闘将・二階堂秀香の山城は?高谷(点名:上三井庄)〜点名:下三井(大路城)
丹波市春日町 (五万図=篠山)
須磨子誕生の地と鹿場・三井庄城館〜高谷(上三井庄城 )〜大路城 2005年01月29日
丹波の山城  鹿場西城館 鹿場東城館  下三井庄城館
西福寺城館(仮称) 上三井庄城館  大路砦(大路城)
上三井庄城:三重堀切主郭側の切岸

R175号線春日インターから国領を経て栗柄峠へ向かう県道69号線沿いの ドライブでは何時も三尾山や鋸山の姿が 其の特異な山容で目を奪います。舞鶴自動車道の高架と交差する地点から国領温泉や長谷大池への分岐点からは、三尾山と較べても遜色ない岩の断崖を切り立たせた山が見えます。要害というにも険悪過ぎる此処にも城があり、 後日紹介する事になる高山砦です。今回は黒井城主・赤井氏や氷上・霧山城主と八上城主両・波多野氏等が「丹波の呼び込み戦法」により明智光秀軍を敗走させた。波多野秀治の義弟となった 二階堂秀香
は栗柄峠に繋がる要衝監視・警備に活躍したものと思われます。
東漸寺入口の石造十三仏


春日部荘や三井荘には波多野氏方の飛地領があったのか?三井荘の一部は大山荘(篠山市)の中沢氏領となっていた。高山砦や三尾山城とは反対に中山交差点を右折して、 北方の京都府天田郡三和町に抜ける三春峠への県道709号に向い三井庄(みのしょう)に入り”ゴンロクの里”の城館と山城を訪ねます。「ゴンロクの里」三井庄は女流詩人 深尾須磨子の誕生地です。 「山があれば川がある故郷よ 山に狐 川にゴンロク 今もいるか故郷よ…」須磨子の望郷より ゴンロクは(カジカのことか?…ドンコとか、どすんこ・とも呼んでいた様な?)頭デッカチの川魚です。 此処から丹波比叡と呼ばれる古刹妙高山・神池寺への登山レポートも御覧下さい。
東漸寺右の丘陵上が上三井庄城館

神池寺は養老2年(718)法道仙人開基を伝え山容が須弥に似ていることから妙高山といい、 山上に池があるので 神池寺と名付けられた天台宗中本山です。聖武天皇の天平年間(729〜749)天皇の勅願所として堂宇が再建され、 来山した行基が弥勒像を 彫り仁寿年間(851〜854)には慈覚大師(比叡山興隆の祖)が来山し不動明王像を彫み・平重盛の写経を埋めた五輪塔は寺宝となっています。

ゴンロクの里・詩人:深尾須磨子誕生地


元弘年間(1331〜1334)征夷大将軍・護良親王のとき兵火により消失、天正15年 (1587)堂宇が再建されて賑わったが元禄 (1688〜)の頃より寺運は衰退していったようです。尉ヶ腰城や柚津城の東約1km・三尾山城のほぼ真北に 約2km地点:鹿場地区の冷川を挟んだ東西の丘陵部に二つの城館と下三井庄の春日総合公園・上三井庄の東漸寺背山にある城館。 さらに本命?の美登内神社奥の廃寺降竜寺跡から大路城を廻りますが、波多野秀治(八上城主)の義弟で八上城籠城の2ヶ月余りを籠城して陣頭指揮したが落城し最後は将兵共に自刃した
取付き田圃が余程鹿場西城館ぽい!!?、右手墓地から丘陵上へ

若き闘将二階堂秀香の大路砦に平坦地以外明確な遺構が発見出来ず何とも寂しい限り?…だった。赤井直正(幼名・才丸13歳)が天文9年(1540)内藤氏を追い返した 野山城さえ堀切・曲輪が残るのに残念。しかし広瀬側が大手道なら三角点峰ではなく南側のジャンクション・ピーク付近かも…?それとも東尾根か?再訪予定です。




鹿場西城館 鹿場東城館下三井庄城館西福寺城館(仮称)
上三井庄城館 大路砦(大路城)
鹿場西城館と鹿場東城館
鹿場西城館    xxx Ca130m   丹波市春日町鹿場中地

R175号の舞鶴自動車道春日IC手前で、栗柄峠を越え篠山市へ抜ける県道69号・京都府側境の三春峠を越えて三和町へ下る県道709号は「天下布武」を唱えた織田信長が「丹波平定」を明智光秀に命じ、京都側から侵攻してきた道であり、また第一次黒田城攻撃の際「丹波の呼び込み作戦 」の策略により光秀が命からがら園部・亀岡へと敗走した街道筋でもありました。
冷川沿い:橋を渡った所が余程城館ぽいが右手墓地から正面丘陵上へ

野上野城や尉ヶ腰城(棚原城)・柚津城へと 棚原から柚津の城を訪れているので、 竹田川に沿って更に東へ進み鹿場(かんば)の城館と三井庄 (みのしょう)の城館を訪ねます。柚津集落を抜け竹田川がコの字形に車道に並び 北方から南へ迫り出してきた丘陵が合わさって直ぐまた、車道から外れていくと鹿場 (かんば)の集落に入ります。竹田川に流れ出る冷川に架かる小さな鹿場小橋を渡り、冷川に沿って鹿場集落内の農道を進む。西北部には標高 284m〜264mの峰を乗せた丘陵が
冷川に面した段差のある田圃は空堀を廻し切岸を立てる構居の様

南方に延びているが264m峰の南東斜面上に 3〜4段の曲輪を並べた城館跡があるという?。県の遺跡分布図に示される位置に向かう冷川沿いの取付き点(墓地)下部にある田圃周辺が空堀・曲輪切岸・曲輪に向かう畝道が上り土塁道?等、 最も居館遺構と云われれば納得?の雰囲気です。 畑や果樹園となって遺構状況や確認は私には 難しいのですが土手の切岸?空堀の溝?や、北の丘陵裾・藪の山側に入ってみると 崩壊した祠には五輪塔の残欠と宝篋印塔の頭(相輪)部だけ(笠や塔身・基礎部の残欠は見当たらなかった?)が残置されたまま残る。
先端尾根上部の主曲輪?

其の場所も曲輪跡の様に思えるのですが最近は荒れ果てた推定地とか、 壊滅して探しても遺構が判らない場所が多くなってきて自信喪失気味。墓地から丘陵尾根に向かうが尾根筋に出るまで緩急交えての傾斜面(要衝の県道69号 ・竹田川を望む側)には無い?。尾根筋上は比較的緩斜面だが廓と思える平坦地も無かった。尾根筋東側は冷川に落ちる急斜面ながら、幅10m程に続いて3m長さ10m程の小曲輪を3段程を見るが分布図に示される遺構範囲では無く真東?に鹿場東城館を望む。
三段程の小曲輪が並ぶ

鹿場集落を南北に走る地区道は北方を山に遮られるが 此の尾根筋が春日町多利から・春日町三井庄から・此処鹿場からも丹波比叡として隆盛を誇った神池寺に至る。鹿場からの参道(神池寺を抜けて 北方へは春日町多田方面・市島町から福知山市方面へも出られる間道)でもある。要衝監視の黒井城・三尾城城砦群とするには砦規模と段曲輪の方向と築城目的が気になる。


鹿場東城館   xxx Ca140m   丹波市春日町鹿場中地

鹿場集落の東北部・冷川から点名:鹿場(4等 296m)を最高点にした 半独立丘陵が南端の大崎へと延びる南西端付近ピークから北側の鞍部にかけて鹿場東城館が在る。西城館の真東約500m程のところでオレンジ色の瓦屋根が見える 鹿場公民館東北側の丘陵とした方が判り易いが此処も西城館以上に城館の遺構は判りにくい。取付点としては鹿場公民館の斜向かいにある薬師堂からが良さそう。
鹿場東城館・丘陵部南端の最高所付近

丘陵の鞍部は鹿場の中地と大崎を結ぶ間道で鞍部を堀切状に遮断しているが、西側に下る竹薮に見える平坦地は城遺構よりは 古墳のマウンドか …?南側の小ピークに向かっては山頂部にも平坦地があり此処を城館として比定されているようだが発掘調査さた報告書まで有るかは不詳。 鞍部から北方の三角点:鹿場にかけては何〜んにも無さそうです。
鹿場公民館と鞍部左に鹿場東城館

鹿場の二つの城館は城史も不明で防禦性も薄いので三井庄の名主(土地持ち百姓!)の館だったのかも?守護・守護代の城や居館、 土豪・領主の居城や代官所、それに名主の館や農民の一時避難(逃げの城)のとして分類されるものか?天正7年(1579)明智勢と戦った波多野氏一族に多紀郡(篠山市)畑村の畑某氏兄弟は城を出て善戦していたが留守中・城内より火を城を放たれた為
鹿場東城館北東鞍部の堀切?(堀底道!!)

進退窮まり逃れて諸国を浪々し数年後・丹波に戻ってきたが 畑へは帰れず此の鹿場【茅場だったか鹿の遊び場だったか?、当時は中山地区と鹿場地区は一村で此処(大崎の南、竹田川との間の島状の場所か ?)は共同所有地だが 草刈場として気にも留めていない場所だった】を開墾していったが、やがて美田に成ってくると”誰に断って此の土地を…”、「借りるなら年貢を…」と難題を持ちかけてくる。村人は追放しようと押し寄せ、 兄は討たれ弟は難を逃れ柚津の村上一党の加勢を得て柚津の筆端山に籠もった。
鹿場東城館主曲輪 :東北面の切岸

【柚津には柚津城があり天正7年には落城し其の後は不詳・村上氏についても知り得ません。 筆端山とは廃城となっている柚津城の事なのか?】この事が亀山 (亀岡市)に知らされ弟に対して子孫末世まで庄屋を約されたといい、今も鹿場の畑姓は此の 畑氏兄弟の子孫であると伝えます。鹿場西城館共に三尾城砦群の一つとして南方の竹田川・要衝の監視に当ったにしては主曲輪からの縄張りからは・段曲輪位置が 両城ともに方向が少しズレているようで?東城館も主曲輪(約20mX20m)から 北東面に2段ばかりの曲輪が付随している。
鹿場東城館北東下方の二段程の曲輪

北・東方の集落内や 妙高山・丹波比叡の神池寺への鹿場からの参道(神池寺を抜けて北方の多田方面や市島町から福知山市方面への間道)に向かっているような?。 鹿場東城館の西北山麓には南北朝期:大塔宮(護良親王)が挙兵して六波羅を攻めたが敗退し此処に籠城した寺としても知られる天台宗中本山の古刹神池寺の末寺だった常楽寺がある。鹿庭東城館の丘陵裾東側は 上三井庄との境にあることから荘園境の監視の城でもあったものか?。


下三井庄城館  xxx Ca120m  丹波市春日町下三井庄

県道69号(春日栗柄線)は丹波黒井城から栗柄峠を経て篠山市へ、京都府船井郡へ通じる要衝が南には 三尾山の第岸壁をそば立たせる峻嶮な山容の北面に覗かせる。街道と並走する竹田川を挟んだ北方には三春峠を越えて船井郡美和町へ向かう 県道 709号沿いの下三井庄・上三井庄は南北朝期:淳和院領の三井荘に比定されていた地だったが
下三井庄城(正面山裾):古路地川の川北橋から

室町時代には足利氏の管領地となり文亀・永正頃は其の一部を大山荘(篠山市西紀・大山城を本拠!!?)の中沢氏が所領していた。藩政時代には川勝氏の支配下にあった。 また下三井庄は詩人の
深尾須磨子生誕の地です。其のメダカやゴンロク(カジカのことか?)が棲んでいる?下三井庄地区の古路地川沿いに春日総合運動公園の向います。川北橋からは古路地川を挟んで東にグラウンド ・西の岡上には園龍山西(正?)福寺が見えています。
三ッ井戸の一つ・三井庄の語源となった

丘陵南端の高台に建つ西福寺が城砦の様相ですが、妙高山の丹波比叡と呼ばれる古刹・神池寺から東南へ延びる丘陵の南端・ 西福寺の東方約150mの丘陵西裾部に立地して下三井庄城館が在った。 春日総合運動公園の球場横で三井庄の名の起源となった井戸があります。三っの井戸は上三井庄に二つ【八幡浅井・山戸の 今井】と此処・古路地の岩井にあって昔から、どんな大旱魃にも水の枯れる事はなく、此の井戸に祈願すれば恵みの雨が降ると云われており”三井庄(みのしょう)”の地名の起こりとされます。
土塁と溝に囲まれた曲輪

岩井の跡からは藪の密集した奥の竹薮には 踏み込めそうにないが尾根筋に向かう山道が直ぐ上部:3‐4m程の高い段差で削り出された様な 二つの平坦地形に古墓がある。上段には家格の高そうな笠塔婆や厨子に納まる一石五輪塔や五輪塔の残欠が残されている。引返すと雑木・竹藪内には運動公園への車道に沿った南北約 60m程の範囲に4ヶ所(4区画)程の平坦地がある。南端部丘陵尾根先の内側斜面を削り落した4-8m程の切岸で 城域を区切っているよう?。
南端尾根沿いの高い切岸状?

尾根続き上部の途中には 幅3mx長さ6m程小曲輪(櫓台?)があり、切岸沿いを土塁として下方の平坦地形の居館?を警備しているよう。隣接して民家が有り造成・改変されているのかもしれないが 平坦地の中央部付近には小さくて深くもない湿地部に、水が溜まりに個人用溜池?とも思えるが居館跡を想像もできる所が在る。奈良時代の掘立柱建物跡が検出されたの此処だろうか?。
西面土塁小曲輪から南端尾根続き切岸?

浅いが長方形に区切られ周囲に幅1〜1.5m程の土塁で囲われた一画がある。その外側にも曲輪が有って 土塁周りを幅1m足らずの細い溝が西面から南面にかけて堀り切られています。1-2段・運動公園側の西面に平坦段があり、 最下段(車道近く)には古い石積井戸跡があり澄んだ水を湛えている。遺構と思えたものが全て竹の育成・管理用のものかは不詳ですが、そうだとすれば残念な結果です!!?。
車道近く”岩井”の南4-50m・溜池 ?下の石組井戸!!?

三井庄の名主か領主の居館だったのでしょうが段差の低い曲輪の切岸や土塁 ・浅い溝は城域内の仕切りなのでしょう。戦闘の防備としては 不十分で上三井庄城館の様に山の尾の端に有って三春峠越えの要衝を監視するに低く遠い位置にある。南端から僅か20m程、竹薮を抜け出たらスタート地点・民家側のトイレ付き公園駐車場だった。


西福寺城館(仮称)  丸山 Ca145m   丹波市春日町下三井庄

以前訪れた 下三井庄城館と春日総合グラウンドを挟んで西方に在る西福寺(正福寺?)に向います。丹波比叡と呼ばれる古刹妙高山から南へ派生して下三井庄へ其の末端を落とす尾根は、 其の先端部に丸い山容を見せた独立丘陵となり、山頂には其の地形から名付けられたという円龍山西(正?)福寺 (天台宗)が在り「丸山」と呼ばれています。丹波新聞社発行(昭和47年)「ふるさとの寺(氷上郡)春日町下三井庄:正福寺の項に”古城跡に建つ寺とある。
グラウンド前から西福寺城館(仮称)遠望(中央山上に西福寺)

城史については築城時期や城主・築城目的等の城史は 不明ですが戦国時代に土豪の小田五郎左衛門尉が居城していたと云い丸い山裾の周囲360度は 険しく天然の要塞となっています。妙高山から南に突き出してきた尾根の東側には古路地川は天然の水濠となり、周囲全体から見れば比較的傾斜が緩くなる西側も、田圃と山裾部には堀跡を思わせる深い溝状になっています。「小田の前」の字名が残り、山麓から西福寺山門への南東側山裾から 登る途中、数段続く平坦地の下部には地神さんの 「小田八幡社」が祀られ、南正面から真っ直ぐ山門へ延びる 石段参道の西側には小田氏一族の墓地があります。
西福寺城館(仮称)の西側山裾

一段と急になる山門左右にも 平坦地が在るが歴代住職のものか!!卵頭墓を数基みる。最上部の広い平坦地に本堂・庫裏が建つが東面から北面にかけては切立つ崖状で地盤が不安定なのか急斜面はコンクリートで固められ、曲輪端部は石柱で垣を巡らされています。 其の東斜面にはシイの大木が有って春日町指定天然記念物となっているが丹波市指定になったかは確認していない!!。 西福寺城館からは東に古路地川 ・貯水池・グラウンドを隔てて僅か百数10mを隔てて下三井庄城館が在るが車道から4〜5mで土塁付曲輪なので防備面には弱い居館ですので、
西福寺(丸山)・小田八幡社(中央右上)

桃山時代に永禄・天正期まで使用されてきたと思われる西福寺城館を居城として、下三井庄城館は政務や領地管理の事務を主とした場所か・領主の通常の居館だったのか?、 二つの城館は直接関わっていたのかも…?領主:小田氏も黒井城主赤井(荻野)氏の強力な勢力下におかれて天正5年(1577)篠山八上城・丹波黒井城へと 「丹波平定」に侵攻してきた明智軍との攻防には、黒井城主:赤井(荻野)直正配下、おそらくは直正の弟で三尾山城主の赤井刑部幸家に属して、黒井城攻めの明智光秀軍に抵抗していたが天正6年(1578)12月、日内城や岩倉城を落とした明智光春・藤田伝吾の大軍が、
西福寺「鐘楼を兼ねた山門」と曲輪南側の切岸

妙高山を越え春日抜け黒井城に迫った頃には何処か?での戦闘で 討死したものと思われます。滅亡した小田氏の遺児は縁故者に育てられ、一族は下三井庄に在って十数家に及ぶという…城が滅んだ後「正福寺縁起」に云う:万吉という仏道に厚い人により、 丸山の山上に元和年間(1615-23)頃創建されたと云われます。 寺には色々と格・ランク付けが有る様で…独立した寺となったのは僧了海による延宝3年(1675)の事といいます。


上三井庄城館高谷 309m  丹波市春日町上三井庄殿地

竹田川支流の三井庄(みのしょう)川に沿って県道709号線を京都府天田郡 (現:福知山市)三和町境の三春峠に向かい上三井庄地区に入ると南側(右手)に美登内神社が見えてきます。その奥に高くスカイラインを見せて一際高く横たわる山が、 今日目指す闘将:二階堂秀香の城とされる大路城(大路砦)だが此れは後の楽しみです。神社から709号線を隔てて三井庄川が流れ 殿地橋を渡ると北方山麓には法福山東漸寺(曹洞宗)の石標柱と山門が見える。
上三井庄城館(左の丘陵上)

「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書」によると東漸寺の背後の丘陵に城館が在る。地区内の道から寺域となる 参道入口には燈籠や石仏に並んで一枚の石英祖面岩に彫られた石造十三仏(最上部のプロローグに写真添付)が祀ってある。元禄10年(1697)菩提供養に建立され 丹波市には数少ない文化財遺跡。殿地橋上方の弁財天橋から正面の山手に向かえば楽だったのに取り付きが判らず寺の庫裏の廻ってみた。
上三井庄城:主郭と北端の低土塁痕

裏手の谷を詰めていく山道(現:砂防ダムがあり手前から右手丘陵上へ踏跡あり)を利用し高谷(点名:上三井庄4等三角点309m)を目指す。丹波比叡と呼ばれる古刹 妙高山から東への稜線は三春峠へと延びていきます。距離的には妙高山と 三春峠の中央部付近・鴨庄の 北奥から下三井庄や上三井庄原へ越える山道が交差する辺りから 北へ突き出した枝尾根の末端が709号線と三井庄川に落ち込む先端の峰・殿地に三角点標を置く点名:上三井庄(高谷)の丘陵上に上三井庄城館が在る。
上三井庄城館・南部は帯曲輪が本郭を取囲む

平坦地形の山頂部だけでは!!?と半ば諦めて城域に入ったが、 ほんの少し下った南ピークとの鞍部に来て驚かされます。堀切がある。小さな曲輪から二重堀切を越え土塁を越えて広い本郭部に入る。本郭部の南端から1段下へ 4〜5mの切岸を降りると 南側から北側にかけては本郭部を帯曲輪が取囲んでいます。此処かは三井庄川沿い拡がる三井庄領内から竹田川に合流して国領方面や三尾山、大路砦や眼下には三春峠に至る街道筋を望む事が出来ます。
上三井庄城館・主郭北面の三重堀切

山頂部から 南端頂部への稜線上に位置して東西約40m・南北約200m程の城域に 残存する平坦地・曲輪・堀切と竪堀・土塁等の遺構が単に上三井庄城館として仮名を附けるだけでは惜しい。主郭南部を囲む帯曲輪から落ちていると思える竪堀は斜面を覆う羊歯類に覆われ確認できなかったが!!?。要衝を監視出来てしかも前面に 三井庄川と北面を除く三方は懸崖状の自然の要害、しかも土塁・堀切で防備を強化している遺構からは天正期初め氷上郡(丹波市)内に有った篠山市側 ・波多野氏の飛び地的位置にあります。黒井城・赤井軍と八上城・波多野の軍勢が謀って光秀軍を敗走させた”赤井の呼込み戦法”では最も効果を発揮した拠点が 秀香の居た三春峠側の此の上三井庄城館(?城)と栗柄峠を監視できる大路砦だったと思えます。
主郭北面に遺る土塁を挟んだ三重堀切

両城砦を比較しても此処こそ二階堂秀香の城ではなかったかと思いたいところです。 南端曲輪先から急斜面を下っ地蔵尊の祠へ出、民家横から弁財天橋を渡って709号線車道に出た。三井庄城館は戦国時代?:当地:大路谷を支配した豪族細見長門守と子の 弥四郎が二代にわたる居城と云われ、其の子孫は無かったと云われます。東漸寺の所在:殿地からも寺域が居館 ・構居であったと思えますが、城主:細見長門守の創建とも、元は不捨山摂取寺(浄土宗)跡とも。創建時期は明らかでなく慶長4年(1599)円通寺の菊渓芳泉和尚開基の曹洞宗の寺。
本郭部北側の土塁・堀切(西面から)

土豪・細見氏の築城時期や 城史は不詳ですが、上三井庄城下の街道は三春峠を越え鹿倉山西を三和町に出るが、一つ東の街道筋が草山温泉 ・本郷に出て鼓峠を越えて篠山市に通じる県道97号線。三和町側に勢力を張っていた細見氏一族だが、天文年間(1532-55)頃・管領:細川氏の内紛には細川晴国方の八上城(篠山市)築城主波多野稙通配下にいたものか?。 晴元方の赤井・荻野氏方を攻略し 氷上郡(丹波市)に進出してきた波多野氏拠点として、西波多野の霧山城 (幻の氷上城?)や穂坪城…等の一つとして築かれ 細見氏が拠ったが、そのまま土着し?…黒井城の荻野・赤井氏傘下に入り、三尾山城主・赤井幸家の配下に組み入れられたものか?、家臣団の一!!?が拠った城だったのでしょうか?。
主郭眼下に三春峠を細見氏本願地?三和町への街道と正面に大路城

織田信長の”天下武布”に丹波武士として 徹底抗戦した波多野氏・赤井氏の城砦として、丹波攻めの始まった天正初期の上三井庄城館と、大路城とは赤井直正と結んだ波多野秀治方の飛び地的?城砦として、三春峠への街道(709号線)を挟んで二階堂秀香や波多野氏家臣が拠ったのでしょうか。 栗柄砦が赤井幸家の砦とも推察される様に…?。


大路砦(大路城)
 点名:下三井 385m   丹波市春日町上三井庄

篠山市西紀町から丹波市春日町への市境にある栗柄峠は鼓峠を経て 京都府三和町・瑞穂町に通じます。天正3年(1575)長篠の合戦に勝利した織田信長の「丹波攻略」が始まります。翌・天正4年明智光秀の黒井城への侵攻には 八上城・波多野秀治と示し合わせた有名な「赤井の呼込み戦法」により光秀が命辛々敗走して行ったのが栗柄峠です。この時の若き秀香(18才)は光秀軍を佐中峠を越えた小坂(三尾山城の南・鋸山の南麓)へと追い詰めています。
大路砦・山頂北部の平坦地

大路砦は広瀬・栢野 (かやの)・野瀬の北方に位置する山の尾根上に有って、栗柄峠に向かう生野街道(県道69号線)の要衝監視にあたっていたのでしょう。雑木藪に三角点標石柱の埋る点名下三庄(下三井庄の誤りか? 3等三角点 385m)の山頂が城址とされ 20x30m程の平坦地が有り、北の尾根上に向かっては崩れて定かではないが浅い堀切らしい所・長く緩やかな自然地形に平坦段(曲輪?)2-3段だけでは、とても元亀・天正の戦乱期の城遺構とも思えない。展望は乏しくいが西に妙高山・正面に三尾山が近い。三春峠側は見えるが光秀が京へ命からがら敗走した栗柄峠側は南へ延びる尾根が邪魔して街道を監視できない。
三ノ谷詰め鞍部・大路砦に向かう土橋状の尾根筋


大路砦は京都府側・篠山市側から春日町に入ってくる三春峠と栗柄峠 (野瀬峠の道も有ったかも?)を抑える戦略的にも重要な位置に在り、勇将二階堂伊豆守秀香(ひでたか)が拠ったとされる八上城の最前線基地ともなる城。油井城主 (南条城主?)酒井佐渡守重貞の二男・秀香は八上城主波多野秀治が義弟に迎えて二階堂秀香を名乗った人物で、天正7年(1579)光秀によって 本梅城 (神尾山城・京都府船井郡)で謀殺された秀治兄弟の後を受け砦を捨て八上城に2ヶ月余りを籠城して陣頭指揮するが、長期にわたり 兵糧も 断たれて攻撃に抗し切れず、城に火を放ち21歳で自刃します。波多野秀治謀殺を着色する光秀の母人質と磔刑の話【人質となったのは光秀の叔父・明智兵庫助宗宿の妻で 左馬助光治の母といわれます!!】や華々しい秀香の最後の戦いにも自刃説と 織田方に処刑されたとの否定説が有るようです。 殿地橋から美登内神社と大路城?遠望

秀香の城遺構にしては手応えの無さに説明が前後してしまったが、三春峠に向かう上三井庄の709号を挟んで北側に東漸寺入口”殿地橋”があり”丹波志”にも殿地側にある上三井庄城館を 大路城に比定しており遺構も明確なので心情的には推したい所。南側には宮ノ下橋の向こうに 美登内神社が見える。神社前の三ノ谷沿いに進むと左手奥に大路城跡といわれる点名:下三庄(”下三井庄”の誤りかは知らないが?3等385m)が望まれます。 広瀬へ向かう地図の破線道を取って尾根伝いの約1.5kmをルートに考えたが道なりに三ノ谷を進んで山麓の廃寺:降竜寺に着く。 大路城への登り口は猪が耕す?ヌメッタ畑地と雑木藪に化した広い平坦地が何段か残る一画が在り、荒れ果てた廃堂の脇に”渓深山降竜寺遺跡”の石標が建てられている。
渓深山降竜寺の廃寺跡の石垣

元は山上の本丸跡に在ったという十二薬師堂は天正の”丹波攻め”で光秀に焼かれて 現在地に移されたといわれますが、天正4年(1576)の”呼込み戦法”では城砦を出て戦った秀香は留守。天正7年(1579)には八上城へ移っていますので、光秀は八上城落城後・無人の城砦を焼いて黒井城に迫ったのでしょうか?。此の廃寺・降竜寺に移され 薬師堂に並び祀られていたといわれる十二将神をはじめ、寺の遺構は何処に保存されているのでしょう!大路城が城主不在のまま廃城となったか僅か2ヶ月程だが黒井城の城砦として使用されたが 黒井城落城の頃には光秀軍により落城 したかは不明です。渓深山 降竜寺廃寺跡から直ぐ尾根に取付いて三角点峰に着いたが、 いま訪れた大路砦は三春峠監視の出曲輪で、本郭部は山頂より南下の尾根か東へ続く尾根上に有って、栗柄峠を越え篠山市に入る生野街道監視がより重要ではなかったか!。
渓深山降竜寺の廃寺跡

大手道は県道69号添いに栢野か野瀬辺りに有ったのでは?三角点峰を南に下り三ノ谷詰めの鞍部に着いた時、 此処に堀切は無かったが長い土橋状になっていた。上三井庄からの三ノ谷は搦め手道かもしれない…更に南の尾根は如何なのか?プロローグに記した様に 波多野三人衆で秀治の義弟 ・秀香一代の城ではあっても判然としない遺構状態は寂し過ぎるので、無駄かもしれないが再度露岩の多い野瀬と野周辺の尾根を探索してみたいと思っている。広瀬には秀香の居館があった(情報未収 )ともいわれるので希望が持てる!!?。
(丹波の城・神戸新聞丹波総局 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・氷上郡教育委員会を参考)

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