高見城砦群 穂壷城〜泉山砦〜鴨野城〜萱刈坂/高見城山〜禅座坂
T 母坪小公園〜穂壷城〜萱刈坂  2004.04.02
U 萱刈坂〜行者堂〜高見城山〜小峠〜禅座坂 2002.02.16
V 萱刈坂〜行者堂〜馬背山〜高見城山〜中の台(南曲輪) 2007.1.28
穂壷城:主郭北の二重堀切

近畿の山城: 穂壷城 東鴨野城 鴨野城観音寺砦(仮称)
妙見砦 泉山城(砦)毘沙門砦(仮称) 馬背山城・馬背山堡塁(仮称)
三の丸北西出曲輪(仮称)・三の丸北東出曲輪(仮称) 堀の内居館・堀の内砦(仮称)
丹波のお話 萱刈峠

高見城山から北方に低い山稜が延びR175号線沿いの加古川の流れの手前にある台形の小山で途切れるが 此の小山が穂壺城です。柏原川に”水分かれ”日本一低い分水界から流れ出た高谷川が 加古川に合流する西側の低丘陵にあって、此れらの川が自然の堀を形成し、山並は東面・北面急斜な崖が防波堤のような要害を呈しています。
氷上・柏原町境界尾根:泉山からの穂壷城(正面先端)

穂壺城や妙見堂のある砦跡、泉山城を経て高見城を結ぶ強固な防衛線が形成されていたようだが現在は大新屋〜鴨野や佐野へ車道が通じて萱刈峠で分断され、穂壺城からの尾根も造成や土石採場で崩されていく。 しかし萱刈坂〜高見城への尾根は健在。高見城山頂から真北に高度を落としながらも馬背山の岩を抱く荒々しい山稜へ向かうトレースは以前からの懸案。


T穂壷城〜妙見堂(砦)〜泉山城〜萱刈坂 H13.12.16

R175号線を柏原へ向う加古川沿いの道は稲畑(稲畑土人形で有名)集落の田園風景の北先に突き出した形の良い小山が穂壷(稲継)城。氷上盆地を流れる加古川に向って突き出す僅か200mにも満たない小山が母坪と稲畑集落の間にあり低い峰を連ね 高見城山へと続く。柏原川に架かる小橋を渡ると穂壺城址の標識を見て右折50m程で妙見宮のある
穂壷城北端部の曲輪から主郭に向かう

母坪小公園駐車場(PM3:00)から
細い車道を集落の中に入っていく。断崖のような目前の山稜に数段の曲輪や土塁・堀切遺構を残す城山を何処から…南へ続く丘陵の鞍部からは高見城山が聳え立つ。取付きは主郭南側にある尾根の最低部からと決めていたが 直接取り付ける場所がない。幸い手前の民家の間から舗装の狭い道が堂に向って斜めに山裾を辿る道を利用するが道は僅か数10mで行止。
稲畑地区から穂壷城
 
虚空蔵菩薩を祀るお堂と大師堂があり(PM3:05) 左上の岩場を抜ける細い踏み跡があるがが2基ばかりの小さな墓地に行きあたり、雑木藪を掻き分け墓地裏へ抜けて稜線を辿ると右下から明瞭な山道が合流します。先の祠に向う道をとって民家裏から フェンス沿いの道を辿るのが正解。山道には真っ赤な実をつけたフユイチゴが沢山あり粒を頬張ってみます。 植林帯の中の道は、やがて落ち葉の中で不鮮明になり足巾程度の踏み跡となってジグザグの急登となり平坦な稜上に飛び出してきます。
拡張工事により発掘調査中トレンチ溝


主郭南下の曲輪でさらに南にもう一段の曲輪があり末端に1m程の土塁と高台(櫓台跡!!)があり其処からは急斜面の深い藪です。 最高所にある主郭(4等三角点 点名母坪 157m)の平坦地は藪に埋まり僅かに一条の踏み跡が北に延びているので辿ってみる。三角点標石が僅か頭を出しているだけで周囲の土を除いて確認します。二つ続く堀切の先にも連続して 何段もの曲輪が続きます(連郭式山城の典型を見ます)最北端の明るい曲輪は 中央に壊れかけた祠と塔婆が建てられています(PM3:20)。 一番明るく広く??展望の良い場所なので丹波攻めで落城・討死にした稲継壱岐守等を供養する祠だろうか。
R175拡張工事により発掘調査中の穂壷城(番小屋跡か??)

足元に加古川を・樹木の間からは弘浪山・城山・霧山等…山城のあった丹波の山々が望めます。北面は足下の加古川に東面は柏原川に囲まれた水濠と崖の要害城ですが 比高わずか50m足らず・山城ならぬ水城が正解かも。北面崖の空き地へ降れそうだったが元来た道を戻って20分程で駐車場に戻る(PM3.35)。穂壷城からは南に妙見堂を経て送電線が低丘陵の沿って延び、途中の萱刈坂を挟んで一気に傾斜を増し高見城山へと繋がる。氷上町と柏原町を分ける加古川(旧佐治川)の堤防の様な境界尾根は 標高150〜200m程の低丘陵だが未だトレースしていなかったので城砦の探訪がてら散策してみました。
穂壷城:南西部の堀切(竪堀)

尾根上には城砦群が点在し曲輪群等の堀切・低土塁を残す曲輪・数段の曲輪 ・帯曲輪遺構が妙見・泉山・鴨野の各砦跡に残っており整理して下記「近畿の山城」のレポートをしたいと思っています。母坪地区の妙見堂付近も小砦跡らしく稲畑地区からも宝林寺の東向い、山麓の墓地や祠から妙見堂南の尾根や 送電線鉄塔No.89泉山砦北東側下方の鉄塔No.90近くの尾根に出る。次の鉄塔No.88が鴨野城208m主郭西端の下部に立つ。
宝林寺西方の洞穴は食糧貯蔵庫?

双方共に展望と休憩適地で加古川沿いに氷上・柏原盆地の展望が良いのに穂壷城以外・城の遺構は数例の腰曲輪や堀切の延長が竪堀となって西(氷上町)側にあるのを除き 大部分は尾根の東(柏原町)側・高見城側にある?。鉄塔No.88(208m)から 一気に下るかと思える尾根は直ぐ緩やかな平坦地形となって続くが、東側斜面に3m程の高さで切り崩された地肌を見せた段差が3ッばかり、 幅3〜5mの細長い段曲輪となっている尾根上の削平は此処で終わるようで直ぐ南下へ巡視路が下っていくが南下には採石場の重機が見える断崖です。南西下の萱刈坂への尾根筋は急に藪っぽくなっての墓地に下り車道に出ます。 北山地区から田路へ抜ける峠登り口(住民センター向かい北)東山側上部に見える防空壕か?養蚕用か?戦後は食糧貯蔵庫に利用されたらしい、形も大きさも同等程度の洞窟は稲畑地区宝林寺西の小山の切り通し道にもありましたヨ。



U萱刈坂〜行者堂〜高見城山〜小峠〜禅座坂 H14.02.16

穂壺城から高見城山へ氷上盆地を割って防止堤のような低い山並が続く。途中に柏原町と氷上町を分ける 車道が萱刈坂で稜線を二分しています。そのまま高見城山まで町界尾根に沿って山道が続きます。西脇方面からのR175号線から 萱刈坂を越えて柏原へ抜ける県道は高見城山登山口の丹波悠々の森への道でもあります。
萱刈峠を眼下にした鴨野砦/鉄塔から高見城山を望む

萱刈坂から 高見城山への境界尾根を辿って小峠〜展望台〜禅座坂を鴨野に降りてきたところが新井小学校・柏原町の老人養護施設の前。萱刈峠の東にログハウスと貯水池があり南側に「火の用心No87(行者堂への登路最初のピーク上の 送電線鉄塔)」への標識のある草を刈り込んだ山道が延びている(AM9:00)。道は正面に延びていくが20m程で巡視路に沿って右への尾根をとった方が良さそうです。 「北攝長田野線」鉄塔No87からの巡視路は尾根を跨いで西側の稲畑(伏見人形の流れをくむ稲畑土人形で有名)に降る道。
高見城登山道から「悠々の森」と山の神池

尾根筋もよく踏み込まれた道が続き オヤッどうしてこんな道が…と思ったが 理由はすぐに分かる。瓦葺の荒れたお堂があり、床の抜けた小さな祠の内部には小さな役行者像が着色され ・此れも小さな従者(前鬼・後鬼)と納まっています(Ca180mAM9:15)。峠からは参道を示すものなど なかったので稲畑からの道が参道のようです。 此処からは道も細くなるが明確です。左手の尾根へシダを掻き分けて出てみると湧き上がり流れる霧が今日最後の演出で高見城山のピークを正面に浮び上がらせています。
馬背山北西稜の第一岩峰と高見城山(右奥)

しばらくは雑木の中の細い道だが露岩の稜上に出ると西に白山・弘浪山から篠ヶ峰…東に五台〜五大山 ・譲葉山・黒頭峰・夏栗山・金山…と左右に展望を楽しめる快適コースになります。雑木の中の急登もしばらくで平坦なピークに出ます。高見城山の山頂から北に高度を落としながらも岩を抱く荒々しい山稜が目立つが、 その尾根の東端ピークで西方の最高ピーク(送電線鉄塔有り)への稜線以外は急峻な尖鋒の馬背山(行者山)山頂は西尾根側に広い平坦地形(曲輪)が並ぶ 連郭式の馬背山城(仮称)で南下斜面にも3-4段の曲輪が遺る。高見城の城砦群の一つだが遺跡分布図には高見城の城域内に含まれ出城等の名称は無さそうです(AM9:45)。
行者山第二岩峰付近から:中央に佐治川(現:加古川)・北尾根末端に穂壷城

山頂からは荒れた砂地と岩の急斜面を鞍部に下り、その先の登り返しも急な砂地の露岩尾根だが”山抜け”の窓のような鞍部付近からの展望は良く穂壺城から高見城山へ延々続く稜上に泉山城・鴨野城等の城砦群、 そして今通過してきた馬背山城<仮称>の最高地点の尾根分岐へと氷上盆地を南北に区切る防止堤の様に見えます。 雑木の中の踏み跡は前方にたちはだかる大岩(幅・高さ共に約15m)に乱されているようです。岩の頭部へは直接岩場を登れそうだが先がどうなっているか分からず岩場右手を捲きながら展望の岩頭に着く(AM10:00)。
高見城山北尾根鞍部から行者山(馬背山城・仮称)

柏原町と氷上町との町界尾根の道は最後まで途切れることなく続き平坦な細い台地の端の境界ポールが先に続く。此処も曲輪跡(三の丸)で7〜8m先は愛宕社が祀られる「丹波悠々の森」から小峠を経てのハイキング道と合流して 高見城山山頂です(485m AM10:20〜10:35)。昨日の雪はスッカリ溶けて足元はぬかるんでおり歩き回るとダンゴになる。 少ないとはいえ粟鹿山や大江山・三岳方面の白い峰が望まれる。丹波悠々の森への道を降り小峠(AM10:50)からは尾根を直進して坊の奥 を望みキャンプ場の 三角屋根を見下ろしながら5分程で東屋休憩所のある展望台だが、植林の中で展望は望めません。
座禅坂の五輪塔

少し先の広い散策道に出て氷上・柏原側に盆地と低山の展望が拡がります。北方の真下に下山フィニッシュの老人養護施設の建物が見え、乾いた落ち葉のカサカサ音を残しながら 禅座峠に降り立ちます(AM11:10)。室町期のものといわれる五輪塔が一基残っています。此処から遊歩道に沿って南へ降れば高見城主・丹波守護仁木頼章の墓・三寶寺境内を抜けて駐車場へは10分程です。 私は反対に北へ下りますが2分程で暁山墓地から新井小学校と幼稚園の間を抜けて県道に出てきます。県道を渡れば柏原町の老人養護施設は目の前です(AM11:10)。


鴨野の土塀(どべ)/加茂神社と金兵衛の狛犬   柏原町鴨野

南北朝期・仁木氏の頃の高見城の大手は 加古川(旧佐治川)沿いに氷上町成松〜佐治へ延喜式の旧山陰道が通じていた氷上町佐野にあり佐野城と呼ばれていたが、篠山からの山陰/但馬道の経路が追入から鐘ヶ坂を越えて柏原町へ通じると、大手を柏原町鴨野に移して城下が整備され市場・馬場・xx小路の字名が残ります。南方から西面にかけて高見城山の山並みが高度を一気に落としながらも 萱(茅)刈坂を経て北へ延びていきます。この短い低丘陵上に鴨野城・泉山城 ・妙見砦や北端に穂壷城が並びます。
加茂神社口・県道に沿った北側に残る土塀(どへ跡!?

低丘陵ではあっても三方を囲まれて柏原側の東にのみ開かれ大雨によって高見城山山塊の荒れた山間から加茂神社東西にある東谷川 ・西谷川も度々氾濫して土石流が地区内・田圃内に流入する。流れ出る東方の柏原川も大雨になると何度も【昨年も(H16年)】濁流で浸水被害を起しており、流れ出るどころか流勢に堰き止められてしまいます。 鴨野には河川でもないところに堤防ではなく高土塀【(どへ)高さ6〜7m・底部幅3‐4m】が集落や田圃を取囲む様に土石流が流入するを護る為に 築かれ谷奥にも土砂留めの堤防(3m以上)が築かれていたといわれます<未確認>。土塀も圃場整備が進んで殆どその面影も失われている様です。池でも河川跡でも疎水溝でも無さそうな其れでいて結構深い谷筋や、 同様に川も無いのに真直ぐ延びる土手状の堤防に嘗て村人が闘った治水工事の跡を感じとるのが精一杯。
加茂神社・2代目金兵衛の狛犬

鴨野地区西端の萱刈坂を下ると柏原藩政の頃の開拓秘話が残るが鴨野の土塀や、狭い荒れた平地・湿地にと…治水や灌漑にと・水との長く苦しい歴史を秘めています。鴨野の東隣・大新屋は 生まれてまもなく両親と死別した彼を引取り育て石工としての技術を伝えた丹波佐吉 難波金兵衛と実子の2代目金兵衛の里で石匠:難波金兵衛石材加工店の看板を見ます。 加茂神社の一対の狛犬は安政2年(1855)9月奉献の銘と石工金兵衛の銘が有り2代目金兵衛(19歳)の作。佐吉と共に名工・金兵衛(義継)の腕を妬んだ同業者に毒を盛られて四肢の自由を失い大新屋に戻り養生し、 再びノミが握れるようになった頃の作品なのか ??北山には佐吉の手になる狐像【安政5年(1858)】があり泉山城(砦)と妙見砦 の稲荷神社の項でレポートしています。鴨野の産土神・加茂神社は祭神に鴨別雷之神を祀るという。 氷上町側にも佐治川(現:加古川)沿い成松の北方に賀茂の知名の集落があり、御油(青垣町境)には式内社・神野(かんの)神社(旧賀茂大明神)【県文化財指定】がある。鴨野・加茂神社

元は円通寺(丹波紅葉三山)に在った神野神社と、その外宮で南御油に在った貴船神社と共に 現在地の北御油に遷されています。 賀茂建角身(たけつのみの)命と、此処に祀られる神伊可古夜日女の間に生まれた玉衣日賣が京都・下鴨神社の祭神・玉衣媛命であるといわれます。貴船神社の祭神・高おかみ神も下鴨神社の祭神・玉衣媛命も共に 「水制し水を治め農耕を広める」水を司る神です。往古より柏原川の氾濫・土石流と水飢饉、反対に北方(下流)の母坪付近は沼地のような湿田と周囲は水に悩まされてきた一帯なので建武年間(1334-36)頃の創建で上鴨神社の鴨別雷之神を主祭神とする鴨野の加茂神社だが 「鴨野村の歴史」編者の調査によって指摘される通り、下鴨神社の玉衣媛命や神社参道左 (東側)にある宮池に在った市杵嶋姫命(広島・厳島神社の祭神)が合祀されていると考える方が説得力がある。
北御油の神野神社(参考)

明治の”神仏分離”と神社の統廃合による 勢力相関図が必要かも?祭神によって神社存亡に懸かる問題でもあったのでしょうか…。下鴨神社とする根拠にが加茂神社の西方に在った東光山延寿寺 (臨済宗・無住)の存在があり、十一面観音を本尊とする下鴨神社の神宮寺ではなかったか…と!同寺も建武年間山の神として崇められ、南北朝期に社殿の創建があり天和元年(1681)現・社殿に遷宮されたと棟札に記されています。

(鴨野村の歴史 鴨野部落公民館発行、現地・北由良神野神社の案内板 兵庫県教育委員会 参照) 

 
 穂壷城 東鴨野城  鴨野城 観音寺砦(仮称) 妙見砦 泉山城(砦)と毘沙門砦
 馬背山城・馬背山堡塁(仮称)・三の丸北西出曲輪・三の丸北東出曲輪(仮称)

                        
堀の内居館と堀の内砦(仮称)

穂壷城(稲継城・母坪城)
 猪の山 157m  柏原町母坪/氷上町稲継・稲畑

穂壷城(母坪城・稲継城)は氷上町 ・柏原町と町界尾根を分けて高見城から北に延々延びる尾根の北末端に位置して柏原川・高谷川が加古川に流れ出る合流点にある。 其の末端峰(猪の山)に主郭を置き、東西30m・南北350m程の狭い急斜な稜線上に本丸台・物見台・帯曲輪等13〜14ヶ所もの曲輪跡や土塁・数本の堀切や竪堀・池跡の遺構が残る高見山城の支城です。主郭と其の北に続く曲輪群の間を二重の掘切で分けている。
加古川沿い国道からの穂壷城

三つの川の合流点・国道筋を見下ろす北末端部の曲輪には低いが石組?礎台上に祠が祀られていたが、現状:朽ち果てた築材破片が一隅に捨て置かれているだけ。 裾を北から西方へはR175号線沿いの加古川が流れ、此れに合流する柏原(本郷)川が東側を稜線に沿って流れ込み自然の堀を形成する水城として
城域南端:二条の大竪堀と側には三段の曲輪

分類できそうな要害を呈しており東・北・西面は急斜な崖となって攻防の利を占めており、南へ延びる尾根先の土塁曲輪からは竪土塁を伴う!!?二条の深く長く大きな竪堀が平行に落ちる。 其の西には三段の曲輪を配し・其の西面にも国道側に竪堀を落とす。此の南尾根筋竪堀を下方へは深い池?跡沿いの幅狭い土橋状を抜け民家背後の低位置に無数の曲輪段・曲輪間には堀切や切通し道が柏原町母坪・氷上町稲継間を抜ける。一帯は多くの墓地となっており、曲輪は通過するにも困難な灌木が茂り ・荊棘木の多い深い藪に覆われ、目視で曲輪・堀が確認出来る程度だが穂壷城の大手口なので居館:家臣屋敷等の遺構と推察します。
城域南端の大竪堀と竪土塁

最後の大きな切通し道から墓地に這い上がる!!?と北参道から妙見堂への階段道。 妙見砦・観音寺砦・泉山砦から鴨野城へ尾根上に遺る砦跡を経て高見山城(佐野城)へと連続する高見城砦群を形成している。建武年間(1334〜38)丹波守護仁木頼章が高見城の支城として頼章の家臣が拠ります。(現在は大新屋〜鴨野や佐野 へ車道が通じて分断されている)氷上郡(丹波市)の中央部に位置して僅か157mの本丸跡から北端の曲輪へ出てみると柏原町・氷上町から青垣町にかけて 見渡せる道路と水路交通の要害地で戦略的にも重要な拠点でした。穂壷城は初代?丹波守護:仁木頼章(建武3‐康永3<1336‐43>)が
南西端の櫓台土塁曲輪の下から2状の大竪堀が落ちる

高見城の支城として泉山砦(鴨野城)とともに築いたものか?。次の山名時氏が守護の観応1年<1350>丹波守護代を務めた玉巻城の久下氏が 高見城(佐野城)の城代となり穂壷城はその支配下にあったがその後、時家と子の家清が勢力を盛り返して再び赤井氏の 後屋城の属城となり永正年間(1504〜21)細川晴元の臣赤井景遠が城主となって居城したが天文2年(1533)5月・多紀郡(篠山市)の波多野晴通(はるみち)が細川晴国方につき 細川晴元に背いて晴元方の部将・赤井伊賀守忠家を攻めた。
主郭北曲輪の上り土塁

このとき晴元から救援に派遣された 赤沢蔵人景盛がこの城を守っており激戦の末に一度は撃退したが10月波多野氏の二度目の攻撃に落城し景盛は切腹し忠家も戦死し、その子時家らは播州三木城別所氏のもとへ逃れ難を避け天文5年(1536)晴国の自害で旧領を回復した赤井時家等は丹波に戻った。波多野氏(篠山市)の氷上郡(丹波市)に於ける重要拠点の枝城として一族の部将を置いたと思われ、西波多野?の波多野宗長!!? (氷上城主)配下が守備したと推察されます。
上り土塁の足元から東斜面に落ちる竪堀

元亀・天正年間(1570-92)頃は赤井時家の被官稲継壱岐守に守らせていたが明智光秀の”丹波攻略”に遭い天正7年(1579)8月15日明智軍の細川藤孝・忠興父子に攻められます。【同年5月頃・攝津播磨側からの明智の援軍として丹羽長秀が侵攻し、氷上南部の久下城(玉巻城)や石龕寺城等を攻めているので、但馬側の羽柴秀長等の連合軍により攻撃を受け落城したものか!】
主郭南の段曲輪切岸
穂壷城落城と城主:壱岐守
天正7年5月頃には攝津播磨側から明智の援軍として侵攻した丹羽長秀や 但馬からは羽柴秀長ら連合軍の攻撃に 氷上南部の諸城(久下城・石龕寺城等)は落城。穂壷城は8月15日若狭方面から?細川藤孝・忠興父子らの連合軍に城は包囲されます。 最早・城もこれまで…と笛の名手であった稲継壱岐守は心静かに「松風」の一曲を今生の思いを込めて吹きなす・丹波武士のたしなみ。戦いの最中・夜の静寂(しじま)の中に聞こえてくる笛の音に、 其の余韻は澄みきって、穂壷城を遠巻きし攻め立てる明智方の軍勢も暫し攻撃の手を緩めて聞き惚れる。「戦国の世に珍しい風流なやつもいるもの …心にくいのう」 「もの淋しい心地がし 望郷の念に駆られるわい」…明智勢が急遽夜襲をかけてきたのは其の翌晩のこと。
主郭北の二重堀切

大勢の前に一押しに足らぬ小高い山の出城は遂に落城する。城主・稲継壱岐守はこの折討死にしたとも、弟:左門と共に市島町上牧に落ち、後に兄弟は福知山城主:有馬玄番頭に仕え、 子孫は筑後久留米にいるともいわれます。織田信長の天下布武”丹波攻略”に遭い最後まで抵抗していた黒井城も穂壷城落城の三日後(8月19日)落城して丹波国(京都丹波・兵庫丹波)は平定された。
(兵庫のふるさと散歩 神戸新聞出版センタ 「丹波史」等を参考)

東鴨野城
 xxx山 西曲輪 Ca260m(休憩所) xxx山 東曲輪 175m  柏原町東鴨野・大新屋

高見城(佐野城)の出曲輪東鴨野城は高見城から北に延びる低丘陵上の城砦群として連携したと思える周辺地区の鴨野城等を纏めて訪ねてみます。R175線を氷上町側から柏原町への県道290号は萱刈坂を抜けると、高見城から北に延びる稜線が此の峠で
新井神社北方から東鴨野城

寸断され低い丘陵が更に北へ延びてその先端を加古川に落とすところに穂壷城があり、 この丘陵上の全域にかけて砦城の曲輪・堀切の遺構が残るようです。鴨野集落の法泉寺池背後に丸く一寸突き出した小さな丘陵上部鴨野城。 鴨野から県道290号を東へ500m程・東鴨野の「新井小北交差点」側に新井小学校が建つ。校舎の南に接する背後の低丘陵部山麓には2‐3段の曲輪が有るが、特に2段目北から東に回り込む広大な平坦地形は高見城が初期の佐野側から 中世:鴨野側を大手として代わり、
小学校背後の曲輪(現:祠と墓地になっているが大手門<釘貫門>跡か?)

城下町が形成された時代の家臣団屋敷なのでしょう?。東鴨野城を詰め城の居館・家臣屋敷遺構と介して東鴨野家臣団屋敷と仮称するが、此処は鴨野ではなく小新屋地区だが字名を調べると此処だけが飛地のように「東鴨野」なので名称は変えずに後述します。此の丘陵部尾根筋の鞍部には室町時代後期の五輪塔が祀られる 禅座坂【高見城主仁木頼章の墓がある三寳寺・丹波悠々の森に下る】高見山城への縦走路を進むと東鴨野城主郭部?と思われる260mピークには
東鴨野城(高見城出城)主郭:休憩所北面の二段帯状曲輪?

東屋休憩展望所があるが樹木の育成が良過ぎて展望皆無。 少し西南へ降っていくと高山寺城(弘浪山)・後屋山城(白山)・東鴨野集落から鴨野城・泉山砦・穂壷城へ続く尾根・霧山城・カンジュウジ山城・柏原八幡山城等が見渡せます。高見城山への遊歩道に沿う尾根上は下草に埋もれ足元も見えないが30m程の平坦地で東に遊歩道・西側も数m下に2〜4m幅の 帯曲輪状段差の平地が休憩所を捲いて北側で遊歩道と合流する。高見城や南眼下のに見える丹波悠々の森”への遊歩道が整備されているが、
東鴨野城(高見城出城)主郭:尾根上に 段差の低い三段程?の曲輪

遊歩道以外は繁茂する深い羊歯類に一帯が覆われ足元も見えず進退さえ覚束ない。 詳細遺構確認は難しいが東屋と 僅かな低段差で其の西へ一面羊歯に覆われているが平坦な7-80m程の尾根上曲輪?の北面には2m程の段差 (切岸は明確でないが)で3-4m幅の帯曲輪が2段有る。平坦段以外の遺構は見当たらず城域がハッキリしないが高見城を指呼に望み・氷上町内に在る高見城砦群と山麓の家臣団屋敷からの登城中継地点としては最適地!!?。 以前より気になっていた禅座坂から東への尾根筋を

空堀東端に落ちる竪堀・竪土塁
 
松茸シーズンも終わったのでトレースしてみようと五輪塔横から猪除けのトタンフエンスを開閉して進む。小さく短い尾根筋には小さな二つの瘤(ピークCa180m)があるだけだが東峰(あかのキ山?175m)へは 新井小学校から遊歩道(丹波市発足記念事業により整備された)が通じている。山頂北方正面には大新屋「新井小北交差点」から 北山・鴨野城から母坪(穗壷)城への 山城城砦群の丘陵枝尾根を割って、東を田路から母坪を国道175号に抜ける県道291号(奥野々氷上線)を見る。
東鴨野城:尾根東末端の祠:右下は民家の屋根

山南町の玉巻城から石戸集落を抜け徒歩でもキツい 山越えで悠々の森の山ノ神池に降りて大新屋に出る間道を山ノ神城と呼応して 監視に応る見張所ともかんがえられるが!!?。いずれも広い(35x20m程)平坦地形で左右は新井側・悠々の森側共に急斜面・特に新井側の山麓には 家臣屋敷跡?と長く折れを伴い延びる土塁横堀が横たわる。空堀も西端は片側土塁(土橋状)が北に延びて先端が櫓台で北西に切岸を落とすが下部は緩斜面(畑地)になっている。
土塁横堀東端(右)は竪土塁・竪堀の下部は曲輪(家臣団?屋敷)

櫓台東寄りに竪土塁状を下る先から幅狭い溝が北へ落ちるが溝の東側の平坦地(曲輪)を分ける空堀。長い土塁空堀の東端は竪土塁・竪堀となって下部の広い曲輪と・更の其の下段曲輪にも通じる堀底道?。家臣屋敷の上部を囲い込む空堀は塹壕ともなり、さらに:空掘を抜け高見城へ向かう家臣団を 尾根筋の曲輪から援護することも考えられます。
食違い土塁虎口

此の長い土塁横堀の粗中央部(横掘りが屈曲するコーナー部で外側土塁壁が開口する下部が 広大な屋敷跡曲輪北部と曲輪東部境にある<帯曲輪となって繋がるが>更に外側にも高低差3m程で1‐2段曲輪がある)大土塁は(堀内側3m程、 北側は5m程の切岸下部に曲輪があり広大な北?東面の家臣屋敷群?を見下ろす)東鴨野城の主郭とも思える中枢曲輪で櫓台と云うより陣頭の指揮台の様。
土塁横堀<上の画像>の切岸下:屋敷跡?曲輪(東北角から)

横掘は東端で竪堀となるが空堀内から尾根筋最低鞍部にも通じ、 尾根筋を東末端の祠跡へ自然地形?の平坦地が続き小曲輪の高い切岸(6-8m?)下部の尾根先端に祠を祀る曲輪が民家から 崖状10m程の高みに在り、 小曲輪と祠の曲輪間から館跡部最下段曲輪へ降りられるが竹薮・雑木藪の為、遺構は曲輪と切岸の高低差を目視確認出来る程度。
東鴨野城:あかのキ山(175m)も砦跡か?

東峰(あかのキ山?175m)頂には祠跡らしい崩れた石積みが残る。新井小学校直ぐ裏手の墓地(家臣団屋敷群入口)に在り 中世高見城の大手口・釘貫門は此処に在ったのではとも思える。西は小学校西南端・公民館側付近から比較的緩斜面で、東からは民家裏手から 墓地参詣用?の後世の道?、しかし北面・学校敷地からは高い段差になっている)の端に祀られる祠が元山上に在ったものと思えた?。
堀切土塁から高い切岸下の広大な屋敷跡?の東面曲輪)

東峰(あかのキ山)からも急斜な尾根筋に踏み跡を辿って降り切った肩(鞍部!!?)の片堀切状に下りてくる。 南下部は直ぐ民家。北側には降ってきた山腹を捲くように土塁横堀を廻る東鴨野城。深さ幅共に2.5〜3mの横掘りがZ状に伸びており、 土塁の東から北外側は高く急峻な切岸を落とし、其の下に広大な曲輪が有ります。
横堀大土塁は4-5m程の切岸下には城域中枢の曲輪台を持つ

特に空堀の東端から竪堀となって落ち込む下方に拡がる広大な平坦地形(北から東へ土塁横堀の高い切岸(8m程)下を回り込む帯曲輪(50m以上・幅30m程)は高見城(赤井・荻野氏傘下)の 家臣団屋敷跡なのでしょう。佐野城と呼ばれていた高見城の大手が佐野から鴨野に移った頃には山南町から氷上回廊を通っていた山陰道要衝は、 鐘ヶ坂を越えて柏原町へ抜け出ている。新・旧山陰道を繋ぐ?東鴨野を城下町として比高20m程の尾根上に要衝・
Z状空堀(堀底道)は禅座坂遊歩道近くの曲輪群に続く(土橋端の櫓台)

城下の監視所と東鴨野城から尾根伝い高見城への大手道として、此処に家臣団屋敷群があり、空堀を登城用の堀底道として急斜な175mピークをエスケープして捲きながら 北山腹を禅座坂に出て支城・本城へ向かったのでしょう。



鴨野城(谷屋砦・加茂の城) 城山 Ca208m 柏原町田路・北山

高見城から北へ延びる町界尾根が 氷上町と柏原町を分ける境界にある萱刈坂で寸断されるが、さらに低丘陵となって鴫野地区の北を田路地区の集落西側を母坪地区の西北端へ延びていきます。尾根上には城砦遺構と思われる平坦地形があり高見城砦群を形成し
北山地区毘沙門天から鴨野城と法泉寺曲輪(採石場の尾根中程ピーク)

西側は佐治川(現:加古川)沿いの氷上回廊を望む。高見城が佐野城と呼ばれていた頃は萱刈坂を西に下った先が佐野で、 丹波守護仁木氏が城主の頃の要衝の山陰道(延喜式による)は佐治川沿いの 丘陵西面にあって京に向う但馬:山名氏が氷上回廊を山南町から篠山川沿いに阿草から篠山市味間へと山陰道を通り抜けてゆくのを阻止する事もせず・黙って手をこまねいて見ていたのでしょうか?。
鴨野城の帯曲輪の北端:一段低く腰曲輪が付く

其の後:鴨野・東鴨野が高見城への大手道に変わると萱刈坂が西の玄関口となり氷上盆地を東西に分ける丘陵西側の監視も重要になってきます。京へ向うルートも険悪な鐘ヶ坂越えが容易になってくると氷上からは柏原〜鐘ヶ坂〜篠山へと 抜けるルート利用が増えてくると但馬・播磨を結ぶ以外の要衝は尾根東側の氷上・柏原盆地に移ります。萱刈坂を境として北へ延びる超低丘陵尾根に 丸い山容の最高峰208mが間近に見えています。
鴨野城:尾根沿い東に並ぶ三段の帯曲輪

この山頂部に主郭を置く鴨野城と北方の妙見宮が建つ妙見砦・尾根続きの最北端峰には穂壷城がある。顕著な城郭遺構が窺える三城の他にも主尾根上や東側に延び出す枝尾根先等にも物見の砦らしい 平坦地形・小さな曲輪と思えるマウンドを見かける。萱刈坂の墓地裏側から辿る尾根東側には採石場・尾根沿いには送電線が走っているので 小さな砦城の残存遺構を余り期待はできない?。氷上盆地に突き出す低丘陵は周囲に遮るものなく、

鴨野城の広い帯曲輪:井戸跡(手前)?、中央平入虎口から主郭東の二ノ曲輪へ入る

穂壷城に付随する比高僅か70〜120m程・南北2km足らずの低丘陵上には 広い数段の切岸加工を伴う曲輪・長く延びる帯曲輪や堀切があって数箇所に城砦跡が有り驚きです。建武〜延文年間(1334-1361)丹波守護・仁木氏の高見城(佐野城)下の街道を守備・監視。泉山砦には仁木頼章の弟・四郎源(和泉守)義長が一時期在城していた云う。泉山砦(谷屋砦)が此の鴨野城を指すものと思えるが、一時期:伊勢に敗走(南朝に付いていた頃から
広い帯曲輪:左手の平入虎口から主郭東の二ノ曲輪へ入る

観応の撹乱以後か?)するが仁木頼章の死後:守護職が仁木頼夏」・義民と続いていた康安元年(1361)頃?に再度:佐野城(高見城)に帰ったとも云う?が丹波守護は貞治2年(1363)足利直冬・翌貞治3年〜山名時氏・氏清と続く?。 仁木頼章の弟:義長は応安7年(1374)に卒し稲畑谷屋の宝光寺に祀られ稲畑谷垣氏の遠祖とされる。 谷屋敷や谷垣殿…と呼ばれる所在・字名等は不詳だが義長の後裔? 谷(谷垣)石見守久下氏との石戸の山権争いを囲碁による勝敗で決着させた 永正年代(1504‐21)の話からも新井郷支配が仁木氏から一時は
副郭からの平入り虎口側と主郭東南角の低土塁

久下氏・久下氏衰退から赤井氏に支配が移るまで谷(谷垣)氏が鴨野城に拠り実効支配していたのかも…?。元亀・天正年間(1570-92)信長の[丹波平定]には赤井氏の本城 ・黒井城の西方の要衝を押さえる位置にあり重要な拠点となっていたと思われます。播磨方面から加古川沿いに氷上町に入り萱刈坂を東へ抜けると柏原町に通じ此の街道筋から高見城への大手道があり、城下町として整備されていたともいわれる要衝。
副郭・主郭を廻る帯曲輪は西端曲輪(鉄塔88号)まで延びる

天正期頃には穂壷城をはじめ一時期・波多野氏に押さえられていたが領地を回復した赤井氏にとっても本拠後屋城を拠点として穂壷城と高見山城の中継地点に 位置して赤井氏が拠った谷屋砦(仁木ョ章の弟:義長の城・谷垣氏の遠祖だが谷垣氏が拠ったかは不知)が縄張りの遺構や規模からも 此の鴨野城ではなかったか?と思われます。明智の”丹波攻め”では柏原八幡に本陣が置かれていたので、これ等の城砦群が黒井城支城の高見城を護る砦として、主に東面(柏原方面から萱刈坂への街道筋に面している)からの
鴨野城南尾根上:土塁道と一段下の曲輪

侵攻に備えて防備を強化しているのでしょう。其の街道筋を挟んで南側には高見城からの尾根続き 末端付近に東鴨野城があり高見城とも呼応して鴨野・泉山・妙見の城砦群が並びます。街道筋の萱刈坂を眼下にする鴨野城は関電送電線「北摂長田野線No88」鉄塔の建つ小曲輪跡?の一段東上方に広い主郭を置き、東の尾根続きに4段ばかりの曲輪は 夫々に高い切岸加工を施し帯曲輪・
鴨野城・尾根の東斜面を削り落とした数段の帯状曲輪

北側には腰曲輪も設けた段曲輪が続く。東から南へ三段ほどの段曲輪を廻り込む帯曲輪は南から二ノ曲輪へ入る平入り虎口がある。城域の尾根に堀切は見ないが 天正期の丹波攻めにも使用された城遺構と考えられます。尾根を南へ下った緩斜面の尾根幅が狭くなり土塁道状。東側に一段低い平坦地を見るが北側からも此処へ幅2〜3mの長い平坦地形が合流する。東下方へは更に高い段差で2段ばかり曲輪状を見る。
鴨野城南尾根上の細長い段曲輪と切岸!!?

此の南端は山土採取で断崖となっている為、東斜面に向うが段差約2〜3mで岩盤状の斜面を削って造成された幅3〜5m程の雛壇状の段差が東斜面に沿って幾段も続く。どうも尾根近くの数段を除いては後世の植林用の造成と思われ、殆ど麓のゑの原池近くまで段差が残るようです!!?。なお断崖沿い南へは西斜面沿いに萱刈坂を見下ろす一ヶ所に 狭く小さな平坦地形を見た。
鴨野城・尾根の東斜面を削り落とした数段の帯状曲輪

峠通行の監視所かどうかは不明。遺構はあっても採石により採り崩し拡大に伴い消滅したのかも…?、すぐ坂の側にある墓地に降り立つ。此処から高見城へのダイレクト尾根は登山レポートのU V萱刈坂〜高見城山を参照してください。此処にも最後に馬背山城と馬背山堡塁 (どちらも仮称)の遺構を見ます。播磨側から侵攻してくる敵や交通の監視・弘浪山や白山・山南町の岩尾城等西側の諸城との関連で西側にも曲輪等遺構の存在は考えられるが現時点では未確認ながら竪堀らしい遺構もある様子です。
鴨野城主郭からの北枝尾根上の曲輪

萱刈坂から鴨野城への主尾根筋に鴨野西出曲輪(鴨野城の主郭西面は送電線鉄塔No88の位置を曲輪跡と推定は出来るが西尾根側に曲輪を見ないので西尾根上の曲輪群を以前:谷屋砦<仮称>としていた。 鴨野城主郭から北に落ちる短い枝尾根にも二段ばかりの曲輪が並び3-40m程真直ぐ延びる緩斜面の先からは激急斜面が麓の?谷筋まで落ちる様。 また鴨野城から南東へ枝尾根を延ばす短い尾根先ピークにも監視の東出曲輪(Ca155m法泉寺曲輪<仮称>を設けたものか?。
法泉寺曲輪の切岸?

しかし此処も尾根先端・東面一帯が採石場として大きく切り崩され南裾の字名:ゑの原・法泉寺・弁財天・市場付近に五基ばかり古墳(弁財天古墳群)があったが 既に田圃整備や造成地で消滅している。採石場の東断崖面を避けて尾根に沿い山上部の平坦地に着いた。採石の断崖となっている尾根にも曲輪遺構があったとおもえるが、平坦地の雑木藪を透かしてみると西北下方から南へと廻り込み曲輪に入る通路状と、此の通路に面して2〜5mの切岸をもつ曲輪!!。しかし曲輪への通路かと思えた山道・通路の斜面下方にも幾段か同様の細長い平坦地形が見る。
法泉寺曲輪尾根上の土塁道と曲輪?

曲輪上部は10u程の平坦地形。鴨野城主郭に向う緩斜面の尾根筋はゑノ原池の谷を間に挟む西向かいの主尾根筋と同様・長い土塁道と幅狭いが山道にしては広すぎる平坦地形が付随している。この平坦地形も西向かい同様に高い段差で幾段もの帯状曲輪となっている。 中にはもしかして西側の曲輪に通じているのでは?と思えるものも。それだけに山道?・林業・砕石・採土調査等により 重機が縱無尽に斜面を崩し削平・地均しして走った跡との混在して遺構かどうかの判断が出来ない。法泉寺曲輪の土塁道状の北端から急斜面を登ると鴨野城主郭東側の段曲輪(4段ほど)を捲く帯曲輪の南面に入る。
鴨野城:法泉寺曲輪の尾根上から西斜面に続く細長い段曲輪!!!?

法泉寺曲輪は萱刈坂から柏原町中心地へ向う要衝を挟んで南には高見城を望み、斜向かいに東鴨野城と呼応する立地にあり鴨野城の出曲輪と位置付けた。なを東鴨野城とは・ほぼ正対する位置に毘沙門砦(仮称)があるが、 此処は穂壷城や泉山城への柏原側南入口にあたり、鴨野城の出曲輪というより泉山城の出曲輪か穂壷城側の城砦群の一砦とし考え別項にレポートします。

妙見砦  小島山!? 129m  柏原町母坪

加古川に沿ってR175号を走り稲継交差点の手前約800m程の位置・柏原川が加古川に流れ出る所には穂壷城が有り、 南方の高見城(佐野城)から萱刈坂へ延びてきて一旦寸断されたかと思える稜線が、更に氷上町と柏原町を分ける町界尾根となり比高50〜120m程の低丘陵が此処まで延びてきます。
鴨野城から泉山城(左手に氷上盆地を望む)

穂壷城から萱刈坂までの丘陵上には低土塁や堀切・帯曲輪等の城砦遺構を見ます。穂壷城から萱刈坂にいたる丘陵上のほぼ中間付近・北摂 長田野線鉄塔No89の泉山193mに泉山砦がある。氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査では穂壷城の城域であり泉山城・妙見砦・鴨野城が一城郭として特に認知されていないようです!!?。
穂壷城南鞍部の空掘?(北屋敷?曲輪から)

妙見堂周辺の城砦遺構は穂壷城からの南尾根を下ると母坪集落へ降りる分岐を右に採り・低い鞍部(集落からの比高約15m)を経て、殆ど切れ目なく曲輪遺構等が続き一城別郭・穂壷城南出曲輪の妙見砦に着く。難しい論理は判らないが居住空間を挟んで穂壷城の出曲輪としてより、さらに南へ延びる城砦群の一つ妙見砦と仮称しておきます。
穂壷城と妙見砦間:4〜5の曲輪は堀切で区分されている

神社整地による改変を受けてはいないと思える城域の南尾根先には、丹波の城遺構としては珍しい土塁虎口を備えています。此の穂壷城主郭と妙見堂遺構の間・高低差の少ない平坦尾根に 4〜5区の墓地が 並ぶが夫々が曲輪跡で、削り落とされた切岸を見せて堀切で分断されています。中程の深い堀切は氷上町稲畑から妙見宮への参道を兼ね、
小島妙見宮・南側の曲輪から最高所の櫓台付き主曲輪跡?

以前は母坪への通路ともなっていた様ですが堀切遺構の可能性の方が高い堀底道と思われます。北端の穂壷城側には特に広大な平坦地形で鞍部の尾根両端に空掘を配し間を抜けて穂壷城主郭に向う山道に入る。母坪に残る北屋敷・中屋敷の字名が此処なのか地原図?や土地台帳?等で調べれば判るのかも知れないが母坪集落側は崖地となっており・
北側の二段曲輪(広い上段曲輪)から主郭の小島妙見宮

此処は家臣屋敷跡と思われます。当時の領主・領民の相互関係をよく知らないが字名に残る中屋敷・北屋敷等居館が山裾・平野部にはなかっただろうと推測します。 低丘陵尾根上の居館・家臣屋敷を間に挟んで南への尾根筋を少し上ると小島妙見宮が建つ。和泉神社の北に位置して、穂壷城と泉山城の間に有って最も整然とまとまった縄張りを呈しています。
小島妙見宮・南の緩斜な曲輪

小島山妙見宮は文政3年(1820)3月母坪稲畑の信者篤志浄財の寄進により創建奉祀されたもので北辰妙見大菩薩尊像を奉安して能勢妙見宮を分霊されたと伝えられます。 最高所(129m)に10u・高さ2m程の土壇があり神社の造成時の改修は考えられるが櫓台付き主曲輪と思われます。一段北の平坦地に妙見宮が建ち、高い切岸下に広い曲輪、さらに北に一段・共に3m程の段差で曲輪が並ぶ。
小島妙見宮・主郭の櫓台土壇


稲畑側から上ってくる道が主曲輪に入る通路と犬走り状に細い通路が主曲輪南側の長い曲輪にも通じている。主曲輪から南側へは尾根幅一杯(幅20m程・長さ約45m程?)の緩傾斜が3段ばかり・低い段差で続く。その最南端が藪っぽい丘陵尾根筋の山道に消える先端部には高さ70cm程の低土塁が曲輪を囲う土塁虎口となっている。
小島妙見宮・南末端の土塁虎口

「丹波攻め」明智軍陣城の他は丹波市内の城遺構に余り例を知らない。頂付近は神社として大きく 改変されているようですが城遺構も残ります。そして東面・北面。西面は急斜な崖となって攻防の利を占めており、南面の尾根へは堀切を越えて妙見堂のある砦跡があり泉山城へと続く尾根上にも点々と削平地が続きます。

泉山城 (泉山砦・谷屋敷・谷垣殿) 泉山 Ca193m  柏原町母坪

妙見砦砦南端の土塁虎口を出て南への 尾根筋は和泉神社からの踏み跡を合わせる鞍部に着く。東面間下に鳥居や和泉神社の屋根を望む側と、西面の稲継側に一本の竪堀とも山道とも?思える凹郭斜面を見るが尾根筋に削平されたものか・自然地形か良く判らないが平坦地形が有る。
泉山砦主郭部

母坪古墳群の分布地点とも合う付近では古墳のマウンドなのかもしれません。 明確な城遺構を見ないまま諦めCa170mピークを過ぎる。山頂部を過ぎると普通の山道。左手(北東)に関電巡視路<鉄塔No.90>を山腹を捲いて鉄塔No.89の建つ泉山に通じるが雑木藪の尾根筋を進むと直ぐ藪も消え、泉山山頂を前にして土橋付の浅い堀切?を見る。尾根筋は幅広く切岸の段差こそないが段曲輪状の起伏が続く。此処も城遺構らしものは此れだけ?だが伝承は有る。
泉山城:尾根筋北にある土橋付堀切
 
南北朝期の城でR175号(主要街道)側の穂壷城や萱刈坂〜柏原町への県道290号側に位置する鴨坂城との中間部にはある。戦国期に田路や母坪を通る間道は監視所とする必要性も薄く以後は元亀・天正(1570-92)織田信長の丹波平定時等に波多野氏 ・赤井氏等の丹波武士団が 此れら母坪(穂壷城)〜泉山(妙見砦・泉山砦・鴨野砦)〜馬背山〜高見城(佐野城)を結ぶ 氷上町・柏原町境界の丘陵上に並ぶ強固な?防衛線を形成しその一城砦として臨時に使用される事はあったのかも知れません。
土橋付堀切から泉山山頂

南北朝期初期の建武年間(1334〜38)高見城(佐野城)は丹波守護・仁木頼章の城として存在し頼章の家臣が拠り、泉山城(泉山砦)には頼章の弟仁木四郎源(和泉守)義長が一時期在城していたとも伝えられます。 山麓に和泉神社が在るので此処を泉山砦として紹介しているが泉山城が此の泉山砦を指すかを知らないが仁木義長が和泉守であり、 谷氏?(谷垣氏)の祖でもあり、城史等説明は上記鴨野城の項を参照願います。

柏原川から泉山砦(正面左)と高見山城の遠望


沼貫村史によると一次:伊勢に敗走するが康安元年(1361)には再度 :佐野城(高見城)に帰ったと言い貞治3年(1364)丹波守護職になった?とあり、 仁木頼章の子:義尹(よしただ)と話が混在しているようですが兄弟は行動を共にしていたものか?仁木義長は応安7年(1374)に卒し稲畑谷屋の宝光寺に祀られ稲畑谷垣氏の遠祖とされます。

観音寺砦(仮称)
 xxx山 Ca160m   柏原町田路・母坪

高見城から萱刈坂を経て氷上・柏原を分ける 町界尾根をR175号に落す北末端に母坪城があり、むかし2度程は単独で故郷トレッキングしたコース。高見城砦群の北半分:萱刈坂から鴨野城ー泉山砦を下ると麓の観音寺背後(比高30m程)の丘陵尾根鞍部。
観音寺墓所から丘陵尾根に向かう

鞍部右下の観音寺からは土塁沿いに深く掘り込んだ堀底道のような山越え通路が上がってきている。鞍部を掘り切らず向かいの氷上町稲畑側へも堀底を下っていく切通状の山越え道。尾根筋の南には泉山砦の送電線鉄塔も見えている。北に観音寺砦(仮称)までは共に僅か100m程の距離だが堀切・片堀切・竪堀ではない。観音寺とは県道291号(奥野々氷上線)を挟んで東側に東西 ・南北共に約80m程・比高15m程の超極小の独立丘陵があり ・山上に藤代神社と稲荷社が祀られている。
最下段曲輪を廻り込切岸下を上段曲輪に入る虎口

南面の急な石段参道途中には鐘楼があり!!寺も在ったよう?。極小規模ながら大新屋から北山・穂壷に至る旧街道を眼下に東方は田路・多田から石生の水分れ(向山連山)麓まで田園風景 ・平坦地形が拡がり砦跡も窺わせる曲輪状もある。藤代神社が砦なら北背後から街道筋を西の尾根筋を観音寺砦<仮称>への連絡道があったのかも?…と云うのも広い平坦地形の主曲輪がある最高所(15x20m程)からの北斜面に3-4段段程の曲輪を直列に並べる 最下段曲輪(長さ約18‐20m程の曲輪北端部には、 東へ廻り込み曲輪に入る虎口があり、 此の曲輪へ通じる道があったか?。送電線が走り山林作業道もあるが…。
虎口曲輪から2段曲輪:最上部が主曲輪

観音寺砦<仮称>が位置する付近の尾根筋は埋蔵文化財分布調査報告書(1996年)には母坪古墳群として 3基存在か?と記されており、中規模円墳の墳頂部が削平されたマウンドとも 考えられる?が青垣町の西倉城<仮称>も同調査報告書では 「西倉古墳」とあり、再調査では確認されなかった…?とある。 切岸を持つ数段の大きな曲輪・空堀の端には土橋が掛かり、堀切りもあるのに何故か?城跡としては認識されず報告もされていない様?。

毘沙門砦(仮称)   xxx山 Ca125m    柏原町北村

高見城の旧城下・氷上町側佐野から柏原町側の鴨野に越える萱刈坂の断崖状採石場跡?の上部に鴨野城がある。県道沿いを東へ直進すると新井小学校前交差点。 学校背山の南側低丘陵に東鴨野城があり高見城への大手道ともなる。仁木氏の後・山名氏家臣で丹波守護代の久下氏や赤井氏の城として天正の落城まで城下町も形成されていたでしょう。
東尾根末端曲輪?から:正面にガンジョウジ城・左に霧山・右に四ノ山城(仮称

=毘沙門砦と泉山城東山麓の訪城口と寺社=小新屋交差点を北へ左折して 直進すると北山集落の農協やコミュニテイセンタ近く・北山交差点に出る。此処を北へ直進する低丘陵の東面が切立つ崖となった小峠を下ると正面には田路 ・母坪へと田園風景が拡がる。萱刈坂〜穂壷城へと北に続く峰の高みや、稜線から南や東に突き出してくる尾根毎に其の先端には見張り所や通信用の狼煙台等が有ったのでしょうか !。
北山地区の毘沙門天


鴨坂城(208m)付近から東へ延び出す緩斜な尾根(北山稲荷社の北背山)の最東端が此の崖上で、 東向いの独立小丘陵を分ける切り通し道となって穂壷城への南関門となり・通行の監視と北方・東方の眺望もあって此の上ない立地。見張台と思える僅かに高くなった方形の平坦で小さなマウンドが一つ。西面が造成中なのか?切り崩された地肌を見せる斜面と頂部に毘沙門天を祀る堂が建つ。此の丘陵東裾には稲荷社には丹波佐吉(照信)のキツネ像がある。毘沙門天へは北山交差点の一つ北の地区道から 丘陵南端に向えば西南からの参道がある。
稲荷社背山の東尾根末端曲輪(見張台)?

周辺の尾根は緩やかだが尾根筋以外は急斜面で、彼方此方に県の「崩壊危険地域」指定標柱が立つ。参道への途中に有る休憩広場も曲輪跡かと思える。毘沙門堂の建つ平坦地が主郭で尾根続き・お堂裏手の盛上がりは土塁?。堂整地の為の改修・改変は否めないが、続く3段ほどの段曲輪?堀切状の溝…?。高見城を望み・東鴨野城(新井小学校の南背山)と正対する立地にあり毘沙門砦と仮称する。 尾根筋西に延びる丘陵間は尾根筋を割って田路へ抜ける切通し状、尾根を西に辿れば鴨野城と泉山城間の主尾根筋に出る。
毘沙門砦:毘沙門堂背後の段曲輪と空掘!!

ただ泉山城に戦国期の顕著な城遺構を見掛けないが和泉神社南のピークよりは 鉄塔No.89の泉山193mを泉山城と推定します。 主尾根を北へ・鴨野城と泉山城との中間ピークにも藪に覆われた平坦地があり泉山城南郭部と推定します。鴨野城には法泉寺曲輪があるので、 毘沙門砦と尾根続き東端の曲輪と呼応して泉山城や妙見砦・穂壷城との関連深い城砦で、泉山城の出城と解して此処に記した。穂壷城〜萱刈坂への主丘陵・泉山砦と鴨野砦間から東へ伸びだした尾根上に城域を分ける堀切や明確な曲輪を見掛けません。
毘沙門堂背後の土塁と段曲輪!!?

田路集落を囲むように北山集落の西北に位置して泉山城の出曲輪があったのでしょうか。比高僅か30m程ながら東面・南面共に断崖状の要害にあり、其の丘陵を背にして北山稲荷神社が建っています。石段を登り詰めた本殿前の網で囲われた 一対の狐の石像には注目です。社殿前に奉納されている砂岩の狐像が石工・丹波佐吉”の作品です。此処・北山の南 250〜400mに大新屋地区があり、 萱刈坂から柏原方面、丹波悠々の森(高見城山の登山口)の案内板の手前に”難波金兵衛”の看板を見ます。
北山地区の稲荷神社

石工・難波金兵衛(初代伊助)が但馬・和田山町から迎えた養子で名工と謳われた 丹波佐吉安政5年 (1858)8月・佐吉43歳の作で丹波市指定(昭和53年10月18日歌柏原町)文化財になっています。金兵衛(伊助)の 死後・丹波で彫った狐像の台座は実子の二代目金兵衛(22歳)が手懸けている。村上源照信を名乗り、師:伊助も亡くなると丹波の佐吉は「石工:源照信」と・生まれ故郷・但馬竹田城下の朝来郡(現:朝来市)竹田産と、此の台座に刻んでいます。 多分に二代目金兵衛を意識したものか!!?。
「丹波佐吉」の手になる狐像


二代目金兵衛(義継)が生まれた事で佐吉は石工の渡り職人として旅に出ますが職人仲間と技の競争で彫った”石の尺八”を 時の天皇に献上したところ「日本一の石工」と呼ばれ”旅の石工…”として其の生涯は本やNHK・TVドラマでも紹介されています。 思わぬ良いものを見せてもらったが背後の尾根上に平坦地以外、城砦の遺構を見つける事は出来ずに降りてきたが西も丘陵先端部・毘沙門堂が砦跡と思えてきた。 旧山越えの山道は有るが歩行困難なほどの急坂と荒れようです。北山のコミュニティセンタ前に妙見宮の常夜燈が建っているが、
泉山城・妙見砦への大手道?観音寺

私は以前から母坪地区の妙見宮(穂壷城の尾根通し南下)付近と思っている。観音堂の建つ極小で四方を急斜面に囲まれた独立丘が砦跡にも思えてくる。 県道氷上線から観音寺へ向かう集落内の民家の間から長い石段が続く藤代神社が150m四方・比高20m程の極小円形独立丘陵にあって境内や途中のテラス状の台地からは 泉山砦や遠く高見城が望まれます。藤代神社や観音寺境内は泉山城主・仁木頼章の弟義長の居館や泉山城・妙見砦を守備する将兵の根小屋があったのでは!とも思えます。
崖状の独立丘陵上に建つ藤代神社は居館跡か?

観音寺背後・母坪の和泉神社南側の尾根上には15mX20m程の小さな平坦地が有って北に穂壷城、南の泉山城へと尾根で結ばれています。周辺には取り立てて 目立つ遺構はなかったが観音寺背後の妙見砦側西に片堀切らしい凹部があり、泉山城側の鞍部へは堀切道が通じ西の稲畑側に竪堀となって落ちている様にも見える。 此処から南斜面を登れば鉄塔No90へ出て泉山城。北への尾根筋は直ぐ赤い鳥居を見て和泉神社へ下るか西への踏み跡は稲畑地区の宝林寺付近へ降り立ちます。
観音寺背後の稜線鞍部の堀切

狭く小さな山域ですが狩猟解禁時期(11〜2月)なので歩かれる事もないでしょうが谷筋へ入るのは要注意です。1時間30分程で端から端まで縦走できる小さな丘陵です。 この小さな穂壷城が一度は敵を撃退させているのは尾根続きに城の南面を守備した泉山城や妙見砦の存在があったからだと考えます。 そして穂壷城同様に?室町時代初期には高見城(佐野城)の支城として既に存在していたと思われます。

泉山集落北・稲荷神社裏手の?砦跡


しかし穂壷城から高見城に至る尾根上に点在する城遺構には築城時期や城主を特定するものは不明のようです。鴨野城と穂壷城の中程・観音寺の西、和泉神社の南方の丘陵上の峰にあって、 穂壷城攻防の伝承では峰続きにあったという谷屋砦(?)や泉山城の話が出てきます。北摂長田野線No89鉄塔の建つ南上部の山上(193m)の平坦地形を泉山城の曲輪遺構に比定しておきます。


V萱刈坂〜行者堂〜馬背山〜高見城山〜中の台(南曲輪)〜佐野
   H19.01.28
 馬背山城-馬背山堡塁・三ノ丸北西出曲輪・三ノ丸北東出曲輪(いずれも仮称)


高見城山までの登山レポートは上記Uを参照下さい。此処ではキャスリング・レポートを主に記したいと思います。「太平記」に登場し・織田信長命「丹波攻略」の総大将 :明智光秀により落城した高見城主郭部周辺は中の台(南曲輪)まで遺構調査等がなされているが 高見城出曲輪として同じ城域内の三ノ丸北西尾根側下部【石垣・石積みが遺る】・ 悠々の森からの三ノ丸北東尾根の2-3段曲輪側からも
片堀状鞍部から行者堂は砦跡?

山腹を捲いて行ける【此処には高見城唯一?の空堀がある】が調査報告資料等を見ず正式名称が不明のため、登山レポートの中に含めています。行者山から萱刈坂へ延びる 北尾根までが県遺跡分布図には高見城の広範囲な城域内に入っているが、高見城から尾根続きとはいえ
行者山(馬背山)北尾根から佐治川沿い氷上盆地:白山と弘浪山

”山抜け”の激急斜面を上下する大鞍部が城域を隔絶し行者山(馬背山)から萱刈坂へ ・更に穂壺城に至る 北尾根上に幾個所かの平坦地形(曲輪!!?)や、佐野に至る西尾根上の馬背山の城遺構を馬背山城と其の馬背山堡塁<仮称?>として 出曲輪ではなく高見城砦群の一城郭と考えます。これ等:高見城城砦群は未だ近畿の山城として整理がつかず此のページや 高見城・高見城を取巻く城砦群に残片的に載せているので整理し纏めたい。高見城から今回は逆に中の台(南曲輪)に向かい、
馬背山城(仮)主曲輪から南曲輪(低土塁・段曲輪群が遺る)

鎌倉時代末の嘉暦2年(1327)丹波守護職仁木頼章が築城した 佐野城と呼ばれた旧城下の佐野地区へ降ります。其の後:中世戦国時代には氷上町新郷の豪族赤井家清が城主となり、天正7年(1579)赤井忠家が城主の時「丹波攻め」明智光秀配下の四方田政孝の兵火に掛り柏原八幡城への援軍に 出兵中の留守を狙われて落城します。過去の登山では殆ど意識無く素通りしてきたが改めて高見城の城砦群を訪ねてみるのが目的です。
馬背山城(仮称)主郭西面の切岸

登山レポートを山城レポートに置き換えたので内容の重複・冗長等をご容赦願います。また既に中の台の城(高見城南曲輪)と山の神城を高見城を取り巻く城砦群として紹介済です。 馬背山城と馬背山堡塁と三ノ丸北西出城についても石垣の画像を添付して少し触れていますので併せて見ていただければ幸いです。 萱刈坂から北へ伸びる僅か2km足らず、しかも比高差も小さな低丘陵にはそのT参照のように幾つかの高見城砦群が在る。
馬背山城南曲輪:南側の低土塁

むしろ萱刈坂から本城の高見城に向かう此の尾根上にこそ、より強固な備えを持つ城砦が存在する 可能性はあると思えるが、全山を要塞化した黒井城同様に高見城から北・西・東への尾根続きには本拠城を守備する多くの城砦群があったと考えます。 南尾根には岩屋城(石龕寺城)から嘗て山名氏の丹波守護代を務めた久下氏の玉巻城も高見城の支城の一つとなっています。 北端には穂壷城が丹波悠々の森へ降る尾根の東端には東鴨野城が在り、
馬背山城(仮称)の主曲輪

尾根伝いの登山道途中にも出石の有子山城同様?古い時代の小さな曲輪(削平段)が連なっているところがあります。
高見城から北方を望むと大きく下って萱刈坂へと北に延び出す尾根端に大きく聳えるピークがある。この山頂部に主郭を置く城郭遺構がある事は前回のトレースで知っていたが このピークから西に向かっては稜線ちかくに 大岩壁を覗かせる尾根筋は展望も良く、
馬背山堡塁(仮称):堡塁の対角線上の石垣曲輪からは横矢が掛かる!!

奥丹波では珍しく高度感と緊張を伴う短いながらも岩稜歩きが期待出来そうな登山コースです。早速・萱刈坂から関電巡視路を利用して摂津長田線 の送電線鉄塔を目指します。高見城に至るこの尾根筋は天文年間頃より黒井城を本城とした 支城の高見城と其の城砦群は播磨や但馬方面より加古川(旧佐治川)沿いに奥丹波西方から侵攻してくる 敵に対して守りを固める前線基地的立地に在るようです。稜線沿いに曲輪を思わせる平坦地の西側斜面を主に凹角溝状を見ると竪堀か?尾根上の窪地が左右に延びて斜面に消えていると堀切かと?疑ってみます。
馬背山城(仮称)主郭<中央ピーク>


現に直ぐ足下の萱刈坂を往来する車が見える急斜面には 何本かの深い溝があり一本は尾根沿いの道と平行しながら角度を変えて落ち込んでいます。僅か比高30m程、道路に向かっているので谷筋なら側溝の無い峠の車道に水や土砂溜りがある筈なのに、普段よく利用する萱刈坂に其の様な形跡は無さそうです。其の直ぐ上部に鉄塔No87があり低い堀切状の鞍部を越えるがこれは鴨野と佐野を結ぶ峠越えの道で、 これより尾根続きにある行者堂への参道を兼ねたものか。
行者山(馬背山城<仮称>)

お堂も砦跡で下った狭い鞍部は土橋と片堀切状?。登り一辺等の道も少し緩やかになり広い平坦地に出る。正面に高見城山を望む斜面に数段の平坦地。雑木藪っぽい下方には試掘だけで終わったものか?掘りかけで表面だけが 崩れた様な採石場らしいところもある?。【馬背山城】萱刈坂からの此の尾根筋の小ピーク毎に 砦跡らしい平坦地を見て最後の長い急坂を登り切ったピークが行者山!?(馬背山:仮称だが役行者を祀る祠が在ったと云い、萱刈坂へ延びる北尾根上には此処より遷された?と思われる行者堂が在るが曲輪跡らしい?。二つ岩峰の小ピークが有って、 馬の鞍の様なので馬背(馬瀬)山の古名がある。細い岩尾根の北は激急斜面・南は岩壁)。馬背山(行者山)には切岸を持つ広い主曲輪(20x30m程)と西尾根側にも3m程の段差で副曲輪が、 南側斜面に沿って下方に向って細長い段曲輪が4〜5段並ぶ山城遺構がある。
馬背山の第一岩峰のリッジと第二岩峰(鉄塔は北摂長田野線No84)

馬背山の二つのピークの尾根からは赤井野(赤井氏発祥地)はじめ氷上盆地の眺望が効く。兵庫丹波市の黒井城・高見山城・篠山市の八上城と、此の城攻めに明智光秀が築いた金山以外には 殆ど見かけない石垣遺構がある。【馬背山堡塁】副曲輪からも西尾根に続く細い尾根筋は岩稜となり、本城の高見城から望んで判る険悪な様相を示す絶壁上に目立つ二つの岩峰(馬背山)に出る。 小さな曲輪が在るが良く見ると足下は石積により曲輪を確保しているが、それ以上に尾根上は此処からは立っては歩けない程の急斜な一枚岩のリッジ通しの尾根。岩場を避け・尾根幅いっぱいの一枚岩の斜面を避けても、横(尾根端)も断崖上の激急斜面。 一枚岩端を捲く様に尾根筋を直進しても・其の正面には高さ3-7m程・幅約1-2m・長さ35-40mにわたる石垣積の 強固な堡塁となって完全に西方向からの 侵入を遮断・防御しています。堡塁は北先端部の大岩まで繋がり・北に突き出すような絶壁の白い岩頭からも眺望は絶佳。
馬背山堡塁 幅2m程のブリッジ状石積は 北端の岩壁頭に延びる


大岩から末端岩場までを石を積み堅めて展望岩場へ幅2m程のブリッジ (通路)にもなっていたのでしょう?。対角線上の尾根にも狭いが石積の曲輪が在って、城への出入り口を屈曲させる枡形虎口同様に横矢が掛かります。 丹波を問わずこのような遺構は余り例が無さそうです。丹波の山城に石積遺構を見ることは稀ですが、此処には削り取り積上げる 土砂は少ないが石材は豊富なので少人数で護る為には有効です。此処を馬背山の堡塁と仮称します。 更に西へ続く 岩尾根の先は送電線鉄塔に着き、巡視路をとって降れば佐野の稲畑側・尾根筋を西へは矢降神社からの林道に降り立つが、 忠実に尾根先端を目指せば氷上町南小学校近くのR175号・佐野(丘陵先端部は国道を通す為 尾根を開鑿した切通し部)に降りる。
馬背山城(仮称):大岩から北先端岩頭まで延びる石積み堡塁

矢降神社側には家臣屋敷跡と思える数段の広い平坦地や数基の五輪塔群が有り (当概・そのVレポート中に記事あり)佐野城の頃の大手道だったか?。 此の林道から中の台(南曲輪)へもけっこう厳しい登山を強いられる。馬背者山城に戻って高見城を目指すには:ザラザラした滑りやすい砂地でしかも手懸かりの雑木も殆どない急斜面の下降が危険。出来れば避けたい。要注意して慎重な行動を。砂地の白い鞍部を越えて 登り切ったところにあらわれる平坦な尾根が【高見城三ノ丸北西出曲輪】(仮称)で 尾根の左右にも曲輪が付くが曲輪の尾根側は岩場の行き止まり状態。
馬背山城:大岩から 北先端岩頭まで延びる石積み堡塁

急な岩場を尾根通しに進むか岩場下をトラバースして捲き上がる、あとは急斜面を辿って高見城 (佐野城)の三ノ丸(愛宕社を祀る)に至ります。谷側に点在する多くの苔むした石は 崩れた中程の石材だったのでしょう。尾根の岩頭まで戻って更に西にある岩峰まで進んで見ようと先端に出ると長い一枚岩状の急斜面。 しかし岩はフリクションが効く。相変わらず展望が拡がる細い尾根上に城砦の痕跡を探すことは無駄のようです。苦労し危険を冒してまで末端の岩に立たなくても 先ほどの岩峰で見張り台としては充分機能します。
馬背山城:上の堡塁対角線上の石垣曲輪からは横矢が掛かる!

今回のコース後半に寄った矢降神社側の五輪塔群に有った平坦な段差を家臣等の屋敷跡とすれば、屋敷から谷を詰め尾根通しには中の台(南曲輪)へ・屋敷跡の直ぐ下方には関電送電線鉄塔への巡視路があった。其のまま尾根通しに此処 :馬背山への危険とも思える厳しい山道が高見城への大手道だったのかも知れない?。高見城は南北朝期:嘉暦2年(1327)仁木頼章)によって 築かれた丹波でも最も古い城の一つですが高見城から佐野に至る尾根筋の馬背山には、
高見城三ノ丸出丸(仮称)の石垣(高さ約2m)


延喜年中(901-923)頃に安楽寺(創建等の由緒不明の廃寺 )が建てられていた様で、其の参道を利用して佐野地区から尾根続きに大手道として釘貫門(大手門で、搦め手の鴨野地区にも裏門の釘貫門があった云われます)を設け、登城ルートとなっていたと考えられます。…行者山の主郭に戻り、足元が安定しない嫌なザレ場の急斜面を降り、登り返した露岩を越えると約15mx25m!の平坦な尾根に出る。 平坦地は尾根先の岩場を背にした曲輪で、
高見城三ノ丸出丸(仮称):西面袖曲輪の石垣

尾根上の主曲輪の沿って左右(東西)の斜面下にも腰曲輪が並んでおり西面の曲輪が気になり下って見る。馬背山堡塁(仮称)にも西面からの尾根筋・谷詰めを塞ぐ堡塁がある。馬背山城側も東面からの攻め手は・なんとかザラ場の最低鞍部に到達しても、 滑り易い砂地の激急斜面に足を捕られ、又土橋状の狭い尾根筋は上部の曲輪からの狙い撃ちに逃げ場の無い厳しい自然の要害を呈しています。 三ノ丸北西出城(仮称)の西側曲輪西側面の切岸を固めるように付近から調達できる小振りの石を集めて高さ約 2.5〜3m・長さ約15〜20m程の石垣が築かれています。
同上 さらに其の下方の露岩を控えた曲輪


長い石垣の中程は立ち木で辛うじて崩壊を免れている様ですが、石垣が途切れる付近には何かしらの遺構らしい石組や?下方の周辺一帯には残石も多い。馬背山城(行者山城支城 )の北斜面側に築かれていた 石積堡塁と同様に谷筋からの防備補強のため曲輪の西面に築かれていた石垣の崩れた残石なのかもしれない。馬背山城の出曲輪 (堡塁)と同様に此処の石垣も【高見城三ノ丸北東出曲輪ともに人知れず残されている高見城城砦群の再調査を願いたいところです。出丸の尾根側一杯にはドーム状の岩が立ちはだかっています。
三ノ丸北東出曲輪:直ぐ下の土塁付き曲輪

岩場の右手に踏み跡があるが今回は岩場を直上して岩頭に立つ。 潅木が煩わしいが展望は効く。通過してきた行者山(馬背山)から激降りした砂地の細い鞍部、激登りして石垣遺構を残す出丸へのルートを確認、北尾根から鴨野城〜穂壷城への田園風景の中に溶け込みそうな程の低丘陵を望み譲葉山〜向山連山・五大山〜愛宕山〜五台山・霧山と氷上盆地の山々を眺めて最後の一登りで「丹波悠々の森」からの登山道と合流する愛宕社が祀られる高見城三ノ丸跡の曲輪です。
同 段曲輪は家臣屋敷跡?の直ぐ上方に出曲輪遺構がある


三の丸曲輪北末端付近からは 左手へ一段低く薄い踏み跡を辿り下る。こんなコースを歩いてみようという物好きな登山者は少ないでしょうが行者山までの行程は短いが急斜面。岩場の通行には慎重に行動してください。愛宕社からは其のまま360度大展望台の高見城山頂に立ち、 周辺の遺構を「縄張り図」で確認して廻るのもいいでしょう。【高見城三ノ丸北東出曲輪 (仮称):高見城三ノ丸から三ノ丸北西出曲輪を経て行者山〜萱刈坂へと北西に延びる丘陵にのる為の分岐は尾根筋が見定められない急斜面の下降から始まるので判り難いが
三ノ丸北東出曲輪:堀切側に土塁をもつ曲輪

三ノ丸北東出曲輪への尾根筋トレースは開始後直ぐ下方に曲輪の削り残しの土塁!!?を残す藪っぽい平坦地からの 下降が踏み跡薄い激急斜面なので要注意です。踏み出す方行を間違えないように…此の三の丸北東出曲輪と高見城本城だけが目的なら「悠々の森」からの一般登山道で出会う2〜3段の曲輪(高見本城への木戸・番所だったのでしょうが、向かう北東出曲輪群は居住性も高く武家屋敷の跡でもあったようで、其の守衛の番小屋でも在ったものか?)から 西の谷寄りにトラバース(荒れた山道もある)して谷筋を越えれば直ぐに目的地の到達する。
主曲輪から二段目曲輪の土留め石と虎口部?


此処から三ノ丸〜高見城を目指すのが無難です。西側に土塁道状に削り残しの有る曲輪の斜面下にも大石を背にした削平も丁寧な曲輪がある。此処からの長く激急斜面の 下降を体感すると鴨野からの大手道が此処に通じていたとしても、登山ルートに在った2〜3段の番所らしい曲輪に出て 亀井戸を経由して 高見城主郭に向うのが大手道だったのでしょう。尾根筋が急に緩やかになると平坦地形に浅く広い堀切が現れる。
主曲輪から二段目曲輪の土留め石

右手(東)谷側に屋敷跡らしい段曲輪群があり、此処に至る堀底道を兼ねているようですが、堀側に低土塁を廻した北東出曲輪群では最大の広い曲輪(約18x30m程か?)で曲輪中央の東側半分が尾根先の主郭側に入り込む様に伸び切岸(1.5m程)の段差に土留め石列が露出している。東隅は虎口らしく3〜4段程の階段状になっている様で、その先に見える高さ 1m程の台地が西側に露岩を見せ断崖状の尾根端に主曲輪を置いている。 眺望絶佳・指呼の間に行者山城と、その先には馬背山城の尖峰が見える。
三ノ丸北東出丸の堀切と土塁虎口

主曲輪からは極端に細くなり、急傾斜の痩せ尾根が続くが鴨野:加茂神社の背後に迫る尾根先にも更に曲輪群が潜んでいそうですが、此処は次回の楽しみに残しておきます。本拠城ながら先程見てきた支城砦の石塁と石垣の印象が強いだけに、 山城に見るべき堀切や目立った土塁もなく、主郭南側の縦走路に崩れかかった石垣が僅かに残るだけの高見城の存在が薄くなってくる。 城の最期も城主が城を出ての転戦中、其の留守を狙って僅かな残留兵によって護られた城とはいえ一挙に攻め落された経緯もあってか、堅城のイメージも落城に際する印象も薄くなる。
三ノ丸北東出丸の主曲輪

高見城山から石戸山への縦走路をとって鉄塔の立つ南曲輪(中の台の城)へ向かいます。 曲輪北端から尾根通しに急な斜面を下る切り開きは町界標識があり、一部シダ類の下草に覆われているが踏み跡が続き谷筋まで下って来ると東山側に巻道が有り町界を示す石標を見る。谷にちょっとした滝(8m程)がかかっているのが見え、草生した林道終点の砂防ダムに降りた。中の台(高見城南曲輪)から佐野地区へ降るルートをとった理由には高見城の古名が佐野城と呼ばれていた 当時の大手道と屋敷跡を探す事でした。
佐野:五輪塔・石碑周辺の平坦地は旧家臣屋敷跡か?


石垣の残る削平段が残っているようなので左右の上部に其の様な場所はないかと 所在も知らず林道を下ってゆく。本流と林道を挟んだ反対側に 水の流れていない枯れた溝が沿っている。其の溝を挟んで段差をもった平坦地がある。 中間部付近の東側山裾には古い石垣を背にして並ぶ五輪塔群が見え、其の裏手・一段高い削平地には「南無阿弥陀仏」の石碑が建てられている。 付近に墓地らしいものはなく、更に下った所には矢降神社が建つだけで、 後は猪・鹿避けゲートを抜けて佐野集落に出るだけ。鴨野や新井地区を城下町として新井からの登城ルートを大手道とした以前、
佐野:矢降神社の谷上部に有った五輪塔群

佐野からの大手道が、どうやら五輪塔と石碑を祀る一帯を家臣屋敷として此処から通じていたものか?。 屋敷跡?の直ぐ下手から馬背山への尾根筋西に建つ関電巡視路(北摂長田野線No84)を経て馬背山城(仮称)へ尾根伝いに行ける。また谷を詰めて高見城本城の西側から南方の尾根筋へ通じる道が有ったのかも知れない。いずれも激急登コースだが、馬背山までは辿れても其の先・鞍部通過は至難・高見城への大手は谷筋を詰め・南尾根上の中の台の城(南曲輪)から高見本城へ向かったものか?。 ほぼ一直線の林道がアスファルトに変わる所に矢降神社の鳥居がある。
佐野:矢降神社古墳 V


境内の鳥居から延びる参道先に阿吽対の狛犬と拝殿が建つが其の向こうに有るべき本殿がない…!?昨年(H18)は直ぐ近く:同じ氷上町内の 稲畑三番叟を見物したところだが此処:佐野でも矢降神社で行われる佐野式三番叟が演じられるが中止されている。 何故?と残念と不思議に思っていたが訪れて其の理由がわかりました!!。社殿が無く、空地に基礎が有るだけ。新築されるのでしょう!。なを「沼貫(ぬぬぎ)村誌」によると矢降神社は高見城山に祀られていたが
佐野:矢降神社古墳T

落城時に焼失したため鴨野・佐野・稲畑に分祀されて現在の地に移されたといわれます。 同じ様な話として:高見城本丸(山頂)東下に亀井戸跡があり、更に下方に平坦地が有った様に思います。其処が般若寺跡?らしく、 三体の虚空蔵菩薩が有ったが落城の際:三体を其々、山麓の鴨野・母坪(穂坪 )・稲継の村へ移して祀ったといいます。
佐野:矢降神社古墳U


神仏混交で祀られたものか?神社縁起等も機会があれば調べ確認したいところです。 矢降神社の名前からは:祭祀場所としての神社の地を決める為、山頂より三本の矢を放ち・矢が落ちた所を社地とした…伝承の地の一つ。 神社を後にして暫くで林道の両側 に土盛が見られ、古墳の石室が林道(西側)に開口しているもの、 天井石が露出しているもの、完全に封土が残り石室に入れる古墳が集中している佐野?古墳群がある。
佐野:矢降神社古墳 Vの石室

教育委員会が各町毎に調査された氷上郡(現:丹波市 )埋蔵文化財分布調査報告書に氷上町が有ればこれ等多くの古墳や古墳群について、どれが何号墳なのか・特徴や内容がわかるのでしょうが、氷上町独自の各種調査資料があるので、 此の分布調査報告書の氷上町版は作成されなかったようです。 古墳名もデータも未調査のまま…わかれば此処に追記したいと思います。

堀の内居館(仮称)と堀の内砦(仮称) xxx Ca193m 柏原町鴨野字堀の内

高見城山登山利用者の99%以上が県道290号柏原町小新屋の三寶寺・悠々の森からだが黒井城砦群同様に高見城も周辺の丘陵・尾根筋には城砦群が存在する。高見城が佐野城と呼ばれ、大手「釘貫門」は氷上町佐野にあったが 久下・波多野…赤井と領主が代わると大手「釘貫門」は萱刈坂を越えた柏原町鴨野に移った?。
堀の内砦から望む高見城

…が鴨野地区から隔たった小新屋地区内の小字に「東鴨野城」の名が「飛び地?」のようにあらわれる!!。しかも他の字とは入り組まない相当広い方形の一角。曲輪内には整備された一党墓地らしい古墓群があるが、墓碑名は高見城主や家臣(仁木氏、 赤井・荻野氏関連及び其の子孫?)とも思えない郷士?○氏一族のものと思われるが旧姓等が彫られていない!?。未だ郷土史誌・調査資料等を知らず 其の大手筋は小新屋小学校裏手から禅座坂を東鴨野城(260m 仮称)〜
加茂神社上部にみる数段は古墳!!?

一般登山道に出る尾根通し高見城へが大手道と思っていた。ただ小新屋小学校裏手には時代も後世?・縄張りも丹波には類をみない特性から高見城と は無関係?・東鴨野城を詰め城とした居館とも思えない。佐野城の時代は高見城の搦手だった鴨野の安楽寺(廃寺で所在も不詳?)から。 鴨野に移ってからの大手口釘貫門堀ノ内から高見ヶ城東谷川沿いか、
屈曲する東谷川内側の堀の内居館!!?

取付きは急峻だが尾根沿いに堀ノ内砦を経由して高見城三の丸東出曲輪(仮称)に至ったものか?。
以前2009・01・17加茂神社(鴨野の土塀/加茂神社と金兵衛の狛犬の項)から此の尾根北末端の稲荷社から上部3-4段の削平段(3基?の古墳群)を見て 高見城三ノ丸北東出丸(仮称)へトレースした。
堀の内居館:土塁空堀・土橋内の曲輪に五輪塔残欠と城山天皇の祠

【尚「高見城三の丸西出丸」とは深い谷を隔てた岩峰上の馬背山城<仮称>間を北方に落ちる谷が西谷川で、馬背山城からの北尾根筋に点在する高見城 ー萱刈坂ー鴨野城ー尾根最北端の穂壷城へ続く高見城砦群は上記の項に紹介してきた】
今回は加茂神社側(高見ヶ城西谷川)と大歳神社側(高見ヶ城東谷川)間に挟まれた「高見城三の丸から東出丸を経て
北東尾根末端(枝尾根合流点)は堀の内砦中央郭!!?

北に延び出す尾根筋を東谷川側の字名堀ノ内から。屈曲する東谷川を外濠に・背後に土塁・空堀と広い数段の曲輪がある。 堀の内に入る唯一の?小さな板橋を渡リ内堀の土橋を渡り曲輪に入ると土塁端に五輪塔残欠と”城山天皇”!?石碑をが祀られている土塁虎口?の様?。 字名の堀ノ内には屋敷があった…と云う。
堀の内砦南端(最高地点)曲輪前の片堀切

鴨野地区には谷垣氏をはじめ・仁木氏を先祖とする家も多くて堀内氏・植木氏姓の宅があり仁木氏所縁!!の郷士をおもわせる。高見城(佐野城)の大手が鴨野に移った頃の城下であった市場・馬場・XX小路・堀ノ内等字名からも、町場 が形成されており北側丘陵部には鴨野城がある。尚:堀ノ内砦<仮称>が含まれる?付近までは高見城の遺跡分布調査?範囲内に入っているが、 馬背山城<仮称>から北尾根に入ると萱刈坂まで、及び加茂神社から東へ…
南端主曲輪とは片堀切を挟む北側曲輪群

稲荷社から取り付いた尾根先の3基ばかりの古墳群・今回トレースした堀ノ内居館?や、先の東鴨野の居館跡等…については 旧:氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書に記録がない?。堀の内居館<仮称>?より東谷川を 「三の丸東出丸」まで詰め上がってみたいとは思ったが、城砦遺構探索は先ず尾根筋!!?…からと、 西側尾根筋に向け獣除けフエンスを開閉して加茂神社側との峠状に出ると上部に二段程の曲輪!!・下方にも一段!!。 以前加茂神社側から取り付いた稲荷社の祠が見えた。、
堀の内砦中央郭より下部北東尾根上の小曲輪群

三段の曲輪と思えた平坦地形は古墳!!。疎林で倒木も下草も少ないが諦めて引き返そうか…と思える程の激急登の末・東谷川側からの短い枝尾根が合う尾根に出る。以前は気付かなかった此の地点より東下方へ約60m程には 尾根上に小曲輪が7-10程あり、最下段曲輪と上段曲輪の間からは東谷川へ急斜面に一条の竪堀が落ちる。高見城に向かう南尾根の稜上は 幅狭いが緩斜面の尾根が約70m程続き、その間・段差も低い数段曲輪が連続・東側に下草藪で覆われ気付き難いが片堀切りをみる。
北端曲輪最末端曲輪から落ちる竪堀

起立する高見城を正面に見る城域最高地点が主曲輪だろう30m程の平坦地形から先は 一旦鞍部に下降するので…此処までを堀の内砦(仮称)の城域と推定します。 上り詰めると更に幅狭いが長い水平尾根筋は、悠々の森からの登山道からも確認できる。山城に興味ある諸兄には、何か遺構が残るのではと思わせる程だが、そのまま進んで高見山三の丸北東出曲輪<仮称>に着く。






萱刈坂 六反田の地名と共に残る茅刈場

丹波国主に主基田奉仕の命が稲畑村に遅れて伝えられたのは田植えの準備で忙しい5月の頃でした。 「今年は良い雨があったので田植えも良い都合に運ぶのう」「ありがたいことじゃ、しかしのう、お天道さんの都合はよいが何でも、 百姓仕事は一寸待て…というおふれが出るそうじゃ…何でも2〜3日うちに茅刈りの日役があるそうじゃ」…「馬鹿を言うもんじゃない。猫の手も借りたい田植え時に、そんな気長いことがやっていられるかい」
中央山肌を見せているところが萱刈峠、その奥左端が穂壺城

「今年 立たれた天子さんの御用に立つ田が定まって、その御神殿の屋根葺の茅刈りをせいと言うことじゃ」「天朝さまのことなら勝手は云えないが茅なら今時に刈らなくても、もっと早く刈るもんじゃ」 「それが田植え前に急に決まったということじゃ。名主さんは郡司に呼ばれて、その茅を刈る者や、その場所を相談しているそうじゃ。天朝さまのことでは、汚れた者には手も触れさせられないから…」長元9年(1036)4月17日、 御朱雀天皇が即位され11月17日に大嘗祭(天皇が即位して最初に行われる新嘗祭 )に供える新穀の主基田を丹波氷上の沼貫郷に求められ、 斎田は古来より六反と定められていました。今も稲畑の小字の地名に残っている六反所あたりが斎田だったと云われ・斎田が決まると付属神殿や仮小屋を建てることとなり屋根を葺く茅を先ず集めなければなりません。
山間左の稲荷砦(稲荷神社)から泉山砦〜穂壷城へ丘陵は続く
(嘗て扇状地に築かれた土塀も圃場整備で消えたが…!)

忙しい田植え時を前に神祗官や国司も立ち会って郡司はその刈場や刈る人を選ばなくてはならず、刈場を稲畑と鴨野の境の萱野と定め、 その周囲は郡司の指揮する番人を以って厳重に監視して不浄のものの入らないよう警戒した。茅刈りの日は選ばれた若者達によって朝霧の中、合図の太鼓が響くと新しい作業着を身につけ鉢巻をして刈っていく。 山と積まれて神殿に運ばれ、神殿も仮小屋も美しく葺き上げられた。 この萱野のあった所を萱刈坂と呼び、この故事をしのぶ地名となっています。
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