幻の氷上城を訪ねて五大山~亀の座~霧山城~ガンジュウジ城
Ⅰ天王坂~亀の座~油良坂~五大山~愛宕山~安養寺 H12.4.29
城山~霧山~権現山~天王坂~亀の座~油良坂~五大山 H15.03.09

波多野宗高聖徳碑~立岩~霧山~権現山/油良坂 H16.12.11
五大山から愛宕山(H13.2.17)
近畿の山城 別所館 霧山城(氷上城) ガンジョウジ城(横田城) 野山城
  長見城 山田城館 新才城 舟城神社砦 北由良城 牛河内砦
丹波の古墳山田井上古墳?・山田大山古墳?
丹波のお話大石りくの森・天王坂 僧・意春と経塚

R175号稲継交差点を直進する城山トンネル上が横田城。山上が伐採され広い台地は柏原や石生から目立ち城址よりも展望公園のようです。以前の林の中の広場の感じよりはズッと曲輪跡が明確に観察出来るが黒井城の狼煙場だったか?丹波攻め明智方の陣城だったか…?.。
向山(ガンジョジ城)櫓台から向山連山(中央に四ノ山砦!!)

古文書の氷上城は霧山城なのか横田城(カンジュウジ城)か?。室町時代末期の荻野・赤井・芦田・足立氏等丹波国人の中に忽然と登場する波多野宗高が実在人物だったかさえ判然とせず霧山の城遺構が波多野氏によるものか菩提寺さえない幻の氷上城。 二宮神社?霧山コースの岩磐から氷上盆地と氷上IC(中央)

二つの氷上城(横田城/霧山城)から大石りくの森(天王坂)を越え五大山を目指す。弘治元年(1555)細川晴元側の赤井一族と細川氏綱方の芦田・足立の連合軍が香良谷川(独鈷の滝・五台山登山口)を舞台に大激戦があった(三好方の介入や西波多野の宗高が荻野・赤井一族に加担?したのか?細川氏内紛の代理戦争にも作為があるのかも?)が南から攻め黒井城に引返す時に越えた峠の一つと考えるが?
宗高聖徳碑~霧山間の 立岩から望む霧山H16.12.11 

戦は芦田・足立一族はことごとく戦死し黒井城主・荻野直政も傷を負っています。直政は前年(天文23年・1554)叔父荻野秋清を殺害し黒井城主となり荻野悪右衛門直政を名のります。翌年起きた香良合戦は秋清方旧臣や 赤井方にも一部:直正に対する不満があり領内・近在一帯の足立・芦田氏等をも巻込んでの乱戦だったのでは?…と想像してみます。



天王坂を起点に五大山~幻の氷上城を訪ねて八の字縦走 2000年04月29日

桟敷で右折し県道賀茂・春日線を天王坂に向かい峠に駐車し氷上・春日の町界尾根の山道に古い猪避電線が今は碍子と柱のみ残し続く。亀の座(点名:長王 4等3角点 318m)石標があり「京都ミサヤマ山の会」のプレートがある。
霧山(霧山城)西南側の低い段差の曲輪跡!!? H15.3.09

南由良方面からは杉林の続く峠道-火の用心No106-7.8.9と辿り由良坂からの登り途中でNo109と分かれて尾根道を辿る。遠くに登山者の声が聞こえてきたら五大山(569m PM1:00)頂。白豪寺方面東の尾根を辿り千丈寺山-黒井城へ向かうのも食指の動くところだが目的は霧山城で愛宕の岩場を越えて安養寺へ下るので570m愛宕山のお堂まで行ってしまうと行過。急坂を下り二つ目の鞍部から左の谷へ下り林道に出てすぐに左からの林道に合流すると安養寺は目前。
霧山山頂(霧山城主郭?)

北由良の集落を抜けて天王坂へ戻ると忠臣蔵で知られる家老:大石義雄の夫人りくの碑があり車道下にお堂(水場)がある。但馬への古道は荒れているが趣がありハイキングコースとして復活させたいもの。峠の不法投棄禁止看板のところから右へ高みを目指し急登する。尾根を外れた霧山と権現山にはプレートもある。霧山分岐手前では鉄パイプを 数本打ち込まれている岩は採掘場ではないが試掘跡?。霧山への主尾根から外れる。霧山(高畑山3角点372m PM3:15)は潅木に遮られ展望なし。
城山(向山城)から向山連山 H15.3.09

山頂は平坦で尾根筋南面に2-3の削平段を見るが山城に見識なく見逃したかも?。調査機関の遺跡報告・分布図も?マーク付で霧山は城ではないとされる?。分岐へ引返し反射板のある権現山(349m PM3:50)到着。反射板とNTT石標柱のある場所より少し下る権現堂の目の前の岩場を登れば素晴らしい展望が約束されます。足下に柏原・石生・黒井の町と白髪・尖山-妙見山/笹ヶ峰-竜ヶ岳等の遠望・朝早ければ雲海の中に浮かぶ景色が楽しめるのが正規ルートだと少し戻ることになるのでしょうが先の下り坂のコースを取り途中から水平道をとります。捲いてきた尾根と合流する峠からは野山からのコースで6~7mの岩場が点在しています。
霧山西・市辺地区側に竪堀の鉱口を見る H16.11.23

隙間が狭くて通れないが双子岩(勝手な名称で小岩がはさかっている)もあり、これらの岩は下山後の大崎・野山辺りからも確認できました。平坦な尾根途中に横田山古墳(郷土誌[土の匂]出版記念建立の木標)を通過。下り続けた城山(向山4等三角点198m PM4:30)がガンジョウジ城(横田城)で霧山よりは城跡らしい雰囲気。右へ下る道もあるが左へ水平道をとり先の肩より右への学校登山道を横田へ下ると尾根を直進して墓地の中程にある「峠の地蔵さん」からJR石生駅側へ下り、城山トンネル下の山裾を集落沿いに野山-天王坂に戻ります。


幻の氷上城を訪ね城山~霧山~天王坂~亀の座~油良坂~五大山   H15.03.09

日本一低い分水界「水分れ橋」から石生新町を抜け信号三叉路から石段を登って取付くと50m程北から直接行ける「峠の地蔵」だが石生行者堂の裏へ抜け続く下り道は作業小屋!を抜けると墓地の入口「峠の地蔵さん」(AM9:35)に着く。
城山(向山)山頂櫓台から向山連山

竹の混じる墓地横の急坂を登り尾根も緩やかになると案内板が建つ城山が樹木の間に見える。伐採され公園として整備されつつある!!?向山山頂は以前のような森の中の広場の雰囲気はきえ展望と山頂部の削平地全体が姿を表している。氷上城主波多野宗高?の居館跡とも明智の「丹波攻め」羽柴秀長の塁跡ともいわれる台地は柏原町・氷上町・春日町の町界尾根の最南端にあり、中央分水界の標高は低いが展望は良く播磨境界へ続く加古川流域や柏原の町並み・転じて黒井城の春日町
霧山西・市辺地区側に竪堀の鉱口を見る H16.11.23

・市島町へと続く黒井川・竹田川流域の交通の要衛を見張るに絶好。平坦に見える山頂の案内板のある付近が若干高くなっていて「ガンジョウジ城、カマショウジ山の古称もある横田城が幻の氷上城ではないか」との説明もある。城山(向点名:石生4等三角点 198m AM9:50)三角点のある北方に台地が広がっています。昨日から降り続く雪に周囲の低山は慣れぬ厚化粧でお出迎え。眺望は素晴らしく・東に一夜城の白い城壁を廻らす黒井城向山連山南から西へは坊の奥・小南山高見城山金山-馬頭白山弘浪山・安全山、雪が止み日が射して篠ヶ峰水山が望める。三角点を過ぎNHK氷上石生テレビ中継所(AM9.55)を過ぎると以前のままの道と なった。
霧山から権現山(中央右)・向山連山

中央分水界の尾根を此の先、権現山~天王坂~亀の座~五大山へと辿るが 積雪は殆んどなく亀の座付近までは3~5cm程、しかしウッカリ枝に触ると思いきり雪を被って雪だるま状態。横田山古墳で少し足下が濡れてきた。古墳時代前期の山頂古墳で昭和42年に箱式石棺が発見され青年男子の人骨と副葬品の槍 鉋・鉄剣・鉄錐等が出土しているが古墳は埋め戻されてか見つけられない。反射板のある権現山349mからは右への尾根を下るが積雪(5cm)と藪っぽさでコースを踏み外してしまいそうだが赤松の山道が続き102鉄塔「北攝長田」に出る。
県道7号氷上・展望広場から霧山(霧山城)

鞍部からは雪の重みで倒れかけ道を塞ぐ樹木を分けながら鹿除けネット沿いに登るが 境界ポールも見えず藪漕ぎ同然。分水界尾根から少し外れる霧山への分岐(AM10:52)に着く。標示はないが西への尾根を下り登り返すと霧山山頂(高畑山3等三角点 点名:氷上372m。向山城(横田城・ガンジョウジ城)か此処・霧山城が幻の霧山城です。東西に延びる平坦な山頂部と北側下に腰曲輪風の平坦地・西や南にも曲輪らしい段差はあるが何れも明確な防塁施設に思えず素人目には城址遺構が確認出来ず永禄3年(1560)正親町天皇即位に際し警護にあたっては荻野直政はじめ丹波の諸城主を動かし
霧山山頂直下:加古川流域・氷上盆地を望む平坦な岩頭部は監視台?

忠勤によって「正四位・侍従の位」を賜る波多野宗高の城が曲輪さえ荒れ不明瞭な 状態では此処が氷上城とは認めて貰えない?のかも知れない。霧山分岐へは10分程で戻り急な斜面を下り続け途中小さな2等基準点(兵庫県土地開発公社 AM11:25)の埋まる峰を過ぎて天王坂に降り立つ。但馬を結ぶ街道天王坂は大石りくの由緒を残す街道で由良坂(牛河内坂)共に香良合戦や明智光秀「丹波攻め」に幾度か戦場になったところではなかったか?。
二宮神社からの霧山登山コースの岩磐上は展望絶佳

赤い町界プラ柱や碍子の残る古い猪除けは短い鉄柱だけを残して続く巡視路だが尾根道は快適です。106鉄塔・北攝長田(AM12:00)からは鉄塔のケーブルを透かして北面に五大山・愛宕山と鷹取~五台山へ続く珍しくも白い稜線をみせて聳え立ち左右に大きな拡がりを見せてくれます。南北に展望が開けた鉄塔からは展望のない単調な尾根を30分程辿り亀の座(4等3角点:長見318m PM12:05最近整備された道標には”五郎兵衛”の別名もある!!)には「京都ミサヤマ山の会のプレート」も健在の山頂は山道からほんの数m横に入った所にあり展望はないがハジッコの峰のピークなので分かるでしょう。
鉄塔106より五大山と愛宕山(中央)

一気に下った由良坂(PM12:10)は杉林の続く広い峠道で氷上町南由良/春日町牛河内を結ぶが余り荒れた様子もなく誰かが登ってきても?!自然な雰囲気が残っています。今は人も牛も行き来する事はないのでしょうが…峠からの登りでは積雪も急に深くなり山道なのか?分からなくなる。時々赤布が現われホッ。黒井城-千丈寺山-ヨコガワ峰からの尾根に出ると20cm程積雪。重い雪に雑木が倒れ掛かって前方を塞ぎ前進を妨げます。雪のトンネル状態をツボ足で進むか!!匍伏前進するか??
県道7号氷上・展望広場から霧山(霧山城)

無雪期でも迷いそうな平坦な雑木の中ですがテープ類が増えてきたようで助かります。植林帯へ抜け出るともう一頑張り。誰も居ない五大山(569m PM1:05)に到着です。所要もあって帰りを急ぐ余り五大山から直接下りますが尾根を一つ取り違えて 門石と注連縄とある愛宕山登山口へ降り立ち(PM1:38)安養寺へ出て愛宕山域を除き前回(2000年04月29日)と同じコースになってしまった。


氷上の中央分水界尾根に戦国の山城探し!霧山~権現山~油良坂  2004年12月11日

日本一低い水分れ中央分水界のある向山の末端が黒井の盆地に落ち込み再び城山-権現山-霧山へと盛り上がり五大山-五台山へと続く 中央分水界の稜線は近年”分水界の径”として道標が完備されたが歩き易く明解な登山道というわけではない。この山域にも幾つかの城塞が確認されています。
自然の切り通し道:油良坂(牛河内坂)

ガンジョウジ城と霧山城や周辺の枝稜線に長王城や山田城館等があり明智光秀の丹波攻めによる付城や黒井城の支城や砦と。其の中でも黒井城主荻野直正が幼名・荻野才丸の頃に初陣で功を挙げた山城と遺構の確認は出来なかったが 幾度かの合戦場ともなり黒井城の終焉真近の頃、但馬出兵中の赤井幸家(直正の弟)が急を聞いて遠阪方面から戻ってきた時は佐治から越えた由良峠付近にあるはずの
油良坂から亀の座側の登山道(分水界の径)

牛河内砦を探してみる。由良坂(牛河内坂)は南に約1.2kmにある旧但馬道の天王坂同様に利用された要衝は軍道ともなり・合戦場ともなっています。南由良から牛河内へ抜け出ると黒井城へは最早3km地点。鞍部は深い露岩混じりの切り通しですが前後は広く緩やかな道で牛河内側へは九十九折れの道で荷車が通れる程。現に昭和初期頃?までは利用されていたようです。
白雲の城・黒井攻めの戦場も霧の底

先ず波多野宗高聖徳碑(氷上城を参照)の横から続く広い山道に入り山道が山腹を捲いて下り始めるところから尾根筋に移り踏み跡を辿るが突然道も消え藪尾根の細道となる。尾根を登り返す鞍部は堀切?直ぐ上部30m程の所に岩場が見える。霧山から天王坂に続く分水界尾根から西へ突き出す枝尾根の中間付近、氷上集落内からも目立って見える露岩部・立岩の頭に出てみると霧山が霧のレースを解こうとしています。
野山城西曲輪:岩場を穿つ大堀切

氷上盆地に甲賀山・犬岡山は霧の底、安全山・弘浪山・白山・篠ヶ峰や高見城山から穂壷城が辛うじて薄墨色の山容を霧海に山頂部を浮かべている。立岩から霧山へ向う鞍部にも堀切らしい凹角を見るが前後に曲輪らしいところが見当たらないので思い過ごしかもしれない。しかし寺から宗高聖徳碑のある台地に波多野氏の居館があれば背後の尾根を辿る詰め城への大手道。立石は木戸として砦としても有効な位置にあるが…山岳の岩信仰の祭祀所の跡かもしれません!!砦なら毘沙門・民間信仰からなら不動尊や愛宕社といったところでしょうか。
野山城・大堀切を越えると頭上の露岩を超えて西曲輪へ入る

霧山分岐を下り稜線目前に見える反射板のある峰が権現山。其処へ行着くまでに左右に氷上町市辺や春日町野山の神社や観音堂への下降点を過ぎて到着します。相変わらず展望のない山頂は変わらないが市辺や野山砦跡の標識まであるのに驚いたが砦跡を示す方向は藪の中。本来の尾根筋を辿って山城を訪ねる人も稀のようです。多紀アルプスの岩尾根を辿っているような錯覚の場所が続く。
牛河内砦!・亀の座下方から五大山~愛宕山


城砦付近の急斜面と露岩が目立つあたりは京都亀岡の御影山城を思い出します。本郭部に近い鞍部の左右は岩場に多い絶壁状で短い堀切でも有効です。斜面上部には石積み曲輪があって敵兵の様子を窺っています。権現山から市辺に下った二村神社の僧・意春の墓と経塚に寄る。経塚は丹波(県下でも?)最大。今回は車で天王坂を越え先日寄った長王城(長見城)下を抜けて牛河内集落に向います。集落最奥に瑠璃山浄光寺が在り小さな蓮池横を斜上する林道は由良坂(牛河内坂)へ通じています。
油良坂:牛河内側入口の浄光寺城や周辺は居館・屋敷跡の様!!?

今はもう利用される事もなく倒木や雑木、谷筋は台風等の洪水で崩れてはいるが透かしてみる峠への道は割合良く残されています。物資搬送の荷車が通った道なのでしょう、長いジグザグの道なのでほぼ直進のショートカットで送電線真下の峠を目指します。亀の座~天王坂側と三日月山-五大山への稜線を割る峠は 自然の?深い切り通しになっているが峠の広く開ける牛河内側には露岩の多い台地に石積みして切岸を高くした峠越えの通行監視所の様な曲輪になっています。
油良坂:牛河内側入口に祀られる数体の石仏

峠の狭間に正対して威圧する関所の様で!!?、南由良側へは谷に沿って緩やかな道が真っ直ぐ延びるが此方にも曲輪遺構らしい平坦地がある。天王坂の但馬道に対し、土地名の…油良坂は東芦田から穴裏峠を福知山~大江町を抜ける丹後由良への街道だったのでしょうか。両サイドの尾根に特に遺構を見ることなく引返し黒井城の真東に位置する野上野へ移動する為R175号へ出て春日インターを目指した。





天王坂「大石りく」の森 春日町長王区天王

176号線「石才交差点」から踏切を越えて北へ真っ直ぐ延びる道が前方の山並みの峠に伸びて行きます。氷上町桟敷へ出て香良の滝や成松・佐治方面に抜ける峠越え道だが 昔は篠山の栗柄峠から此処を経て遠阪に至り但馬へと続く但馬(山陰)街道。天王坂の峠にさしかかる東南側に腹の虫封じの井戸があり大石りくの森と呼ばれます。元禄14年(1701)4月・忠臣蔵で有名な 赤穂藩
天王坂の清水の井戸

・大石良雄の妻りく(理玖)が寺坂吉衛門を伴に二男吉千代・三男大三郎・長女くう等と京・山科を発って京都街道を多紀郡に出て春日町境の栗柄峠を越え、氷上町から佐治-遠坂を越えて実家の豊岡へ帰る途中此処・天王坂で激しい腹痛におそわれ吉右衛門が峠近くの岩清水を飲ませたところ不思議と腹痛も治まり、ほどなく回復して但馬へ戻ったが、この時のことが忘れられず但馬の石(玄武岩)で自筆の報恩碑が建てられました。今もりくが建てた石碑・清水の井戸・当時の峠道が藪に隠れるよう、それでもわずかに面影をとどめています。「妻りくの 駕籠もたどりし 花の道」小鼓子 天王坂は桜並木が続き春には桜の花道となります。


意春と経塚の由来

霧山への登山口市辺区の二宮神社へは「意春坊」の石標と鳥居を見て境内に入る。二宮神社の横のお堂に収められた経塚と裏手の最奥部には質素ながら今も献花や人形等が供えらる僧・意春の墓が祀られている。子供に習字を教えたり…慈愛に満ちた彼を慕って集まる老若男女も悲しい事・嬉しい事等を打ち明けます。
経塚内石龕の後壁板(元和9年11月)の銘文

「意春坊さんとこへ行こう」近在の子供達はこう云って神社の境内で遊ぶといい、子供好きのお坊さんだったようです。説明板が建つお堂の中には縦横共に3間(5.4m)/高さ約1間(17m)四方の石垣が積まれている。法華経の経文を一石一字に書いたものが埋納された経塚で頂部には石仏や石碑も祀られている。正面中央の凹部には石龕が安置されていたらしく、
経塚堂

其後の石の壁板の銘文から江戸時代当初の元和9年(1623)11月願主観音寺の僧意春が由良の城主でもあった播州源朝臣別所豊後守吉治の支援により 建立された事がわかっています。この経塚は丹波最大と云われ 昭和50年2月25日・氷上町文化財に指定されています。桃山時代中期・天正年間(1573-92)頃、播州三木城は秀吉軍に包囲され 食糧を断たれ終に落城するが伝承では三木城主別所長治の菩提寺住職の意春上人は長治の子別所吉治(別所長治の叔父で秀吉家臣として三木城を攻めた重棟の子)と丹波路に落ち幾郷村市辺に辿り着き、
意春の墓
二村神社の経塚


小森久治(小森家の由緒書きには宇之助とある)宅に宿をとり村人の厚い情により旅の草鞋を脱ぐ事となった。意春の信仰と人柄はやがて村人の尊敬を集め高月山浄現寺(真言宗大谷派:二村神社の南に隣接する)境内にお堂(観音堂)を建て住まう事となった。当時の佐治川(約1km西を流れる現・加古川)は毎年の様に荒れ、その都度 流域の田畑は水害に遭い住民の生活は困窮のどん底にあったといわれます。由良庄の領主となった吉治の帰依を得て市辺に内堤防を築き十六丁畷の土木工事を行った。成松とは加古川(旧佐治川)に架かる
十六丁畷:佐治川は正面和田山自動車道の西方を流れる

京橋や栄橋を挟んで東 500m付近の田園風景の中に市辺集落を護る様に延々と小さな溝には不釣合いの堤坊が続く。後世の村人の幸せを念じつつ法華経の経文を一石に一文づつ記し、周りを石で囲う高さ1間・横三間四面の経塚を建立した。意春は以来・朝夕の勤行と托鉢によって 村人の難渋を救い里人の信仰を集めたが後年・村の西北の山麓に自ら穴を掘り、
市辺の十六丁畷と霧山・権現山(中央)・向山(右端)

産業の発展と村人の火難水難を一身に受けるべく経文を唱えながら寛永19年(1642)2月入定したといい、その徳を讃え毎年旧暦2月5日を命日として盛大に供養され意春まつりではおにぎりを参拝者に配り、その昔飢えに苦しんだ村人に対する意春の慈悲の心を思い起こして其の徳を讃えています。別所孫右衛門豊後守吉治は文禄元年(1591)重宗の死により家督を継ぎ、
市辺の十六丁畷!

豊臣秀吉の家臣として仕え翌・文禄の役(1592)や関ヶ原に戦うが戦後は徳川家康に仕え所領安堵を受けている。 元和元年(1615)大阪の陣に従って戦功があり何鹿郡(福知山市と綾部市境辺り)に 2万石を領したと云われるが…?。氷上由良庄の領主として市辺城!?を築いていたとすれば 此処・二村神社や浄現寺付近と思われますが其れを示す資料を未だ見ず…?
市辺の十六丁畷!!


氷上町由良には”屋形屋敷”といわれる「別所吉治の居館」があった。屋形屋敷が由良の南か北か所在を未だ調べていないが北由良の日吉神社と安養寺間に字名”馬屋敷”があり川は谷深く、大きく屈曲して流れる山側民家の南北に一段低い平坦地があります。他は民家と田畑が広がるだけだが土塁で囲めば此処にも居館が有ったのかも?
(現地経塚の後壁板銘文/市辺区案内板 由緒を尋ねて<丹波叢書第三集 を参照)


別所館 氷上城(霧山城)と氷上館(波多野神社跡) ガンジョウジ城(向山城・横田城)
長見砦(長王城・長見城) 山田城館 野山城 牛河内砦 新才城 舟城神社砦  北由良城

別所館
氷上城が何処にあったのか定かでない”幻の氷上城”は初代築城主の存在と遺構も不確かながら今では霧山に 氷上城があったとされています。ところが其の山麓に意春と経塚を訪れて、もう一つ謎の居館の存在を知った。別所吉治の居所は由良荘とあり丹波志・氷上郡志・丹波史年表では北由良とされる。京都園部や綾部へも転封されており、また其の禄高も1万5千石~2万5千石と加増。
北由良・馬屋敷橋付近…別所館は最奥部の山際か?

さらに藩主別所豊後守吉治自身も天正8年(1580)羽柴秀吉の 悲惨な飢餓作戦[干し殺し]に落城した三木城主別所長治の末弟とも・子であるとも、また落城の際落延び:長治の叔父重宗に保護された…等々郷史や伝承もある。 重宗は秀吉の家臣として三木合戦には付城の守将として参戦し天正13年(1585)1万5千石で但馬八木城主になっているが天正19年嫡子吉治に家督を譲って大阪堺で死去します。重宗の後を継いで豊後守を名乗り:八木川流域にある近畿最大の「中瀬金山」の奉行(代官!?)を務めていたようで、徳川幕府にとっては旧豊臣系大名が疎ましく関ヶ原の戦後処理による外様大名の改易・減封等に加え、全国の金山・銀山を直轄領とする政策…からも、後に別所吉治の改易にあたり中瀬金山を幕府が取り上げ天領とする意図があったとも…。
戻って:文禄元年(1592)秀吉の命で朝鮮出兵、慶長5年の関ヶ原合戦
第二馬屋敷橋

に石田三成の西軍に付いて舞鶴の田辺城【細川幽斎(藤孝)】を攻め、家康に所領を没収され流浪するが 翌年には徳川2代将軍:秀忠の乳母であった吉治の伯母(三木城主長治の姉”おもん”)の助命嘆願・お家再興の願いに家康から所領を安堵され、吉治を許し北油良に館を建て・吉治(24歳)を此処に呼び寄せた…と。慶長20年(1615)大阪の陣に戦功あり丹波国内(綾部陣屋・別所館)に5000石を加増され2万石となった。吉治は伯母の感化を受け神仏を崇敬し領内の寺社に所領寄進し善政を施しても居る。霧山の南西山麓:市辺に祈願寺や父の菩提寺等伝承も残り、二宮神社に意春の墓と経塚及び”加古川(佐治川)の氾濫による治水工事の十六丁畷(内堤防)も残るが、
馬屋敷・家臣屋敷跡か?

慶長19年・吉治息女の眼病平癒祈願に倉崎城(仮称)の活眼不動尊香良浅山不動尊に護摩堂を建ててもいるが奢りもあってか家康の死後・寛永5年(1628)仮病で 参勤交代を怠り遊猟に耽っていたといい事が発覚して改易・所領を没収された。その最期も明確ではなく承応年間の1652年7月に奈良で死去とも1654年に江戸で死去したともいわれます。吉治の子守治は慶安元年(1648)赦免されて蔵米1000俵を賜り、子孫は700石の旗本として存続したという。北由良(此処に字名:屋形屋敷や「第二馬屋敷橋」が其の名残を留め土塁遺構が残っている様だが広大な宅地・田畑の整地部では確認も無理…。
丹波志・丹波氷上郡志・由緒を尋ねて :昭和31年丹波新聞社・丹波史:丹波史懇話会を参照)


霧山城(氷上城)  霧山(高畑山) 372m  丹波市氷上町氷上・市辺

丹波に波多野氏は八上城(篠山市)波多野秀治と氷上城(霧山城!!?<丹波市>に波多野宗高(実在人物か疑わしい?)が居り、八上城を東波多野氏・氷上城は西波多野と呼ばれたと云う…が氷上城が何処にあったかが問われる幻の氷上城を今回再訪問します。
十六丁畷の堤と霧山

三代続いた西波多野氏(宗高父子二代とも!!)の居城だが:城址周辺に波多野氏の菩提寺はなく、戦国期の城だが規模に関わらず曲輪・堀切・土塁等遺構が曖昧で大手・搦め手と思える道もなく城史も伝承も残っていない。実像が曖昧な初代城主宗高の良く出来た伝承は真実かと思える程!!だが氷上城を高畑山(霧山)山頂部に存在した霧山城として紹介。
県道7号と佐治川監視のテーブル岩?(霧山西北尾根中腹)

幾度か訪れた霧山へはコースが荒れて3合目辺りまでは踏み跡さえ判り難くなっているが意春の墓や経塚も有る二宮神社の側から山頂主郭南西部まで登山道がある。南面・西面からは山容が示す激急斜面の上り一辺倒の藪や 倒木に悩まされ大岩・露岩が行く手を阻む。
霧山城主郭南面の帯曲輪?

何箇所かには採鉱の抗口さえ口を開ける難所です。長い縦走尾根筋が城山(ガンジョウジ城)から権現山(東への尾根先ピークには黒井城主:荻野直政(幼名:才丸が守将となり 八木城:内藤氏を退却させた野山城が在る)を経て延びており、霧山への尾根筋と分岐するT字辻からの東尾根筋からは山頂近くなってくると埋れかけているが土橋付きの浅い堀切を渡る。尾根筋上に2-3の1?2m足らずの段差を超えると尾根筋(幅広く長いが単郭の城)南斜面下部を山道かと思えたが帯曲輪が捲く。
 同 南面二段の帯曲輪・再上段が主郭<南東下へ3-4段曲輪在!?>

波多野氏居館や越前で討死した宗高の首塚も疑問視されるが、もっとも疑問視するべきは芦田氏・足立氏・赤井氏等国人の領内に忽然と現われて攻略・横領した訳でもない丹波氷上(丹波市)の中央部に来住して城まで築いた初代・波多野宗高の存在です。室町時代後期・築城主波多野宗高は美作(岡山県)国の人・親戚筋八上城主波多野秀治と相談して地領を毛利元就に預けて天文3年(1534)秋丹波へ来住し 天文7年(1538)霧山に城を築き西波多野氏の本城とします。
ニノ丸東端段と帯曲輪?

今の山上にどれほどの痕跡もないが西斜面は露岩雑じりの切立つ急斜面で山頂周辺に高低差も小さい数段の曲輪、北面から東?南面を帯び曲輪が捲き・更に東面から南面に1段帯曲輪が南東側・南西側下方には2-3段の曲輪!遺構が認められます。北の山麓に城主の「氷上館」跡があり波多野神社が建てられ(神社は別の場所(下記の向山城・多田野)に移され石の鳥居!!と波多野宗高の碑が建てられています)正親町天皇即位に際しては、
主郭東尾根に浅くなった土橋付き堀切!!?

国内が群雄割拠の乱世で 宮廷の台所も逼迫し、皇室が衰え御大典の式も挙げられない窮状を知った宗高は中国の毛利元就の誘いを受けて八上城の波多野秀治・北陸の朝倉義景等と資金を集め永禄3年1月に御大典の式には 荻野直政はじめ丹波各地の諸城主や毛利元就の子・小早川隆景等と京都の警護にあたり、無事に式典を終えその上御殿までも改築したといい、この忠勤により宗高と秀治は正四位・侍従の位と桐の御紋・桐の旗を賜り面目を施こしたといいます。
主郭東尾根に浅くなった土橋付き堀切!!?

(霧山は桐山が転じたものだったか!!)波多野神社の方は三代の城主が祀られ 大正4年(1915)大正天皇の御大典のとき贈られた彰徳碑 「贈従三位波多野宗高碑・大正6年3月建立」と近江(滋賀県)刀根峠で天正元年(1573)8月盟友の越前(福井県)の朝倉義景が織田信長に対して戦いに挑むのを”軽挙するな”と諌めたが 聞き入れられず止むおえず近江に従軍し信長と対戦したが朝倉勢は敗退し刀根峠(越前刀根山)戦いで討ち死にした宗高(時に70余歳だった)の首を家臣・佐伯秀章が持ち帰り埋めた「首塚」の伝承があり石積の礎壇に石碑が建てられ、今は石鳥居だけが残る波多野神社の台地が波多野氏の居館氷上館跡か?。
主郭西北面の上り土塁状?と、低段差で北?南へと主郭を廻す帯曲輪

霧山を南正面に望み背後の丘陵尾根は霧山城の繋がっており、氷上集落の高台に在る位置的には居館として適所と思われ戦国時代に波多野宗高・宗長【宗貞(宗長の弟!?)】親子二代の本城とも。幻の氷上城といわれたガンジョウジ城(横田城・向山城)と霧山の山頂部に比べ削平地や土塁等の遺構が残っている向山が氷上城(波多野宗高追慕碑も建てられている)かと思っていたが向山は館跡か黒井攻めの時の陣城の様です。霧山の城下がかつて氷上郡(現・丹波市)の中心地で西山麓の佐治川(現・加古川)に架かる橋に京橋の名が残る。
波多野神社の宗高聖徳碑と並ぶ首塚

織田:明智軍と籠城戦を展開していた八上城も兵糧が尽き天正7年6月波多野秀治は弟秀尚とともに 降伏し波多野氏は滅亡し兄弟は安土へ送られ慈恩寺で磔刑に処せられた。八上落城の一ヵ月前伝承?では氷上城の波多野宗長?も明智光秀に攻められ黒井城の荻野直正等と共に戦ったが天正7年5月29日羽柴秀長に大軍を付け但馬から丹波へ攻め入り霧山城に向かう。また播磨から丹波へは丹羽長秀が久下重治の玉巻城へ迫ります。宗長?は息子の宗貞?を玉巻城へ応援に向かわせたが落城して討死。
波多野宗高聖徳碑付近からの霧山 H16.11.23

宗長も丹羽長秀軍と羽柴秀長の軍勢に囲まれます。羽柴秀長は宗長を惜しんで降伏を勧めたが城に火を放って自刃し落城したことにより西波多野氏は滅亡します。「氷上郡誌」には羽柴秀吉の塁跡とも稲葉壱岐守の砦跡…と記されているは向山城(ガンジョウジ城)の事でしょうが城主名は明確ではありません。
(丹波戦国史 氷上郡誌等参照)


ガンジョウジ城 (横田城・乾ノ山城・城山城) 城山・乾ノ峯(向山・カマジョウジ)198m  氷上町石生新町・横田

地元で城山と呼ばれ県遺跡分布図には横田城とあり「ひょうごの城紀行」や「県の中世城館・荘園遺跡」に赤井・荻野ゆかりの城砦とある。石生と横田を結ぶR175号稲継から春日町に入る城山トンネル上に乾ノ峯がある。
分水界の高谷川<工業団地側>から望むガンジョウジ城)

石生からは向山・横田からは城山と呼ばれる乾ノ峯(標高198mの山頂は最近(H13年以降?)雑木薮が伐採され城址案内板が設置され氷上黒井の盆地を望む城山展望所になっている。城名をガンジョウジとしていますが カンジウジ(氷上郡志)ともカマジョウジ(山頂案内板)ともあるがカンジョウジ山城(乾ノ山城)とも充てられる。丹波志には乾ノ峯・豊臣秀吉公陣場とある!!?。 私なりに仮説・補足してみると黒井城からみて方位の(カン)の延長線:の方向には荻野直正出生地の後屋城・白山城や高見城・母坪城(氷上町)等
石生新町からの向山(ガンジョウジ城

赤井氏の氷上町側諸城が在る。直正本拠城の黒井城の猪の口山(春日町)は、戌と亥の間が氷上町と春日町堺に位置するカン=「の山の城」と…カンジョウ(乾城)xxxまでの仮称には漕ぎつけた。後は最後のジ!!?。寺に関するものはなさそう?。それに赤井・荻野方の城塞と考えると少し特異な城に映る。下記に諸説があることを記しているが堀切・縦堀・櫓台(本丸?)以外の主郭内に帯・袖・腰曲輪の段差もなく・虎口もなく・極低土塁(現状)をみるが
三角点峰のガンジョウジ城主郭:北端の櫓台土塁

仕切土塁と云えるほども明確でない。雑木や下草に覆われていた頃は 城の遺構に関心もなかったので記憶は薄く、曲輪を区分する切岸の無い低い段差が 2-3段あったような?…。公園化された現状況からは判断できない。木々の伐採だけで整地等大きな改変はない筈。主郭南端の登山道横に虎口状があり3m程の切岸を下りたところに1.5x1m四方の井戸がある。鹿猪等の落し穴かとも思えたが深そうだ。倒木で埋もれ城遺構かは判らなかったが…氷上盆地・黒井盆地を東西に分けて南方には高谷j川が加古川へ、 東側には向山連山の山麓とは僅か700m程の山間を由良川源流の黒井川が流れ出る分水界を成しています。
ガンジョウジ城最高所・本丸!!

この山間を氷上・黒井側へ抜ける街道以外は山越えとなる。黒井城攻めの織田勢にとっては攻撃に絶好の拠点。赤井勢にとっても侵入阻止の為死守すべき玄関口。播磨方面から侵攻してきた羽柴秀長軍が黒井城西方(氷上町側)の諸城を攻略して此処に至り陣したもの か?。氷上町側の高見城山穂壷城弘浪山白山の各山城や春日町側には直ぐ東2kmの朝日城・黒井城・千丈寺砦を指呼の間に望む展望地だ。丹波年輪の里付近からは如何にも城跡の主郭部は広い削平地 (城域は南北約85mx30m程)が拡がり、
ガンジョウジ城:平野部の狭い廻廊を黒井盆地に入る

三角点石標が埋まる櫓台の最高所以外は黒井側が少し高くなって曲輪が延び南側端が通路だったと思われたが城遺構は尾根を野山城・霧山城への重走路を北に降る鞍部に深い堀切(本郷側の一宮熊野神社へ降るカンジョウ坂(カンジュウジ坂)は深い片堀切道<大手堀切道か?>)、主郭の櫓台土塁・無線中継塔や配水施設が建つ南側尾根筋の丘陵南端に土壇・土塁状盛上がりを持つ曲輪と小曲輪を2段程見る。山城へは東小学校裏手の長者稲荷神社迄は参道が通じており稲荷社を右に見て急斜な石段を登ると向山配水所の大きなタンクに突き当たり、
ガンジョウ坂(堀切道)

踏み跡を辿ればDoCoMo向山無線中継所を経て此の一角6~7m四方が1m程の段差で高く盛り上がる櫓台土塁のある点名:石生の4等三角点向山山頂の広い曲輪に着きます。北方の霧山(西波多野氏?の氷上城)から天王坂・権現山(荻野直正初陣の野山城)を経て 延び出す尾根の南端に 城山が位置しており眺望に優れ・山陰道の要衝でもある 領内監視と分水界をも一望出来る軍事的にも要地は特に黒井城攻めでは西・南方の喉元を押さえる山頂付近一帯には削平地や
堀切道を下る熊野神社背後の鞍部にも土塁・数段の曲輪状を見る!!?

土塁等の遺構が残っており室町時代・永正年間(1504-21)頃は穂壷城主:赤井景遠や穂壷城を攻略した波多野宗長・宗貞父子の館跡だったのか古城主に 穂壷(稲継)城の稲継壱岐守の砦とも屋敷跡ともいわれます。要害でもなく・立て籠もるには小さな城山城ですので波多野宗長は山を降りて打って出、子の宗貞も久下氏の玉巻城(山南町)落城で共に討ち死にして西波多野氏は滅びたと云われます。「丹波攻め」の際は秀吉陣城とも云われるが秀吉は丹波に来たことはなく、但馬にいた羽柴秀長が明智光秀の援軍として丹波に入った時の事でしょうか?。
ガンジュウジ城から望む黒井盆地:

何よりも此処は柏原(光秀が陣をおいた柏原八幡)と黒井(丹波の赤鬼<赤井・荻野氏>の城)の 中程に位置した狭い谷間にある要衝は黒井城攻略の陣城になったと思われ、向山は此の黒井城の付城(向城)の有った山の意味でしょう!!?。西波多野氏の氷上城が此の向山城とも考えられますが霧山城が遺構希薄!!ながら濃厚。柏原八幡山に本陣を敷いた智光秀軍の妻木主計助範資が拠った石負砦が此処なら黒井の盆地を包み込む西南口の最狭部は要衝だが軍事的にも非常に重要な押さえのポイントで黒井城向城としては、これ以上を望むべきもない好位置です。
ガンジュウジ城:主郭北端の櫓台土塁(三角点名:石生)

柏原本陣を出て7日余りの黒井城攻め、この時は「呼び込み作戦」と呼ばれた八上城(篠山市)波多野氏の突然の背任に明智軍は敗走しているが稲継の穂壷城は波多野氏方の城だったのでガンジョウジ城(横田城)は明智の向城として事前に改修出来る余裕もあった筈。石生砦?の石生西河原城や四ノ山砦(天ガ嶽砦も柏原八幡城(本陣)と同時期に浄福寺砦(仮称) は総攻撃の為・妻木軍が臨戦の駐屯基地として確保し整地したものとも思えます。


長見砦(長見城・長王城)  xxx山  xxxm  丹波市春日町長王地区長見

氷上町稲継から城山トンネルを抜け出てR175号線・石才から天王坂を氷上町桟敷へ越える一般道を 長王の分岐で北に見送り、長見集落の東方へと地区道を入ります。正面奥には黒井城が見えていますが目前に瓢箪型・前方後円墳のような低丘陵に黒井城塞群の一つ:
長見城(前低丘陵中央~右手)遠望
長見城(長王城)がある。城山-霧山-権現山-天王坂-亀の座 (点名:長見)-油良坂へと続く稜線上に室町時代末期頃には氷上の西波多野氏や芦田氏、氷上と黒井に跨っては荻野(赤井)氏や土豪の城砦があったようです。やがては黒井城主:荻野直正の配下となる芦田氏・足立氏とは勝敗を決せないまゝ双方に多数の死傷者を出した香良合戦の境界線が 天王坂(旧但馬道・山陰道)でした。
楯縫神社側との切通し道:長見城側切通道上の曲輪!?

天王坂を南側 (黒井)に下ってほど近い長見集落の北西の丘陵は上記境界尾根の亀の座(点名:長見 )から南へ延びてきた低い丘陵尾根の南末端部に位置する。長見集落内・この丘陵端部の空き地に「長盛小学校跡地」石標が建っており登城ルートの目印になる …が気付かれる人は殆どいないかも!!。此処には長盛校として明治12年(1879)より明治18年まで其の後は明治20年まで長見小学校、明治25年から明治30年!までは 船城尋常小学校として此の地に在った事を示す石標柱が立っています。
長王城:南郭・北郭を区分する堀切

背後の丘上に子守神社(子守=籠の)城砦とも採れそうな名・楯縫神社の幟旗が立つ。社の左隅に五輪塔の残欠が2基祀られていて赤井(荻野)氏関連の 黒井城攻めによる戦死者の墓石なんでしょうか??。神社の社殿に捲かれた紫幕の紋には”左三ッ巴”と後側の幕には”藤丸”の紋が染め抜かれています。
主郭から曲輪南末端堀切側の土塁を望む

神社の守護神としての創建や城砦の築城時期は不明だが荻野直正の紋です。「丹波志」に字名「兵庫殿」呼ばれる平地に屋敷跡があったと記されている。も少し遡って建武2年(1335)播磨守護職でもあった赤松貞範が北条氏を討つため関東に向う足利尊氏に従い春日部庄を与えられ代官として此の地に来た頃なのかもしれませんね?。切通し道で二分されてはいますが急斜面上は独立丘陵で尾根最南端に突き出している。南麓集落の道は東方約3km程の黒井城下から山田城の南・新才城(街道監視の砦・後に黒井城向城となったのかも?)を通り、
主郭北の切岸と堀切

此処から牛河内(由良坂越)で由良へ抜けるが天王坂を越える但馬街道が湿田帯?の黒井川右岸沿い(左岸はR175号線沿い!!?)に通じていたと思うのだが?長見砦(長王城)は亀の座(点名:長見)の北方約250mの由良坂越え及び先述の天王坂を越える但馬街道を 抑える砦と思われ楯縫神社は削平されて城砦遺構はないが見張りの出郭が在ったと考えます。由良坂・天王坂は氷上町の油良や桟敷の芦田氏領地に接する最前線で 鎌倉時代以来繰り返されてきた
中央土塁を挟む二重堀切(空掘)

丹波の合戦中でも最も激烈を極めた【香良合戦弘治元年(1555)】の舞台に近い位置にあります。油良坂付近には牛河内砦があった。細川晴元側の赤井時家一族と晴元に背いて 細川氏綱方となった三好長慶軍の松永久秀や沼城主芦田上野介光遠、山垣城主足立権太兵衛基則の連合軍が香良に終結した戦闘で赤井時家・家清・荻野直正等が奇襲します。この戦闘で大負傷した黒井城主・荻野直正 (25or26才)が本城に引揚げた際・どちらの峠から引き上げたか知らないが先ず此処・長見砦に逃げ帰り養生したと思われます。
主郭北の二重堀切?

城域は楯縫神社の建つ独立丘陵(丘)の裏手が更に北方稜線の亀の座へ続く尾根先との 間を深い凹角状の切通し道となり、この間を軽トラなら通行可能の集落内作業道が通じる。堀切や空掘跡の様ですが此処から城域の最初にたどり着く南側曲輪までの北を除く三方は比較的緩やかな傾斜と防備に土塁や切岸加工もない?!!丘陵頂部の低い曲輪に着く。
二重堀切?東端から堀切とは別に南へ空掘状の溝?が延びる

此処から下り気味の尾根上に 3~4段の曲輪が並んでその先に堀切を見ます。3~.5m程の切岸で囲まれた一画が本ノ丸で尾根幅一杯(東西約30m)に広がり長さ約40mの大きな曲輪が「兵庫殿」呼ばれる居館の北曲輪(主郭)なのでしょうか ?低土塁と幅広く深い空掘が北曲輪と南曲輪を二分しています。【北曲輪北端の切岸下には中央土塁を挟んで二重堀切となり?、
主曲輪から西下方:池側の平坦地(曲輪?)

一本は東端から南へ空掘状の溝が主曲輪裾を捲く!!?】…空堀(堀切)の先に続く尾根は亀の座(点名:長見)に向うが途中に城砦遺構は何も無さそうです。しかし直ぐ北西下方のは帯曲輪があり主郭から見えるが、作業残地資材が散乱しているようで・畑地に利用されているのかも知れない。側に貯水池があり、其の北上の雑木藪を抜けると稲荷古墳へ通じる農道~山道に出るが此の間の藪中にも数段の平坦地が在る!!?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 を参照)

山田城館  xx山 176m  春日町山田

長見砦(長王城)の真東(約3km地点)に城山(猪ノ口山)があり丹波の武士団”丹波鬼”の頭領として”丹波の赤鬼”の異名を持つ黒井城主・荻野悪右衛門直正の石垣積(後世の改修による)城が見えます。 兵庫丹波の山城は織田信長の”丹波平定”で天正7年には全て落城したが其の頃の石垣の城は八上城(篠山市)と明智光秀が丹波攻めで此の2つの城向城で築城の金山城くらいで、後は土留めの石積み・石列を見るくらいです。
養護老人ホーム背後の丘陵に在る山田城館

岩尾城(丹波市山南町)や篠山城は丹波平定以降に構築・再建されたもの。其の黒井城と長見砦の中程に山田城館があります。黒井城から千丈寺山(千丈寺砦)~ヨコガワ峰~五大山に延びる丘陵のヨコガワ峰から南へと 山田集落の北東へと張り出してくる枝尾根の末端の峰に位置する山田城館へは大きな貯水池を前にして建つ特別養護老人ホーム”おかの花”から背後の丘陵を目指して入ってみた。老人ホーム関係者の駐車場の先へと鹿避けフエンスを開閉して進み、何時ものように稜線へ向うが稜線を高く詰め過ぎたようで南端のピークへ引返すと鞍部が深く切れ落ちて尾根を断ち切る堀切がある。
山田城館の深い土橋付堀切

鞍部から山側の尾根に遺構らしいもは何もなかった。尾根の一部を土橋として残した堀切は深く(3~5m)、東側へは幅約2m・長さは10m程だがそのまま同じほどの幅で先ほど登ってきた道へと鹿避けネット沿いに続くので登城用の堀切道なのかも知れません。其処から南端への尾根は短く、緩斜面が続いて2段ほどの平坦地がある。尾根左右に竪堀状の溝を見て高さ2.5m程の段差の自然地形の平坦地(15mX 20m四方程)に 登り着いたところが主曲輪の単郭の城。
山田城館主郭:フエンス左右には竪堀

城史や城主不詳ですが天正6年(1578)荻野直正が病死後、叔父の三尾城主悪七郎直信(刑部幸家)が城代となり光秀と対戦していた頃に山田庄八郎が三つの砦を守備していたといい、 此処山田の城館に拠り上記の長見砦・由良坂付近にあった?牛河内砦
荻野直正(才丸)の頃野山城を預かっていたのではと思うが?。幾度か丹波へ侵攻してきた内藤氏と福知山や此の付近で戦いを交えたと思えます。天正期に入ってからの明智勢との対戦では地雷等を使用しての猛攻で 退散させてもいるようですが、
山田城館の堀切(堀切道


防備手薄で勝算のない各砦守備の将兵は翌天正7年頃には 撤退して廃城とし黒井城に集結していったと考えますが、山田城の主郭に立つと目前に黒井城を望む位置にあり、此れ等の城砦が光秀軍向城としても利用されたと思えるが?不詳。山田城館や此処から西南に僅か1km程の新才にある新才城は比高30m・緩やかな尾根の末端部に円状主郭を置き、東方斜面に曲輪が4~5段程並び全て黒井城を正面に望む。背後は緩やかな登り坂の上部ピークが平坦地形だが 防備施設の曲輪・土塁・堀切等が見られない。
山田城館主郭傍:西への竪堀

新才城の山裾を丘陵沿いに北に向うと由良坂を越えて氷上町に至る。此処に牛河内城があるが城域とされる尾根上は平坦地形だが遺構らしい構造を見かけない。しかし黒井城の向城群の一つとすれば油良坂の牛河内城ほど・他の向城からは死角となる北千丈寺城・西ノ丸・黒井城本拠の三城砦の北面・西面を望み城内の動きさえ窺えそうな向城も少ない。
山田城館:北端土橋付堀切(土橋上から)

天王坂と共に西北部の交通経路を抑える重要な峠に陣城を構え、此処からの展望はないが尾根続きの左右に延びる平坦地形の尾根上に見張所を置けば黒井城南東の市島町側にも長い尾根上にテラス状や曲輪らしい平坦地があり築城次期・城史不明・其の遺構さえ不明瞭な矢谷城館に較べれば周辺の黒井城の手足となった城砦群をもぎ取って悠々と本拠:黒井城だけを包囲監視できる。
山田城館主郭(南から)

落城まで半年余り?短期間のみ使用された明智軍有利の向城になったと思えます。西の尾根は天王坂を越え霧山城・野山城から丘陵尾根末端にはガンジョウジ城【黒井盆地の西口を押さえる重要拠点で秀吉方が明智光秀の援軍として但馬に居た豊臣秀長が丹波に入った時の事でしょうか?】で切れる。
山田城館主郭:一段下腰曲輪(南東から)

北への丘陵尾根は黒井城~千丈寺城からの尾根を併せて五大山~五台山へと延びる分水界尾根で途中には美和峠・鴨内峠等の峠越えの間道もある。峠・尾根伝いに黒井城への侵入路や退路を絶つ監視を兼ねて山田城や新才城が 牛河内の開口部を護り・再奥の由良坂を牛河内城が堅めていたのでしょうか?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 を参照)

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山田井上古墳?/ 山田大山古墳?   春日町山田字大山

山田井上古墳?城山(黒井城)-西ノ丸-丈寺山(千丈寺砦)へと 五大山へ延びる縦走尾根で、今は道標設置で尾根筋の山道も明確だが、だだっ広く・背の高い雑草と藪尾根上・しかも進む方行が此処で変わるが 前方に五大山へのコースが確認出来ないヨコガワ峰にコンパス・地図無しでは少し不安を感じながらも、テープに助けられて完遂できた事があった。
山田井上古墳?の石材上に宝筐印塔

ヨコガワ峰から西南に延びる一番長い尾根の末端ピーク(176m)に 山田城の遺構があるがそこから真南へ落ちる斜面の裾:と老人ホームの西北部に屋敷跡かとも思われる 3段程の広い平坦地があり一番下?の台地の 西端部に大石を数個露出させている箇所があります。周辺に大石が露出しているか墳丘を見せる古墳は見当たらないので、此れを遺跡分布図にある山田井上古墳に比定しておきます。
山田井上古墳?の散乱する石材に祀られる宝筐印塔

分布図には此の古墳についての記事欄(コメント)が空白のまま。 薄暗い雑木藪のなかに横穴式石室を持つ円墳があるが天井石2枚以外は埋まり・崩れ内部を窺い知る事もスケール(規模)も良く判りません。崩れた天井石と思える大石の上には宝筐印塔が載せられ祀られています。基壇はなく基礎部・塔身・笠部だけで相輪も失われた状態だが 小振りながら気品さえ漂う!!立派なものです。隅飾からは天正期:此処を守備していた山田城主:山田庄八郎が居た頃のものと思えます!!?。

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山田大山古墳? 老人ホーム西の山麓に在る山田井上古墳?とは山道を挟んで老人ホームの北上方:山田城館に向う山道正面に鹿避フエンスがあり、フエンスに沿って広く緩やかな谷間の東側へ目を移すと数個の大石を載せる塚状の盛り上がりを見る。近寄ってみると大石の内部や周辺には10~20cm程の小石が散乱というより封土が流失した古墳の石室と葺石だけが残った感じ?。
老人ホーム駐車場上にある山田大山古墳?

横穴式石室の封土に葺石が敷かれるのかな?…封土が流れさっているのに葺石だけが小範囲に残るのかな? それとも経塚の葺石か…一石一字の経塚とも? いろいろ考えてみても 素人の思い込みで 整地された残石の集積場なのかも?…位置が少しズレているのかもしれませんが
山田大山古墳?

遺跡分布地図に山田大山古墳と記されている場所に近い!!。 上記の山田井上古墳と同様に遺跡分布地図には此の古墳についても記事欄 (コメント)が空白のまま。未調査というより調査対象にもなっていない…ということなのか?。私には山田井上古墳?に祀られる宝筐印塔の主や祠の位置について調査の目が向けられ・地元に伝承や 調査資料でもあればさらに良いのだが。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


牛河内砦(牛河内城館) 由良坂(牛河内坂)を挟む両サイドの峰 XXX山 xxxm   春日町牛河内

先週訪れた長王城と山田城館の中ほど、 新才から北西に延びる地区道の先にある牛河内集落の最奥に 瑠璃山浄光寺前から氷上町の南油良-桟敷へ町境尾根を抜ける油良坂(牛河内坂)があり 今は利用される事もなく倒木や雑木、シダ類の下草で覆われているが幅広い道が続き、
油良坂の左に亀の座、 右に三ヶ月山~五大山への稜線

急斜面では九十九折れながらも緩やかに延びていきます。昔は旅人の往来や物資の運搬に荷車が行き交っていたと思われ、浄光寺の前から始まる油良坂への入口には4体に石仏が 祀られています。通行の安全を祈願したものでしょうか?。氷上町側の油良を超え東芦田や佐治から但馬朝来市へ、 福知山市へ抜ければ・由良(丹後由良)への丹後道が通じる要衝の峠だったとも思わせる名前です。
油良坂直ぐ上部・三ヶ月山側に見る平坦地

此の峠の南1.2kmには旧但馬街道の天王坂が通じているが佐治方面からは南油良を牛河内へ抜けると此の由良坂を越えれば黒井城へは最早3kmの地点です。峠を越える鞍部は深い露岩混じりの切り通しだが、その前後は広く緩やかな道が氷上町油良側に続いています。切り通しを抜けた牛河内側は急斜面にジグザグの長い坂道の
油良坂・五大山側の稜線から千丈寺山城と黒井城(中央左の2峰)

峠には石垣積の台地があります。 上部の平坦地は伐採作業場にしては狭く, 里が近いので茶屋跡とも思えない。道祖神・道中安全の石仏を祀るにしては石積みは広く大層過ぎます。其れに此の台地は峠を越えて 氷上町側から侵入してくる相手に正対して迎え撃つ位置にあり、この要衝が有事には軍道となり通行を遮断する黒井城配下の関所城?か通行監視の施設の一つに思えてきます。
油良坂(氷上町側)

応仁元年(1467)山名氏と細川氏の戦いに将軍家の家督争いが絡んで全国を二分する程の大乱となる”応仁の乱”の勃発以後・丹波も戦国動乱の激動期を迎え山名・細川両氏の対立は益々激化してくる。細川方の丹波守護代・内藤国貞に氷上郡を追われ播磨を流れた赤井氏が 烏帽子山城に内藤宗勝(法雲)を攻めた前後にも 幾度か内藤氏・赤井氏の間で交戦。
油良坂・牛河内側には岩盤に石積の曲輪!を見る

其の頃・赤井氏を討つべく三好長慶の傘下にいた内藤国貞が弘治元年(1556)松永久秀等と香良に終結し 芦田・足立両氏も加わります。赤井氏には霧山城)波多野宗高(西波多野?)も与力したと思われます。 東波多野の篠山・八上城も細川方の三好長慶・松永久秀等に攻められ 戦いを繰り返し弘治3年(1557)には八上城を追われています。荻野直正が永禄8年(1565)天田郡に侵攻して三好・松永方の内藤氏を攻めた和久合戦(福知山市)に勝利した翌年には波多野晴通・秀治は
油良坂・牛河内側の曲輪から由良坂

八上城を奪回したように内藤氏は赤井・波多野両氏の共通の敵ですから…。油良坂の北・直線距離で1.5kmの所に独鈷の滝と浅山不動尊があり西の山稜に芦田氏の香良城がある。結集した内藤・三好勢と同族の芦田・足立両氏に赤井氏が攻撃を開始、天王坂側は波多野宗高?が守ったと思われ赤井氏は油良坂から侵攻したと思われる。
由良坂の直ぐ上部・三ヶ月山側に見る平坦地

此処・町界尾根の油良坂や天王坂周辺を舞台として両軍に多くの犠牲を強いて結果勝敗を決する事無く三好勢は敗走し芦田・足立両氏も全滅に近い、 それでいて無益な丹波では最も壮絶な戦闘が行われた香良合戦。油良坂は其の後・赤井氏の傘下に入った芦田氏・足立氏が”丹波侵攻”を開始した明智勢に備えた砦として守備していたのかもしれない。
同上の曲輪先端から由良坂に落ちる竪堀!!?

城史や城主不詳、そのうえ遺構さえ明確ではないが天正7年(1579)荻野直正が病死後、 但馬に出兵中の黒井城代・叔父の三尾城主刑部幸家が急を聞き駆け戻り佐治から越えて戻ったのも油良坂です。黒井城落城は目前に迫っていた。光秀と抗戦していた頃山田城館の山田庄八郎が守備していた砦だったのかもしれません。ところで香良合戦で大敗した芦田氏 ・足立氏は黒井城主:赤井氏の幕下に組み入れられ ますが岩本城(足立館・青垣町小倉)
急峻な谷底道(油良坂)の油良側曲輪


城主の足立基則等の一部は赤井氏の幕下となる事に抗して逃れ 明智光秀傘下に入り天正11年1月本能寺に信長を襲った光秀に付いて自刃した足立氏一族もいた。 天正7年(1579)秀吉方:羽柴秀長の援軍が但馬へ通じる遠阪峠を越え侵攻、その日の内に遠阪城・芦田城・栗栖野城を落とし足立氏の本拠:山垣城も落城、 城主足立弥三郎基助の長男:四郎左衛門基依
急峻な谷底道(油良坂)の牛河合側曲輪を上方から覗く

牛河内へ逃れて隠棲し、子孫が足立本家を名乗っていると云われます(「丹波志」参照)。牛河内には光秀に付いた足立氏の砦があって足立家存続の為:敵対したといい帰農して入村する・まして明智光秀に付いている足立基則の一族には光秀方も許したのかもしれません?。

(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書を参照)


新才城(仮称)  XX山  134.3m(4等三角点)  春日町新才

R175号の稲継交差点から城山(ガンジョウジ城(横田城)トンネルを抜けると正面に露岩を抱く向山連山の丘 陵北端部を西から北側へと廻り込んで黒井盆地に入ってきます。一方篠山市から 金山城の在った鐘ヶ坂を越え八幡山城の在った柏原町を通るR176号から 日本一低い谷中分水界「水分れ」沿いに走ってくると、向山連山とガンジョウジ山から霧山~
新才城・主郭北の土塁と虎口部?


天王坂を経て五大山~五台山へと延びる丘陵が僅かに此処だけが黒井盆地に入る狭い南西の玄関口・黒井城の咽喉元にあたる攻防ともに重要な位置にあります。此の最重要拠点の要衝を守備するのに氷上の中央分水界尾根上の城山に穂壷城主の支城ガンジョウジ城(横田城)が在る。丹波に入ったことはない筈の秀吉が此処に黒井城攻めの陣を置いたとも …向山城の名からも明智方の向城となったものか?。
牛河内城・五大山側の稜線から:新才城(中央先端部)

霧山城(氷上城)との中程にある権現山349mから春日町側の野山・大崎へと黒井の盆地の東へ落ち込む丘陵部突端の峰上に立地する野山城がある。R175号側は石才の先に朝日集落がある。此処には後屋城から才丸:荻野直政を新頭領に迎え結束を固めた朝日城もある。黒井盆地に入ってくると左手(北東)に五台山~五大山から延びる丘陵尾根の先に千丈寺山(千丈寺山砦)と黒井城の二つの峰を載せて R175号線に其の先端部を落し込んでいるのが見える。歌道谷を廻りこみJR福知山線と並ぶ「石才」の先でR175号線から外れて踏切りを渡り・船城小学校前を北に向う直線道路正面にみえる低丘陵の末端部に新才城(仮称)がある。
愛宕神社と熊義稲荷社


新才郵便局やJAからは直ぐ目前の丘陵上で新才交差点(T字辻)を 北へ約3-40m・牛河内へ向かい墓地から取り付くが長見砦(長王城・長見城)
のある西方へ約60m程にも「愛宕大権現」・「正一位熊義稲荷神社」への参道から尾根筋まで山道があり尾根を東へ降っても良いのでは!!。 新才城の西背後・尾根続きの小ピークも自然地形だが広い平坦地。此処から何もない緩斜面を下って突然1.5m程の段差(切岸)を越えて新才城の主郭に入る。 土塁虎口らしい遺構があるだけだが東斜面上には同心円状に7-8段の曲輪段が続き、東方正面の黒井城を望む。
新才城:東斜面を同心円状に6段の曲輪が続く

船城小学校の北側には黒井盆地のほぼ中央を流れる黒井川があり、秋に狂い咲きの桜が咲いているのを良く見かけます。山に囲まれた盆地でも殆ど日陰にもならない位置だが中世の黒井川沿いの湿地帯を避け黒井盆地北方の山裾を黒井城下から兵主神社~新才~天王坂へと但馬街道が通じていたのでしょう?。新才城は五大山から由良坂を経て亀の座(4等三角点 318m)~天王坂への 分水界尾根の亀の座から南東へ延びる尾根末端の台地(134m4等三角点)に在って比高20m足らずで山麓の旧街道?筋に下りる。
新才城主郭:土塁と虎口?(北西端)


長王地区からは直線に延びる間道が此処・新才で船城小学校からの直線道と合流するT字辻が新才城下を通って北に牛河内城の在る由良坂を 氷上町由良に出て加古川(旧佐治川)沿いに青垣町に向う。東へも直線道路が兵主神社(兵主神社西砦が在る)へ向う。春日高等学校を挟んで向かいの丘には行者山砦が在り、黒井城下町への西入口監視の砦だったものか?。 新才城の縄張りに防御性を重視した堀切や竪堀はなく曲輪の配置や切岸等に技巧もない。山上のほぼ円形主郭からは尾根筋の先端部にかけての東斜面上に幅狭い削平段が半円を描くように5-6段ある。
新才城:段曲輪(東下方から)

黒井城砦群の一つとして由良坂への南出入口を押さえる重要な位置にも在って主要街道と共に通行監視にあたっていたのでしょう?。 しかし正面に孤立化した黒井の本拠城を間近に見据える位置だけに牛河内城とともに黒井城落城が数ヶ月後に迫った頃には光秀方の付城として・将兵の駐屯地ともなっていたものか?。明智軍は黒井城包囲網として黒井城周辺に12-13ヶ所の付城(向城)を構えたという。


舟城神社砦(仮称)  XXX山  190m  丹波市春日町長王

向山連山に濫觴の一滴を発し「で高谷川が加古川から瀬戸内海へ・黒井川が竹田川・土師川・由良川に継ぎ日本海へ流れ出る。 此の春日盆地の粗中央を流れる黒井川沿いに船城小学校があり、南方を走るR175号が向山連山:四ノ山(天ヶ嶽城)西麓の歌道谷(うとうだに)に船城神社があり、
舟城神社参道(登り口から黒井城・千丈寺砦を望む)

此の船城神社標識とバス停のあるT字辻を真っ直ぐ北へ向かう車道が、左手に野山城(後:黒井城主となった荻野直正が内藤氏を追返した初陣の城)を望みながら 県道285号に合流すると左折して氷上町桟敷で県道7号に出る賀茂春日線。天王坂は 忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻:りくが但馬への帰郷に越えた但馬道。峠の上には初代城主を西波多野氏の宗高とされるが、実在人物かさえ不詳の幻の(氷上城)霧山城がある。
下段曲輪群の井戸曲輪と主曲輪

此の天王坂への春日町側登り口には舟城神社があって一寸ややこしい!?。 ”天神さん”ではないが本殿前に牛の置物がある!…嘗て牛を牽いて参拝した「牛頭天王社(家畜の守護神)」で左右には阿吽の狛犬が立つ。彫師に「野村の伊助」の名が刻まれ以前なかった説明案内板が立てられている。春日町野村は難波伊助の産・野村から柏原の大新屋に移った初代難波金兵衛で、
下段曲輪群の上段曲輪間を分ける空堀(右手)と堀底道(左手)

養子に迎えた丹波佐吉(村上源照信)の名はよく知られるところ。今回は此の本堂裏手の八柱神社側から背後の丘陵へ。神主も裏山へ入られた様で:山城の存在は兎も角「堀」があることは御存知だった。黒井城からは黒井川を挟み圃場が拡がる平野部の西端に明智の付城群の一つ「新才城」がある。香良合戦の際:荻野直正が傷を負い絹山の”勝坂”を北油良へ
上段曲輪群と帯曲輪/通路?

・更に南由良から牛河内へ…と遁れ坂を下れば新才。また明智光秀の黒井城攻めに弟:赤井幸家が但馬竹田城から急遽引返し本城に入ったのも牛河内の由良坂。香良合戦において氷上側への侵攻や春日側への撤退に天王坂が使用された形跡は少ない様?。篠山市から丹波市氷上町‐青垣町‐遠阪峠へ抜ける但馬道が要衝として利用されるようになったのは後年のことなのか?。
上段曲輪群主郭からの竪堀

新才城から真南へ直線道の先に船城小学校が見える。北方には氷上町由良境の低丘陵部が続くが南・西方に拡がる平野部の西端も横田城・野山城・霧山城が氷上町氷上・市辺町境の丘陵部で遮られる黒井盆地の一方の隅:天王坂への登り口(県道285号)に舟城神社があり黒井城・千丈砦を正面に望み新才城まで約1km地点にある。
上段曲輪群主郭

黒井城包囲の光秀の付城群は黒井城正面に茶臼山城・南西には嘗て直正(才丸)を城主と仰ぎ迎えた荻野衆の朝日城もあるが 西端にも居住性の高い舟城神社砦(仮称)があり新才城・山田城・牛河内砦…等の西北丘陵部にある前線基地付城群の後方支援に、 また但馬街道を北方から天王坂を越えてくる
上段曲輪群主郭

足立・芦田氏他の援軍侵入阻止監視にも当たった陣城だったか…?。縄張りの異なる二郭からなる一城別郭の舟城神社砦(仮称)だが共に、曲輪切岸・土塁・堀等に防禦性の高さは感じない。八柱神社背後に井戸?曲輪・居住空間を持つ 広い曲輪を廻す上段に3っばかりの小曲輪が並ぶ主郭部・尾根続きの半分は土塁。空堀が土塁道を遮断:・半分は土塁に沿う堀底道が上段の段曲輪に繋がり露岩を背にして縄張りは一端途切れ、
上段曲輪群主郭下の段曲輪

北から西方へ尾根筋が変わる比高20m程上部の尾根筋約60m程の範囲(殊に東北側斜面に小曲輪群を、尾根筋に段差の少ない5-6ばかりの段曲輪をならべ 城域末端付近から北下方に竪堀が一本・神社から登ってくる作業林道終点側に落ちるだけ。


野山城(野山砦)  権現山東枝尾根の峰 XXX山 Ca280m   丹波市春日町野山

氷上の中央分水界(日本一低いとされる谷中分水界)尾根上の城山(ガンジュウジ城<横田城・向山城>)と霧山(氷上城)の中程にある権現山349mから春日町側の野山・大崎へと黒井の盆地の東へ落ち込む丘陵部突端の峰上に立地する野山城は「丹波志」に「小屋ノ段」と呼ばれて陣小屋があったとされています。
野山城から石生・柏原方面:黒井への南入口は幅500m程の此処だけ

野山城から東面に黒井盆地が拡がり左右の山裾には本拠;黒井城の城砦群・明智光秀の「丹波攻め」に落城後・向城として利用された城・新に築かれた陣城がある。 南面は眼下に黒井川が流れ南東方には西多紀アルプスの三尾山・黒頭峰から延びてきた稜線が謙葉山から向山連山を経て北西を末端に落ち込むところ。
西曲輪:尾根続き西面の大堀切

南西は霧山城から権現山野山城は此処から東へ延び出す丘陵尾根先端部に位置する)~ガンジュウジ城を経て、 北近畿自動車道和田山豊岡線が抜ける城山トンネル上を南へ延びる丘陵が向山から流れ出る中央分水界が加古川(佐治川)へ出る
西郭上:中央に大岩が鎮座!!

高谷川と由良川に出る黒井川(黒井城下を過ぎた東で 栗柄峠からの竹田川と合流する)とに分かれる水分れの石生の町に其の尖端を落としています。黒井盆地の周囲をグルリと包み込む丘陵帯の西南口にあって此の両丘陵の幅約500m程の最も狭い平野部を監視・警備出来る位置に黒井城・朝日城配下の砦としてガンジュウジ城と共に其の咽喉元を押さえる軍事的にも重要な要衝に築かれています。
大堀切を見下ろす西郭露岩の切岸と露岩上に土止めの石列

朝日城石生西河原城と呼応しながら 黒井城西方の抑えの砦として機能したと考えられます。また野山城東山裾から天王坂を越えて氷上町北由良に抜けて佐治川 (現:加古川)沿いに佐治宿へと但馬街道も通じる。朝日城は新郷の 後屋城主赤井時家の次男・才丸(後の黒井城主・荻野悪右衛門直正)が荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主に請われて天文年間(1532~55)に迎え入れられ、
東郭(主郭)腰曲輪の切岸土留め石積!!

野山城は其の朝日城の支配下にあった砦として、内藤氏と進攻に対して、才丸(荻野<赤井>直正)が拠ったものでしょう。時家が内藤法雲【丹波木城主キリシタン大名・内藤ジョアンの父で知られます。松永久秀の弟・松永甚助長頼=内藤(蓬雲軒弾正)備前守宗勝】の烏帽子山城を攻め落として黒井城の砦とし京都丹波を領していた?頃から幾度となく内藤氏と交戦しています。東曲輪の一段下・南面帯曲輪の土留め石積!!

天文9年(1540)才丸13歳の頃・父時家は福知山方面の城に居たようですが・・?黒井へ攻め込んできた内藤備前守修理と、 此の野山城(砦)の大将として戦い内藤氏を退けて初陣での手柄を得たところと云われます。 野山砦からは眼下真近に朝日城や長見城(長王城)が在り黒井城・千丈寺城も指呼の間に望む展望地です。黒井城を望みながら其の城主となる夢を募らせていたのでしょう。其の後も内藤氏が黒井へ攻めているが黒井城で応戦し追い返しています。
東曲輪の西端:露岩に囲まれる小平地は櫓台?

家臣の多くも新しいリーダを望んでいたのでしょう。 天文23年 (1554)には主家の黒井城主荻野秋清を刺殺して自ら城主となり赤井姓に戻って!赤井悪右衛門直正を名のります。権現山から”分水界の径”ハイキング道を外れて東下方に突き出す尾根に向って藪っぽい尾根に踏み跡を辿ります。段々露岩が現れ尾根筋も細くなってきます。しかも地図に表記されている岩記号部分です。露岩の多い狭いが自然地形の平坦地!!?が続く。黒井平野の正面に黒井城~千丈砦の稜線を望む東端の岩場を 東曲輪櫓台状の北側:自然の露岩?は狭い曲輪確保の切岸と土留め石列か??

南側に捲き降りる急斜面下鞍部は狭い尾根を遮断する大堀切の北面は険悪な様相を呈して激急斜面というより 断崖の先に 吸い込まれていきます。南側の急斜面には色褪せて随分以前のものらしい赤テープが下方に続く。主郭(東曲輪)西端に露岩に囲まれた櫓台でもあったかと思われる位置から南下方へも誘導テープがあり、同じコースに合流する登山道の様です。 権現山(349m:野山城は此の山の東尾根末端ピーク)からガンジュウジ城山への尾根筋に向かってトラバースを繰り返し市辺からの送電線巡視路との出合の事か ?
東曲輪(主郭):東面から南面へ延びる帯曲輪


大崎出合(北近畿自動車道・城山トンネル下付近)へ向う様なので野山城だけが目的だと登ってきた野山集落へ引き返すことになるでしょう。 荒れてはいるが東山腹を北へ捲きながら、赤白境界ポールを目印に山裾の古墳群?(石材は散存するが埋蔵文化財遺跡分布図等に記載なし?)・観音堂【又新舎野山学校跡!!? (又新舎も地方誌等に記載が有るのかも?詳細不詳)】・墓地下へ降りる山道があります。
東面の削平段から東曲輪(主郭)を見上げる

左右は益々険悪・断崖上の岩尾根に果たしてこんな所に…と思いながら岩場を捲いて鞍部に降りた。尾根続きの頭上には岩場に石積みも残る。西曲輪の西末端部にあり、大堀切側に横並びの石列の高さが粗並行に残り、低土塁の端が石列部にとどく!!。覆っていた土砂が流れ・土留め石だけが残った…!!?虎口に思えます。野山城には露岩・石材が豊富とはいえ、丹波の山城遺構に珍しく・切岸等々として、数箇所に見掛けます】。西曲輪の中央を仕切るような巨石が一つ横たわる。
東郭の東面に数段曲輪が続く

自然石ながら上部は平坦なので 何かに利用はされたのでしょう!!?。峰端の最上部が本丸部でしょうか。此処から東へ少し下ると左程に広くはないが尾根幅一杯の平坦地が続き、中央に土塁状の1m幅の通路を経て東側曲輪に着く。一段下を帯曲輪が捲き東下への斜面にの腰曲輪が数段(5段程の)続く。しかし竪堀や土塁等の防備は無さそうで尾根上ではなく斜面に曲輪を並べる縄張りを丹波では他に余り知らない?。新才城ともに丹波攻め向城と推察し、ガンジュウジ城が援軍として但馬から進攻した
東曲輪(主郭)より東下並ぶ削平段

羽柴秀長等の陣になったとも云われており尾根続き近場の野山城も付城として改修されたものでしょうか?。石が散在する腰曲輪には外郭に沿って石列らしいもの(石が小さいので思い込みかも?)や曲輪の角 ・一部には”土留め”の石積み・自然石を切岸に取り込んで、狭い曲輪域を確保している様に思える平坦地形もあった。ただ北の急斜面に10数段続く平坦地は植林用でしょうか?。西の尾根筋から攻めるのも、この野山・大崎側から 東面の尾根や斜面から攻めるにも難しい要害です。


北由良城(仮称)
  xxx山  165m  丹波市氷上町北由良

伊佐口
香良絹山地区は 五台山・鷹取山(丹波鑓)・愛宕山・五大山に囲まれ、地区最奥にある独古の滝・浅山不動尊を流れる香良谷川(上流は伏流だが)が三地区の中央部を加古川に流れ出る。此処が弘治元年(1555)勃発し三地区一帯に展開された香良合戦の舞台。
北由良城は二軒の民家の中央奥の低丘陵部にある

この合戦に黒井城主:荻野直正が負傷し部下に背負われ遁れたのが絹山地区の「勝坂」。明智光秀「丹波攻略」に唯一光秀を撃退した黒井城:荻野直正だが叔父で先の黒井城主:荻野秋清を 刺殺したのが天文23年(1554)。翌年に勃発したのが香良合戦だが通説とされているのが赤井氏一族を討って欲しいとの芦田氏・足立氏要請を受けた:三好長慶・松永久秀・丹波守護代松永長頼(内藤宗勝)等細川氏綱方の 三好軍VS晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏
主郭北面の高い切岸

一族による細川家内紛の代理戦争とされるが 「通説」に頼るには不確かで釈然としないことがある。荻野家盟主にと懇願され赤井家から迎えた才丸(荻野直正)養子縁組のこと・秋清刺殺については荻野・赤井家臣団の一部上層部だけで勝手に決められたことなのか?…秘密保持とはいえ直正の城主謀殺に対し家臣団の多くは黙認?していたこと、城主となってからも元の赤井姓を名乗らないことともに
主郭北東斜面に竪掘が二条落ちる!

赤井・荻野両家には不満が鬱積していたと推察される。 この年(弘治元年1555)三好長慶・松永久秀らは口丹波の八上城攻めに失敗していたが、奥丹波の黒井城へも幾度か侵攻を図ってきた三好長慶らの策謀によるものか?、 香良谷に入った三好軍に赤井/荻野一族を討つため芦田氏・足立氏らが集結していたところに直正に対する荻野・赤井両不満分子も!?合流しての
主郭の土塁と堀切:

三つ巴のかたちなのか?。肝心の合戦時に三好軍は参戦していない(救援に間に合わなかったとも…?)。赤井方にしても三好軍に敵対する八上波多野氏・霧山城の西波多野?が救援…?等は疑問も多い!!。 また合戦場へ北方から峠越えでの侵攻に対する防御の城砦については、城域背後に土塁を積む特異?な鴨内城と峠監視の井階山城砦群や、 赤井方による南方からの侵攻ルートとして由良坂から北油良に入れば「勝坂」を越え絹山地区に至る。
最奥の主郭土塁から堀切:土壇(古墳?)と空堀!:手前は緩衝帯?の緩斜面

北油良城をベース基地として香良谷川を挟み南北に対峙する南側の絹山に最前線基地の(高谷砦や絹山北砦・香良南砦)を築いたものか…。
秀吉より由良荘に所領を賜った別所吉治の屋形屋敷(ブログ紹介は未だ?)も近い:北油良公民館の南正面間近の丘陵尾根先に北由良城はあった。 丘陵先端中央に平坦段(曲輪)があり三方に小曲輪が付属する砦遺構があり、
主郭北斜面曲輪の高い切岸:

尾根続きの上(東)方には切岸も5-7m以上と高い4っばかりの曲輪が並び主郭の最上部には切岸西端に横穴式石室の封土が流失して葺石や羨道部?が露出する中型円墳が遺るがWebによる兵庫県遺跡分布地図に古城跡としても・北油良古墳群の一つ?としても未表記のまま?。北油良公民館の北東(第二馬屋敷橋の側)から山麓に向かう車道奥民家が山主さん宅。突き当り祠からの山道から右手上方へ、竪掘を避けるように藪っぽいが高差も少ない主郭背後(東側)の土壇・堀切と曲輪(土壇・古墳か!?)を挟んだ空堀状に登り着く。
主郭北面切上にある天井石等石材残存の古墳

南への幅広い尾根続きは急斜面でもないが!!城砦遺構があるとは思えず城域は此処までか…?。主郭の東北斜面に3本の竪堀・西にも一本竪掘りが落ちるが、北面に高い切岸の曲輪を重ねるが背後の防御は弱く 伊佐口・香良では既に城砦を築き体勢を整える芦田・足立氏に対し、赤井方も北由良地区に前進の陣城「北油良城」を築いたものか…。

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