丹波青垣の杜「冒険コース」 高源寺 (冒険コース)岩屋山〜560m峰〜「乳の木」さん
丹波(五万図=但馬竹田)
T高源寺〜岩屋山〜乳の木さん(大銀杏)〜大名草・常瀧蜜寺H15年02月17日

高源寺:山門から続くグリーンベルト(11月3日紅葉開きだが未だ早い)
校歌の山 佐治小学校 ♪里の鎮めと たたなわる 青垣山の霊をとり…♪
(岩屋山) 青垣中学校 ♪空高く 青垣めぐる この丘に…♪
       氷上西高校 ♪・・青垣山も真澄の空も・・♪
丹波のお話: 高源寺と幽霊の方袖

氷上郡青垣町はスカイスポーツの町として フライヤーには知られた所で、岩屋山・グリーンパーク青垣・ゆり山スカイパーク等、初級〜上級向けフライトゾーンがあって 技量に応じたティクオフが出来ます。ゆり山スカイパークには宿泊施設「わらびの里」があることは烏帽子山 のレポートでも触れていますが、西日本一の上昇気流を誇るといわれる岩屋山はパイロット級には断然人気が高く休日にはサーマルを受けて空中に乱舞するパラグライダー群を見ない日はありません。 琵琶湖までのフライトの距離飛行記録もあります。最近は余り見かけなくなったハンググライダーもセールをひろげてフライトを待つ姿が岩屋山上にはあります。
高源寺三重塔

「丹波少年自然の家」から岩屋山ハンググライダ基地へは林道が通じていて、登山としての丹波青垣の杜イメージは薄れてしまった感があります。 林道で分断された岩屋山より、「丹波少年自然の家」を起点に竜王山〜カブト鉢周辺に多くのハイキングコースがあって、 岩屋山への登山は敬遠されがち??ですが古刹高源寺から岩屋山の岩場を廻るルートが以前からあります。数年前歩いた尾根コースの荒れ様が気になったが、 岩場の尾根を目指して谷に沿う「冒険コース」で岩屋山へ登り、円を描くように西から北へ続く尾根を大名草へ辿って見ます。


 
T桧倉・高源寺〜(冒険コース)〜岩屋山〜「乳の木」〜大名草・常瀧蜜寺  2003年02月17日

パラグライダー/ハンググライダー基地のある岩屋山山頂へは林道が通じてます。多くのハイキングコースがあるが 竜王山〜カブト鉢等の山を繋いでの展望尾根縦走も林道で寸断され最早 ・岩屋山に限っては一般登山の対象外の気さえします。しかし岩屋山の名が示す通り、岩屋を含む岩壁や大きな岩場が 点在する険しいルートがあります。小倉からも 露岩が点在する観音堂を東側のティクオフへ登るコースがありますが、 小倉の交差点(右折は遠阪・和田山方面)を直進してパラグライダーのランディング・エリア側を抜け大箕山(丹波富士) 西山裾を通る427号線を生野町・加美町方面へ向かい高源寺へ走ります。
高源寺門前から岩屋山を望む

駐車場(AM9:30)から高源寺に向かい赤い橋を渡れば赤白の無線中継鉄塔を突き出した岩屋山が目前に迫ります。山門前には拝観300円也の文字、 紅葉の季節だけかとは思うが以前の様にそのまま苔むした参道を行くには気が引けるので、山門石碑の手前から右側へ舗装された道を進んで小さな橋を渡り三重塔の横へ出ます。三重塔から本堂へは虎渓泉と呼ばれる谷に架かる 三笑橋を渡ると境内に天目楓の古木と大痩嶺と呼ばれる築山があります。【三重塔(多宝塔)と本堂 (方丈)下段に建つ堂々の山門は弘厳禅師により 1790年頃に再興(建立)されたもので、輪蔵という建て方で中には釈尊(釈迦)が説かれた5048巻の経文が収められているそうです。本尊は印度の毘須鳩摩の作による開運・毘沙門天の金佛が安置されており、 特に元旦の夜間のお参りが有名です!!】また山門は紫鳳楼と呼ばれ、表の扁額は伏見宮貞義親王の真筆・裏側の扁額は朝鮮総督府の雪軒の真筆。 二階には釈迦説法像と十六羅漢像が安置され、二階天井には弘厳禅師による四天女図と梅花経文図が描かれています。【三笑橋 本堂と三重塔の間にある虎谿泉と呼ばれる谷に架かる石橋で、
高源寺境内:参道を山門に向かう

谷中の巨石を虎石と言い、中国の虎谿で遠渊・開山遠谿禅師等の三法師が虎の鳴く声を聞いて 大笑いした故事に基づくと云われています】大痩嶺本堂横・天目楓の古木の背にある築山は画僧・雪舟が造築したと云われ、中国の大痩嶺を模って、樹木岩石が配置されています。 雪舟は寛政年間・明国に渡り、四明天童山において禅と画道を極めています】
高源寺の三重塔から虎谿泉と呼ばれる谷に沿って八十八ヶ所巡り石仏が点在するミニ巡礼道ですが、 道標もある道は程なく荒れた林道に出て少し先へ直進すると冒険コース(AM9:50)の入口です。 ミツマタの花が目立つ静かな杉林の道が続きます。炭焼き窯跡の横を過ぎる辺りから谷の水音は小さくなり、やがて苔むした岩がゴロゴロ目立ち始めて伏流となると少し周囲が明るく開けたところへ着く(AM10:05)。
高源寺:もみじ公園から三重塔 H22.11.03

そんな平凡な山道も、 やがて直ぐ 「冒険コース」を実感する事となります。大きな岩場に突き当たり 「岩屋山頂上→」の標識を見て左手へと岩壁に沿って細くなった道を廻り込んで行くと大きな立岩の間を抜けて上方に向かいます。高さ約20m程の岩ですが基部が少しくびれた キノコ状の岩です(AM10:20)。 岩屋を護る最初の石門は、さしずめ仁王門でしょうか。雑木が無ければ岩場も周囲の景観も素晴らしいはずです。目前には樹間を通して粟鹿山・雲須山・大箕山が望まれます。此処から尾根上部の林道まで距離は 僅かのようですが、岩場の続く急斜面の上に落葉が積もって滑りそうで要注意の箇所です。以前・この場所を下った頃は石の階段以外何も無かったが、危険な箇所にはロープや切り通しの岩の先には木の梯子も用意されています。 この梯子を登ったところに相当な高離の岩場があってその下部には岩小屋が有ります(AM10:25)。 その横を登り詰めると足下には岩に囲まれた急斜面に階段さえ見えて、長いロープさえ張ってあります。昔・岩屋千軒と呼ばれるほど多くの寺院があったといわれ、その頃の修行の岩場巡りコースでもあるのか!!又一つ楽しみが増えます …しかし寺院跡としては尾根の反対側、小倉へ下る観音堂が高源寺開基の遠溪禅師の眠る場所とも言われており、禅宗中峰派の根本道場としては 此々が主郭だったのかも…周辺に石仏や五輪塔等が残っています。
最初に現われた石門(木枝下部の岩間を捲き上がります)

上に向かう踏み跡に長いフィックスロープが見えるがロープの末端は、かなり上の方に残ったままなので滑る足下に注意しながらロープ側まで登ります。以前此々を高源寺へ降った時は、先の「立て岩」は知っているが、この場所を通過した覚えが無い。 先のロープ下降ルートはこの尾根の東側を捲くようにして東面のパラグライダ基地近くへ出るルートなのかも知れない。此方からは高源寺からのもう一つ尾根伝いのハイキングコースが合流しています。岩屋の上方にある岩場の冒険部分を抜けると後は、 やや道も狭くなるが踏み跡のはっきりした道を辿って南面のハンググライダー基地側の林道に出てきます(AM10:38)。車道の上に基地の休憩東屋が見えています。今日は平日なので人気のスポットでも流石にセールやキャノピーを拡げて待つ フライヤーを見かけません。展望は岩屋山山頂より此の場所が良いですね。大箕山から丹波最高峰の 粟鹿山への長い稜線、雲須山吼子尾山へ、先日訪れた 親不知・五台山へと眺望を楽しんでから元の林道終点に戻ります。此々からは「一般車進入禁止」DoCoMoの通信施設の専用道です。広い駐車スペースの左端から 尾根伝いの細い道を辿る。雑木の奥に赤白鉄塔の基部が見えて来ると、その鉄塔足下の手前に岩屋山山頂(3等三角点 718m 点名:檜倉山 AM10:50)がある。DoCoMo高源寺無線中継所のフェンス越しにカヤマチ山〜桂谷(このピークから水山への縦走は要注意・尾根の高みはそのまま山ノ神へ出て 岩屋山林道に降りてしまいますよ)水山を見て専用林道を下り、最初のカーブミラーから林道を外れて桧倉や大名草への尾根道に取り付きますが思いの外、 稜線上の山道は明確です。露岩を乗せる稜上の峰を越した先のピークからカヤマチ山へ続く稜線が延びているので播州峠付近を起点の周回ルートが出来そうです。
岩屋山山頂中継所の手前下が三角点

下り続ける尾根道に鹿避ネットを張っていた針金だけが残っているので引っ掛けないように…鞍部に近づくと伐採作業で切り開かれた北側が開けて、 眼下に桧倉集落からの林道や大箕山が稜上の正面には「山あそ」島田さんの予定コース592mと466mピークだろうか(AM11:35)!!鞍部から杉林の広く緩やかな尾根は西へ廻り込むように続いていきます。此々が桧倉への分岐尾根 Ca600mピークだったのかな !!明確に続く尾根道を辿って西端のピークに着く(愛宕山 560m PM12:05)。愛宕山がどの峰を指すか知らないが、山裾に大名草の常瀧蜜寺があり、山の中腹には養老年間(720年頃)法道仙人開基を伝える常瀧寺跡 乳の木さんと呼ばれる大銀杏があリます。 ただピークから先の踏み跡は 降りようと思う方とは反対に大名草から加美町へと播州峠に向かう西側の427号線へ続くので踏み跡もあやしくなった北側に採って下る。朽ちて倒れた TV共同アンテナの廃材が散乱する中(PM12:15)、さらに杉林の急斜面を下り常瀧蜜寺直ぐ近くのダートな林道に降り立ちます。道標「大公孫樹→」の立てられているカーブ地点です(PM12:30)。すっかり大回りしてきたが1km先にはその大公孫樹 「乳の木」が有りますので登り返して寄っていきます。
大名草・桧倉への尾根分岐に向かう

林道はH9〜10年頃地元の手で 大銀杏の側まで林道が附けられたのですが、当初から4駆でないと無理な路面と急坂でしたが、今日歩いてみると簡易トイレと水場の先からは落石多く、路肩が崩れて車両通行止めです。途中・二箇所で石仏を見かけますが 廃寺への丁石仏よりは当初の常瀧寺から現在の場所までに、だんだんと下方へ移転されたというので、その旧寺跡を示すもののように思えます!!?。林道の終点が 乳の木さんです。夏場の蛭に悩まされた常瀧寺跡地は雑木が刈り取られ、堂宇跡の削平地や石垣も確認出来、大銀杏の前には立派な休憩東屋が建てられています(PM12:50)。林道を常瀧蜜寺まで引き返して (PM1:00)集落内の車道に出たところが大名草バス停です。長い直線道路が続くモミジロードを高源寺へ戻ります(PM1:35)。



 (高源寺 幽霊の方袖)



丹波の紅葉三山(山南 石龕寺・氷上 円通寺)の一つ、青垣の西天目瑞厳山高源寺は古びた中にも風格を漂わせ、関西花の寺二十五ヶ所霊場の第四番:丹波の古刹十五ヶ所霊場第九番。山門から続く苔むした参道、 急な石段を登り始めると左右から覆い被さってくるような楓のトンネルの風情を、季節には体感して欲しいですネ。高源寺は足立氏の祖山垣城主::足立遠政の孫 足立光基の三男遠渓禅師祖雄(1286-1344)和尚が19才で出家して徳治元年(1306)3月21才の時・
高源寺山門

中国に渡り抗州にある天目山に登り中峰普応国師や明本禅師に師事して修行、帰朝して正中2年(1325)後醍醐天皇より号を得て開山したといわれ、後に勅願寺となります。当時は岩屋山に建立され日本禅宗(二十四流派中の一) 中峰派の根本道場として岩屋千軒と呼ばれるほど多くの寺院が山中にあったといわれています。天正年間には明智光秀の「丹波攻め」の兵火で 全て消失したが天岩禅師が再興しさらに寛政11年(1799)弘巌和尚 が領主・柏原藩 !の援護を受けて再興し現在の本堂・方丈 ・庫裡・三重塔・山門等が建てられています。遠谿が持ち帰った天目かえで(いろは楓)が秋には全境内紅葉する様は三丹随一の絶景です。
高源寺境内H16.11.23

遠渓は母からの便りに「"毎夜・山上の岩穴から光明が射して観世音が現れて、この山に寺院を建てよ"との夢のお告げがあったので 早々に帰国して一寺を建てるように」とあり、奇しくも中峰国師も遠渓も同じ夢を見たので「三夢一如である。早く帰国するがよい」と国師に諭され正和5年(1316)筑前博多に帰り着くが、母の訃報に帰心も衰え岩窟に入って10年、 その間に玄悟禅師と師弟の約を結んで後、正中2年(1325)高源寺を開基、興国5年(康永3年1344)6月幻住庵で入寂する。その後、第11世・ショウ岳禅師の元亀2年(1571)毛利元就の葬儀には輝元、隆景に乞われて導師になったといいます。
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幽霊の片袖
高源寺の寺宝として残る、紅屋の寄進といわれる定子さんの片袖にまつわるお話 …
佐治の医師・丹次一斉の一人息子多聞は界隈に聞こえた家柄を秘めた美男子で、持って生まれた俊逸ぶりは羨望の的となっていました。 多聞は家業を継ぐ勉学の為、京都に上り 薬種取引で親交のあった三条堺町の薬種問屋・紅屋に身を寄せて勉学に励みます。紅屋には三条小町と謳われ、人も羨む美貌の一人娘・定子がいて洗濯、 繕いは云うに及ばず何くれと無く面倒を見るうち、親しみを増した二人はいつしか、人目を忍ぶ仲となり堅い契りで結ばれていきます。
高源寺の三笑橋(石橋)・天目楓・三重塔


「多聞さん、こうして一つ屋根の下で語るのも今夜が最後..たとえ遠く離れていても私の魂は何時までも貴方の胸に..きっとお便りを」「..辛いが此れも運命 ..時節の来るのを待ってくれ。俺は命にかけてきっと 定子を迎えに来る」学成った多聞が 父一斉に呼び戻され実家の御典医を務めることとなります。多聞が去った後の定子は、やるせなさが病となって女心の募る想いを胸に秘めたまま十九の夏を一期に、 はかなく逝ってしまいます。9月の或る日、 多聞の家では打ち水を終えた女中が行燈の仕度をしていると、田舎では見かけぬ容姿端麗な美女が訪れ多聞に面会を求めます。夢にも忘れ得ぬ紅屋の定子の姿に驚き…手をとって一室に招じ入れたが、
高源寺 :三重塔から本堂

不思議な事に貞子の態度が至極憂鬱で、訪れた衣装にも残暑だというのに立派な金襴の冬装束、手甲脚絆も白絹もので調和がとれず不審な点があるので、 此れには何か訳があるに違いないと京都へ飛脚を飛ばして事情を伝えたところ紅屋の主人からは 「娘は2ヶ月前に得体の知れぬ病魔にとり憑かれて我が家で病死、この手で弔い済ませ涙も乾かぬ昨今です…」「いいえ、お宅のお嬢様に間違いありません…」飛脚の言葉にそれではと…一緒に多聞の家に着いてみれば、間違うことなき娘の姿に ビックリ …心押し鎮めて娘に、その不心得を説いて聞かせるが定子は何の応えも表情も見せず無言の立居振舞で全く腑に落ちぬ事ばかり。
高い石階段参道上の山門<紫鳳楼>

紅屋は高源寺の智伝禅師に委細を語り娘の安楽成仏を哀願したところ「私は神通の法を心得ている。迷っている娘さんに、極楽への引導を渡してあげよう …」その夜更け、寺の一室に招じ読経すると定子は静かに微笑み姿を消そうとしたので、禅師が立って袖をとらえたところ片袖のみ禅師の手に残して妖として姿を消した。この事があってから紅屋は京都に帰らず、禅師に乞うて仏門に入り 高源寺境内に仏光寺を建て開基となった。境内には父娘の戒名入りの石碑があり、片袖が寺宝として残るといいます。
(由緒を尋ねて 丹波叢書 第三集 参照)
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