大岩山〜立石山 番守寺山城・篠倉豊後守屋敷・井原城館 也足寺涅槃図
丹波市(五万図=篠山)
一宮神社〜蛇岩・大岩山(300m)〜立石山〜P338 H12年5月28日
近畿の山城 :番守寺山城 篠倉豊後守屋敷  井原城館(仮称)
   旧友井家住宅(国指定重要文化財) 状山の柱状節理
丹波のお話:梶の無縁五輪塔 也足寺の涅槃図

和田・船戸橋から立石(手前)と大岩山

山南町からR175号線を北上する新田坂の左手に番守寺山城(土取により壊滅)、 坂を下り始めると右前方の山塊に目立つ岩場が見える。蛇岩さん・大蛇岩とも呼んでいた岩壁は2年ほど前に標識が設置されたハイキング道は「南中大岩」と何の変哲もない名前になっているがロッククライミング練習に良い高離40m程の岩場で東面は上部までハング状、南正面は明るく快適で高度感と 展望も楽しめる数本のルートがありクラックルート二本ばかり残置ハーケンが残る。
大岩山から弘浪山(右端)白山(その左隣)を遠望

西面はフリークライムルート?斜度は70度程・取付きまでは藪漕ぎで…山道は此の基部を経て西面に回りこみながら稜上に向って固定ザイルが張られていた)終了点から尾根へ詰め上がり、 南中大岩の岩頭上方の最高所が大岩山で低山だが岩尾根からの展望が拡がる気持ちの良い休憩場です。 R175号線から大岩山山麓登山口の一宮神社から未舗装の時に 泥濘む歩き辛いダートな”南中林道”に入る。鳥居から正面上部に屏風のような衝立岩が見え・稜線上にも三つばかりの大岩が集まっている場所があります。 蛇岩経由だと岩場取付き付近から一寸危険!!な トラバースで大岩山西側へ抜けられるが登山口は神社より 約200m程先。
南中大岩基部から東稜

途中100m程の所からバクチ岩(謂れは不詳だが此んな岩の小場でバクチに興じる感覚は平常心では考えられない!!)を経由して大岩山へもいける。 南中大岩登山口は右からの谷と平行して谷向いに露岩が見えれば左手の朽ちかけた角材が積まれた所に踏み跡があり「是より前川」の石標を見る。谷に沿う頃赤テープ・右手の藪に隠れているがよく踏まれた道を辿り大岩山 〜立石山鞍部より東の大岩山側稜線に着き先ず西の立石山を目指します。2-3の大岩を捲いて少し登り始めると岩場の真下に一宮神社の境内が見える。 立石山(3等三角点 点名:比砂門谷 301m PM12:30)は 頭部が欠けた三角点石標が埋まるが展望は余り期待できない。
大岩山山頂近くの展望テーブル岩

南に石金山・北に白山の雌雄峰が見えるだけです。立石山への直接ルートは175号線をそのまま進み山南カントリー入口手前100mに休憩用駐車スペースの北側道端に コンクリートの階段があり、その上方に高さ1m程の自然石が有ります。弥陀三尊種子碑 (サンスクリット語で阿弥陀(キリーク)・観音(サ)・勢至(サク)を表わす梵字が上部に円形に刻まれ頭のとがった「立石さん」と呼ばれている (この形が175号線から見え立石山の山頂近くの岩場に似ている )室町期??の古い石碑があります。屋根付きのお堂の横から 明確な道が続きますが倒木等で歩きつらい所もあるかもしれません。上に向うほどに踏み跡薄くなり大きな岩場混りの高捲きに消えてしまい立石の岩場通過ではルート判断に注意してください。
南中大岩を稜上から…

引き返し先の岩場(此れが立石??)を今度は北側へ回り込み東端の岩場に登って見ます。確かに展望は良いが岩上は狭くてゆっくり景色を楽しめず、此の先・蛇岩上方の大岩山山頂付近が絶好のビューポイント(PM12:40-12:45)。 北に笹ヶ峰・白山等・南へは石金山から 至山・黒田庄から今田にかけての山々。大岩山からは 細いながら道は続きます。振りかえると蛇岩の東壁上部が望めるが ここの岩場での最高離で殆ど上部までハングしておりクラック等の手掛かりや登攀ポイントが無くボルトの連続と思われ(25〜30年前)るが登攀された形跡・ルートは見当たらない!!?。
南中大岩の岩頭から立岩山を望む

大岩山より10分でNHK放送受信アンテナ施設の有るピークに着く(PM1:10)。 これより先は蜘蛛の巣の多い踏み跡を辿って約5分の東端・露岩が多い338!?ピークを経て下降。鞍部へ降り立ち(PM1:30)尾根をそのまま東へは岩屋山〜石戸山へも辿れる…植林帯を随分と荒れた南中林道に出るが随所で道が寸断しています。 路肩の崩れたところも何箇所か!あるが一宮神社へ戻る(PM1:50)。



番守寺山城 篠倉豊後守屋敷 井原城館(仮称)

番守寺山城 定山 274m(現状:壊滅)  丹波市山南町野坂・前川

京都・亀岡を経て口丹波・篠山盆地へ、 また能勢・阪神方面から摂津三田を経て篠山に入って丹後・但馬・出雲へ向う山陰道は峻険な鐘ヶ坂(光秀の 金山城がある)を越えるが延喜式旧山陰道は鐘ヶ坂や、篠山川沿いに川代峡谷の危険な悪路を避け、篠山市味間から山南町阿草を経由して播磨国境の井原郷に出る。旧佐治川・篠山川が合流し 加古川となって瀬戸内海へ流れ出る起点に至山城が有る。
番守寺山城から播磨妙見山〜天狗山とイタリ山(右端)

井原郷より西へは岩尾城下を抜け小野尻峠を 北播磨の多可郡に通じる。北方へはR175号に沿って丘陵の小鞍部にある峠にさしかかります。其処には南西に突き出してきた目立たない藪山が有ります。西側には北から南へと旧佐治川が流れ南端部は船戸橋付近まで延び丘陵の末端南面は採石場 ・西方崩れた斜面に玄武岩の露出層がみられる。国道筋鞍部の峠 (新田坂)を降ると蛇岩と呼んでいた岩壁 :南中大岩見えてきます。峠西側の丘陵上に番守寺山城が在ったが城主や城史不明のまま、山土の採取場になっていて南西側が大きく削り取られた山肌を見せています。
最高所の曲輪!!

其の上部から北斜面にかけて堀り切られ、堀切を挟んで数段の小さな平坦地を見ます。(2009年城址一帯は 壊滅した)山頂から北東の国道側急斜面に3-4段の段差で続き、 堀切西が主郭で二つばかりの曲輪が並び和田・岩尾城を望む北西斜面にも小曲輪が1〜2段有るようです。無名で城史も不詳の此の 城の運命も篠山・佐幾山城等と同様に風前の灯火!…城史や 落城秘話を伝え土塁・堀切・曲輪等遺構も顕著に残る稲継の穂壷城さえ道路拡張工事では 業者が”知らなかった…”で工事が進められ危機一髪・遺構調査が実施されたと聞くが此の城砦は如何でしょう?。
南桃苑側(右端の小山)が香守寺山城・手前は加古川(旧佐治川)

台風の影響で荒らされ・倒木で状態は良く観察出来ないが最高所の削平地から堀切を隔て北東側の南桃苑へ数段の小曲輪群が続くが、 中程にある平坦地だけが遺構と思える程度…峠南側から登ると不動明王を祀る祠があり・南面一帯は 山土を大きく削られ取られて南方の播磨側に展望が拡がります。初めは岩尾城の出曲輪・物見の砦として東玄関口からの通行監視に当った砦だったと思えます。北面に向って曲輪が幾段ありそうで、西北約1.5kmにある岩尾城向城となったのかも知れません?。
最高所東の堀切が北方へ竪堀となって・・・!!


天正3年(1575)に始まった織田信長の丹波攻略にあたり播磨国境側の防衛線上ある岩尾城 ・鍋倉城玉巻城岩屋城等は天正7年5年(1579)明智光秀の援軍として播磨側から秀吉軍が侵攻し次々と落とされてくが、その丹波第一歩の前哨戦として ・主に岩尾城の向城として番守寺城が利用されたと考えられます。目視で確認出来るが藪に覆われ 画像で判り難い堀切を冬場に再確認したかったが2009年末頃から河川工事等の土取りで 2010年1月末・既に遺構は全壊・竪堀も土砂で埋もれ消滅は間近。市民の史蹟への関心は無くとも、せめて表面観察調査は終了したのかな?。
2010年1月現在:河川工事等の土取りで北面の段曲輪・竪堀等は削られ消滅

西には加古川(旧佐治川)を 隔てて岩尾城があり石戸山-岩屋山(石龕寺城)から延びる尾根の末端部の旧氷上郡領内への南玄関口に位置して街道の監視にあたる城…此のことからも近世の岩尾城が東播磨との境界に位置する重要性からも西丹波唯一・石積の城として 再修築されたのではないかと思えます。後述…古墳の丘陵頂部の主郭からは北に4段・北東の堀切を挟んで5段の曲輪があった様?。北は岩尾城・北東は要衝の峠の監視にあたっていたのでしょう。なを古墳は土採りの際に箱式石棺が発見され昭和44年 (1969)番守寺西に移築保管されているそうです(未確認)。

篠倉豊後守屋敷(篠倉館)  xxx 丹波市山南町奥

西脇市方面からR175号・ミニ道の駅「山南仁王駅」のある至山山麓で加古川を渡ります。篠山川との合流地点で旧加古川は此処から始まります。此れより上流が佐治川だが現在では青垣町の但馬 国境まで加古川になる。土地と其処に住む人々の生活と密接に繋がる山・川・地名が愛着だけではなく
豊後塚と堀跡の小池

無用に消え去る事には此の場合・行政上のことは知らないが一級河川加古川として総延長距離を延ばす為だけ?の様で不満を感じます。 久下郷の西隣が井原庄で古代より赤米の里。尊氏が再起を約して九州へ逃れた時、 嫡子義詮が逗留したのが井原庄の北方にある石龕寺で義詮を護っていたのが丹波守護となった仁木頼章です。
豊後守屋敷比定地(西・南の石積外側は堀だったか?)

加古川沿いに播磨街道を九州に向かう尊氏を義詮や仁木氏等が至山山麓まで見送った事でしょう。義詮が石龕寺に逗留していた時の話に 天々宇知栗の伝承が生まれます。此の加古川・篠山川の合流点から北方へは 東播磨から京都・口丹波の亀岡方面からは旧(延喜式)山陰道が篠山小野駅から佐治駅へ 篠山川沿いに向かう中間点に在り播磨・摂津方面から丹後・但馬・出雲へ向う旧山陰道の要衝にありました。
竹藪跡を囲み東西に堀跡・右側に豊後塚

今はトンネルで抜ける峻険な鐘ヶ坂(光秀の金山城がある)を避け篠山川沿いには川代峡谷の危険な 悪路を避け篠山市味間から丹波市山南町阿草に出て井原R175号沿いの氷上回廊<佐治街道>。其の最南端入口を守る 番守寺山城を氷上-成松-佐治に向かいます。後に篠山からは鐘ヶ坂-柏原-石生や西紀町〜栗柄峠〜春日町へと変遷したかも知れない?!。R175号「奥交差点」から足利尊氏・義詮ゆかりの石龕寺へ右折する奥集落の北に
豊後守屋敷比定地:北東にも二段の休耕田がズッと居館らしい?

低丘陵が迫り出し山頂には稲荷社を祀る。 谷を挟んで北側には南中大岩や一宮神社が鎮まる。この稲荷山南麓に篠倉豊後守屋敷と推定される一画が在り、字名にカノマエ(カマエ)や私道西南側の畑地に出口(堀の内や構居への出入り口・虎口を示すものか?)の字名がのこることからも構居跡を窺わせる。 山南町誌(町制施行30周年記念事業・昭和63年発行)によると、此処に北東南へと弓形に掻き上げの堀と土塁が約50m続いていたと云い、 北の土塁の内側に古池が、藪の中に豊後塚があったとある。豊後塚は藪地の北東端に遷されている。遺構残存を感じさせる所を探してみる。字カマエの周辺には一軒の民家と地区の
比定地外西端:八王子神社へ土塁状参道と曲輪?!一段上にゲートボール場跡曲輪?

ゲートボール・グランドゴルフ練習場(常設テントも用意されていたが現状は荒地)や果樹園 ・畑地があるだけで、此処に方形掻き揚げの構居跡があったとは南正面からは想像すら出来ない。ゲートボール場は1.5〜2m程の段差の平坦地形が幅10m・長さ40m程、 裏山の荒神・稲荷・八王子神社へ延びる参道を兼ねている。南面と東面は畑地が広がるだけだが畑地の東北側奥には高さ3.5m程の段差で上部は耕作地(空地)だが、畑地と一段上に有る畑地の方がズッと居館跡らしいと以前から思っていたが…?。
枡形溝が比定地南面お囲む。デグチ(虎口付近)からカマエ(居館跡!?)

畑地(土塁?)下は湿地帯の様で溝状に池跡らしい水溜り?がある。 更に北側東端には石積みの一画に石碑がたつ。藪の中に”地神さん”として祀られていたが土地所有者が市外へ転出され、近在の数軒の方達により祀られている豊後塚の碑文は磨耗して文字を読みとれないが、頭部の梵字(種子)は 阿弥陀如来(キリーク)ではなく地蔵菩薩(カ)の一尊だけが刻まれ、石碑の側には五輪塔の残欠が一つ置かれている。 城史については伝承等も一切残っていない。和田日向守の岩尾城や広沢綱忠の 石龕寺城に関連したものか ?。
豊後塚

播磨に隣接する山南町は和田地区・小川地区・久下地区に 笹倉や篠倉姓は多い。三木の別所重棟等の攻撃を受けた赤松家旧臣で主君の在田氏に付き笹倉城(殿原城)に籠もったが落城。 在田氏が居城とした貝の城・段の城野間城に移ったものか?。 貝の城側から山南町側へ小野尻峠を越えると笹倉氏・有田氏(在田<ありた>)姓がある。丹波側へ遁れた播磨の一族なのか ?。貝の城・段の城落城後の子孫と関係あるのかも?。笹倉城の在った笹倉町に笹倉の姓は一軒もないとも、全国笹倉(篠倉)姓は兵庫県が一番多いとも聞く。 笹倉姓・篠倉姓も漢字姓を替えられたものか?。
比定より豊後塚背後の高い段差の耕作地が、より居館跡!?らしいが…

豊後塚の主・笹倉豊後守は屋敷跡の北東山麓に散在していた旧墓群から明治39年(1906)柏原警察署に墓地発掘移転申請を許可されて開墾新設地の字・トウ山の笹倉一統墓地内に御堂を建て篠倉(笹倉)元祖”篠倉金嶽軒道石居士”として 其の霊を祀られ石碑は天明元年(1781)に改造営されている。岩尾城主の在地代官として下記17ヶ村を管理していたようで、井原荘と多可郡の鍛冶村も含まれているところからも天正14年(1586)近江木戸(滋賀県)の比叡山法師(木戸十乗坊前田玄以の武将!!)が3,750石を領して入部し佐野下総守栄有と改名)して岩尾城主となって統治した時代か、 丹波三郡(氷上・天田・何鹿)を与えられた織田信包が柏原藩を立藩した前期織田家(慶長3年<1598〜>)の頃とも推察しますが…?。
天保8年(1837)丹波氷上郡奥村の絵図(奥自治会保存)

正徳4年(1714)後期・織田信休の移封による氷上郡44ヶ村に下記の村名が含まれていないこと、奥・村森等の織田家領地が外されていることと関連して、 織田家弱体化を図る幕府政策の領地細分化によるものか?、鶴牧藩水野家領が多い(殆ど?)。豊後守が在地土豪であったか不詳ながら鶴牧藩領となった下記17ヶ村分を官吏しての約40年程だったよう。居館というより半官半民!?の代官屋敷だったのでしょう。 現町内17ヶ村(小野尻・西谷・西野・小畑・片山・前河(川)・中間?・五箇部(五ヶ野?)・大内・坂尻・奥村・鍛冶村・野坂・草部・小新屋・埜々垣・村森)に都合300町・三百貫の由、篠倉某より嫡子三太夫・二男久治・三男太助 ・四男奥四郎に対する領地の写しがある。

日吉神社と井原城館
井原北東の小山の屋敷 (井原城館:仮称)  火トモシ山(茶臼山) Ca185m  丹波市山南町井原

滝野社ICから福知山方面へ北上するR175号線を北に向い多可郡(西脇市)黒田庄町を抜けるとミニ道の駅「 山南仁王駅」のある至山山麓から、加古川と篠山川の出合いに架かる井原橋を渡って丹波に入ります。出合いに位置する至(イタリ)山は播磨・丹波境界に位置し山上広範囲に遺構が点在する 至山城館跡が在りました。其の山腹に稲荷社跡の石積が残ります。
井原・日吉神社

もと此処至山と出合い(篠山川・旧佐治川が此処で合流して加古川となる)の中程山腹にあり、足利尊氏が石龕寺を発って播磨へ向う際に祈願参拝した至山出合稲荷社は 明治43年に至山から日吉神社の地に遷座された。”出合い”を望む丹波側最前線・井原集落の北東背後の低丘陵上に在った?。
日吉神社・本殿向拝正面虹梁の龍・其の上段には高砂(相生松)の図が

其の丘陵部南西先端麓の日吉神社は創建時期不明だが祭神に大山咋命・国狭槌命・伊弉諾命・伊耶那美命等を祀る。日吉神社(大津市)の分霊を奉斎した社で 井原城館への南側登り口にある日吉神社本殿の脇障子背面には丹波国柏原住・中井言次君音と彫られた銘板刻がある。 宝暦7年(1757)中井言次(35歳)により本殿の改修がなされている<山南町誌外では宝暦11年の改修とも云う!!?>。
日吉神社:本殿(妻部の孔雀と鶴)

本殿背後の磐座の前に移遷され岩上神社・稲荷神社が合祀されています。R175から谷川・篠山に向う旧県道77号(注:現バイパスのR175ではない)は直ぐ岩屋谷川に架かる橋の先に日吉神社が見えてくる。 石龕寺への入口でもある。神社境内にあるカヤの巨木は丹波市内第二の巨木として町指定((昭和51年2月9日)天然記念物となっている。
日吉神社:本殿向拝部の獅子噛み

中井一党の社寺彫刻が遺る播磨・但馬・京都丹波では市や町指定を受けている。郷土史等に少なくとも作品の芸術性を認められての記述はあるが日吉神社に限ってみても町誌や町文化財資料に記述を見ない。境内のカヤの木は町の天然記念物として指定(昭和51年2月9日)を受けているが…宮大工棟梁として・また彫刻師としての専門職?初代として 言次(3代目からは権次)初期?35歳の時の作品かもしれないが忘れられた存在では残念で寂しい限り。
本殿裏東西に龍と麒麟の阿吽像:麒麟は一角・馬蹄

本殿の向拝には龍や高砂(相生の松)の尉と姥の図・獅子噛や親獅子が長い舌を出して二匹の小獅子をあやす珍しい?図・正面の社号扁額前の 内側両「手挟み」内面には東側は波間に太陽が西側には波間に月が描かれている。先の舌で子獅子を舐めあやす親獅子と共に珍しい図柄。本殿木鼻の前面には獅子・背面の木鼻にも龍と麒麟の阿吽像が左右を護り、 一角獣の麒麟の足は馬蹄形。また背面の蟇股には「波うさぎ」と此れも珍しい「大根にネズミ(鼠は大黒様の使い)」と
日吉神社本殿:脇障子

「栗鼠(リス)と福瓜(瓜は 種が多いところから子孫繁栄・多福の象徴とされる)」が葉っぱと尻尾で小さくても 描かれている対象物は確認できる。 屋根下(妻)の東西には孔雀と鶴・左右の脇障子には中国故事を題材とした 丹波の彫刻師・匠の手による。
社号扁額 (左上)の手挟み左右内側には波・雲に太陽<右>と月

中井一党の手になる神社彫刻の華麗・繊細・躍動美…素晴らしさを一つ一つ・すべて紹介して市指定…等により周知 ・保存の一助としたいところですが、 専門的に研究調査される中井権次顕彰会(2014年1月)の発足で、日吉神社の多くの装飾彫刻群が美術工芸品として貴重な資料としても見直されることを期待したい!!。中井家の彫刻師としての初代中井言次君音【(定忠)で享保7年(1722)生まれ】の作 品です。宮大工の棟梁として中井家一党 を率いた初代中井正清は柏原八幡社の造営等に携わり、
本殿背面蟇股の「大根にネズミ」

徳川家康に仕え ・江戸幕府の 京都大工頭の地位にあった名工・名門で法隆寺の修理・江戸城・日光東照宮・大坂城の築城等にも関わっているが、社寺彫刻を 手掛けて中井家4代目中井言次(君音)定忠<享保7年(1722)-天明7年(1787没)を初代として3代目からは中井権次の名を継承し6代目中井喜一郎(明治5年-昭和33年 )のとき柏原から丹後宮津に移転して彫刻師 中井家一党の丹波柏原の時代を終えます。
至山城館/井原城館(仮称) 共に築城時期や城主については
至山出合稲荷社と岩座(高さ約5〜7m・幅12m程)上部は見張り台?

伝承も無く城史不明の城塞です。日吉神社より約3km・岩屋谷川沿いに細長く延びる谷間の岩屋集落北東背後最奥に在る山南三山 ・丹波紅葉三山の一つ石龕寺の入口です。日吉神社本殿裏手の山腹には至山出合稲荷神社(当城館レポート最初に説明を付記済 )が祀られる。天孫降臨伝承にみる降臨場所として・此の巨岩群を磐座として祀られる 岩上神社が祀られる。岩座上部から背後の低丘陵は此の岩屋谷の東端を形成して、北方の岩屋石龕寺へと低い高低差の尾根を延ばす。
北西枝尾根2号墳?付近の出曲輪:北東尾根居館跡への分岐点

日吉神社南西角からの車道は三叉路に出て道なりに 三美学園前を通り岩屋集落の山間・岩屋谷川沿いの谷間に入るが、此処までの田圃の東側の丘陵中程までに井原城館(仮称)の竪堀や土塁跡らしい遺構を残す 見張り所らしい曲輪跡、最高所には愛宕山の火を燈したと云い火トモシ山とも呼ばれていた。南尾根筋手前は東西に浅いが堀切状があり高さ1.5m程の段差で曲輪が3〜4段続く。
北西枝尾根2号墳?:周溝は未確認だが土塁状に観える!?

何れも尾根幅いっぱいに幅8〜10m・長さ6〜8mあり最高地点には7u程の円状の曲輪となり 帯曲輪が廻り込んでいるのがよく判ります。帯曲輪は岩屋集落に向う車道側の西斜面に竪堀付近から主郭の北側まで延ばし、 東側へ捲いて南斜面曲輪群の中程迄を包み込む。帯曲輪の更に西斜面下の 8m程には幅2〜3m程の帯曲輪(犬走り!)が主郭の北側3段程の曲輪付近まで延びて藪に消えています。
最高所が”火トモシ山? の主郭に 4段程の曲輪と帯曲輪

主郭北側へも幅は8m程から4m程へと先細り、長さも3m程の4-5段小曲輪が続いて遺構は消え、藪っぽい尾根を30m程降った丘陵の肩に降りてくる。 番守寺山城は土砂採集で壊滅・此処も 築城に関わる伝承や築城時期・城主等一切不明で「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・山南町編(氷上郡教育委員会)」には岩屋小平古墳群の二基が記されているだけだが井原城館(仮称)として山頂部付近・
北尾根鞍部に西斜面に落ちる二条の竪堀状?

浅く埋もれかけた土橋付き堀切から三段ほどの曲輪群・最高所の 円墳の墳頂部を均したマウンドを主郭に周囲を帯曲輪が囲む。古墳の周溝ではなさそう?だが、西下方にもテラス状の帯曲輪、北西尾根に延び出曲輪(砦跡?)へも繋がる。 此の主要曲輪から先述の北西への枝尾根先に出曲輪群・北東へ延びる尾根筋下方には山南町誌(昭和63年)にのみ?「愛宕山の火を灯すので「火トモシ山」とよばれるところとある
最高所の主曲輪と帯曲輪(西北部)

…が屋敷の云われは不明とある」とあり井原北東の小山の屋敷跡として記されている居館遺構?…が 双方の尾根に繋がる緩衝地形(岩屋小平の2号墳?)を挟んで接ごう三ヶ所に城館遺構をもつ。
城館T(茶臼山:1号墳頂の主郭と帯曲輪)

井原城館T(仮称<居館:井原城>)が日吉神社背後の丘陵最高所・茶臼山Ca185mにある。 名の通り岩屋小平古墳群1号墳が位置する。山とは呼ばれても山南町誌に云う火トモシ山は、愛宕社か秋葉社が祀られていたと思われる井原城北下方の出曲輪 ・居館跡…付近と推察します。上出合稲荷社岩座上部の先にも大きな露岩があり、其のまえに拡がる平坦地と平坦地内の土塁状や窪地・井戸跡?・土塁の残欠?と其の土塁下部から延びる竪堀?・更にその土塁外側の竪堀の詰め上部を囲むように石塁状がみられ、
城館U(居館?)主曲輪と:下段帯曲輪:切岸約1.5m

最も防御補強意識した遺構が此処だけに観られるが、 後世に普請用に小規模な採石等により改変されているのかも?。岩郡最南端の位置にあり播磨への出入口を南正面間近に監視し、眼下に栗作郷(久下地区)から井原郷(小川地区)に入る旧山陰道<延喜式>でもあった県道77号沿い要衝を監視する物見砦だったか?。 岩上出合稲荷社の名が示す旧神社跡だったか?、しかし此処も大きな露岩を背にした場所ですが?。 次に最高所の主郭部は南尾根筋に3-4段を重ねる曲輪が続く。段差は明確ですが高さ1-1.5m程で切岸加工を感じる程でもなく土塁の盛り上がりも見られない。
城館U(居館?)主曲輪と:下段帯曲輪

井原城館Tから北東は石龕寺への寺境尾根で、石龕寺・石龕寺城(岩屋城)へ通じる尾根筋。 石龕寺城から石戸山をへて高見山城【(高見城)南北朝期・仁木ョ章の城、中世赤井五郎(忠家)が守備する黒井城の支城】にも石戸山から玉巻城(久下城)へも繋がる。この北東尾根下部約150m程には井原城館U (仮称<居館:井原北東の小山の屋敷>)があり、傾斜を増した尾根の肩に降り立つると丁寧に削平された 広い数段の曲輪が遺る。山側に浅い空堀状があり東端が土橋(上り土塁)となって上部の井原城主郭への登城ルート。主曲輪(幅10m・長さ12m)には西側の切岸(約2m)を一段下に降りる曲輪
南尾根の出丸!背後の白い岩場 (約5m)上から土塁曲輪?(中央右端に竪堀)

(幅6m・長さ15m)は西側の谷に沿い主曲輪の北端に廻り込み切岸(約2m)下を北に出る帯曲輪(曲輪北面は幅8m・長さ16m)。 その先は藪だが緩斜面を進むと村森側の貴布禰神社の社屋根が見える。此処も北東側から平入り虎口が上段の曲輪に開いている。 井原城館U下方・貴布禰神社へ下る途中(此の付近・愛宕社か貴布禰神社に合祀されている秋葉社の奥の院?(石祠あり)への参道があるが、岩屋小平古墳群2号墳?と北西枝尾根筋の末端にある井原砦(井原城出曲輪)が”火トモシ山”の位置と推察するが、
南尾根出丸!土塁曲輪西に竪堀:落口の石塁?

拡い緩斜面の尾根分岐点に小平2古墳?を観る。 井原城館V (仮称<井原城出曲輪:井原砦>)がある。井原集落と岩屋集落境の丘陵部北裾に見える鹿猪避けフエンスの開閉ゲートから「みつみ学苑」方面に向かって進み、古池(二段あり上段は枯れ池)側からが 急斜面だが城館Vへのダイレクトルート。古池側を斜上しても「2古墳」に出る。井原城館Tへの北西枝尾根上にあり ・2古墳も含め城館V(井原砦?<仮称>)。尾根上に曲輪段と二本の竪堀・尾根北末端に三段曲輪があり端二段曲輪の南(尾根側)を堀切(そのまま竪堀となる)を廻す。竪堀は全てが西斜面の岩屋・石龕寺道側に落ちる。
北尾根末端西側の広い二段曲輪

承久の乱(1221)に勝利した鎌倉幕府からは関西・中国地方に集中して多かった朝廷の 荘園領地支配を恩賞として与えられた関東武士団が一挙して関西各地へ来住します。栗作郷(久下・上久下地区)の地頭として入り玉巻城を本拠とした久下氏が元弘3年(1333)篠村で挙兵した足利尊氏に呼応して「一番」の駆けつけた事は太平記等で知られます。 仁木頼章を守将に嫡子義詮が石龕寺に逗留した頃から、岩屋谷の入口を護った砦があったものか?。 久下氏の檀那寺である石龕寺が足利氏の祈願寺ともなって 井原庄の一部が寺領となった頃の荘園監視や政務 ・代官の屋敷が在ったものか?。日吉神社から石龕寺への此の尾根筋には石龕寺領域を示す”寺界”標石柱が続きます。
城館V(居館)主要曲輪山側切岸下の土橋と空堀

南北朝期以降には 幕府領となっていた井原庄ですが永正13年(1516)和田日向守が 岩尾城を築いた頃は日向守が井原庄を領して岩尾城東入り口の 監視と守備を目的に築き南口を監視する 至山城と呼応していたものか?。また主郭部と南端の物見砦状は石龕寺城(岩屋城)に居城した広沢綱忠の出城だったのでしょうか?。 古文書に名なく・伝承も一切残らない為、城館については不明。古墳の墳頂のを均したマウンドを主郭とした最高地点 ・日吉神社背後の南尾根端の磐座上部付近の出曲輪状は天孫降臨の場?として古代祭祀の場・北尾根には広い曲輪が数段あり土塁道状や西斜面に二本ばかりの竪堀状や空堀(横堀)状が曲輪を区分し、岩屋石龕寺道を監視出来る居館跡とは思える?・東尾根には 空堀土橋・削平段・切岸も丁寧な広い曲輪が3段程あるが急斜面直ぐ下方には
貴布禰神社・脇障子の中国故事図

貴布禰神社が鎮座。 尾根続き(神社から100m・比高25m程だが)鞍部付近に奥の院(石室)があり、北尾根筋の居館跡?へも山腹を高低差無く捲いて行ける。以前に石仏を納めた石組み祠を見た様な?。石仏を廻る巡拝道があったのかも?。山頂及び三方ヶ所が其々・単独の城砦なのか 、時を隔てた宗教的遺構跡なのか判からなくなってきた。専門家の調査・報告を待ちたいところです。貴布禰神社(山南町村森)の創建年代は不詳だが 寛文4年(1664)社殿再建の記録があり宝永元年 (1704)貴布禰大明神を勧進し、
貴布禰神社

産土神の王子神社・大歳神社を明治43年に合祀され、 各所で祀られていた秋葉神社・金刀比羅神社・広峯神社や稲荷社・山神社等が境内に遷移されている。社殿は大正3年(1914)増改築されており、小さな社殿だが荘厳差・重厚感、 装飾彫刻も木鼻に龍・妻部に孔雀が配され脇障子も中国故事の題材から。彫刻師初代:中井言次の日吉神社と比較して見てしまう。社殿改築時のものなら5代目中井(権治)正胤か、丹波柏原に於ける中井一党最後6代目中井喜一郎による彫刻なのかも?。


旧友井家住宅 丹波市山南町岩屋297

友井家住宅は 町立老人福祉センター内に移築されているが、地図で見る限りで山南町野坂なのだが所在地は岩屋。足利尊氏・義詮親子ゆかりの石龕寺が 勢力を持っていた頃の寺領だったのでしょう。 其の老人保健施設「さんなん桜の里」は山南町和田地区・其の北隣に在る養護施設のパイオニア的存在「五輪荘」は小川地区野坂。
旧友井家住宅

五輪荘北側に池を挟んでは”五輪さん”と呼ばれる「無縁の五輪石仏」が祀られる五輪山佛祥寺があり、此処の所在は和田地区梶という。僅か100u足らずに範囲で変わる境界は何処に!!?。旧友井家住宅は此の様な土地の 境界紛争に起因する建物です。梶の佛祥寺にある無縁一石五輪塔と石仏の主は和田岩尾城主谷出羽守頼衛の奥方で、永正10年(1513)婿養子和田日向守齋頼(ひとより)に 刺殺された夫君の冥福を祈る為、庵をむすんだと云われます。友井家住宅は元禄年間 (1688-1704)隣村との境界紛争の解決に尽力した功績に対して村人が謝恩のしるしとして贈ったものと伝えられていますので、 意識して此の様な場所に移設されたのかな。もとの友井家住宅は阿草集落にあり、延喜式旧山陰道が篠山の福住から味間を通り、 峻険な鐘ヶ坂や険悪な篠山川の川代渓谷沿いの道を避けて山南町阿草へ抜け、篠山川が加古川に合流する井原集落から氷上回廊(旧佐治川沿い)佐治街道を県境の青垣町佐治宿に通じていたと考えます。
旧友井家住宅

住宅は入母屋造・茅葺・妻入りで縦割型平面、17世紀末〜18世紀初頭の建築で兵庫県東南部から大阪府北西部にかけ分布している「能勢型民家」の名で総称される様式の 原型を示すものとされ、移築民家としては篠山市にも旧大西家等があります。友井栄一氏より山南町が譲り受け昭和49年に解体し昭和59年に現在地に旧状に戻して移設復元された。 友井家は慶長年間(1596-1615)より15代続いている旧農家で元禄年間(1688-1704)に当時の阿草村年寄だった四代目友井(初代:徳左ヱ門)が隣村との境界紛争の 解決に尽力した功績に対して、阿草村民一同から謝恩のしるしとして贈ったものと伝えられています。
旧友井家住宅

家屋の柱は栗材・梁は松材を用い、手斧(ちょうな)や鉋(やりかんな)で仕上げ、また柱は一間おきに立て釘は用いず藁縄を用い、天井は竹の簀子張りで「えんげ」・「おもて」はその上に約5pほど土を敷いて防寒防暑に役立てている等、古い民家の様式を留めている。 とはいえ江戸末期までに大戸口廻りの改変・明治中期には「うまや」の撤去や改造、仏壇の新造、柱の取替え・間仕切りの改変、土間に有った「ながし」 「くど」は主屋外に移されていたものを解体工事後・現在地への移築修復にあたっては詳細な調査を行い 当初の形式・技法・後世の修理内容を明らかにし出来得る限り旧形式に復元されている。設計監理:財団法人文化財建造物保存技術協会による。国指定重要文化財として昭和49年2月5日指定を受けています。
(現地案内板及び旧山南町役場発行パンフレット・山南町文化財のすがた を参照)


状山の柱状節理    丹波市山南町和田前川

加古川(旧佐治川)に架かる船戸橋の西詰めから望む加古川左岸の低丘陵状山の西面に採石・採砂場だったか?・大きなズリ(崩壊地)が見えます。船戸橋の東詰めから川沿い 100m程で其の山肌を裂いて露出している露岩帯の下部に到達します。兵庫県レッドデータブックの地質の部・Aランクの山南町金屋 流紋岩質凝灰岩を紹介したが和田地区前川の流紋岩質溶結凝灰岩も、
堀から土塁外側の石塁

火山噴火による噴出物が厚く堆積し、それら自身の熱のために再び熔けて冷え固まって 柱状節理となった「流紋岩質熔結凝灰岩」とみられ、山南町下滝の丹波竜発見で話題になっている篠山層群(白亜紀前期)の泥岩層中の雨痕と共に 「生野層群下部の流紋岩デイサイト質 ガラス質溶結凝灰岩、柱状節理」として兵庫県レッドデータブック(2003年版)に地質の部・Cランク(59箇所のうちの一)として挙げられる。



梶の無縁五輪塔
  丹波市山南町和田(梶村)

佐治川(加古川)に架かる船戸橋の手前(東)一帯に工業団地・町立老人福祉センター「さんなん荘」・老人保険 施設さんなん桜の園・養護老人ホーム 五輪荘等施設がある。 旧友井家住宅・さんなん荘は所在地が岩屋となっていて飛び地なのでしょう?。其の東に野坂・奥・そして石龕寺に至る本来?の細長い岩屋集落だが、足利尊氏との所縁が強い石龕寺が勢力をもっていた頃の寺領だったか?。 五輪山佛祥寺

さんなん荘への道を隔てた桜の薗は和田地区和田。其の北に迫る低丘陵の間にも 「五輪荘」があるが近年:老人養護施設が三つあるが、当初からあったのが昭和40年開設された養護老人ホーム「五輪荘」で…其の裏手に溜め池があり旧友井家住宅から続く高く急な斜面上には五輪山佛祥寺(高野山大師協会支部)が建つ。 小豆島巡拝団五輪会本部の看板と共に本堂入口前に掲げてある。「五輪さん」と呼ばれる小さな二基の五輪塔と其の側に置かれた像の磨耗した 石仏が諸病に霊験あらたかな仏様として崇敬され本尊として御祀りされています。此処自体が南に池と断崖上の斜面、 西には旧佐治川が流れ、和田岩尾城下に向う渡舟場が有ったと思える「船戸橋」を渡る。 旧佐治川に沿っての丘陵末端部も崖・小規模だが玄武岩摂理が見られ、背後の丘陵部は状山と呼ばれますが城山(ジョウヤマ)と思えます。
加古川(旧佐治川)の船戸橋から柱状摂理の見られる状山
(南山裾(右手)の尾根向こうに「五輪さん」「旧友井家住宅」がある)

奥丹波にたった一つ築かれた近世の城 ・和田岩尾城の重要性から此処に古岩尾城の要衝監視城砦があっても然りと改めて無名・無調査の城砦探索に火を付けられたような思いです。さらに状(城?)山から尾根続きに番守寺を経て 番守寺山城(番守寺砦)に至る。此処はR175号新田坂に接し、奥丹波の南玄関口を守備する峠監視の砦跡です。さて本題の石仏・五輪塔については各種考証により調査されたところ450年前頃の石像とされます。其の頃 :永正年間(1504-21)には下記の出来事があり無縁の2基の五輪塔は子の無かった谷兵部介夫婦のもの・菩薩像は夫人の供養碑なのでしょう。岩尾城第4代城主:谷出羽守兵部介頼衡(よりひら)に子が無く、甥の和田日向守齊頼 (ひとより)を婿養子としたが永正10年(1513)和田齊頼が養父:谷兵部介を刺殺して岩尾城主となります。 しかし母と名のつく谷兵部介の妻を手にかける事は出来ず、家臣に命ずるには忠臣を失うことになるとして、
「五輪さん」一石五輪塔2基と地蔵像が祀られている

此処・状山に庵を建てて 幽閉しようとしたが策略を知った兵部介の妻は自ら黒髪を切り庵に閉じ籠り、夫の冥福を祈り続けたが間もなく重い病にかかり亡くなります。 ささやかな墓標が奥方の墓である事は、村人の口伝えに残るだけだったが其れも忘れ去られていたようです。時移り近年(昭和20年頃か?)・某氏が急性肺炎で生死の線を彷徨っていた折、自分の持ち山に五輪塔・菩薩像(地蔵像の様ですが!!)が 有ることを思い出して、願をかけたところ病は全快したという。五輪塔・石仏は側の貯め池から泥に埋もれていたのが発見されたようで、お礼に祠を建てて祭祀したところ霊験を伝え聞いた人たちの参詣が続き、今は佛祥寺と名付けて信仰を得るに至ったとされます。
(昭和31年発行 丹波叢書「由緒を尋ねて 丹波新聞社版 を参照)


也足寺・安養寺(廃寺)・伊都伎神社
金峯山也足寺の涅槃図  山南町和田梶

県道86号線・加古川(旧佐治川)に架かる(梶村)の船戸橋を渡り 岩尾城を北方に望むところ。梶の旦那寺(菩提寺)である金峰山也足寺(曹洞宗・本尊:釈迦牟尼仏)へは、除夜の鐘を鳴り始めると 父に連れられ年賀に訪れるのが恒例となっていた。此の梶の地は鎌倉時代初期:氏族(坂東八平氏の一)鎌倉氏一族の梶原景時が源頼朝に仕え 功を立て壇ノ浦に平家滅亡・頼朝の死後は北条氏を始め御家人達に謀反の疑いで弾劾され、京へ逃れる際の討たれている(梶原景時の変 1199年)。
金峯山也足寺

正治2年(1200)梶原一門の衰退に際し、梶原景時の孫?:平次三郎景教(かげのり)と家臣:岡野源左衛門重行が移り住み、此の地を開発したことから梶原の姓をとり梶の名がある。 景教は後・出家し也足寺住職となり以来隆盛し多可郡から多紀郡(篠山市)にまで及んだと伝えられます。也足寺の開山は丹波史年表に平安時代中期 :天暦 3年(949)9月とある。第60代醍醐天皇の第二皇子とも・仁明天皇の子:常康親王の子とも云われ?真偽不明だが空也上人が諸国巡錫の途中・此処に立寄られ、
伊都伎神社

法華経8巻を読誦されたといい其の夜:夢枕に毘沙門天が立たれ「此の地に寺を建立せよ。我・末代の衆生の願望を速やかに成就せしめん」と告げられたという。 空也上人が足を留められた事から也足寺と呼ばれ、山号は空也上人居住地の大和の金峰山から。空也上人が京都・六波羅蜜寺を開創されたのが翌・天暦5年(951)だが 也足寺縁起には応和元年(961年)8月とも!?。初盆の施餓鬼会法要に参席し、最初に供養の塔婆を頂く観音堂には明光山安養寺【真言宗延明寺末で建久3年(1192)の開基】の 本尊であった薬師如来像が安置されている。
廃寺安養寺:寺子屋跡(背後石垣上は神社への参道)

也足寺の南隣りの伊都伎神社参道 ・車道並びの石垣上に拡がる広い平坦地が安養寺跡。寺院は明治10年頃廃寺となり寺子屋として改築使用されていたという。曹洞宗は大本山に高祖:道元禅師 開山の永平寺(福井県)・太祖 :瑩山(けいざん)禅師の開山による總持寺【横浜市鶴見区 :もとは石川県に在ったが明治時代に消失し現在地に移転】)の二山があり、 我が家は中央に釈迦牟尼仏・其の左右下座に両祖の大師さまを描かれた、 一仏両祖三尊仏形式の掛け軸を祀っています。涅槃図は各宗派を通して制作されており寺々に所蔵され「涅槃会」 (釈迦入滅の2月15日)には本尊として奉られます。
廃寺安養寺:寺子屋跡左上部が(伊都伎神社)

岩尾城下の親縁寺 (浄土宗・本尊:阿弥陀如来)の開基を「山南町15年史に天正10年」(1582)とされてるが岩尾城和田日向守が建てた菩提寺 :石蓮寺が天正7年(1579)丹波攻略で落ち、寺も焼失していたが秀吉の家臣:木戸十乗坊(佐野下総守)が 天正14年岩尾城主として此処に移った際、実弟の信窮(候誉上人)を開山に石蓮寺を再興して親縁寺とされたという。此の親縁寺涅槃図(曼荼羅だったかな?)の寄進者には旧多可郡中町からの寄進名があり、妙見山系の鉱山事業・特に鉱山搬出等に山南町側との 繋がりが深かったように思えます。也足寺は室町中期:明応2年(1493)恵空上人が住職の時に大火で焼失・天正7年(1579)には信長の丹波攻略「岩尾城攻め」の兵火に罹り焼亡したが、
涅槃図(也足寺): 上野景信筆<天和2年制作>

慶長元年(1596)円通寺の13世威雲宗虎大和尚により再興され真言宗より曹洞宗へ改宗されています。釈尊入滅(臨終)の情景を描いた 涅槃図は各宗派を通して盛んに制作され独自に展開していったもので、寺々に所蔵され涅槃会の本尊として奉られます。也足寺の涅槃像は箱書き等は無さそうですが、掛軸の裏書きによると天和2年(1682)5月・和田梶村の沙講衆念佛講衆により 也足寺に寄進されされたもので上野景信(人物不詳)の筆に成るもの。同:天和2年は 和田代官所に信濃国(長野)で5,000石の鶴牧藩水野家が丹波国2,000石を領有して統治しており代官所とは約800m程の距離に有る寺に対する便宜等・何らかの関与を考えてみたくなります。
画面中央部の会衆の様子


檀家中の篤志家寄進により此のほど涅槃図の修復がなされ、吉田住職により檀家宗徒へのお披露目(御開帳!)を前に開眼供養されました。 釈迦の入滅を見守る菩薩や、釈迦を取り捲いた仏弟子・天部・俗人等数多くの会衆や蓄・獣・鳥類に至るまでもが皆・悲嘆に暮れて泣き伏している様子を描く賑やかな画面構成等は、宋代絵画の影響を受けた鎌倉時代以降の涅槃図の特色とされています。釈迦は跋堤河のほとり沙羅双樹の間に入滅したとされ、涅槃図に描かれる多くの会衆や動物達の所作や位置・色彩等は作成画家により様々だが
涅槃図部分(也足寺)

色々な約束ごとの上で描かれているとは住職のお話でした。 画面上部の中央には群青の虚空に満月が白く描かれ、天からは阿那律(釈迦10大弟子の一人・天眼第一)に先導されて飛来する仏母:摩耶夫人一行の乗る雲 ・沙羅双樹の林は八本描かれ、背後には波荒い熙 (き)連河が流れ菩薩や悲嘆に暮れる十大弟子、釈迦の足には毘舎離城の老女が手をかけている。会衆の中でも10大弟子の一人阿難が倒れ、
画面下部には数多くの禽獣の姿が見える

比丘(びく)【釈迦の弟子だが釈迦や弟子を困らせたとされる六人】の一人が水を注ぐ場面も 決め事通りに知られた場面です。画面下方にも馬 ・牛・ラクダ?・像・獅子・虎・豹・フクロウ・猪・狐?・鹿・犬・兎・鼠・亀・蛙・蟹・ヤモリ・蟷螂・トンボ・蛇・ムカデ・カタツムリ・ミミズ・孔雀・鳩・烏・雉や鶴等の山鳥・鴨やオシドリ・サギ・ガチョウ等の 池や沼の鳥の姿と、種々雑多な数多くの鳥獣が描き込まれています。

(ふる里の寺(氷上郡)・也足寺縁起・和田村史等を参照)

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