白山から辿る篠ヶ峰への道白山~新郷~赤井~篠ヶ峰 点名:石山 後谷城(後屋城)・谷村城
Ⅰ伊尼神社~白山~点名 :新郷~点名:赤井~篠ヶ峰 2000年05月03日
Ⅱ伊尼神社~白山(547m)山頂往復・・(点名:石山)2001年09月08日
篠ヶ峰への道Ⅱ =延命寺山・カザシ・岩屋山
篠ヶ峰への道Ⅲ 大海山・小野寺山・篠ヶ峰
伊尼神社

近畿の山城: 後谷城(後屋城)./後谷山城・後谷東砦 谷村城 新郷砦(仮称)
校歌の山
♪権現山に湧き上がる 雲は僕達 私達xxx…:南小学校

播丹国境白山~妙見山は近畿の山情報でよく知られているが丹波市の白山は如何でしょうか!”丹波の赤鬼”黒井城主荻野悪右衛門直政が生まれ育った赤井野の地で赤井一族の居城後谷城(後屋城)や背後の丘陵上に赤井城(砦)と連繋する谷村城
白山山頂から南峰(三角点)と氷上盆地を望む

赤井氏一族の守護神白山権現を加賀白山神社より勧進して白山山頂に祀った「白山権現山」は「城山/赤城山」とも呼ばれ後谷城主赤井氏一族の財宝埋蔵伝説も残る。山中には「つくばね草の群生地」があるのではないか?と山頂案内板にあって何やら面白そうな山域です。


白山から新郷~赤井~篠ヶ峰へ  H12. 05.03

加古川(旧佐治川)に沿ってR175号線「稲畑交差点」を左折し県道109の新郷・氷上ゴルフ場を目標に進むが、鷲住寺・伊尼神社・白山神社が登山口としては分かりやすいでしょう。入り口に白山の案内板があり駐車も1台なら左程邪魔にはならない。白山神社一帯が後屋城跡でゲート横・神社前には土塁が見えています。
R175:稲畑・錦橋付近から望む白山

林道から貯水池を横を通り左へ谷を渡ると広い苔むした石段参道から東屋休憩展望所に着く。弘浪山は北側の達身寺や安全山方面から見る大岩壁の厳しく荒々しい姿の 片鱗が山頂付近の露岩に現れている。休憩所からの尾根を辿るのもいいが展望は望めない。不安定な急斜面の道と軽い尾根筋の藪が迎えてくれるだけ。 それより20m程先の分岐へ戻れば林の中の詰め
登山口”河童池?”から白山を望む H18.2.25

白山権現を祀る石垣の石段を登りつめた白山山頂からも篠ヶ峰を望みながら快適な道がのびるが、これから辿る道は要注意です。錆び朽ちたTV共同受信アンテナの先で右手の細い道に入ります。白山から続く 尾根だが山頂から直接は道がなく分かりづらいところだが尾根に沿って踏み跡はある。コース全体的には高低差も少なく藪もなく倒木等で荒れてもいない。
五合目展望台付近参道の赤目不動尊


一寸した岩場の通過・踏み跡も薄く見失いそうな程だが雑木の少ない歩きやすい尾根道だ。新郷586m(4等三角点)は縦走路より左へ少し下ったところにあり引返して点名赤井への道を辿ります。尾根の三叉路は左へ高釣瓶へ向かう切開きの町界尾根です山道が明瞭なので注意。右手の少し高みから一気に下降が始まるが直ぐ先で点名赤井692mに到着です。
白山神社境内の土塁・南先端部は櫓台!!

篠ヶ峰へは山頂手前の下降する道が正解だがゴルフ場へ下る道かと思い山頂より篠ヶ峰を目指して直進しての下降です。急斜面に鹿避けネットが現われて藪に突入・目前に山南町西谷からの工事中とも思えないが道にブルドーザ等重機が見え、その先の林の中に大柿氏の赤布。彼のMTB轍の残る二日後2000年1月3日に此の篠ヶ峰に立っている。その時は五ヶ野林道の途中から689ピークへ出て篠ヶ峰へ向かったが此のコースも推奨。
後谷東砦からの弘浪山

岩場あり展望良好の巡視路で岩梯子もある整備された道。赤い布を追って篠ヶ峰(827m)の東端のNHK反射板に出る。これより東の尾根に向かい下方の樹林帯を目指します。山頂NHKテレビ中継所は昭和46年(1971)6月完成し山南・氷上・加美三町で山岳公園構想が計画されたこともあった。尾根道は明瞭だが暫らく進むと尾根分岐で踏み後も二手に分かれます。東峰山への尾根は次にして右手の赤いプラ境界杭に沿って下降を続け赤井林道(普通車でも通れるがゴルフ場入口までダート)に出る。
白山神社跡から望む加古川(氷上廻廊)と高見城?穗壷城への細長い低丘陵

谷沿いの林道はゴルフ場最奥の西端に出ると此処に立石不動尊が祀られ近隣住民の信仰をあつめています。氷上カントリークラブから県道へ出れば伊尼神社までは直ぐ。やっと白山登山口へ戻ってくるが此の周囲コースは林道歩きが長くて疲れます。


Ⅱ 伊尼神社~白山(赤城山)山頂往復  H13.09.08

「山と小箱」のみーとさんとは先に弘浪山続く丹波の山・二座目の白山です。柿柴から谷村の伊尼神社・鷲住寺の案内板に従って白山神社手前の登山口から猪垣のゲートを開けて奥に延びる林道が続く。この白山登山口には氷上町観光協会の立派な??案内図と神社と城址の案内説明が設置されている。
白山山頂(旧白山神社跡は後谷居館の詰め城)

みーとさんには篠ヶ峰から派生する尾根の末端にある岩峰弘浪山と尖峰の白山二峰は共に丹波では目立って美しい二つの山なので是非登ってもらいたいと今日の行動予定に入れています。鹿避けゲートを開閉し登り始めて直ぐ右手鷲住寺背後の山への取付に石碑が建つので寄ってみると”xx居士・俗名:和泉守”とある。荻野和泉守は黒井城主赤松氏の築城以降は荻野秋清が”丹波の赤鬼”直正に刺殺され黒井城主となった歴史までは多くが空白のまま。
白山五合目休憩所からの弘浪山


一帯が後谷城(後屋城・赤井館)で黒井城主となった荻野悪右衛門直正が生まれ育った城館であり赤井一族の本拠城だったところ。和泉守の石碑横から延びる急斜面の尾根伝いにも後谷館の詰城的な山城があり数段の曲輪・帯曲輪の遺構が残っている。城砦跡を抜けて少し登った先に点名:石山(3等三角点 203m)の石標柱があり此の辺りからは弘浪山の二つのピークや岩場の遠望が効く。
白山神社跡からの展望:左から篠ヶ峰・竜ヶ岳・東峰山

比較的緩やかな稜線を辿って五合目の展望所(246m)に到着。展望所近くで露岩も少し現れるが点名石山とは別の意味なのかな?。夏場のコースとしては水音のする谷沿いの白山神社参道を選んで林道に戻る。「河童が居るかも」という後谷池も池底を僅かに谷水が流れるだけで何時もの神秘的な蒼々とした水面の姿は想像も出来ない。谷に沿って続く参道に町石仏を何体か見かけて5合目の東屋展望所に着く。
白山神社跡

此処から尾根通しにも行けるが少しお疲れのみーとさんには山腹を捲いて植林帯に続く参道がお気に入り!?岩を背に蔓が捲き付いた赤目不動尊を見てなおも登り坂。やがて尾根に乗り緩やかになった稜上を南に向かうと程なく石積みの残る白山権現山(赤城山547m)に到着。展望は抜群・篠ヶ峰の大きな山容が目の前に拡がる。
伊尼神社


三角点峰(487m)は東尾根下方のピークだが登山者が此処を踏んだレポートを未だ知らない。訪れる人の気配さえない静かな山頂で贅沢な展望を2人占めです。今度は春にツクバネソウを訪ねましょうか?。伊尼神社は平安時代:延喜5年(905)創建の式内神社として延喜式神明帳(氷上郡17座)に記され祭神に日子番能邇邇藝命(国土の神):神大市比賣命(穀倉の神)を祀る。



 後谷城/ 後谷山城/ 後谷砦 谷村城新郷砦(豊村稲荷砦 仮称)

後谷城(後屋城・後谷館・後野城・赤井城・赤井館)丹波市氷上町谷村・新郷
後谷東砦 (後谷砦)  後谷城東背後の稜:石山(3等 203m)
後谷西砦?     後谷城の西背後の稜Ca210m(? 未
後谷山城南郭
(主郭) 白山東南尾根上:487m三角点ピーク
後谷山城(高城)白山山頂(赤城山 547m)から北尾根上部

白山を望むところに後谷城主:赤井伊賀守忠家の墓碑がある

県道109号沿い道路案内標識に従って赤井氏代々領主が崇敬し寄進した沼貫の伊尼神社・赤井氏菩提寺の鷲住寺へと道なりに進み老人ホーム松寿園入口分岐を右折する幅狭い地区道は杉・桧の林の先で白山神社に着く。垣のゲートから奥に延びる林道が白山登山コース。入口に氷上町観光協会の白山神社と後谷城の案内板がある。此の城砦群の中で知られるのは赤井家本拠の城として白山神社境内に残された高土塁が城館遺構の山麓の城と白山山上の後谷山城だけだが白山山上ではなく北尾根上に残る曲輪遺構・西尾根の曲輪にも
後谷城:白山登山口横の土塁

篠ヶ峰に繋がる尾根分岐部に残る石塁(石積)遺構にまで気付く人は少ない。山頂の神社跡には登っても高度が少し低いが東南尾根側の三角点峰に向かう登山者は皆無に近い?。此の尾根の先端に落ち込む所が後谷(屋)城で 後谷西砦・後谷東砦が後谷城(居館)から後谷谷川を背後の後谷山城へ通じる登城ルートを監視・守備しています。此れ等城遺構が白山の山塊に存在するが
白山神社南側杉林の中に延びる土塁

一般的に知られているのは後屋城(居館)だけ。沼貫荘は南北朝期の荘園で新郷は但馬街道の宿駅として比較的早くより商業も発達し、市も立ち「上市場」の小字が残る。芦田頼季の栗住野城や黒井城主:荻野秋清の時!?の野村城(春日町)と共に奥丹波では珍しい芦田一族の中世の平城で二重に堀を囲った居城。【注:氷上郡誌等によると赤井一族は芦田(葦田)氏・
後谷稲荷下・広い三曲輪を横濠が区切る<切岸に石垣・低土塁も遺る>

足立氏・荻野(赤井)氏を指し清和源氏頼季流葦田氏が保元・平治の乱 (1158-59)後:信濃国高井郡井上村≪信濃国佐久郡葦田村の出との説もある!!?≫から来住した井上大炊介(判官代)家光(源頼季の孫)が芦田(青垣町)に住み芦田姓を名乗り建保3年(1215)父の朝家から所領を分与された為家が新郷の後屋に住み赤井姓を名乗り後屋城を 築き次男重家(尾張守朝忠)が荻野氏を称して朝日村に朝日城(春日町)を築いたと云う?】為家の後 :後谷城は為家嫡男の家義が継ぐ。
後屋城:後谷稲荷

足利尊氏幕下にあった武将:荻野朝忠ですが領地保有の為・南朝方に付き高山寺に籠もっている。建武4年-康永2年(1337-46)には仁木頼章・文和1~2年(1352-53)には高師詮の丹波守護代を務める勢力を持ち活躍している。突如現われた丹波守護代:荻野朝忠は、また忽然と消える謎の人物ですが赤井氏が南北朝期に清和天皇を祖とする芦田氏から分家したとも考えにくい様です。
白山神社跡(高城・上ノ城)から篠ヶ峰?竜ヶ岳を望む

古文書に赤井氏の名はなく芦田氏となっている為か?不明点は多い。氷上町成松・荻野家略系図によると桓武天皇を祖として梶原景時の孫荻野五郎景俊の祖孫に尾張守定朝(荻野六右衛門)がおり尊氏から領地を拝領しており此れが朝忠だとされる。石橋山で戦った関東武士で相模国愛甲郡荻野に住み「承久の乱(1221)」の功か?葛野荘の新補地頭となり来住したと云われ赤井朝家は
後谷山城(上ノ城):北尾根末端ピーク付近の連郭(5段続く)

此の戦いで討死したとされ、為家が新郷に住み築城した説は一致するが芦田氏からの分家説からは5~6年の差異があり朝家から所領を分与された話は矛盾します。朝家討死の忠節に対する恩賞として子の為家が与えられた所領葛野荘の新郷に移ってきたのでしょうか!。「承久の乱」後新地頭として関東から中沢基政(大山城)・油井政親(油井城)・一番旗で知られた久下重光(玉巻城)・全国足立姓の祖:足立遠政(山垣城)
後谷山城西尾根曲輪基部(点名赤井・篠ヶ峰分岐)尾根側石垣

等が移ってきます。丹波史年表によると徳治2年(1307)荻野朝氏が相模から葛野荘に移ってきたとあり「承久の乱」から100年近く過ぎてからの 来住だが朝氏=朝忠なら丹波守護代を務めた年代?。赤井氏の名が史書に現われるのは室町末期:大永6年(1526)管領で丹波守護細川高国の内衆として神尾寺城に拠る柳本賢治を攻撃した
後谷城西端付近の 家臣屋敷:鋭角に曲輪を横濠が区切る

細川政賢の子尹賢 (ただかた)が二千の兵を率いて攻めて救援したのが新郷の葦田五郎(赤井五郎・伊賀守忠家の事)で 赤井方200:尹賢方300が討死し尹賢方は敗れ京都へ退却した激戦を伝えます。丹波の軍は神尾寺城の柳本賢治を救援し細川晴元方に付いて京都桂川で 戦い将軍足利義晴・高国を敗走させ京都を制圧しています。其の後:信長や家康から安堵状や赤井氏から書状や寄進状にさえ赤井でなく芦田と署名されている。赤井忠家が高見城に拠るまでは後屋城
後谷城(下ノ城):白山神社裏の石積土塁の削平地と溝(横堀?)

(赤井館・下ノ城)を中心に左右の丘陵尾根に居館を警護守備する砦を築き、どちらの砦からも稜線伝いに最奥部の白山神社を祀る白山(赤城山)山頂に至る。南北朝期の砦跡を利用した !高城(上ノ城)を最後の”詰め城”とした二段式詰め城の形態がとられているようです。県道532号線近く・後屋城の西方800mの丘陵にも谷村城を築いて”詰城”としています。
後谷山城北尾根曲輪の石積みとヒカゲツツジ

後屋城・高城・谷村城や居館左右の丘陵上の城砦とは呼応・連繋し合って護りを固め 戦国期に氷上郡内(丹波市)を支配し奥丹波の覇者ともなった赤井一族本拠の牙城となっています。白山神社は天文2年(1533)5月20日当地の国人領主赤井伊賀守忠家によって 白山山麓に創建され赤井城の鎮守の神とされたが赤井氏滅亡後の文禄元年(1592)には白山山頂の後谷山城(高城・上ノ城)跡に奉斉されたと伝えられる。
後谷山城(南郭主曲輪)の切岸:コの字に低土塁も廻る

祭神は菊理媛神・伊耶那岐(イザナキノ)神・伊耶那美(イザナミノ)神で加賀白山の神体山として鎮祭する白山比咩(シラヤマヒメ)神社の御神霊を勧請したと伝えられます。祭神は御事績から結びの神・下の病「瘡(カサ)」の神として崇められ, 同音相通する「笠」を供えて祈願する習俗がいまも残っています。昭和28年(1953)山麓に現在の社殿を造営し奉斎した。
【白山登山口のゲートにある案内板参照】


後谷城(後野城・後屋城・後谷館・赤井館・赤井城・赤井砦・下ノ城)
白山山頂に至る登山口に鎮座する白山神社境内一帯や細い車道を挟んで東下部のヒノキ・杉林一帯「下屋形」の広い段差を持った削平地の中には高土塁(2-3.5m)で囲われた一角もあす。土塁の南末端はいずれも少し広く櫓台か!!。此の付近”赤井野”が赤井氏(荻野)発祥の地だが赤井氏及び荻野氏一族については諸説あって不明なところもある。
後谷城:わんぱく広場内の平坦段の石垣は藪地の造成前からあった

一説に鎌倉時代・建保3年(1215)井上(赤井)九郎為家が栗住野城から新郷に移って芦田姓から赤井姓を名乗り、為家から9代目の赤井伊賀守忠家から 時家・家清・五郎忠家へと4代続いた赤井一族の本拠が後谷城と も云われます。城主:時家の二男才丸が荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主に請われ養子に入り荻野姓を継いで朝日城当主となったのが天文11年(1542)。幼名:才丸が後の天文23年(1554)黒井城主の叔父:荻野秋清を刺殺し【新年の宴を張る黒井城か秋清の居館・
白山神社境内の土塁・南先端部は櫓台!!

下屋敷の留堀城であったは不明?】悪右衛門を名乗り黒井城主となった荻野悪右衛門直正で”丹波の赤鬼”の異名を持つ。弘治3年(1557)三好氏家臣:松永長賴(内藤宗勝:八木城主)との戦いによる傷がもとで後屋城主:家清(直政の兄)が死去すると其の子赤井(五郎)忠家の後見人として赤井家を取込み永禄年中(1558-70)頃には氷上郡(丹波市)・何鹿郡(綾部市)・天田郡(福知山市)の奥丹波三郡を領し但馬へも侵攻して勢力を拡げ永禄8年(1565)には内藤宗勝を滅ぼしている。
白山神社前の堀に架かる橋

永禄13年(元亀元_1570)織田信長に降り羽柴秀吉の仲介で三郡の所領安堵を受けており 西丹波の多紀郡(篠山市)八上城主:波多野氏ともに丹波地方を支配している。翌年(1571)氷上郡に侵攻してきた但馬:山名祐豊を反撃し 逆に山名氏本城の此隅山城や竹田城を占拠すると山名祐豊は信長に救援を求めた為信長にとっては都合のいい契機となり丹波侵攻を招くこととなる。此の不条理は丹波攻略よりも赤井直正を討つ事が目的だったのかも?。明智光秀を総大将として天正3年(1575)に始まった「丹波攻略」は割愛するが、
後谷城主:赤井伊賀守忠家の墓碑・家紋は雁金

後谷城も天正7年(1579)6月には丹羽長秀・羽柴秀長の連合軍による攻撃に穂壷城・保月城(黒井城)と共に落城する。谷村公民館から白山を望む位置に後谷城主赤井伊賀守忠家の墓所がある。天文2年(1533)細川家内紛には穗壷城に拠り激戦の末に自刃したともされる人物です。忠家六代の孫:弥十郎某氏により建立されたもの。赤井忠家は二人いる…!!?。後谷城の城主赤井忠家と曾孫(孫:家清の嫡男)赤井(蘆田)五郎忠家で天下不武:織田方との攻防戦に 登場:黒井城落城時の高見城最後の城主で幼くして父を亡くし 叔父の黒井城主荻野直正の補佐を受け、
後谷城:後谷稲荷南下曲輪の横堀側は切岸上に50-70cm程の低土塁線

落城に逃れる忠家(赤井五郎)は五郎塚の伝承に残る人物で母は八上城・波多野元秀の娘。丹波の地に忽然と現れ天文7年(1538)霧山城を築き西波多野氏の本城とした波多野宗高(実像は不明)と子:宗長は其の縁故か一族だったのか…?。赤井五郎忠家は八上城:波多野氏等と信長から離叛し丹波に侵攻する明智光秀軍と戦うが天正7年(1579)落城し逃れ文禄の役(1592)の秀吉の朝鮮出兵に参軍。
後谷城(わんぱく広場)溝は造成前から横堀-横堀に・手前は石積上り土塁!!

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いには東軍として参戦。軍功に大和国十市郡に領地1000石を賜り慶長10年(1605)京都伏見に没したという。白山神社本殿前の空掘・参道右手の高土塁・神社背後や周辺の曲輪切岸に石垣や後谷稲荷も土塁と引込んだ谷を濠として拡がる削平段を分けて鋭角に掘られた横堀・空堀が残る。林道・地区内の幅狭い車道を挟んで南のヒノキ・杉林の平坦段も高さ2m・長さ50m程の土塁が遺る家臣団の屋敷跡でしょう。
後谷東砦:尾根続き西面の切岸上が帯曲輪・最上段が主曲輪


白山へ向かう林道と後谷城背後の池を挟み込む様に林道左右の尾根筋が白山山頂へ延びています。林道に沿って左横に赤井家の守護神・白山権現を白山山頂から移した白山神社側には高さ3.5m程の土塁が続き白山権現の社殿前の堀切に架かる橋の側まで延びています。土塁の東端が少し広くなっており櫓台跡と思われます。白山神社裏手一帯には古い石垣で囲われた広く平坦な一角があり南側奥へ向うと低い白壁と石段の先に後谷稲荷の祠があり、神社の側を流れる谷川は曲輪を分ける横掘・外濠として巧みに取り込み堀に沿って低土塁を廻し防御線としているがその外濠側にも広い平坦地がありました。
後谷東砦への取付き点に荻野和泉守の墓

この時は目の前に何があっても判らない猛烈な雑木・雑草が繁茂する湿地帯と思っていたが其後日(H15/.8)訪れたら後屋稲荷社の南下部に 谷村古墳(石室を持つ円墳)があり一帯は”たんば里山づくり連絡会”により「ごんげんさん広場」としてH18年?OPENに向けて子供の冒険広場として開発造成中だった。しかし此の平坦地には数段の古い石垣で区画された曲輪が数箇所あり 武士団の居住区だった可能性を充分窺わせます。土塁・土堤や石垣の段差を崩さず広場内に残して置いて欲しいものです。遺構調査は実施されていると思うが広場がOPENされるまでには明らかにされると思われます!?。


後谷東砦(後谷砦)白山神社(赤井氏累代の居館<後谷城・後野城・後屋城・下ノ城等の呼び名がある)の三方を取り囲む丘陵部は西背後の稜Ca210m付近や鹿避ゲートを開閉し登り始めて直ぐ右手:登山道を挟んだ東側の鷲住寺(赤井家菩提寺)背後の山への取付き点に石碑が立つ。後谷城主赤井伊賀守忠家の弟で播磨の赤松氏が 箱根竹ノ下(建武2_1335)の戦功に
後谷東砦:尾根南端:2段曲輪の高い切岸(5m程)

足利尊氏より春日部庄を与えられ赤松貞範が築いた黒井城を継いだのが荻野和泉守。後谷居館警護・守備の砦が背後の丘陵上にあり、いずれの尾根筋も山上の白山後谷山城(高城・上ノ城)に繋がる為「逃げの城」要素を含んだ二段式の詰め城だったのかも?。西の後屋稲荷背後は未調査:城砦遺構らしい平坦地も見当たらず、
後谷東砦:主郭東下方の曲輪は広く切岸も高い(二段目)

其れとは思えなかったが斜面途中に古い土留めの石列を見る。荻野和泉守墓碑がある東尾根上の城遺構は和泉守が拠ったものか?。赤井家系図には二系?あるが戒名”源”は清和天皇(清和源氏の祖)を祖とする芦田氏(清和源氏頼季流か?)から分家した系図によるものか?。建保3年(1215)井上(芦田)九郎為家が新郷(沼貫)の地に移り赤井姓を名乗った説に符合?する。
後谷東砦:主郭東下方の曲輪(二段目切岸上の土塁から一段目)

和泉守の墓石から尾根を辿ると広い削平段で切岸<5-6m>高い曲輪がある。古寺跡かも知れないが更に登る尾根端ピーク石山(3等三角点203m)を主郭に城砦遺構がある。尾根続きに五合目の東屋休憩所(此処も曲輪跡か?)を経て急峻な赤城山(白山山頂) 一帯にも残る曲輪遺構とともに赤井伊賀守忠家の弟荻野和泉守が拠っていたとおもわれる。後屋城背後の西尾根筋は急斜面も緩やかになってくると露岩の多い平坦地が続くが人為的な削平地とも思えない。
後谷東砦:主郭と北面帯曲輪(東端から)

ただ後屋城からは至近距離(約800m)の谷村城を望み北東・鷲住寺背後の後谷東砦からは見通せない谷村城との連絡用の砦だったのかも?(尾根筋全探索は未実施)。其れに比べ後谷東砦は”詰め城(白山山頂の後谷山 城<高城>途上にあり二段式詰め城 !!?)”としての機能を持っていたのかも?。急斜面の途中にも20mX29m程の曲輪と高さ6m程の切岸を持つ広い二段程の削平地があり
後谷東砦:主郭を捲く帯曲輪(西尾根続きから)

羊歯類に覆われれているが東側に竪堀らしい溝状もみる。石山山頂の東砦主郭迄には少し距離もあり廃寺跡か?。尾根端ピークが東後谷砦の主曲輪で点名:石山(3等三角点 203m)主郭北面には尾根沿いに2~3段の曲輪・広い帯曲輪が西面の尾根続きまで捲いている。帯曲輪の西面下曲輪の端に竪堀らしい溝状が北斜面に落ちる。自然地形かも? 尾根筋は露岩の平坦地も有る緩斜面が続くが堀切を見ない。少し上り気味尾根上の緩やかな稜線を伝って白山5合目の展望休憩所の東屋に着く。
後谷山城南郭:北尾根側登城?参道ルートの石垣

北方に弘浪山を臨むだけで展望は効かない。眼下の氷上盆地監視には不適だが後谷東砦からは高低差の少ない緩斜な尾根続きで 後谷城・後谷東砦・後谷山城を繋ぐ中継機能をもち山頂部の後谷山城の出曲輪だったか?。赤井氏の後谷城に埋蔵伝説もあるが後谷稲荷にも伝説が残る。安政年中(1854-60)摂津・西宮戎の社人となっていた広瀬某氏が霊夢により白狐(春姫稲荷)のお告げで
後谷山城:北尾根先端の段曲輪群とヒカゲツツジ

氷上の郷・沼貫へ帰り後谷稲荷大明神を建立する。広瀬家は飛騨の国司・姉小路家の後裔といわれます。後谷稲荷社は木の鳥居も石鳥居になり対に狐像と春姫目稲荷大天女・春吉稲荷大菩薩・千代姫・姫吉・春鷹の各稲荷大明神が合祀されている扁額が掛る。芦田氏をはじめ芦田氏から分流したと言われる赤井氏・荻野氏や足立氏…久下氏と丹波の領主には関東からの来住者が多い。


後谷山城(後谷高城・上ノ城)
白山山頂(赤城山 547m)から北尾根端ピーク付近まで

赤井野とも呼ばれた谷村・後谷・新郷の後谷城(後野城・後屋城・後谷館・赤井館・下ノ城)は赤井氏の本拠地で黒井城主:荻野直正の出生地。白山(赤城山)山頂に在った後谷山城が上ノ城・高城と呼ばれていた事からも居館と詰め城セットの城郭で居館背後・後谷谷川を挟む左右の尾根が、
後谷山城:北尾根先端に5曲輪の連郭

白山山頂の詰め城に至る途上にも砦規模の城砦遺構があって”逃げの城”?的な二段・三段構成の広範囲な城砦群をもつ大規模なものの様です。西尾根筋は未探索だが東尾根には上記後谷東砦がある。後谷山城も高城も上ノ城と呼ばれるが県の遺跡分布図や中世城館・荘園遺跡にも居館の後谷城だけが表記されているだけ。白山神社からの登山ルートは後谷谷川沿いに白山五合目の休憩展望所に至る。後谷東砦から東尾根を辿れば
後谷山城:北尾根白山神社跡側の2段曲輪尾根続きの堀切

此の東屋休憩所で合流する。谷筋の登山コースを辿れば岩場に祀られる赤目不動尊を見るが近くに”城の水”と呼ばれる水場があったと云い山上の白山神社跡地に着く。後谷高城(上ノ城)は南北朝期に築かれていた砦を利用した城郭と思われるが主郭とされる山頂部には山麓に創建されていた白山神社【赤井氏一族の守護神:白山権現(加賀白山の神体山として鎮祭する白山比咩(シラヤマヒメ)神社の
北尾根白山神社跡側の堀切と露岩を切岸の曲輪

御神霊を勧請)】を織田信長の丹波攻略に天正7年落城・赤井氏滅亡後の城跡に文禄元年(1592) 奉斉されたが造成により往時の城郭遺構は不明で北面の切岸と上部の土留石積・参道(登山コース)谷側に面した土塁状?や北尾根続きに見る2段程の平坦段に曲輪を推測する程度?。昭和28年(1953)再び山麓の現在地に社殿が造営され遷移されている。高城の城遺構は白山山頂から北に延びる尾根筋の
後谷山城:北尾根白山神社跡側の堀切をもつ2段曲輪

4-5箇所に2-5段の平坦段を遺すだけだが曲輪群が点在する。尾根筋が居館や領内・要衝を望む南・東方でない事が気掛りだが、むしろ本命は東に少し低い三角点峰487mかも知れない(未訪)。北尾根筋は中河原川沿いの篠ヶ峰へ延びる林道と「ひかみ CC」ゴルフ場を眼下に望むだけ!!で集落もない。南北朝期:赤井・足立・久下氏等と共に氷上郡の豪族:本庄氏の南郷城(森山城)も向いの丘陵尾根の更に先だが呼応したか?対峙したものか?、
後谷山城:北尾根先端連郭で見つけた擂鉢片

白山と谷を挟んだ向い高山寺城に拠った児島高徳・荻野朝忠等の南朝方と対峙して向城ともなったものか?。足利高(尊)氏の篠村挙兵では仁木賴章の下にあって丹波守護代にもなったが、一転して南朝方となった朝忠が近隣の赤井家と同族の荻野家?とも思えず謎の人物ですね。現状:白山神社跡から急斜な細い尾根筋上部 (篠ヶ峰へ延びる尾根分岐・氷上町油利へ下る山道)が 加古川沿いの氷上盆地を望む物見台にはなるが!!?。
後谷山城北尾根の帯曲輪から尾根上の段曲輪切岸

白山神社跡から北へ参道を下るコースは直ぐ直進する北尾根を分け緩斜面に露岩を観る細い尾根筋鞍部に堀切・其の上の土塁・露岩を越えると露岩を切岸に組み込む2段の曲輪がさらの尾根筋を下る2-3箇所にも平坦地形を見て最北部分には5段連続する曲輪が続く。いずれも削平状態や段差は低い(1-1.5m程)が切岸は明確。最上部の曲輪は広く、ほぼ中央付近の落葉の陰に一片だけ・欠片が小さくてよくは判らないが 内側に竹ヘラ?で筋を付けた擂鉢片らしい遺物を見つけた。山上の祠関連にしては離れ過ぎている上に此処は低位置。
白山神社跡の石垣と石段

しかも此処へは5合目の休憩所から尾根続きとはいえ危険な岩場・露岩帯を抜け捲きながらの激急斜面の連続で 北尾根筋の曲輪群中程に上り着く。最先端の小曲輪から先も急斜面を「ひかみ CC」へ下るだけの枝尾根。中世の此の曲輪に何があったのか?・曲輪群がどのように機能していたのか?・領地や要衝監視からも外れた背後からの攻撃に対処する為だけの曲輪とも思えない。後谷城のホントの詰め城(高城)は他に在るのかも知れない。

後谷西砦?と後谷山城南郭(主郭)

後谷西砦:後谷城(後屋城・下ノ城)から白山神社跡地が主郭であったとされる後谷山城へは大土塁を左に見ながら後谷谷川沿いに荒れてきたが登山道が通じている。此の谷を挟む左右の尾根もまた白山山頂から南へ・南東へと延び出す尾根が後谷城に其の先端を落としている。
後谷西砦?と思えた段曲輪は古墳

居館:後谷城と詰め城:後谷山城がセットなら白山登山道の谷筋が大手道・後谷城背後から白山に至る東西二本の尾根筋は後谷城を警護・監視の砦を配し、また砦を抜けて山城に通じる搦手ともなったと思えます。東尾根の砦から登山道五合目の休憩小屋を経て山頂へは何度か訪れたが城砦遺構が確認できなかった西尾根を後谷稲荷社の背後から 灌漑用貯水池(東の登山道側には
後谷西砦?と思えた段曲輪が古墳か!!

「カッパがいるかも…」看板が立つ池がある。此れから田植え準備で水が必要だが池の水は抜かれ、干上がり河童は退散している様!?。石積みの残る古い山道に出て途中から尾根筋の急坂を白山山頂へ辿ってみた。白山から南東尾根が後谷城西南へ先端を落とす尾根筋が地形図に見る大規模崩壊地形(山土採取によるものか?)上部へ長く延びる
後谷山城南郭の石垣(一折れして入る虎口!?は旧参道か?)

緩斜な尾根筋東先端部付近には3-4段の曲輪が並び・1-2段間には片掘切が2-3段間は浅く埋もれかけた堀切!!?らしい跡があり東砦とは後谷谷川を挟んで 後谷城背後にあって南北に正対して呼応する位置からも此処が居館防備と赤井野を望む見張り台ともなる 西砦と思えたが三段の曲輪は其々に同規模の小規模古墳(経15-20m程)で曲輪に切岸加工はなく高さ2-3m程・墳丘部が崩れた木簡直葬の円墳の様。
南郭こそ要害に在り切岸を落とす曲輪・土留め石・石垣を遺す後谷山城主郭!!

片堀・堀切と見えたのは周濠か?。更に尾根続きは幅は狭い(3-5m程)が凡そ250-300m程続く自然地形の平坦地は其のまま曲輪として使用出来そうです。後谷山城南郭(主郭)その先で少し降って登り返す先は山麓の加古川沿いR175号から望む山容そのままに、やがて厳しい急登の連続で白山山頂を目前にした南峰に登り着く。白山は最高所に在る白山神社跡ではなく此の少し低いが南峰に4等三角点石標柱が埋まる。
後谷山城南郭:北切岸(虎口)の土留め石

後谷城の詰め城は白山神社跡の石垣・石段・石燈篭・礎檀の残る白山山頂ではなく此の南郭が主郭ではなかったか。主郭が在ったとされるのが白山神社跡と考えれば主郭周囲に堅牢な堀切や土塁・切岸で防備する曲輪もなく西尾根や北尾根筋の防禦は手薄感が強い!!。西尾根筋は加古川沿いの氷上盆地を見張り、北尾根筋の曲輪群は後谷谷川沿いの大手道監視・警備に最高所の白山神社跡地は主郭入口を堅める最終関門の北郭。
後谷山城南郭:南面切岸の土留め石(上部に三角点石標が立つ)

此れより急斜面・土橋と思えるほど幅狭い尾根筋を抜け鞍部から南郭(主郭)へも西面は断崖となる急な一本の尾根筋を伝う。南郭は南尾根上に殆ど段差も小さく、曲輪を区分出来ない程の小曲輪3-4段を並べるだけの単郭形式ながら南尾根側を除き三方の曲輪斜面は切岸を落とし南の三角点石標柱近くの切岸は土留めの石積み・石列を観る。更に下方に極小規模の曲輪(幅2.5mX5m程)が急峻な露岩上に削平されているが僅かに土留めの石列も遺る。
後谷山城南郭(主郭):低土塁と切岸上部の土留め石列

北面の虎口部や虎口への祠参道・登城道!!?は石垣を積んで補強されている。此の石垣は露岩部を埋める様に積まれているが石工等によるものではなく稚劣に思えるが赤井氏が拠った高見城三ノ丸の北西尾根筋の出曲輪群に観た石垣積に類似する。此の出曲輪群にも下方の登城道に切岸補強した石積をみる。尾根筋の低い が南端小曲輪から斜め下降すると高い主曲輪切岸(6-8m)下部の帯曲輪に降りられる。更に下方にも幅3m程と狭いながら(土砂崩れや風化で曲輪形態を成していない…?)曲輪状はある。
後谷山城南郭(主郭):内部と西北角虎口付近の低土塁

北尾根上の曲輪群同様に後谷谷川からの侵攻に備えた守りか?。南尾根を詰めるには厳しく・西や東面は激急斜面・北の尾根続きも幅狭い天然の要害に位置した詰城後谷山城主郭は此処と思える。郷土史や古文書の研究が進めば後谷城を含め城の縄張り等を示す古地図でも見つかれば…と期待したいところ。

谷村城(小山砦)   xx 120m  丹波市氷上町谷村

加古川(旧佐治川)沿いR175稲畑の錦橋を渡り県道109号に出て右折したところで車道が二分する。右手は直接侵入出来ないが狭い集落内が嘗ての但馬街道の宿場町風情:があり、後谷城主:赤井忠家墓所(施主は忠家6代の孫:赤井彌十郎直矩とある)もある。直進する県道109号が街道筋であったか?道路拡張工事で破壊された古墳跡らしいところが3-4ケ所ある様?だが旧街道筋が現:県道に付けけ替えられたものか?。
谷村砦(小山砦):県道から…

一帯は「赤井野」と呼ばれる赤井氏発祥地。後谷城を本拠とし背後の白山には詰城の後屋山城がある。黒井城主荻野直正の生誕地。幼名才丸は荻野家養子に迎えられ荻野家本拠:朝日城の盟主となり…黒井城主となり荻野悪右衛門直正を名乗るが元の赤井姓に戻ったことを示す 古文書はみつかっていないが江戸時代以降の絵本太功記挿画の勇壮な武者ぶりや黒井城「石踏みの段」の赤井直正顕彰碑や旧氷上郡志等によるものか「赤井直正」表記で通されているものが多い…!!?。

城域最北(後谷城側)の広い曲輪

直正の兄赤井家清は春日町に境する氷上町側の香良合戦討死。家清の家督を継いだ兄の子:忠家を補佐し黒井城に入った忠家を城主として立て直正は一歩退いている。忠家も赤井悪右衛門を名乗っているので黒井城主:赤井悪右衛門…はあながち間違いでもないが悪右衛門直正となれば赤井直正と呼ぶのは語弊ですネ。白山(後屋山城)から東へ延び出す山の尾110m程に
尾根筋切岸下 (3m程)の帯?曲輪!?

字「二の丸」と呼ばれる所があり一帯に連郭帯があり鎌倉時代後期:赤井氏の谷村城が在ったと云われます。現状は谷村から家臣屋敷が建ち並んでいた広大な平坦地形に後谷館・後谷城から白山神社・鷲林寺・伊尼神社を抜け県道109号新郷へ抜ける車道で分断されている比高25m ・南北150m・東西100mに充たない極小独立丘陵がある。以前より谷村砦は谷村に入ってすぐの:南西丘陵部(関電送電線鉄塔氷上支線 No.10や秋葉神社のある)二箇所の尾根先か?、
西斜面沿いの土塁線:手前は曲輪か?広い平坦地形

後谷館裏手から白山(後屋山城)に至る尾根上と考えていたが沼貫(ぬぬき)郵便局の県道を挟んだ 斜向かい北西側から山際南面に2-3墓地があり県道沿いには運送会社所有地か?広い空地と工事用トラックやフォークリフト等が置かれていたりするが…?。東面墓地の上部にある古墓?(荻野姓が殆どの様だが)直ぐ上に 小曲輪(街道監視・番小屋か?)から西面際の藪中の土塁道状を進むと小広い平坦地(下方が会社地なので改変されているかも?)を抜けると、
城域最南端(県道側)の監視台曲輪か?

数段の曲輪(一部は西面に一段<帯曲輪!?>付く)が北方に掛けて並ぶ。詳細に観察できていないが方形に整形された曲輪もある(再訪要)。背後の後谷城警護を兼ねた谷村砦(小山砦)の様だが谷村を北に抜けた新郷には「新郷砦(仮称 三砦あり)殊に新郷砦(愛宕権現社を祀る南砦)により南北二つの砦が但馬街道の宿駅として比較的早くより商業も発達し、市も立ち”上市場”の小字が残る。赤井氏一族の後谷城南口と北口の街道監視や市場の警護にあたった砦…と推察する。


新郷砦(豊村稲荷砦)<仮称> xxx山 Ca155m-Ca165m 氷上町 谷村・新郷

R175号を西脇市方面からは旧佐治川(現:加古川)と篠山川合流地点で丹波市に入り国道の小峠を越えると右手正面奥には白山権現を祀る白山(赤城山=赤井氏の城山(後谷山城)があった。其の先には荒々しい特異な山容の弘浪山がみえてくる。
左端の低丘陵三つが新郷砦

白山の東山麓一帯(佐野・谷村・新郷)は 赤井野ともよばれた赤井氏発祥の本拠。時の城主:赤井時家の次男:才丸が荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主として養子に入り荻野姓を継ぎ後:悪右衛門を称し「丹波の赤鬼」の異名を持つ荻野直正の出生地。 弘浪山山上には高山寺跡がある。昭和33年(1957)丹波紅葉の名所になっている常楽の高山寺に移されたが法道仙人開基を伝える真言宗:高山寺寺院跡は要害の地にあり南北朝期以降:高山寺城として城郭化され
県道109号からの新郷砦(中央郭)

幾度となく戦いの場ともなり其の都度焼かれ再建されてきた。多可町と丹波市境の篠ヶ峰を源流の中河原川が、ひかみCC・此の二つの山に挟まれた谷間を抜け伊尼神社・鷲住寺付近で県道109を潜り加古川に流れ出る。鷲住寺背後の丘陵筋には後谷城塞群の一:後谷東砦から展望休憩所(砦跡か?)を経て白山頂(後谷山城・後屋山城)に至る尾根通しルートがある。鷲住寺には赤井伊賀守忠家の木造・忠家と
切通の鞍部と東砦側の2段曲輪(監視台!?)

和泉守幸家の位牌が祀られているという。また市内有数に古社:伊尼神社は領主の崇敬篤く後谷城主赤井氏の造営・再建を請けている。伊尼神社はヒメボタルの生息地として知られ山林内の散策道を北へ抜けると「ひかみCC」・新郷古墳群等に通じる林道に出る。県道109号の谷村・新郷の伊尼神社・鷲住寺への分岐交差点から県道の先100m程に"ひかみCC"等に通じる林道までの県道沿いの尾根筋南側に延びる比高10mにも満たない小丘の狭い尾根筋の先端付近も気掛かりで向かった。
新郷砦(中央郭)

道を隔てた向かいの低丘陵(155m<比高約50m>)上にある新鄕砦(豊村稲荷砦)<仮称>中央曲輪群の築城目的や時期・築城主等一切不明だが城址遺構や地理的条件から以後・私的に推察してみる。県道109号より氷上CCへの入口には上市場隣保館・観音堂・豊村稲荷社の背後:送電線(氷上支線 No16)鉄塔が立つ頂上付近には自然地形に近い低い平坦段の新郷砦中央曲輪群がある。
中央砦土塁曲輪?上部2-3段曲輪を最上主郭に

観音堂の本尊は白雉4年(651)高山寺開基:法道仙人の念持仏でもある千手観音。応仁元年(1467年)白山山麓に建立されたのが始まりとされる。天正7年(1579)後谷城の落城に天正9年現在の地に遷移され(現在地:観音堂由来を参)。此処へは三方が土取り(殊に東‐北にかけては採土・残土等受入れ処理等稼働中‼)で切岸も高く取付けず・伊尼神社からヒメボタル散策道から個人墓所横を抜け・弘浪山へ直上する
新郷砦(北砦曲輪群)と片堀切(?竪堀)

南尾根先端約165m峰と新郷砦<仮称>間の鞍部を氷上町黒田側へ深い堀底状の切通し道を越える山道を辿ってみる。尾根続き西北の断崖15ー20m上には低土塁(約5-70cm程)付き曲輪がある。今も稼働中の重機に下方で進む採土・採石の為の調査掘削によるものか?。土取場は更に其の10数m下部。土塁曲輪?端から上の曲輪(2‐3段)に出て最高所の主曲輪に行き着く。新郷砦中央郭の峠東側には監視小曲輪か?2-3段の平坦段があった!!?。このことから推察すると …谷村ー新郷間の県道109号は少なくとも3ヶ所・丘陵や古墳?跡が切り拓かれている。
建立年代は古いが高山寺関連ではない石塔

此れらを避けて谷村駐在所・谷村公民館(赤井忠家<直正の祖父>の墓所近く)を通る地区道は嘗って氷上町沼で篠山方面から春日町に越えてくる 山陰道に繋がる播磨方面からの従来の脇街道筋か?。谷村・新郷の間を中河原川が加古川へ流れ出る。直ぐ上手では東方から穂壷城北を掠めて柏原川・高谷川が加古川に合流、更に上流には葛野川が成松を 経て本郷で加古川に合流。黒田からは東方500m程の近距離にある。付近一帯は豪雨時の氾濫地帯でもある。氷上CC林道入口北で県道109号に合流する従来の街道筋?だが加古川の増水・
新郷砦南砦曲輪群

氾濫時は此れを避け山際を谷村南端から後谷居館・鷲林寺・伊尼神社を抜け新郷砦の此の峠を越えて黒田・成松への迂回路だったか?、同時に北方から赤井本拠の後屋館・後屋城への手前で街道を避けての侵攻口とも成り得る!だけに峠を挟む弘浪山側の小ピークには新郷砦北曲輪群があり標高も峠を挟んだ二つの155‐165m峰には自然地形に近い小広い平坦段があり尾根続き北の鞍部手前には短いが東に落ちる片堀切(?竪堀)もある。赤井氏本拠の赤井野北入口部の監視砦であったか?…
祠には朽ちかけの木彫り愛宕権現像が立つ

此れよりの北尾根筋は頂部付近に露岩を覗かせ・見上げるばかりの激急斜面上の峰から弘浪山(高山寺城)に延びる。曲輪でもあれば高山寺を城郭化した臨戦時の高山寺城南出郭によさそうだが未調査域。切通し道を東側へ越える山道の出口付近に「浄勲禅定門の塔」石碑をみた。建立は治承2年(平安末期の1178)とある。この時代・禅宗寺院?と高山寺との関連はなさそうだが..?。
新郷砦南曲輪群…県道109号から谷村・新郷の伊尼神社・鷲住寺・後谷城もへの分岐交差点の西から 100m程先に「ひかみCC」等に通じる林道入口までの県道109号沿いの西側:比高10mにも満たない下草が繁茂する
新郷砦南砦曲輪群

藪と雑木に覆われた小丘の15x20m程・平坦地形の山頂部には愛宕社の祠が祀られ、朽ちかけた愛宕権現の木像が納められている。灯籠は享保9年(1724)建立。主郭部は祠築造時に拡幅されている様…?。崖上の城塞となり?主郭東の崖状の斜面は県道を通す拡幅工事のよるものか!!。参詣道は観音堂側からの北尾根筋に4-5段続く段曲輪上から通じている。
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