誤まりで、 西脇市側へ抜ける旧”奥山寺越え”が本来の登城大手道だったのかも知れないが?・・。水尾城訪城後に関連の城塞群として訪ねる。 この水尾城の南側を東西に伸びる丘陵が有り、其の中程から北に向って短い枝尾根に小さな円錐形の峰を二つ載せて突き出しています。 鉄塔の小山の先に少し高い山の山頂部に水尾城が有るのですが城のある山域全体がゴルフ場建設用地との事で登城は無理なんでしょうね。
宇仁山城主郭・本丸から帯曲輪


宇仁山城も矢筈山城同様に 平坦な尾根上にある自然地形の鞍部や尾根の先端を小規模の堀切で防御する南北朝期の郭部と、 曲輪を帯曲輪で繋いだ戦国期の郭部が有って、共に築城創生期の南北朝期から室町期〜戦国期へと臨戦時の使用されたものとして、 時・・時に手を加え改変されているようです。宇仁山城の西方約600mの尾根部にも単郭の削平地が有り、 側縁部には土留めの石積み遺構が残る宇仁山砦が有り、戦国期の築造と考えられています。(今回未確認・・)
宇仁山城主郭・本丸東端の切岸

宇仁山城についても築城時期や城主等の城史は不明ですが、当初(赤松氏が河内城を本拠としていた頃 !!)は加西市側の古刹・奥山寺と守護 ・赤松氏に関連しての築城と推察されます。赤松在田氏が野間山城を本拠として移った天文年間(1532-55)には水尾城が重要な位置にあり、水尾城を主とした城塞群の一つに組入れられ整備されたのでしょう。 水尾城が北面の野間川沿いに八千代町・加西市側に180°の眺望があり、領地の這田荘や街道筋の監視が出来るが、南面は水尾城より標高の高い点名:奥山寺(宇仁山城)〜愛宕山〜宇仁山(宇仁山砦は三角点峰 ・宇仁山への分岐尾根のピーク)の稜線が展望を阻みます。その南方の加西市側を監視出来る二つの城・宇仁山城と宇仁山砦が補佐して三っの城が一体で機能していたようです。在田氏の被官人で在地土豪 ・宇仁氏に守備させていたとも推察されるのですが・・(宇仁氏については資料も無く兵庫県史の資料も未調査・・・)

馬渡谷城       城山 174m   加西市馬渡谷町字城山

馬渡谷(もうたに )城は県道79号線の和泉町交差点を東に向って走ると 馬渡谷町で小さな峠を越すと鍛冶屋町に下っていきます。 峠には貯水池が有り、南側には広い空き地が有りますが山肌を大きく切り崩され荒涼とした一角ですが、 この山上に青野城が有りますので後程此処から訪城します。さて貯水池の左前方に樹木に覆われ鬱蒼とした小山が見えます。先ほど宇仁山から降りてきた大工町と馬渡谷町・鍛冶屋町に囲まれた小さな丘陵のなかの独立した小山が馬渡谷山ですが、 低山侮りがたし・・・山に向う道は無く、薄い踏み跡も直ぐに消えると、此の時期 ・急斜面のうえ猛烈なシダのジャングルを掻き分けて進みます。 溝状の山道らしい所はシダと雑木藪のトンネルなので此処を突き進むよりは、 その外側を進む方が少しは楽です。
馬渡谷城遠望

登り初めて降りてくるまで自分の靴先を見たのは山頂に出た時だけ。 しかも雑木藪の中で展望も無ければ、肝心の曲輪や土塁、堀切さえもシダ類の中に埋没している極小さな凹部を足で確認して??堀切かな・・凸部の高まりを土塁だろうか??と勘ぐるだけ・・!!山頂の主郭部を中心に 水尾城と良く似た縄張りに興味深かった分、落胆も大きく再訪を余儀なくされる・・!城主は常陸国(茨城県)から足利尊氏方での軍功で内藤内蔵介雅次の子が赤松氏の幕下として内藤左衛門佐盛勝が来住して康永元年 (興国3年 1342)馬渡谷に築城したとされます。盛勝は合戦では石を使って手柄を立てたといわれ、石打八幡宮に祀られる御神体は其の石だとも伝えられます。嘉吉の乱(嘉吉元年1441)の時の城主・内藤俊次は赤松満祐と共に 城山城で討死したが、その子内藤(左京進)盛次は落ち延び赤松氏の再興時には赤松政則に従い戦功を立てています。 盛次は文明4年(1472)馬渡谷の地名が不吉との理由から満久に移って新しく満久城を築きます。その後内藤氏は 河内城から野間城に本拠を移した 天文年間頃には赤松氏の嫡流在田(有田)氏の幕下として行動しています。


青野城   xxx 201m   加西市青野町

県道79号線の和泉町交差点から播磨中央公園へと東に向って走ると右手に連なる丘陵帯北端の最高ピークの山頂に 青野城がありました。 何の遺構も見つけられないままシダと雑木に覆われた 馬渡谷城から降りてきて、青野城への登路を探して西から南へ丘陵を半周してみたのですが小さな山塊ですが南北に長く延び た尾根途中には無さそうです。丘陵の南端には見覚えの看板・ 加西天然温泉の「根日姫の湯」、 山裾はゴルフ場のようなので引き返し、再度馬渡谷町側を登路として 広い空き地の東側から谷通しに踏み跡を追って稜上にでた。
青野城(左)遠望・低山ですが地形は複雑!

北側からの緩やかな稜上から小さな削平地に出て1.5m程の段差を越すと此処が青野城の本郭で、”正一位白瀧大明神”の 扁額を掲げる鳥居と稲荷社の祠と社務兼休憩所!が建っている。幅15mx長さ30m程の本郭の南に一段曲輪が有り、 さらに南への直線上に自然地形に近い3段程の平坦地があって尾根を下っていきます。ハイキングなら南に砂地の小ピークが二つばかり続くので加西市東部の満久城や平野に点在するゴルフ場でも望みながら歩けそうです。 降りきった鞍部からは南下に見えるアオノゴルフ場に降りるようですが、其処から加西天然温泉を経由して、城址のある山頂から 南西へ延びる長い尾根を迂回して戻るには遠過ぎるので本郭部へ引き返します。
青野城主郭(白瀧大明神)・・・城瀧!なのかも?

北端の曲輪からも西に裏参道が通じているようなので暫く辿ってみます。和泉町へ降りる道でも有ればと思ったが、尾根は南へと 境界切開道の様なのでマタマタ引き返し。 こうして歩き回ったが本各部の各曲輪に土塁や切岸が見られないうえ三方の尾根上に堀切も無い。地形に沿って単純に曲輪を並べた縄張り遺構は室町期のもので郭部を防御する施設が見られず、 戦国期に改修された気配も無い。 築城時期や城主等の城史は不明ですが、播磨守護・赤松氏一族が河内城を本拠としていた頃の城だったのでしょう。

水尾城   城山 250m   西脇市水尾町字城山  H16.7.4 / H17.4.9

JR加古川線西脇市駅から県道34号線、 野間川に沿い加西市・多可郡八千代町に向って走っていると、西脇馬事公苑の案内板を見る頃には角尾山城が見えきます。 角尾山の北山裾を回り込むと前方に禿山が見えてきます。此れが城山(Ca250)の水尾城で登山口となる大日寺には 城址案内板と登山口を示す標識があります。
水尾町の地区道から水尾城

ゴルフ場として開発され、為に発掘調査されるまでは城山への登山コースがあったのでしょう。 しかし今は急斜面の藪に踏み跡が残る程度。稜上に出ると荒涼とした岩壁と岩屑に埋った城域下部を東から南へ廻り込んで南峰の送電線鉄塔上に出る程度(此処も出曲輪跡)で、脆い瓦礫を積んだ様な山城へ登るのはルートを 見極めないと滑落の危険が有り要注意ですよ。城山へは墓所を抜けて踏み跡を伝うと長い竪堀が時々折れながらも稜上まで続く。 登城ルートとしても使用された堀切道だったのかも・・・!近づいて見ると其処は岩と岩屑で覆われた険しく凄まじい岩塔の容相で迫ってきます。
西脇市の資料室にある水尾城のジオラマ

発掘調査による重機の削平跡なのか、山頂主郭部の自然地形の岩山は西脇市と加西市の市境界に有って、 荒涼とした風情と野間川を望む眺望絶佳の位置は、野間川沿いに西脇市と多可郡八千代町方面を望んで本拠本城野間城の南口であり 在田氏の旧・本城満久城加西へ入る県道24号線の二ヶ坂(甕坂=旧みかさか)を眼下に、其の街道筋の要衝を監視・守備出来る有効な砦として機能した事が窺えます。ゴルフ場開発計画により昭和63年(1988)頃から西脇市教育委員会により 山城としては類例の少ない、
大日寺の上部から続く長い竪堀

全面的な発掘調査が開始されまたが満久城と違い、特筆すべき遺構もなく北播磨地方の中世城郭の縄張りでも小規模で、 出城に類する城郭と考えられ記録保存の止めるだけと決定されたようです。水尾町の南には”奥山寺越え”から東西に点名:奥山寺宇仁山城〜愛宕山〜 宇仁山砦〜宇仁山から県道24号線の走る二ヶ坂(甕坂=旧みかさか) へと延びる山稜があり、 その稜上の宇仁山砦付近から北へ派生する尾根の末端を大きく盛り上げて半独立峰の山頂に水尾城があります
水尾城と其の欠点となる南方の監視を補佐 !する宇仁山城と宇仁山砦の三城が一体となって機能したようです。
岩屑の棚場に石塁の(石屑を積み上げた)空掘?が延びる

馬渡谷城・満久城・河内城等の 各在田氏の城の連絡通信中継地点として、天文年間頃・赤松氏の嫡流在田(有田)氏が河内城から 野間城に本拠を移したのを期に整備され、野間城の大手口ともなる戦略的にも重要拠点に大規模な出城として築造されています。此の城も 貝ノ城・段ノ城や在田氏本城の野間城と共に、 別所重棟(宗)に攻められ落城したものと思われます。藪で覆われ所在さえ分からず、遺構も確認出来ない今回の訪城でしたので、此処ほど所在と縄張りを・あからさまにしている山城も珍しく是非とも寄ってみたいと思いながら、 ”私有地につき・・・”の文字が先に頭に浮かんで寄り付けない・・・(^^ヾ
水尾城・東方向の曲輪

水尾城の遺構は宇仁山主稜から北に派生した枝尾根末端の山頂に主郭を置き南に3段・東に4段 ・北に1段の三方に梯郭状に削平された曲輪が配され、城域の北端には竪堀が一本走り、 主郭に至る曲輪には石積や土留め石列、それに崩壊が著しいが石段も設けられていた痕跡も確認されているようです。「水尾城は西脇地方では残りのよい城跡である」と登山口の大日寺の案内板に書かれてはいるのですが、ご覧の通りの岩と岩屑だらけの山容から、石列や石塁の遺構が偶然の産物か・人為的なものか、もし人為的なものであっても 築城の遺構か発掘調査時のものか、ゴルフ場整備工事関連の残骸か良く判らない・・・(^^ゞ
水尾城・北方向の曲輪

東部には外縁部を廻る通路を空掘りに見立て、2本の竪堀を組み合わせた(繋いで)横堀ともみなせる遺構があり、 単調な水尾城のジオラマ(上記添付写真)に 強力なインパクトをあたえています。とはいえ各曲輪間の有機的な繋がり(機能分化)等・本格的な横堀構造までには至っていない竪堀兼横堀の初源的な成立は、室町時代後期の永禄年間(1558-70)前期と推定されますので 在田氏の本拠が野間城に移った後の築城時期や改修時期に符号します。
(播磨・水尾城跡の調査と研究 西脇市教育委員会1992年 を参照)


高雄山大日寺(古義真言宗)と水尾の地の由来
大日寺は持統天皇の朱鳥8年(朱雀・693)大宗阿闇梨の開基で、後に行基菩薩が 万三禮の木像を刻み安置した。其の後災火により堂宇は消失したが本尊は焼け残った。 陽成天皇の時・勅願により新に伽藍を建立され本尊・大日如来を安置して高雄山大日寺と号したという。天正年間の兵火に遭い又も焼失し寺は荒れ果てた。其の後・前方の川中に毎夜光を発するものあり里人が探してみると、 焼失したと思っていた本尊だったので、早速元の地に草堂を建て安置した。
水尾城登山口・大日寺

如来像が再出現した場所が川の水尾(其の地区での川下の事が?)であったので”水の尾”と呼ぶようになったと伝えられます。 元禄5年(1692)僧隆賢が当寺を再興したが享保7年(1722)没しています。 享保12年(1727)鋳造銘の撞鐘があったが昭和18年・戦時の拠出によって失われました。
(現地案内板・大日寺縁起参照)
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