義経伝説の笛吹山から 大賣神社 〜笛吹山城〜大期山 熊谷城・中田浦城
篠山市 (五万図=篠山)
大賣神社〜笛吹山(城北・笛吹山城)〜大期山 2004年04月18日
校歌・故郷の山: ♪笛吹山の 朝日子に 豊の千町田春笑みて・・♪城北小学校
近畿の山城 :笛吹山城 熊谷城と中田浦城
丹波のお話: 鷲尾三郎義久の供養塔 丹波与作

笛吹山城:南郭の連郭

篠山鳳鳴高校前の城北交差点を北に向う544号を少し進むと、黒岡川に架かる"おひるめ橋"を渡ります。 黒岡川を西に進めば城山と呼ばれる黒岡川手前の小さな丘が有って熊谷城は此処に在ったか?、橋から左手正面に眺める低山ながら容良い姿の峰を積み上げる山に熊谷城が有るのではと思いながらも今回パス。笛吹山城〜大期山を経て八百里山(八百里城)まで縦走したかったが大期山から先の尾根筋が判らず、 踏み跡を追って大熊集落へ降りてしまったので、熊谷城探しとは別に??先ほどの尾根の最高峰目指して再び黒岡川を越えた。
城北の篠山鳳鳴高校と笛吹山を遠望

この大熊の篠山鳳鳴高校辺り一帯の丘が笛吹山と呼ばれ、源平の戦いでは元暦2年(1185)京都を発って丹波街道(京都街道)を進み播磨 三草山の合戦に次、一の谷の戦いで名を馳せた源義経に関わる伝説が残されています。此の地で小休息した際・丘にに登って笛を取り出しで一曲を奏し、その笛を薬師堂に奉納したといわれ以来この山を笛吹山と 呼び、薬師如来【大熊・笛吹山瑠璃寺】を「笛の薬師」というようになったと伝えられます。 岩谷観音の洞穴から大賣神社の蛇穴が繋がっているともいう。
石くどと熊谷城(「石くど」右手の丘)と中田浦城(左の山)

蛇穴が何処にあるのかさえ今回は見忘れた。神社の北側を取り囲む 黒岡川も河川改修され「大売橋」を渡った小公園には”新黒岡川の碑”が建てられていて境内の周辺状況も変わったのかもしれません。多紀アルプス・西ヶ嶽〜三嶽辺りから南側に派生する枝尾根末端付近の低山は多くの谷と盆地を 形成していますが”デカンショ節”で多くの人がイメージする 棚田や山の中の感じは有りません。何処を向いても山が途切れる所はなくても、 広く明るい篠山盆地は京都・摂津・播磨・山陰を結ぶ文化と歴史の十字路で多くの民話・伝説を生んでいます。
北郭の帯曲輪から:堀切から虎口受け曲輪

いかにも城址風の台形の峰を見せる南西端の山と目指す最高ピークの峰に続く尾根に取り付くため集落内の民家の奥の谷筋に向った。急斜面と藪で踏み跡は途中で消えるが 尾根筋は細々とした踏み跡が現れるが、南西下方の城山側へのトレースは奇しい獣道。最高峰付近は細長い平坦地になっていて、思いこみから城址かと思ったが削平は甘く切岸もない。随分降ってから堀切らしい所?もあったが結局は自然地形のようで、 熊谷城は見残したPOINTを重点に再訪です。地方史でも調べてみょうと立ち寄った篠山図書館は場所移動、文化センタも新図書館も整理中の為当分は休館で本日は引き上げます。




京街道(丹波街道)に義経伝説を残す、笛吹山から大期山へ  H16.04.18

県道140号を東に向かって走っていると「ユニトピアささやま」への分岐付近に大野城、 続いて盃山団地に宅地に南側が削られた 今福城の丘陵を眺めながら岩谷観音・藤岡ダムへの分岐付近北方に目に付く石のブロックが 丹波の石舞台”石くど”で、その北背後の丘陵が熊谷城です。一番手前に城山があるのですが遺構はないといわれ、村道と黒岡川を間にして、
寺内の大売(おおひるめ)神社

北に続く山が其れらしいが南〜西一帯は 鞍部に向う踏み跡もなさそうです。古い廃墓地(墳墓跡の碑が建ててあるが村落の墓地跡)から藪を突いて行けそうだが私有地でもあり、 苗代準備で目立つ集落内から断りも無しに立ち入るには問題も…。更に東の城北交差点(篠山鳳鳴高校前)から544号を寺内集落へと北に入ると昼目谷に大賣又は大売と書く(おおひるめ)神社があります。
大賣(大売)神社境内:笠鷺稲荷社


大賣神社のその創建は古く、 約1070年前の延喜式内社で御祭神は ”大日めの貴(おおひるめのむち)”と称されるが天照大神、 つまりは太陽の女神です。「神社調書」に垂仁天皇の御代(紀元前)に皇女が此の地に来られ神を祀られたとの意味が記されているようです。神社の左奥にある小社が元の拝殿で、多紀アルプスの主峰・三嶽に在った修験道場「鳥の堂」の遺構です。 本殿東南の「鳥居の袴石」と呼ばれる大石は、知足廃寺の礎石の一つと伝えられています。本殿西側には笠鷺稲荷神社が祀られていますが五穀豊穣・商売繁盛・家内安全のほか”おでき”の神様として”おでき解除”のご利益があることで良く知られているそうです。 笠鷺の笠が瘡蓋の瘡(かさ)との意は判断出来るが、 義経笛吹伝説の”吹き”が”ふきでもの”の”ふき”…とは!!。本殿東側奥の石積で囲った一角には”山ノ神”石標と三社を祀る祠があるが、大賣神社は多くの近在の神々が合祀されて総社となっているようです。
大売神社の石造狛犬(狛犬一対は篠山市指定文化財)

元亀・天正7年頃(1570〜1579)までは領主・八上城主波多野秀治の祈願所として崇敬篤く、自ら大般若経350巻を写経して奉納されています。慶安2年(1649)松平信康以降?【徳川家康の実子で慶長13年(1608)茨城県の笠間城から当地に移り翌年より 篠山城を築城・・】歴代の篠山藩主・5世信岑に至るまで深く当社を崇敬し田の寄進や社殿を再建されています。室町時代後期のものと考えられる砂岩で造られた、高さは僅か35cm程の小さな雌雄一対の狛犬ですが、保存状態は良く篠山市内でも最も古い 石造り狛犬と考えられており、その作例としても貴重な資料となっており篠山市の(1990.3.6指定)文化財となっています。
(大賣神社境内の篠山市教育委員会案内板 篠山五十三次ガイド 他参考)

笛吹山への登路を捜して神社の本殿東へ 回り込んだ”山ノ神”の石標の側から竹林に入り雑木の尾根に取り付きます。倒木と藪で嘗ての山道を通れない荒れた道が続くが、西ヶ嶽から熊谷城!!へと南へ延びる尾根の起伏を望みながら進む。 松茸山なので入山は此のシーズンを外す必要がありますが村境界に笛吹山〜大期山〜大熊集落へと踏み跡は続きます。堀切らしいものを見かけないまま細長い削平された尾根の前に突然二重堀切が現れ、2段程の小曲輪の前に3〜4mの切岸が現れ、乗り越えたところが笛吹山城本郭部!!の南郭が笛吹山山頂(城北 384m)だった。南側斜面の切岸が高く南東下への尾根上に幾つもの曲輪を繋げて続いています。 大期山への縦走は北に向うので本郭に戻り北東へと降り始めると、大きな堀切が東に竪堀となって延びており、尾根上は更に北郭を構成する削平の甘い曲輪数段、帯曲輪を伴って長く続き直ぐ二重堀切を越える。
笛吹山城・南西の二重堀切(上部の二つ目が見辛いですね)

大期山からは・あわよくば八百里山へ縦走したかったが踏み跡や 尾根筋を見誤ったか…予定の縦走は果たせず山を降りてしまいました。終始・樹林の中で 展望の無い笛吹山を離れ、大期山に近付いて来ると急斜面になってくるが尾根は明るく、時に周囲の山々の展望も少し望まれる。やがて足元が砂地で南面が開け、 笛吹〜大期山間で此処だけのビューポイントに着き小休止する。篠山市街地を望み盆地の中央を流れる篠山川に対峙して北に盃ヶ岳、西南の奥には音羽・松尾・白髪岳が峰を揃えます。傾斜も緩やかで快適な山道になったと思った途端、突然山抜け…尾根からバッサリ西側が崩壊している斜面の 最上部分、足場の不安定差は補う為、雑木や篠竹を鷲掴みにしてトラバースして僅か数10mで大期山(点名:水上 471m)の山頂だった。 漢字で[弐等]??と彫られていたと思うが四隅の欠けた古い3等三角点標柱が埋められています。
笛吹山城・南東に続く連郭帯

東の八百里山に向う明確な山道が一本だけ南に向って降っているが他に道なく、境界ポールも有るので暫くこの道を辿ってみることにしました。ガレ場の斜面からの展望が拡がり 衣笠山〜行者山も望まれます。尾根筋を忠実にと、薄くなった踏み跡を追って南端の大熊集落へ出てきた。田植え前の代掻きに出ている地区の人目当てに??篠山市議選の選挙カーが候補者名を連呼しながら巡回しています。 大熊集落から鳳鳴高校に戻りながら笛吹山の山裾を眺めていたら、いかにも源義経が笛を吹いていたのではと思われる伐採され、山土さえ削られているような小丘が見える。周辺は古墳も多いようなので其の発掘調査中なのかも知れない?


 笛吹山城  熊谷城と中田浦城
 
笛吹山城(大熊城) 笛吹山(古森山) 384m   篠山市大熊字古森山

丹波の石舞台”いしくど”の北方に東方には黒岡川を 北の水掘として三方を田に囲まれた小さな城山の森がありますが遺構は無いといわるが、その川と地区内の車道を隔てた無名の低山の山頂に熊谷城が有ります。熊谷城を500m程東へと黒岡川を辿れば大賣神社があり、山道をさらに500m程で笛吹山に到達します。此の山頂を中心にして、三方に延びる尾根上に曲輪を連ねた中世の山城・笛吹山城がありました。

南の主郭と北郭を分ける堀切と土塁

丹波街道 (京街道でもあり山陰道でもあった)を眼下に望む要衝の地でも有り、軍道としても利用されたされたことは此の地には”源平の兵乱”に義経が三草山から須磨へ向った際の”笛吹山”伝説の残る事でもあらわれます。薬師如来が聖徳太子の作であるといわれる 笛吹山瑠璃寺があり平安末期の漢学者で歌人として知られる大江匡房の和歌にも、鳳鳴高校付近一帯が既に「笛吹山」と呼ばれていたようですが寿永3年(1184)、 源平の三草山〜鵯越〜須磨浦の合戦に向かった源義経が暫し休んだ境内の松に掛けていた義経愛用の笛が、風を受けてか不意に鳴り出し、其れに合わせて裏山から太鼓の音が響いてきたと言う。
西の二重堀切を越えて 笛吹山城南郭部(主郭)

寺の山号が笛吹山で字古森山は太鼓山だったのか?直南へ2kmの地点・篠山盆地のほぼ中央部に位置した篠山城が有り、 側を流れる篠山川と対峙して川の南側を固める多くの城々と同様に、北側にも笛吹山城の他、八百里城・沢田城・飛の山城・遊谷城・矢代城等多くの城があって、丹波多紀を制した波多野氏の八上城の西方を守備した支城の一つだったのでしょう。 正規大手道!!や最短の登城口は知らず、西尾根を辿った私の山行ついでの上記 ・訪城レポートが参考になれば参照してください。笛吹山城、熊谷城共に城主や築城年代等の城史は不明ですが、波多野氏配下にあって黒岡川沿いに勢力をもった土豪の城で、八上城に対する篠山川の北西方面を固めた支城の一つだったと思えるが落城記録は無く、城を捨てた将兵が八上城に馳せ籠ったが帰城することも無く ・八上城落城と共に廃城となったものか?。
北郭部の帯曲輪

笛吹山城への最短取付き点を知らず、 大賣神社の「山の神」を祀る祠裏から踏み跡を辿って延々と尾根を辿ってみます。篠山鳳鳴高校の背後に4〜5峰の小さな丸いピークを連ねて徐々に高くなっていく西尾根の緩やかな山容は県道筋からも眺められます。最期のピーク笛吹山山頂に位置する 南郭部が主郭の様です。其の直下にある二重堀切を越えて城域の南郭部に入り、主郭の切岸を仰ぎ見ることになります。小曲輪からは主郭南下を東に廻り込んで 主郭曲輪に入る通路が有るようです。通路は更に東方に小曲輪を連ねる尾根に延びます。南郭部は北側の尾根を堀切って北郭部と区分けられています。
笛吹山城・北東郭(竪堀に沿って4〜5段小曲輪が並ぶ)


南郭が本郭の様で削平状態や曲輪の段差等は明確な様です。北郭は削平状態の粗い幅の狭い尾根上の曲輪に沿って 帯曲輪が東斜面から北側に数段(4段程か?)あり、東面と北面の斜面を竪堀で防御しているが、北からの尾根筋からの侵攻を防ぐのに、小さな堀切と比較的急斜面以外、土塁や切岸加工による防備補強の施設が乏しいようです。また北郭部の中程から 東下方へ竪堀が直線的に40m程流れ落ちていますが、其の片側は階段状に4〜5段の小曲輪群が並び、其の曲輪端が竪堀に接して防備か・堀底道か・其れとも攻撃や逃走用のスライダーとなったものか?曲輪と竪堀が併設されている例は、 何処かに有ったか思い出せないが余り見かけない?

熊谷城と中田浦城
熊谷城    城山  Ca250m    篠山市熊谷字城山
中田浦城(熊谷城)   xxx 329m   篠山市熊谷字中田浦坪

熊谷城:県道140号を東に走り熊谷交差点に来ると北方に、大きな石のブロックが目につきます。盛土が長い年月の間に流れ落ちて石郭の巨石だけが露出した丹波の石舞台とも呼ばれる古墳です。その北東に低く小さな 台形の低丘陵が城山(Ca250m)と呼ばれており比高は20m程で 背後の北側裾を流れる黒岡川に一気に落ち込み三方を田圃に囲まれてはいるが急斜面となっています。
大賣神社から望む熊谷城(左)と中田浦城(右手)への稜線

南側に岩壁を穿った土室?が有り、農機具類や肥料が積まれているようで、戦時中の防空壕だったか ?とも思えたが、遺跡分布図では「寺内城山越の坪遺跡」の名称が付けられている「かまど状の遺構」が此れなんでしょう。時代や用途は未調査で良く分かりません。 目の前に「いしくど古墳」が有り ・此処にはカマド!!。末端部のカマド状物置?室から低丘陵 :城山の尾根に延びる踏み跡がある。
熊谷城南西端と後方に中田浦城を望む

以前に藪のこの低い丘陵「城山」に踏み込んでみました。想像通り平坦な尾根が北端まで続いて黒岡川に落ち込み、尾根の東も西も急斜面です。西面には3段程の曲輪や帯曲輪状に見えるところも有るが、 南北に延びる平坦な尾根上に曲輪の段差以外には堀切等施設は、藪の中では見い出せません。城山と呼ばれ、尾根の北側は村道と黒岡川で断たれてはいますが、 本当の城山・熊谷城の所在は此の黒岡川北の民家の
熊谷城:北東角の黒岡川側から望む

更に裏から続く丘陵【多紀アルプス・西ヶ嶽から南へと、黒岡川と藤岡川の間に張出してきた尾根】の南端に三角錘の峰を載せる329mピークが、未だ行き着けていない熊谷城と思っていたが兵庫県遺跡分布地図をみると、いままで熊谷城として紹介していた所在は、 熊谷字田中浦坪とあり田中浦城が此処で、城山Ca250mの極小台形の独立低丘陵が熊谷城となっています。

熊谷城南側:寺内城山越の坪遺跡のカマド状遺構?が中央に見える

やはり此の城山が 熊谷城主の居館跡だったと思いかえし再訪した。
「平成18年篠山市教育委員会の史跡八上城跡保存管理計画策定報告書」の分布図には、遺構はないとされていた城山を熊谷城 ・其の北面山裾を流れる黒岡川を挟んだ集落背後に立つ329m峰山上を中田浦城と記されています。初めて知った城名で、共に城史等の詳細が一切不明ですが「戦国・織豊期城郭論:丹波国八上城遺跡群に関する総合研究」による詳細緻密な調査報告資料が、 熊谷城として紹介されている中田浦城(329m峰)によってみました。何も無いとされていた城山と呼ばれる低丘陵部には、根小屋(居館 …!!)が有ったとも思える平坦地形は、やはり気掛かりです。
熊谷城:西面に帯曲輪状の平坦地

中田浦城:熊谷城の東500m程の所・黒岡川を辿れば大賣(おおひるめ)神社に行き着きますが、此処から望む田中浦城は如何にも城山(在地領主の居館跡)の雰囲気があります。 前回は城山(Ca250m)と笛吹山城に寄った後、大賣神社を起点に再度・河川改修記念「新黒岡川」石碑前から佐倉集落に入り、此れまで熊谷城と思っていた中田浦城東面の谷筋から間違えて。城跡より更に尾根北にある最高峰Ca460mを目指したが、鞍部から南への稜線を辿って下るのが正解かも!!?。
熊谷城:北端に不整地な小曲輪(尾根筋南に続く長い平坦地がある)


佐倉集落内から北へ向って見ましたが南〜西一帯は鞍部に向う踏み跡もなさそうです。 古い廃墓地(墳墓跡の碑が建ててあるが村落の墓地跡)から藪を突いて行けるかもしれないのですが私有地でもあり人目も多い集落内です。 熊谷城や中田浦城の城史や規模は判りませんが、藤岡川と黒岡川の支流・知足の谷を分けて、 多紀アルプス西ヶ嶽から南へ延びる枝尾根の先端を南の端に落とす所に中田浦城(熊谷城!)が有るのですが、その尾根の北続きにあって 目立つ山容のピークCa445m峰は展望も良さそうで、中田浦城(熊谷城!)の出城か見張の砦跡があるのではと思って目指しますが、入山から下山するまで雑木藪の中で展望は殆ど皆無で山頂と其の付近に数段の自然地形なのか?
熊谷城:小規模ながら平坦地が続き曲輪らしい段差もあって・・!!?)

自然地形の平坦地と堀切らしいものが一条有っただけ。後日調べてこれ等は山頂部(Ca445m)一帯に散布する佐倉宮谷古墳群だったようです。山頂から尾根筋を辿れば477m峰を経て多紀アルプス西ヶ嶽への 縦走も可能の様ですが、藪が凄いので諦めて南へ降る。松茸山のテープの残る踏み跡も現れて○○容器篠山保養所の敷地内に降り立ち、 正門!!!を出て鷲尾公民館前
【公民館の西北50m程の田圃の山際には、一ノ谷の合戦に「鵯越のルートを案内した猟師」で源義経:最後の郎党に加わった 鷲尾三郎義久の供養塔と屋敷跡がある事を知らず、後年に訪問した】を経て大賣神社へ戻ってきた。
田中浦城南端部:2〜3段の曲輪


中田浦城(熊谷城!)は熊谷集落から取付くべきなのか?、熊谷交差点から北へ藤岡川沿いに進み、「ゆり橋」を渡って329m峰の南端部・黒岡川を挟んだ城山北向いを目指したが、 民家裏手も・狭い車道沿いの山側も崖状で藪の急斜面。またも東側の佐倉集落へ入りかけて!急斜面に藪の隙間を見つけて入り込んだら、藪も薄く中田浦城 (熊谷城!)の東枝尾根を詰めて主郭部南端部に着いた。
田中浦城南端部の曲輪・帯曲輪

幅15m程で殆ど段差の無い自然地形の平坦地が、長方形で城域の北端へ35〜40m程続き粗1m程の段差の切岸を出て、さらに緩やかな広い尾根が鞍部を経て更に延びていく。鞍部にも城域内外にも堀切を見なかったが、主郭北端部から東下方へ竪堀が一本延びている。 遺構は主郭部の東西斜面に極小の帯曲輪が2段程見え、特に西側の1〜2段目と、南端部からの尾根にある3段程の曲輪が切岸も比較的明確に残るようです。 南端の曲輪から主郭へは東側へ捲き気味に斜上してくる道が有り、更に鋭角に上段の曲輪に出るようになっているが、城への大手は熊谷集落から北の鞍部を経るルートでは無かったかと思えます。

田中浦城北端にある竪堀


城域には田中浦坪古墳が有って段差や平坦の思える古墳のマウンドを城遺構と見誤っているかも?。 其れに熊谷城の東西に位置する遊谷城笛吹山城が切岸は高く・土塁や堀切・竪堀で補強された防備施設に比較しても、随分と見劣りがする。 両城への向城に利用されたとも思えないが、城山の熊谷城を居館として中田浦城(熊谷城!)を”詰め城”にした勢力が有ったものか?。遊谷か笛吹山どちらかの城の勢力下にあった城砦なのか、はたまた其の古城だったのか?城山が熊谷城(居館)では無かったら、 大山荘の一印谷のように、藤岡川・黒岡川沿いの領民が有事に避難した”逃げの城”と考えるのは飛躍しているのかな?







鷲尾三郎義久(経春)の供養塔  篠山市鷲尾字穴虫之坪

義経に追随する郎党に伊勢三郎と鷲尾三郎という二人の三郎がいる。以前に篠山産業高校の西北方・西浜谷集落の観音堂の先の山道を進み、旧福応寺跡に立つ苔生した宝篋印塔「市指定文化財伊勢三郎供養塔」に寄った。側に寄り添う宝筐印塔の残欠 (九輪)は三郎義盛の妻のものだと云う。三郎が”乳飲み子”を預けられ育ててくれと頼まれたとも云われるが、
鷲尾三郎供養の宝筐印塔

その子の末裔にあたるという方が、年に数回は墓の清掃に訪れるのだと、此の日も石塔周りの落葉を片付けておられて聞いた話。そして今日・其処から東方、直線距離で約2.5km付近に在って、古くから 「十郎屋敷」と呼ばれ鷲尾三郎(十郎の呼称もある)義久が居を構えていたと云う台地に向った。
此処へは篠山鳳鳴高校から 笛吹山城の西尾根末端部にある大賣(おおひるめ)神社【上記の山ッレポート:京街道(丹波街道)に義経伝説を残す笛吹山から大期山を参照ください】から 黒岡川沿いに進めば鷲尾集落です。北方への道は多紀アルプス西ヶ嶽〜三嶽へのコースに繋がります。
十郎屋敷跡から三郎屋敷?(整地工事の重機前から中央宅地にかけて)

寿永3年(1184)一の谷合戦に大勝し、翌:文治元年(1185)の壇ノ浦合戦に平家は滅亡しますが、兄頼朝に京を追われた義経が堀川の館を出て後、 文治5年(1190)奥州衣川館の戦いで自刃するまでに、 約3年間空白の期間があるといわれ義経はその間・当地篠山の鷲尾村出身の鷲尾三郎経春の伝手(つて)があって、三嶽修験者たちに匿われていたとされます。「源平盛衰記」や「平家物語」に鷲尾三郎経春とか鷲尾三郎義久の名で登場する伝説の人物は、摂津国山田庄(神戸市北区山田町)の住人ともされ鷲尾氏屋敷跡の碑や 代々の墓所もあるといいます。丹波・摂津・播磨へと山を棲家として移動する猟師が 地域の道や地形を熟知していた事でしょう!!?。
鷲尾十郎屋敷跡石碑と三郎義久の案内説明板

鷲尾氏は篠山市鷲尾や神戸市北区山田の鷲尾氏共に、子孫が続いていると云われる。篠山市鷲尾集落に入ってきたところ、地区道側に祀られる地蔵尊前で老女に出会う。彼女は毎日此の地蔵尊と鷲尾三郎を祀る塚に参るのは日課で、 わざわざ引き返して三郎塚へ案内してあげるという。以前熊谷城を探して付近丘陵最高地点から下ってきた○△容器(株)に篠山保養所の看板が目印です。 鷲尾公民館向かいに住まわれていて、三軒ほど並ぶ宅地と裏手の2段程の田圃全体が「三郎屋敷跡」だったと言われる。其の西北方50m程の山際に小さな台地が有り鷲尾三郎(十郎)義久(経春)を供養する宝筐印塔印が、段差のある田圃の続く 山際の台地に立てられているのが見えています。其処が古くから「十郎屋敷」と呼ばれていたところで、伝承によると衣川館の戦いに討死した 三郎義久の遺骨が郷里に届けられた【伝承に:首は葦の矢となって故郷に飛び帰った・と云われ村人達により懇ろに葬られ供養を続けたとされます。
十郎屋敷跡から三郎屋敷?(重機の前から中央宅地にかけて )


加藤某氏の寄贈により「十郎屋敷跡」の地所(山林と周辺の土地田畑含めてか ?)が整地されて平成3年(1991)宝筐印塔や灯篭が移築し再建されたものといい 50cm程の石壇上に宝筐印塔一基と宝筐印塔の残欠一基が祀られています。老女の話では宝筐印塔は以前から此処に在った様!!で、残欠の方は圃場整備で出てきたものを此処に納めて一緒に祀っているという。老女は私が歩いて来た(約1kmほど手前の南西 )大賣神社近くから嫁に来て、古いことは分からないが、先代からは鷲尾三郎との繋がりが有る様に聞かされていると…。「よくまァ遠いところから・お詣りしていただきまして」と喜んでおられたが其の姓をお聞きしていない。森本家なら昭和15年 (1940)の紀元2600年記念「日本建国史」近最大観(日本通社発行)が有って、森本氏が鷲尾三郎の子孫で「庄屋」をしていた…云々と書かれているそうです!!。

寿永3年(1184)2月・平家追討の命を受けた源義経の軍勢は、京を発って丹波路を福原に向かった。 途中・三草山の平氏の陣に夜討ちをかけて大勝した後に、小野あたりで軍を分け、自らは少数の部解率いて三木→藍那→鵯越へと「源平・一の谷の合戦」伝説の道を突き進んでいきます。 衝原湖(呑吐ダム)〜丹生山〜帝釈山縦走でも「義経道」と呼ばれる此のルートの一部を 辿ったが、伝説の義経道にも諸説があるようです。京から神戸・須磨に向うのに西国街道(山陽道)を利用せず、わざわざ迂回の丹波路ルートを使用した事にも、近畿の源平勢力領域を調べていないので分からないが疑問も残りますね。疑問といえばこの時 ・義経を平家の本陣一ノ谷へと、
鷲尾三郎屋敷跡?の宅地と田から笛吹城(大熊城)を望む

山田道を〜藍那〜鵯越への山道を案内した青年猟師の三郎は、一の谷の戦いに圧勝する事ができたとして、其の功により山田に土地を与えられ 、義経の名から一字を賜り「経春」とも「義久」とも名乗り、郎党の一人として常に側に付き従って活躍しますが兄:頼朝に京を追われた義経主従が文治5年(1189)4月:奥州衣川館(岩手県平泉)で藤原泰衡らに襲われ、此処に討死して義経に殉じます。青森市野内にある貴船神社は、義経を慕い追いかけてきた浄瑠璃姫が、此処義経と再会したが、その後病の為亡くなったと云い、瑠璃姫の菩提供養の為、鷲尾三郎義久がこの地に残ったと云われ鷲尾村の名が残ります。幾人もいたという義経の妻として知られるのが静御前ですが、浄瑠璃姫と共に「まごめ」が鷲尾三郎の妹だったという。義経の家来には此の「まごめ」の口添えがあったともいわれるようです。
十郎屋敷跡に立つ鷲尾三郎供養の宝筐印塔

鵯越から一の谷へ案内したとして良く知られている鷲尾三郎の伝説ですが、初め弁慶だったか?・伊勢三郎だったか?【篠山市鷲尾の宝筐印塔説明では、案内を頼んだ場所は不明だが 弁慶が年老いた猟師に頼み、息子が案内するが鷲尾良久の三男・17歳と言い、三郎義久を名乗らせて家臣に加え、鵯越への案内役を果たした旨が記されています】が道案内を頼んだのが、老猟師:鷲尾庄司武久(鷲尾三郎の父)でしたが身体が不自由なため、 三男で熊王丸と呼ばれる16(17!!)歳だった息子:三郎を案内に立たせたという。しかし土地不案内の関東武士団が丹波路を駆け、天引峠を越えて多紀郡(篠山市)に入り、平家軍が陣し構えているとされる敵地へ向う。二日はかかると見られた行軍を一日で成し、 不来坂(こぬさか:丹南から今田に抜ける境で此の源平戦で、義経軍は「まだまだ「来ぬ」だろう…と油断していた伝承が残る坂名です)を下り、小野原で休息した其の夜間には家・田に火をかけ其の灯りで今田を抜けて三草山に進み、陣していた 平資盛軍を破っての快進撃して、一気に一の谷の奇襲「鵯越の逆落とし」へとまっしぐら。三草山から三木市を抜けて山田道に入るまで、丹波路・デカンショ街道(天引峠〜篠山〜今田)を通る一連の行軍には、既に鷲尾三郎がずっと先導してきたものと思えます。
(現地・鷲尾三郎義久(経春)の供養塔 篠山市教育委員会案内板 等参照)


丹波与作     篠山市熊谷

全国的に知られるデカンショ節は二つ有ると云う。一つは民謡として流行のデカンショ節(篠山節)、もう一つが篠山藩士:後藤又次の子孫が作ったとされ、 お囃子を入れ振り付けしたという後藤節(篠山節)で「♪丹波与作は馬追いなれど、今じゃお江戸で二本差し…♪」馬追いの丹波与作が文武両道に修行し、江戸で武士になった出世物語を主題とした歌で、篠山から柏原 ・福知山へ旧山陰道を往来していた馬方が歌っていた歌詞だけが残されていたが、作曲され関西では数少ない「丹波馬方節」「♪お国エ ハァー問われて 肩いからせて ハァー俺はエ ハァー丹波の アリャ篠山だヨ…、 丹波エ ハァー与作の 馬追い姿 ハァー霧にエ  ハァー消え行く アリャ鈴の音…♪」を「K社の日本の民謡7」等で聴くことが出来る様です。 其の後:丹波与作は「鈴鹿馬子唄」のなかに歌われる様になり、題材に脚色された近松門左衛門の「丹波与作待夜小室節」の伊達与作で知られるところとなります。

篠山庁舎や篠山署前を通り郡家交差点から東へ7〜800m程、岩屋観音への分岐・熊谷の交差点の北30m程、業務センタとレストハウスが並ぶ西北端部に、「ゆるぎ地蔵」と呼ばれる小さな地蔵堂が建ち傍らに石標柱と「篠山53次ガイド説明板」が立てられています。 篠山節に歌われている丹波与作誕生の地の碑です。与作は寛永年間(1624-44)此の地で生まれ、百姓仕事のかたわら馬追いをして文武両道の修業に励み、ついに江戸で立派な武士になったという。寛文10年(1670)の「松平大和守日記」 (篠山藩5代形原松平駿河守典信の事か?:在職寛文9〜12年)には「よさくと云う唄、近年はやりしてきく」と書かれている。また延宝5年(1677)京都の役者:嵐三右衛門が初めて丹波与作の物語を演じ好評を得たと言われる。これらの庶民の人気をもとに、 さらに近松門左衛門が世話物のなかに、冥途の飛脚・曽根崎心中・大径師昔暦(おさん茂兵衛)・心中天網島等と共に丹波与作待夜の小室節を 浄瑠璃にに取り上げて、伊達与作という侍が今はすっかり落ちぶれて馬方となり、関の宿白子屋の遊女小万と馴染み「道ゆき」ものとして宝永4年末(1707)大坂竹本座で初演されると大評判になり与作の名が一層高くなった。

「丹波与作待夜の小室節 」は更に後世に改作?【大筋では変わらず珍しく全てがハッピーエンドとなるストーリー】では:吉田冠子・三好松洛作の「恋女房染分手綱(宝暦元年 1751初演)」があり【江戸の入間家に嫁入りが決まった 丹波国由留木家の調姫は、未だ幼く・この結婚を嫌がって、江戸下りを承知しようとしない。困った周囲の者が行列の供の中にいた、馬子の三吉に道中双六をさせて調姫の機嫌を取りつつ、遊ばせながら江戸に向かった。この時調姫に同行していた乳母の 滋野井が三吉に褒美を渡そうとした時、三吉が離婚した夫伊達与作との間にできた我が子であることを知る。調姫の乳母であるという立場から、滋野井は輿入れを傷つけられぬと苦哀のなか三吉に母であると名乗ることができないまま別れた】で中に出てくる、 与作の一子三吉と丹波由留幾家の乳母で実母の重井との別れの場面から、土地の人々によって・いつの頃にか丹波与作誕生地に「ゆるぎ地蔵と呼ばれる子安地蔵」が祀られ始めたという。
(「丹波篠山五十三次ガイド」 篠山市役所HPの「デカンショ節に関する一考察(圓増氏)」 「近松の町尼崎」作品紹介文から等を参照)
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