酒井党の山城を訪ね アンテナ山〜388m峰〜油井城/油井西城/栗栖野城/波賀野城
篠山市  (五万図=篠山)
白髪岳前衛 西油井城/アンテナ山〜388m峰〜油井城 2003年05月17日
近畿の山城: 油井城(尾ノ上城) 
油井西城
      栗栖野城 と篠山築城の残石 波賀野城
丹波のお話 : イボとり地蔵(篠山・栗栖野城)
白髪岳・松尾山を背の油井城(中央右)と388mピーク

R176号線と舞鶴自動車道の高架が交錯する 日出坂を北に下って武庫川に掛かる細田橋を渡ると攝丹境界で「丹波の森街道 」の木柱が出迎えてくれます。JR草野駅から国道へ出る手前・苗代の田圃風景の北には 白髪岳(丹波富士・丹南町の最高峰)と松尾山(高仙寺山)の山並みを背景にして 小さな三角錐の小山が正面に見えています。 すぐ山麓をR176号線が走り、宿場町の風情が残る古市にはいっていきます。此処が丹波と摂津を結び、東へは篠山市街を亀岡・京都へ、西へは今田を抜けて播磨へと通じる交通の要衝は、 摂津から丹波への玄関口。
栗栖野:篠山城築城の残石

八上城を取巻く数多くの支城の中でも重要な最前線基地の、この小山には波多野氏の臣・酒井氏が拠る小さな山城油井城があった。 此の小山塊を此れまでも(此れからも??)山として関渉されることもないでしょうが、北端から南端の城址まで僅か2km余りの尾根ですから藪でもなんでも、一度はトレースしてみようと 郷里へ戻る途中のひと歩きです。



白髪岳前衛の小山塊に酒井党の山城を訪ね・・北端から南端へ縦走   H15.05.17

三田市の北端・藍本からR176号線の日出坂を越えて 武庫川に掛かる細田橋を渡ると「丹波の森街道」の大きな木標を見ます。頭上に舞鶴自動車道が高架で交錯します。青い山並みに雄大で堂々とした白髪岳と 松尾山が大きく浮き出してきますので、取るに足らない周辺の藪山に目が移ることも無いでしょう。 武庫川と天神川が合流する神橋を渡るとき、車窓からも・橋の欄干四隅にある親柱には源氏ボタルの像が、二つの川の清流シンボルとして赤い頭を擡げているのに気付いた人はいるでしょう。
神橋の親柱:源氏ボタルのシンボル像と油井城遠望

北側の小山の山頂には八上城主・波多野秀治の家臣酒井佐渡守の居城油井城がありました。国道側の集落からは、奥に堰提の見えている谷筋を詰めれば 直ぐだと検討はつけていたのですが、油井城址を含めても南北に約2km足らずの小山塊なので 丘陵の北端から取り付いて、山城と其の周辺 「酒井の庄」として点在した酒井氏一族の集落の様子を想像しながら、状況調査!!??を兼ねて徹底縦走を敢行してみます。 山塊の東には武庫川が山裾を縫って流れ西の裾は東条川が 白髪岳登山口の住山へと延びています。
油井城を見下ろす露岩の展望台(正面奥が日出坂峠)

北はJR古市から波賀野・栗栖野を通って八上・園部方面へとR372号線が走り南端は此処 ・神橋で山塊を取り囲んでいます。神橋から武庫川と舞鶴自動車道に沿って当野集落へと歩き出したが山側へ渡る橋は一向に現われません。山塊の中ほどを過ぎた辺りの対岸に 養鶏場のような建物が見えたが橋は遥か北の集落側からです。この山塊唯一の4等三角点峰・"当野南316m"が武庫川へ山裾を落す川が迫った位置に橋が掛かります。 その直ぐ先が稜線尾根の北端で、その落ち込むところに岩鼻橋が掛かり 武庫川を渡った所が名称通り露岩の山端(はな)です。此処に「NHK丹南当野中継所」のへの巡視路が通じています。 ところが単なる巡視路ではなく、立って歩ける限界を超えて急斜面の激登りフィックス補助ロープが必要なほどです。やっと稜線に出て傾斜も落ち着くと二本のアンテナ柱があるのがNHKのものだったか? 細い山道は直進するがやがては波賀野方面へ下っていくようです。左への踏み跡が正解で 松茸山の当山境界を示すかのようなビニール紐が千切れながら続いています。先のピークに4〜5本のアンテナが集まっている所がこの山塊の最高峰ですが山の名前知らずアンテナ山406mとしておきます。
アンテナ山406mを振り返る

J-PHONE丹南局、南端のがNTT・DoCoMoの通信施設です。此処からは素晴らしい360度の眺望が満喫できます。先行してきた 虚空蔵山・八王寺山・山上山の全ピーク、西寺山〜尖 山、勿論白髪岳〜松尾山 ・海見山から大平三山への山並みも見慣れない山容が新鮮です。此処でも正面の踏み跡に入り引き返すが尾根筋の道は段々と踏み跡もあやしくなってきますが388m峰までは マダマダ辿れます。 此処からは下り始めで踏み跡も消えてしまいますが、展望の露岩で憩いながら最終目的地の油井城址を眼下に望み 方向を見定めて急な藪に突入です。比較的楽な疎林を抜けて下るので何度も軌道修正します。 鞍部近くになると谷を埋めるかとも思える程にゴロゴロと岩が現われますが、其れも鞍部の手前までで忽然と消えてしまいます。最低鞍部から東へは何処へも抜けられず武庫川の岸へ出るだけ 西へは直ぐ其処に堤防がR176号線。城山への取付は以前から此処と決めていたがドンピシャのようです。小さな尾根続きとはいえ、独立性の高いピークなので最低鞍部へは堰提越えの谷筋 がベストのようです。一段積みに石を並べ詰めたような道に見えますが、 一般的に利用される峠越えの道ではなさそうです。 堀切もなく搦め手口の番小屋でもあったのでしょう!!?。しかし此処からの登りは結構きつい。途中に竪堀・堀切・曲輪等遺構も一切見ることもなく、 そのまま本郭部に登り着いてしまいます。
アンテナ山と388m峰の向こうに虚空蔵山塊や和田寺山が

本郭部のほぼ中央部には酒井氏の子孫が建てた慰霊碑と思われる石碑と石燈籠だけがポツンと残されています。余り周囲を散策せず尾根通しに 曲輪遺構を辿ったので全体の規模や防備設備の状況は把握出来ていません。尾根に沿った個々の曲輪群の左右には、その曲輪に対しての帯曲輪・腰曲輪や竪堀遺構は確認しておりません。 連郭群の途中に有る堀切を除いては。縄張り図等資料があれば無駄なく効率的にポイントを確認できるのですが。






イボとり地蔵

篠山の民話の中に此処栗栖野城にある”イボとり地蔵さん”の話が載っています。 JR古市駅近くの油井城に寄った後R176から篠山市街地や八上城に向うR372に入って直ぐ、右手山裾の舞鶴自動車道に沿って走り栗栖野集落に入ります。車道側に城の石垣を模した!!石積みを見ますが、これが篠山城築城で採石されたが此処に残された築城残石で、案内板も設置された小公園になっている。 此処から山側南西部に見える尾根末端の城山に酒井一党の栗栖野酒井氏の拠る栗栖野城がありました。
若林寺の背山・栗栖野城主郭北一段下の二ノ丸に地蔵堂が建つ

残石公園は此の先 ・集落内の大歳神社前にも 石丁場から切り出された刻印のある残石を積んで 記念碑”丁場城”として整備もされています。築城採石では其の中心基地ともなったと思われる当野:中谷川の舞鶴自動車道直下に有る神社には、矢穴の残る石材に 「xxx大菩薩」と彫られた石碑が祀られている。 此処から城山に登る大歳神社の西側に建つ若林(にゃくりん)寺は酒井信政が頓譽露天上人を開基として創建した、酒井氏の始祖:政親や実父で初代 栗栖野城主頼重の菩提寺ですが、信政は織田信長命「丹波波多野攻め」による明智光秀の軍勢の八上城外攻め(周辺の城攻め)によって 天正5〜6年頃には大山城や大沢城等と共に落城したと思われます。
当野:中谷川・舞鶴自動車道下の神社にある篠山城残石か!!矢穴石の石碑

大歳神社と「丁場城」残石記念碑側からの参道を上り詰めた、城の本郭部北の曲輪に建つ”地蔵大菩薩を祀る 地蔵堂”のお話です。むかし・村の若者にイボが彼方此方に出来て、たいそう困っている者がおりました。何とか早くこの気持ちの悪いイボがとれないものかと、薬をつけたり、 神仏に祈ったりと色々思案してみるのですが、一向に取れそうにありません。そんな折「城山にあるお地蔵さまに、お茶を供え、ローソク・線香を立て頼んでみると良い。 必ず願いは叶うだろう」と聞かされます。栗栖野の若林寺というお寺の西南に栗栖野城跡が有り、此処に祀られるニ体のお地蔵さまは、とても霊験あらたかなお地蔵さまだというので、若者は毎日、欠かさず熱いお茶を持って山に登りお地蔵さまにお詣りをしますが、 イボはとれるどころか何の変化も無いので、とうとう八日目には、お地蔵様へのお詣りを諦めてしまいます。
栗栖野城主菩提寺・若林寺

それでも気になるので、自分の家からお地蔵さまに向かって、 同じようにお茶を供え拝んでいましたが、四〜五日もすると半ば諦めてしまい、 気のむいたときに山の方を向いて拝むぐらいで「そんな上手い話はないわな… 」それから何年も経った或る日の事、不図気が付くとイボが無くなっています。「あっ、イボがない」「イボがとれた… 」そっと手の甲をつねってみました。「痛っ」やはり夢ではありません。 こうしてイボとり地蔵さまのお話は人から人、村から村へ伝わり沢山の人がお詣りに訪れるようになりました。「イボで悩んでいる人、イボ痔で困っている人は、 一度お詣りしなはれや」話しを聞けば誰もお詣りしたいものです。其のうち、ありがたいお地蔵さまに誰でもたやすくお詣り出来ないものかと、人々は相談して若林寺の和尚を先達に、 城跡のお地蔵さままで登り「お地蔵さま、どうか山から寺の庭まで下って頂いて、 困っている人を救ってやってください 」とお願いし、懇ろにお経を読み屈強な若い衆に頼んで、お地蔵さまを寺の庭まで下ろして安置したのですがその夜、 寺の和尚の腰が急に痛くなり動けなくなってしまいます。
中谷川側の民家空地に残る矢穴石

また、担いで下りた若い衆も同じように腰が痛くて苦しみはじめました。「これはおかしいぞ。勝手にお地蔵さまの場所を変えたので 怒っておられるのかもしれない。どうか、お許し下さい」と村人達は急ぎお地蔵さまを元の場所に戻し懇ろにお祀りをしますと若者の腰痛は、けろっと治り「ああ、よかった」と和尚も 村人もたいそう喜んだということです。今も2体のお地蔵さまは城跡にあり、北東に向かって鎮座されています




油井城+伊豆屋敷 油井西城 栗栖野城波賀野城


油井城(尾ノ上城・尾上砦) 262m   篠山市丹南町油井中山
+ 伊豆屋敷(城域西北端の本丸下)・・二階堂秀香の居館か?

両側から山の迫った山峡のJR古市駅は福知山沿線中の最高地点で 標高262mにあり直ぐ目と鼻の先・南には日出坂峠を超えて先ほど寄ってきた(藍本の城)へは攝津国・西には小野原峠を超えて播磨国(西脇・社方面)、北と東へは丹波国に通じる要衝の地であり、古くから開けた宿場町の面影を残しています。古市の南東約1km、 西側をR176号線に沿って天神川が流れ、東側には田松川(武庫川上流)と、二つの川に挟まれて要害を成しており、
R176号線の神橋から油井城

その合流する地点の小高い山上には、兵庫丹波最南端にあって攝津境界の日出阪を望む咽喉元の要所に位置し、 油が湧き出る井戸が有った事から付けられた油井の地は八上城・波多野氏の重臣で七組の一人:酒井佐渡守重貞の居城油井城がありました。南北に細長く延びる低い山稜ですが 南端から北端迄は東山裾を武庫川の流れの岸に落して阻まれ、北端の当野からは 比高90m程の急激な斜面が続く約2km程の短い尾根の南突端の独立ピークが城域です。登り詰めた最奥の北端・標高262mの最高所に位置する主郭部の本ノ丸跡には油井城最後の城主 酒井上野介(守?)秀正(氏盛)を祀ったものと思える延宝4年(1676)3月建立の供養碑が建てられています。
油井城本丸に立つ城主酒井秀正の慰霊碑

本丸からは急斜面の切岸を下降する連絡道は無さそうですが、 北西下方には有馬郡と丹波を結ぶ街道要衝となった R176号線を足元に(…といっても現状は雑木で展望は無いが)見張所的な出曲輪か、袖曲輪と土塁の盛上がりを見せる25mx35m規模の 曲輪が有ります【後述の伊豆屋敷】。西端には1m弱の段差で腰曲輪状の小曲輪が有った。主郭から南方へと尾根を落す稜上には5〜6段の曲輪を階段状に連ね、大堀切を隔てて更に4段程の曲輪が続きます。 大手道は此の南端の細長い曲輪の南東角付近へと、南東下方から九十九折れの道が通じ平入り虎口が開口するが7〜8m手前の折れ部分付近には大きな石列が残っていました。酒井党は鎌倉時代:承久の乱(1221)の功績で、相模国(神奈川県)大住郡酒井郷?の豪族 酒井兵衛次郎政(正)親が荘園の地頭職・公文職を与えられて多紀の地に来住したのが始まりといわれ酒井氏の始祖:政親の子で孝信の弟政重が油井酒井氏の祖といわれます。
油井城:大堀切

当野・矢代・栗栖野・初田・波賀野の村を”酒井の庄”と呼んで、それぞれの処に酒井主水氏治・酒井菊夜叉丸・酒井筑後守等の酒井一族が移り住み一つの集団となり、お互いに守りあって、やがて「酒井の庄」一体の武士団の勢力「酒井党」となっていきます。 古森には上山肥後守の上山館や藤田孫五郎の藤田館があるというが(所在不詳)酒井氏に付いて共に相模国より在住した家臣達だったのでしょう。
二ノ丸:大堀切側に残る土塁


古森は油井城へ最も近い位置にあるが、 武家屋敷群が武庫川沿い東の台地にあったとすれば、登城ルートは木橋(流れ橋か)を武庫川に渡して城域南端部の二つの川が合流する武庫川(玉津川)側に通じていたのかもしれません。 北側の鞍部からも直接本丸に登り着きますが、途中に曲輪・堀切・竪堀等の遺構が見られませんので八上城の前線基地として旧有馬郡(三田)方面からの侵入に対して 防備を固めた縄張りのようです。丘陵南側先端部から登り始めると南曲輪 (三ノ丸)手前で東側から九十九折れで登ってくる傾斜の道らしいものがあり、石列の残る登城道に連なる。この登城道が三ノ丸曲輪へ一折れして入るが、 少し膨らみがあり崩れて傾斜しているが虎口受け曲輪だったのかも知れません。
油井城:最南端:三ノ丸に入る虎口受部の石積

其の傾斜した数m下には石積が残っていました。 石積補強は「xxx丹波国八上城遺跡群に関する総合研究」の縄張り図にも記載が無いが、三ノ丸東側の石積下には更に帯曲輪 ・もう一段下にも曲輪があるようで、 其の北端は三ノ丸曲輪群中央部付近から落ちる大きな竪堀?状の際まで延びています。城域北側からは背後の尾根筋から大きく降って登り返すため、半独立丘陵状となっています。 南側からの道と較べれば尾根筋もハッキリしない、格段に傾斜の急な登りが続きます。駐車場所が無いのでルートとして選らばなかったが、R176からも見えるが神橋を渡った北側の民家裏手(祠がある)から コンクリートの堰提の谷を詰めるのが簡単な様です。 直接尾根道が通じていれば、城域端の最北西・本丸下の帯曲輪と土塁付き曲輪に登り着く筈(取付き点等未確認・急斜面だが通路は有りそう?)。
主郭北西下:伊豆屋敷の土塁虎口

此の曲輪が伊豆屋敷と呼ばれるところで、佐渡守重貞の二男:二階堂伊豆守秀香が居城していた頃の居館なのでしょうか。尾根南末端からの最訪(H19・01)で、 大手道が現:城主慰霊碑への参道 (とはいっても夏場は猛烈な雑木と篠竹の藪で取り付きの石段も判らない)とほぼ同じと思われます。細川氏の内乱で永正年間 (1504〜21)細川高国が、細川澄元を攻めたとき、丹波・摂津の国人衆等は高国側に味方し、 八上城:波多野氏や淀山城:波々伯部氏一族等は高国方に付いたが、酒井家一党や大山城:中沢氏等は澄元側に味方します。
油井城:二ノ丸の土塁道と数段続く曲輪群

結果・高国方が勝利し、 澄元に属して敗れた酒井家一党等は、勝勢の高国方の波多野氏や波々伯部氏等と対戦したが、澄元方の劣勢に酒井党や波々伯部氏は不利な状況に追い込まれ、 敗戦後は波多野氏の台頭と共にその傘下に組み入れられます。天文年間(1532〜55)酒井佐渡守幸貞(10代目)により築かれたと思われます。 八上城主:波多野秀治の台頭と共に波多野氏の旗頭の一人として油井城の他 高仙寺城(丹南町南矢代の酒井金吾)・ 大沢城(同・大沢の酒井勘四郎)・南矢代城に酒井主水・ 栗栖野城に酒井政信。波賀野城 には矢代氏吉等の一族を配置し勢力を張っており、八上城を護る最南端・最前線の城の一つでした。
油井城 (大手道:南端三ノ丸虎口への石列)

天正5年(1577)から天正6年にかけて 明智光秀との戦いが激しさを増し、この戦いで酒井佐渡守重貞 (11代目盛重?)の長男上野介秀正(氏盛)、次男・伊豆守秀香 【波多野秀治の義弟となった二階堂伊豆守秀香(大路城城主)八上城落城時の守将】三男彦右衛門秀朝等が中心となって奮戦したことが伝えられています。 波多野秀治が安土城で自刃した後、残った丹波の兵を八上城に集め、大路城を焼いて総大将となり籠城し 天正7年(1579)3月:全員討死するまで頑張ったといわれます。なを三男に彦右衛門という人がいて、八上城落城後には帰農し油井に残り、子孫はそれからも酒井を名乗って 江戸時代には油井村の庄屋になったとも伝わります。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 及び篠山市のHPを参照)


油井西城   xxxx 305m   篠山市丹南町油井

白髪岳〜松尾山を源に住山集落を流れ出た天神川が田松川 (栗栖野付近で武庫川と名を変えているかも知れないが?合流地点に油井城が在り、 其の西方7〜800m地点には天神川とR176号線 ・JR篠山線を挟んで油井西城が在る。無名の城址マークが油井城で、油井城名の位置が油井西城に当たります。
R176号からJR篠山線と油井西城を遠望

約2km南下すれば日出坂を越え摂津(三田市)に入る国境で、 今のところは丹波・多紀では最南端に位置する山城といえます。篠山市としてはもっと西南端にも 丹波・今田町に木津(こつ)城がありますが・・・
R176の神橋(の親柱には宝珠代わりの?源氏ホタルの親柱と、 地元の新鮮野菜売り場が在るので分かるでしょう )の右手に油井城を見て、直ぐ先で左折、JR踏切を渡って油井集落へ入る正面の小山が目指す油井西城です。
油井西城・北端部の曲輪には 土塁の残欠も

極楽山妙薬寺の案内板を見ますが油井西城への登山口が分かる筈もなく、 寺へ向う車道途中から大歳神社の境内に入っていきます。境内裏手から山へ向う踏み跡を見つけて稜線を目指し藪を潜り10分ほどの急登でTV共同受信施設のある 狭い空き地に出た。唯一展望が得られる地点ですが、西に真っ直ぐ延びる今田町の下小野原【此処にも小さな山城 小野原城があります】へ抜ける峠道とR176沿いに草野や三田市へ抜ける日出坂方面が見えるが 虚空蔵山〜八王子山への稜線に遮られた南西部や摂丹境界の山々の尾根が延びてきて南東部の眺望は余り恵まれません。此処は既に本郭部の側ですが何の城遺構も途中に見出せないまま突然・油井西城に着いてしまった。 一段上に細長い帯曲輪が城域の北端にまで延びた幅20m・南北約80mほどの小規模な城です。
南郭から北郭へ低い段差の曲輪が並ぶ

帯曲輪に囲われた尾根上の中程で南北を分けたように3段程の低い段差で曲輪が並びます。 北側の西斜面に短いが等間隔の竪堀を2〜3本畝状に並びます。城域から西北部に延びる尾根上を割って、途中に浅い堀切があり土橋を伴っています。
酒井党の城々が 丹波・京街道沿いに在って要衝の警護に当たっていたのでしょうが、 其の最南端部に位置する油井城と油井西城だけは攝津への出入り口に有って、他の城の設置位置付けを異にしているようです。 往来の監視に当たったのでしょうが、 城史や城主・築城時期等一切が不明です。 城の規模からは酒井氏の拠った油井城西方の護りを固める支城か砦のようです。R176沿いの油井城下に比べ、 寺社があり集落として纏まっている油井西城山裾の 油井地区の方が中心だったと思われます。
油井西城・北西の尾根続きにある土橋付き堀切

推論ですが油井酒井氏は妙薬寺付近の段丘に居館を構え西城を詰め城として築いていたが、永正年間(1504〜21)波多野氏に対抗して敗れ、その傘下に入った酒井党が天文年間(1532〜55)八上城防備の南方の前線基地として、 摂津から丹波への入口に適した場所を捜して酒井幸貞が油井城を築城し、油井西城は油井城の支城となったものと考えてみるのですが、城主や城史等は不明です・・・!!
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、 遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 縄張り図を参考)


栗栖野城(栗栖野古城) と篠山城築城の残石   落山(古城山) 300m  篠山市丹南町栗栖野落山

篠山城の残石
築城にあたり、小豆島や家島からも採石 ・運搬にあたった大阪城は別格としても、其の大阪城攻略拠点として西国大名の押さえとして、京都から山陰・山陽・摂津を結ぶ要衝でもある重要な位置に築かれた篠山城は、 着工から僅か6ヶ月余りで完成された天下普請により築かれた城です。
栗栖野城公園(築城残石)
中谷川:築城石材群


助役(賦役)を課せられた大名達にとっては、 工事の大部分を担う堀や郭の石材調達と運搬の為、石の採石場所確保は最重要課題だったことでしょう。慶長13年(1608)徳川家康は実子:松平周防守康重 (初代篠山城主)を笠間城(常陸)から 5万石で八上城に移封し、笹山の地に新城を築きます。 翌年から始まった築城には普請惣奉行に姫路城主池田三左ヱ門尉輝政(52万石)【 篠山城の埋め門外側に「三左之内」刻印石が有る】、普請奉行は藤堂和泉守高虎(縄張は家臣の渡辺勘兵衛)を起用し豊臣恩顧の西国大名
中谷川:築城石材群

【有馬豊氏(福知山8万石)、織田信包(柏原3万6千石)、別所吉治(綾部1万5千石)、 京極高知(宮津12万3千石)、福島左衛門太夫正則(広島49万8千200石)、森忠政(津山18万6千500石)、毛利輝元(萩36万9千石)、浅野紀伊守幸長(和歌山37万6千石)、山内康豊(高知20万2千600石)、蜂須賀至鎮(徳島18万6千700石)、加藤嘉明 (松山13万1千600石)】等約15ヶ国・20の諸大名に賦役する天下普請で、多量の石材は篠山市内各所から切り出されました!!・・・。
当野:中谷川【矢穴石】西紀SA公園

築城の緊急性から篠山盆地の周辺から石材が集められ、其の採石場は栗栖野・当野や波賀野・古市・油井へと南西へ延びる標高400〜500m程の山域一帯が城への運搬も近く、 最も良い採石場となっています。火成岩の流紋岩層にあって採石される多くの石材は、此処から切り出されて供されましたが、 築城採石の中心ともなった栗栖野・当野付近で、露岩を切り崩したり当野の中谷川付近の豊富な河原石が採取されているようです。 当野:中谷川の舞鶴自動車道直下に有る神社裏には、矢穴の残る石材に 「xxx大菩薩」と彫られた石碑が祀られている。
西紀SA:駐車場前の刻印石

【上記:丹波のお話 イボとり地蔵に画像を添付しています】当野集落内から神社上流の堰提までは河川改修工事、其の上部にも砂防ダムがあり、舞鶴自動車道建設工事においても大きく状況は変わっているようで、残石は余りみかけないが,それでも川サイトの藪や雑木の中・畑地や空地に、 築城採石に関するものかはよく判らないが!!?転用石や矢穴を残す石が散在しています。庭石や田畑の積石等で多くが持ち出されたものか刻印石は見つけだせなかった。
西紀SA:駐車場前の刻印石

帰路に寄った川代ダム側の体育館前の芝生に刻印石や矢穴石が有るが、中谷川から移されたものらしい。 四つ程の残石が置かれているだけで気付かなかったが、 一石に2種類の刻印が彫られているものが一組有るらしい?。符合する石はセットとして使用するよう組まれたものか!!。搬送ルートには公園前の372号線(デカンショ街道)が 使用されたようです。普請場まで搬出出来ずそのまま残された数多くの石材の中には、 各大名が刻ませた刻印の残るものもあり、栗栖野の地にも此れ等篠山城石垣構築時の残石があって、此処に集め石垣を組んで展示・小公園化され一部組石の補填を除き栗栖野地区から採石されています。
篠山川:川代体育館前の矢穴が遺る刻印石


栗栖野全域の残石刻印符号は23種が確認されているようですが、この石垣の中には右に標示の8種の刻印が15個の石に残されています。築城残石が篠山市内に残されている場所は、 他にも下記:栗栖野城登城口の「丁場城」・川代体育館 ・舞鶴道の西紀SA等が有り、画像では、いくつか紹介してみました。
(栗栖野集落の残石案内・説明板参照)
====================================================================

栗栖野城
栗栖野城公園
前を走る372号線は亀岡・園部から天引峠から八上城下を古市・社を経て須磨・一の谷へと源義経が通過した歴史街道です。
当地各所より大量の残石が出土し此処 ・R372号から山側の集落に入った所にも残石展示場が有りますよ。栗栖野城主・酒井氏の菩提寺・若林寺と神社の側にも”丁場城”と彫られたモニュメント!石碑?が建てられていて 「マサカリや三ツ輪・卍」等の刻印を残した石垣が集められています。
[丁場城]=栗栖野残石公園・PAET2

栗栖野には”長場の坪”の字名もあり、採石の加工・運搬の拠点となった丁場があり、 当時は五箇所に丁場が設営されていたそうです。其のうち此処に完成したモニュメントを「丁場城」と名付けられています。どういう訳か?桂化木も有るが造園業者からの寄付のようです。 集石された残石の中には御下屋敷跡(兵庫医科大篠山病院敷地内)から運ばれてきたものもあります。栗栖野酒井氏一族の菩提所若林寺 と大歳神社の間にある”丁場城”の角から始まる参道が上記イボとり地蔵の地蔵大菩薩を祀る地蔵堂に続いています。ただ枝道多く案内標も無い城山への参道を以前は見誤り舞鶴自動車道トンネル上の林道に 出てしまい栗栖野城より一つ西の尾根を辿った事がありました。
栗栖野西の砦址か?舞鶴自動車道と当野地区

しかし其処にも栗栖野砦の出城だったかも知れない?と思える様な細長い露岩混じりの西の尾根末端には低い段差の二つの削平地?更に一段下は岩場となり30m以上の断崖になっているのが、 今回・栗栖野城側から確認出来ました。 此処は播磨・摂津・丹波境界の油井城に近く、栗栖野城からは見辛い三国境の見張の補助砦(狼煙台)として、 栗栖野城の出城か出曲輪として機能したと思える状況なのですが…!!?二度目は惑うことなく主郭部北の曲輪にある 地蔵大菩薩を祀る地蔵堂に直接到着します。
栗栖野城主郭の堀残し土塁(上部)と散逸する残置廃棄物

龍蔵寺の回峰行が行われていたという太平三山の愛宕山 〜中尾の峰から西に延びる摂津(三田市)境界尾根は、 末端付近の舞鶴自動車道トンネル付近で当野地区に稜線を落とし武庫川とR372に合流します。此のトンネル上部の落山(おとしやま)に栗栖野城がありました。酒井党については上記 油井城(尾ノ上城)を参照してください。”丁場城”からの参道は地蔵堂に行き着きます。堂の建つ曲輪と南に一段高い主郭に4〜5の腰曲輪と帯曲輪が付属する小さな山城です。 地蔵堂の北下の曲輪は覗きこんでも基部が見えない露岩の絶壁の上にあり、これ以上の要害はありません!。しかし最高所の主郭には北端一杯に舞鶴自動車道工事のトイレ・事務施設のプレハブに占拠されています。
栗栖野城北面下方の竪堀

中程にも打ち捨てられた資材が散乱し、南端には傾斜の少ない堀残しの土塁があるが、其の周囲や上部には何の意味があるのか ?鬼瓦が並べられています。道路工事は完了しているが施設・資材・廃材が撤去もされず、其のままうち捨てられています。 西側の腰曲輪にも毀(こぼ)れ落ちるばかりに廃材が積まれたまま放置されています。地蔵堂内部には”栗栖野古城”の城史や縄張りの詳細説明が、酒井某氏により綿々と墨書されているのですが、 栗栖野酒井党の子孫の方々には此の惨状がどの様に映る事でしょう。主郭部からは細い露岩混じりの尾根となり、狭い尾根筋の横には小さな凹部を見せる竪堀が走っているようです。
栗栖野城・城域南端 :中央突起は尾根筋・左右に竪堀?

藪っぽい細い主尾根ですが鞍部付近からは広く緩やか尾根続きとなる様で城域も此処までと思われます。栗栖野酒井氏は正慶年間(1332-34)矢代酒井氏:貞信の弟伊賀守彦次郎信綱に始まるとされ、 栗栖野城は永禄年中(1558-70)越中守頼重(後に下野守)の時に築城されたと考えられています。 嫡男井筑後守信政は波多野秀治に仕え”明智の丹波攻め”が始まった頃の天正3年(1575)没したとも、 天正7年(1579)一族共に討死したともいわれます。 嫡男善右衛門信定が若く叔父の依信が後見として代番し、後に八上城に籠もったが病死したと伝えられます。
栗栖野城主郭:切岸上に建つ工事小屋

信定は天正6年(1578)城を退去して村内に帰農したといい正保元年(1644)没したと「丹波誌」は記しています。 若林寺は信政が小庵として建てたものですが栗栖野酒井氏の菩提寺として北山麓に在ります。八上城攻めの際の兵火によって焼失したようで、一時中絶していたが寛永年間 (1624-44)末裔の酒井孫左衛信蜜により中興されたのが現在の若林寺です。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会及び古城山・地蔵堂の墨書説明書を参照)


波賀野城  xxxx 308m   篠山市丹南町波賀野字北ノ前

JR古市駅から見内集落に入ると ”スポーツクラブ21ふるいち”からは、農地の東に鉄塔を乗せる山並みが見えます。波賀野集落と見内集落との間にあって、 山裾を囲む見内川!(東谷)は幅は狭いが深く切れ、西から南側を捲いて東の武庫川へ流れ出ます。 京街道が麓を通り不来(こぬ)坂を播磨へは義経も三草山合戦〜須磨一の谷へ向った道。
スポーツクラブより波賀野城遠望

南へは日出坂を越して摂津へ抜ける丹波の咽元・交通の要衝です。南西約2.5kmには 油井城(尾ノ上城)、南東約2kmには栗栖野城 と酒井党の城が在って呼応しながら街道の守備の就いていた事でしょう。関電巡視路を登路に利用して最初の鉄塔 (丹南線No40)を過ぎると降っていく巡視路を見送って、 尾根筋の細くなるが明確な山道を辿ります。尾根上から南矢代の駅やR176号を眼下に展望出切る箇所が一箇所あり、其処からが城域ですが分かり難いかも。南側からは此れが竪堀?此れが土橋なのか?判断の 難しい尾根筋から、斜面を少し登ると2段ばかりの曲輪を越える。 またダラダラと削平の甘い!!(殆ど自然地形のまま)主郭部を抜けます。
波賀野城南端の堀切

南側に紛らわしい感じの帯曲輪が平行しているようですが、削平段か?・遺構らしいものが見当たらないので前回は、ドンドン尾根筋を駆け進んで高仙寺への分岐 370m峰付近まで行ってしまった。このまま進めば音羽山から大沢城へも尾根続きです。展望は良くなってきたが引き返して今度は、 行き過ぎた主郭部付近を探索してるが削平地自体が甘く自然地形のままみたいなので、遺構の判断も分かりにくい。本郭部東側には3〜4mの切岸を見せる曲輪があり下方にはU字状に弧を描くように浅い堀切がある。 東末端の腰曲輪を北側へ廻り込むと、深くは無いが真っ直ぐ下方に延びる竪堀?が一本走っている。堀切を越える広い尾根は更に東下に延びていきます。 緩やかな尾根上に削平地や、その他の遺構らしいものが見当たらないので 此処も程々にして引き返します。送電線鉄塔へは西の見内集落から登ってきたが、下りは南へとって畑地集落に出・民家の勝手口のような所へ降りてきた。
波賀野城・東端のU字状の堀切と主郭側の切岸

小さな地蔵堂の様な祠の側には、数基の五輪塔が寄せ集めてあったが・・「丹波志」に云う永禄年間(1558-70)京都:木幡合戦で討死したという 右衛門兵衛等一族の墓だったのだろうか…!!? 矢代城の南約1.8kmの308mに在り、矢代酒井党の秀氏の子で兄は矢代城主・三郎四郎氏吉、弟の波賀野酒井党酒井(矢代)右衛門兵衛で 天文年間(1532-55)末から弘治初年(1555-)の築城と思われます。当時は三好長慶・松永久秀等による摂津や丹波領への攻略が始まっており、弘治3年(1557)には龍蔵寺城や八上城が落城する等、激しい戦いが続けられていました。 この動乱に対処し播磨 ・摂津の方面からの入口に位置する波賀野城が、北上してくる三好氏の軍勢に対する備えとして、矢代城主・氏吉が弟の右衛門兵衛に命じて此処に築城させたといわれています。
波賀野城主郭と東端の腰曲輪

「貞亨記」には永禄年中(1558-70)の落城を伝えられますが、木幡合戦(詳細不知・京都宇治周辺での戦い !!)で討死したともいわれ、墓は城山の麓にあると云われます。いずれにしても波賀野城は右衛門兵衛が一代の城と考えられますが「多紀郷士史考か・・丹南町史!?だったか」では 此の右衛門兵衛の長男・主水介氏治が矢代城、 次男・上野介が油井城、三男・筑後守が栗栖野城、四男が大沢城の勘四郎…とあり資料を忠実に!!?に追っていかないと混迷を深めるだけです・・・(^^ヾ
(兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡 県教育委員会を 参照)
本誌

inserted by FC2 system