岩谷山〜西ヶ嶽〜三嶽〜小金ヶ岳・畑山〜福泉寺城〜唾市ダム
兵庫:篠山市 地図 (五万図=篠山・園部)
T2001年02月12日岩谷観音堂〜岩谷山 (五台山)〜西ヶ岳〜御嶽〜西ヶ岳〜藤岡ダム

U2002年10月12日 大タワ〜小金ヶ岳(726m)〜大タワ〜御嶽(793m)〜西ヶ岳
V2004年10月24日 唾市ダム〜小金ヶ岳〜畑市〜福泉寺城(宝塔山)〜唾市ダム
近畿の山城 福泉寺城
近畿100山関西100山  三嶽
駱駝岩(仮称)から小金ヶ嶽 H14.10.12

校歌故郷の山西紀小学校 ♪三岳をはるか仰ぎ見てxx・・♪
         西紀北小学校 ♪空にそびゆる三つの嶺・・♪
      
   畑小学校 ♪明け行く空に立ち並び 聳ゆる三岳 三つの山・・♪
       
 西紀南小学校♪多紀の山並み うち廻るxxx・・♪
丹波のお話 
御嶽のほらくらべ


篠山城址に立てば篠山市の北方には600〜800mの小さな峰を連ねる東西20km程の山域には、 最高峰・一等三角点の三嶽 ・西ヶ岳・小金ヶ岳と人気の山を連ねて多紀連山・多紀アルプスと呼ばれています。三嶽は三つの山ではなく御嶽役行者は大峰を開く前に多紀アルプスの山々で修行したといわれます。平安時代・貞観年間 (859〜877)に開かれ、
御小金ヶ岳から御嶽(三嶽)を望むH16.10.24

吉野の大峰山に対抗する丹波御嶽修験道場の本山(中心地)でしたが大峰山が衰微してくると、修験道は勢力争いとなり分裂し、大峰の僧徒に攻撃され中世・室町時代の文明年間(1469〜87)に滅んだといわれます。 いまも岩尾根が続く荒々しい山容は随所に行場(東の覗き・西の覗き・不動岩・愛染窟等)を隠して点在し、全山がツツジや石楠花に彩られる華やかな姿を見せる春も有ります。



T丹波の石舞台から岩屋観音-岩谷山(五台山)-西ヶ岳-三嶽へ   H12.02.12

篠山産業高校と鳳鳴高等学校の丁度中間辺り 信号のある交差点を藤岡川に沿って北の山麓に向って進みます。東窟寺・岩谷観音堂を経て藤岡ダムに向う道で案内標識が有りますので分かると思います。 程なく右手・のどかな田園風景のなか、田圃の一隅に忽然と姿を見せる石積みが 丹波の石舞台「石くど」です。 大きな円墳だったが長い年月の間に盛土が流れ落ちて無くなり後に石郭の巨石が露出したもので 勿論篠山五十三次の名所の一つ。 なをも車を走らせていると左手に「猪の供養塔」石碑が目に止まる。ここはデカンショの里・猪の(ボタン鍋)本場です。
丹波の石舞台「石くど」

藤岡奥の公民館から左折すると目指す岩谷観音。予定では西ヶ岳に登り前方に見える 藤岡ダムへ降りてくるつもりなので公民館前のスペースに駐車します。 (AM8:30)此処に「ぼたん鍋」看板の店があります。 こんな何もなさそうな山奥なのに・・と思える場所ですが帰り着いた昼過ぎには多くの客で盛況でした。なを藤岡ダムサイトは公園になっており北端まで舗装され数 10台駐車可能場所もあります。公民館から向う山の中腹には大きな白い大岩が三つばかり見えています。舗装の道は 6〜7分で東窟寺の毘沙門堂に着きます。寺の案内板の前からはハイキング道が観音堂(篠山五十三次の名所の一 )に続いています。岩谷観音さんは大化年間(645〜50)頃の法道仙人開基と伝えられ山号は山の上の五つの大岩(町指定 )から中国の霊場・五台山に因んでいます。三嶽修験道と共に栄え後の篠山城主も祈願所として寄進や 参拝を続けたといわれます。目立つ巨大な岩峰を仰ぎながら不動の滝・阿弥陀堂跡・般若心経塔・左後方の高みへは 鐘楼跡に出ます。 正面の参道を進み閼伽水で喉をうるをして睨み岩へ来るともう左手一帯は下方から見えていた五台岩か !?屏風のように起立しています。石垣の上に白壁を廻らした岩谷観音堂の境内に入ります(AM8:55)。 低い白壁の塀越しに弥十郎岳や太平三山の山々が眺望出来ます。
三岳からの西ヶ岳

本堂脇に 三嶽へ5時間の道標があります。本堂の裏手には岩屋 (小さな洞窟)があり鎖が伸びている。中には法道仙人の像が祀られていた。山南町の常勝寺では鬼を徳化した法道仙人ですが此処では人身御供を強要していた大蛇を教化しています。 勿論・本堂に安置されているのは十一面観世音菩薩です。法道仙人像の前から踏み跡を辿って岩谷山迄はきつい登りの連続です。本堂横から立派な道標が西ヶ岳まで続いて有りますが道は随分荒れています。 道標があるのにルート確認が必要な箇所が 幾つか有りますので相応に楽しめるコースではあります。急斜面を登り切れば 稜線は緩やかとなり岩谷山(五台山 589m AM9:20)山頂です。 登山者は稀で 雪の稜線に続いていた一人の登山者も 岩谷山を往復しただけで引き返しています。この山だけが目的の奇特な人が居るとは思えず 狩猟だったのかな!。これより雑木林の稜線は擬木の立派な標識が有るのに時々踏み跡が途切れがち、 見失わないように注意の山道です。
御嶽側から西

間近には御在所〜堂の峰そして荒々しい突起を並べる鋸山へと山並みが続く、その西には先日登ったばかりの夏栗山と 黒頭峰がこちらからはなんとも乳房を思わせる、たおやかな峰を覗かせて、 対照的に異様な山容の三尾山がその横に、黒い影を落とす夏栗山・黒頭峰・三尾山の佐中三山。私は正規の入峰コース (西から朝日に向って)で三嶽へ向うことになります。雑木林の中の細い踏み跡は道標完備のハイキングコースなのに倒木で道を塞がれることは無くても時々消えてしまいます。笹の尾根に変る頃、 藤岡ダムへの尾根伝いの下降地点からは、いよいよ西ヶ岳の大きな山が目前にせまります。(AM9:55)5分ほどで鞍部に着くと 整備された階段の登山ルートが柿屋から登ってきており(AM10:00)此処からの雪道は幾つかの靴跡が続く。 西ヶ岳への軽い登り20分程で藤岡ダムへのもう一つの下降点(こちらは谷に沿って)が笹に隠れてた階段道だ。此処に赤い布が続く。このあたり積雪30cm程だが人気コースの為トレースがあり靴を濡らすことはないがスリップ注意だ。 上部が西ヶ岳(727m AM10:28)で栗柄への分岐(AM10:45)までくると流石に主峰・御嶽(793m)の勇姿は素晴らしい。御嶽山中継所の二本のアンテナと建造物は無粋だが此処は山頂より少し下った石室の側の岩場が休憩・展望に良い。(AM11:05〜11:10)不動明王は此処では 役行者の門番のようです。
御嶽側から西ヶ嶽

二匹の鬼を従えた役行者像が堂内を取り仕切っています。 さて展望を満喫して引き返します。帰路は西ヶ岳から藤岡ダムへの下降です。栗柄分岐 (AM11:30)〜西ヶ岳(AM11:45)で5分も下ればダムへの分岐。階段の続く道だが殆ど笹や雑木に埋もれたような道。水池まで下ってくると (PM12:20)音立てて流れる谷に沿ってダムの手前まで、僅かの距離ですが谷には綺麗な滑らの滝や全容が見えないが音だけが轟ている岩間の滝など多くの滝が懸かっているようです。「これより藤岡ダム」のゲート (PM12:30)をくぐって林道に出ます。ここの案内板には藤岡〜西ヶ岳100分・西ヶ岳〜三嶽70分とある。ダムサイトを巡りながら藤岡奥の公民館前の駐車位置へ戻ってくると(PM12:55)此処にある「ぼたん鍋」看板の店は結構客が入っている。 周辺に店と名の付くものは何も無い集落ですが流石は篠山名物の店のようです。


U 多紀アルプスの核心部 大タワ-小金ヶ岳-御嶽-西ヶ岳  H12.10.12

県立自然公園・多紀アルプスを代表する三山に向かいます。観光スポットの篠山城を見てからと 市街地へ入ったら渋滞になっている。事故か!!工事か!!と思っていたら今は"味覚の丹波"真っ只中です。三連休中は「味祭り 」で今日は初日。並べば"黒豆ごはん"も賞味出来たが盃ヶ岳や八百里山を眺めながら301号線を鍔市ダムに 向け走ります。 二箇所ばかりに「御嶽」への登山口道標見て火打岩(ひうちわん)のバス停を過ぎれば大タワ(大師のタワ)へはスギやヒノキの植林が続き、草山温泉や京・三和町へ抜ける快適な山岳道路です。「大タワ」は御嶽や小金ヶ嶽へ向う鞍部の峠で、 丹波修験回峰コースにあって"大師のタワ"とか修験者を見誤ってか"ユーレイ峠"とも呼ばれていたところです。
北壁から小金ヶ岳

大タワは明るく広い駐車場や広場・休憩所がありトイレ完備の登山基地となっています(AM10:55)。先ずは駐車場から車道を渡り石仏を祀る 石室の前の植林帯の中に続く緩やかな山道を辿ります。擬木のコンクリート階段を過ぎれば平坦な稜線に出る。下り始める頃、露岩があらわれ此れより岩稜歩きの幕開きです。手始めは正面の駱駝岩(仮称)を前景に露岩を纏い ・岩峰を従える雄々しい小金ヶ岳の偉容 が望まれます。幾つもの岩を捲き、ロープを頼っての岩場の直登を重ね、北壁 (AM11:20〜30)の岩場では御嶽の大きな山容を望みながら休憩を取れば後は急登もひと登りで方位盤型休憩テーブルのある小金ヶ岳山頂(726m AM11:40〜55)の小広場に飛び出します。
小金ヶ岳南尾根の福泉寺跡・大タワ分岐

周囲は低い潅木に囲まれてはいるが少しは展望もあって 朝に登った白髪岳や先日の 八ヶ尾山毘沙門・雨石山・櫃ヶ嶽 弥十郎ヶ岳、深山・大野山、鹿倉山や妙高山等が見渡せます。小金ヶ岳は 冒頭に記したように、筱見四十八滝から発する表回峰の金剛界廻り行場で山頂に 蔵王堂があったところから蔵王ヶ岳と呼ばれ御嶽と共に修験の山でもあった。峠山を経て筱見四十八滝へ続く稜線の道も明確で、 利用者は少ないようですが、むかし筱見から往復した頃から比べれば格段に良い道のようです。 大タワに引き返し(PM12:15)今度は御嶽への登りですが 展望広場の取付きからは、いきなりの歩幅の合わない階段登りが延々と続きます。階段も消え 傾斜も緩やかになってくると 堂宇跡かと思える平坦地を過ぎて御嶽の岩室(御嶽東峰)に着く(PM1:00)。 岩室内には役行者像が中央に前鬼・後鬼を従えて座っており、周辺には容姿を留めない幾体かの仏像らしきものや仏具が散乱しています。
小金ヶ岳山頂の方位盤

本来・不動明王を祀る石室だが 正面の役行者像の段の下(土間)の澄に置かれて門番のようです。休憩なら御嶽山頂より、此処の露岩の上と決めています。明るくて展望も効き快適です。10数m先の鞍部は火打岩から直接上ってくるルートが合流し 上り返せば御嶽山頂(1等三角点 798m PM1:05)です。小金ヶ岳と同様の方位盤型休憩テーブルの横に三角点があり、二本のアンテナを立てた電波中継所があるが、多紀アルプス最高峰だが展望はあまり良く有りません。 御岳山頂を通り越して電波中継所横から続く山道を下リます。西ヶ嶽への鞍部から栗柄・三岳ロッジへ降るコースまでは 健在ですが其処から先、西ヶ嶽への稜線は相当な藪を覚悟でしたが昨年 2月に岩谷山から歩いたとき北側97号線の垣屋方面から整備された階段の登山ルートがあり西ヶ嶽へは素晴らしい稜線歩き、西ヶ嶽山頂 (727m PM1:50〜2:00)は静かで狭い山頂だ。
西ヶ嶽から御嶽を望む


滅多と人には出会わないのだが、 私たちと同じく大タワから往復の単独者が立見の展望を楽しんでいます。展望は御嶽より僅かに良い。
人気の無い静けさがそう思わせるのかも知れないが小金が岳からは整った御嶽の姿も、西ヶ嶽からは急駿で岩壁を隠して 不気味ささえ感じます。白髪岳から 西光寺山妙見山へ太平三山の奥には先鋒を見せる 大船山が、 山頂標識を通しては明日予定の佐中三山(三尾・黒頭・夏栗) 向山連山五台の山並みが横たわって見えます。 山頂には行場跡と思われる「一の池」という石組みの小さな窪地があると聞いたが、一人のときとは違って気が散漫になっているのか気付かずに此処を後にして御嶽の岩室(PM2:50〜3:00)へ戻り大タワへと帰り着きます(PM3:25)。 大タワを北へ抜け草山温泉へ招待して疲れをほぐしてから田舎の我が家に招待します。帰路の鼓峠では再度、御嶽山頂を望み川代渓谷 に沿って走ります。


V丹波修験道の山城か ・・? 唾市ダム〜小金ヶ岳〜畑山〜福泉寺城 H16.10.24

唾市ダムのある奥池周辺は釣客や休日にはバーベキューや自然観察等を楽しむ人達で賑わいを見せる。 第一次?自然水ブームの頃は?小金ヶ岳からの水がダム最奥部の広場に流れ出ているのを汲みに来る人もいたが、 今は綺麗なトイレ付き休憩所が建てられていました。
唾市ダム自然公園

降雨量の多かった台風の影響なのか、谷筋の水場が広場にあるのに休憩所裏手から、強い水の流れる音がするので覗いてみると水道管が壊され大量の水が噴出してトイレ内を流れています。”如何して此のような事をするんでしょう”・・平和や追悼のモニュメントを壊したり、商店のシャッターへの落書等は 良識や常識を遥かに超過した愚行に呆れ、情けなくなってしまいます。”酒に酔って…”と許されるような行為でもないと思うが、自然を公園として整備した事で其の施設や自然を壊す人間失格者がいる限り、 自然は自然のままが良いようです。
畑山近くの尾根の岩場から鍔市ダム


誰の目にも 触れないまま消滅したとしても…蛮行を目にするよりは救われますからね・・・!!公園上には採鉱した珪石をケーブルで 降ろした索道 終点部らしくコンクリートや太いケーブル類が残る。上部に続く踏み跡が無いかと探したが見当たらなかったが、 切り立つ前方斜面に何段もの石垣が見えるので近付いてみると周囲を石垣で囲った 6〜7m四方の真四角な空間があり、其の中にレンガ造3.5m四方の空間がある。
福泉寺跡:僧舎の礎石を下草藪や倒木下にみる

精錬の炉とも思えず索道操作の機械室だったのかも…引き返して鍔市ダムへ流れ込む谷筋に添って進んで行くと重量制限+運を天に任せて渡る。 苔生し朽ち始めた丸木橋・梯子・桟木も外れ川の流れが望める見通しの良い橋を渡り、其の橋の片鱗も無い橋桁の側の岩場を トラバースして対岸に渡ると、後は藪や下草で隠れるが 良さそうな山道が続きます。地形図にある破線の鍔市ダムから畑山近くの稜線を越えて大タワへの道は不明で【この峠から大タワ〜小金ヶ岳が一般ルート、 峠から福泉寺跡へも踏み跡は明確ですが鍔市ダムへは標識も表示も無い。
畑山からの小金ヶ岳

最近トレースされたらしい赤いテープがある】更に川沿いを直進して、 おかしいと思ったが小金ヶ岳ではなく 畑山を目指していたので谷筋を見て尾根に取ついた。もう少し進めば篠見四十八滝からの縦走コースに出るところだった。 稜線近くなると傾斜も急になるが岩も現れる。露岩の展望台に出るとダムが遠くに見える。小金ヶ岳に向う稜上にはオベリスクの様に岩柱が突き出しているのが見えます。篠見四十八滝からの縦走はコースも長くマイカー登山に適さないのか人気の山ですが 利用者はグッと少なく台風一過の倒木も多い。小金ヶ岳山頂からも 御嶽への尾根を採らず南への尾根を下って畑山(595m)へ向います。
鍔市ダムから畑山・小金ヶ岳へ・肝試し橋!

畑山手前から大タワへは道標完備のハイキング道ですが、鍔市ダムへの道標表示がありません。直進して畑山を目指して 福泉寺跡と福泉寺城の探訪が今日の目的です。畑山(595m)や福泉寺城(福泉寺跡)からも岩壁や白い岩塔や露岩を覗かせる岩峰・小金ヶ嶽が低いが 多紀アルプスで人気のある景観を余す所無く見せてくれます。そして此の福泉寺城が孤高の山城として、思わぬ大きな堀切や曲輪群の遺構を残しています。



多紀アルプス 三岳 のホラ比べ


丹波杜氏の里:篠山は各地区ごとに摂津・伊丹や西宮・六甲(灘五郷)等それぞれ 決まった酒造蔵へ出稼ぎの時期やコースも決まっていたようです。そんな丹波杜氏と酒桶や樽を作っていた職人達との自慢話です。 「丹波の三岳のてっぺんに三本の大きな竹が生えていて冬の積雪では、竹がしなってその先端が丹後・宮津の海に浸かる。やがて春になり雪が解けてくると竹が元に戻るが、
北壁から御嶽を望む

その笹の葉にはハマグリがびっしりついていて三岳のてっぺんにはハマグリの山が出来る」といばっていると「伊丹の酒屋には大きな酒樽がごろごろしていて、 その樽の周りが何と三里から四里は有る」とやりかえしますが、「その酒樽の輪は何で作る」とやり返されると 伊丹の人はぐっと詰まって「その?ゥ 丹波・三岳の竹で…」と言ったので伊丹の人が負けたそうな。


 福泉寺城

宝塔山福泉寺と福泉寺城
福泉寺城   宝塔山 592m   篠山町火打岩字宝塔山

福泉寺跡・福泉寺城へは幾つかの小金ヶ岳を目指す一般登山コースが利用できます。上記 V唾市ダムから県道301号線に福泉寺跡の案内板が立つ 小金口登山口・更に進んで大タワ手前のヘアピンカーブのコーナーにも小金ヶ岳への道標が立ち駐車スペースも有る登山道がある。・・が此の道標に”クマ出没注意!!”の目撃情報が記された丹波県民局の注意表示に 驚かされての登山開始とはなるが一番の短絡コース・・・。
福泉寺跡

岩谷山〜西ヶ嶽〜 御嶽〜小金ヶ嶽〜篠見四十八滝へ続く多紀連山(多紀アルプス)や栗柄峠?御在所山?堂の峰?鋸山をはじめとして周辺の山々には大和(葛城・吉野 ・大峰)修験道と並ぶ一大勢力をもった丹波修験道があった。平安時代初期:貞観年間(859〜877)に開かれ山岳宗教の対象となった山々が多いなかでも御嶽修験道は平安時代中庸期(鳥羽天皇の1100年頃か?)大峰山を凌ぐ程に隆盛を極め修験の一大聖地ともなっていた。御嶽南尾根には修験道場の本山・新金峯大伽藍の大岳寺をはじめとして数箇所に堂宇が建ち、 東方の小金ヶ嶽は頂上には蔵王堂があったところから蔵王ヶ岳とも呼ばれました。
小金ヶ岳から宝塔山(福泉寺・福泉寺城)遠望

小金ヶ嶽からの南尾根筋の7-8合目付近・畑山から西南へ延びる尾根の頂部付近には、大峰山の竜泉寺の対抗して命名されたと云う福泉寺【観音堂と僧舎が 五棟あったというを始めとする寺々が創建され、さらに入山前に山麓で行なわれる里行には里坊 【栗柄観音堂<御嶽山養福寺>・・等】が在りました。回峰行には表と裏があり、篠見四十八滝から小金ヶ岳・南尾根を下り福泉寺を往復して岩尾根を大タワ?御嶽頂上の行者堂から 大岳寺に至る表行の金剛界廻り、
福泉寺城東郭・西尾根に延びる大土塁状?曲輪

御嶽から 西へ向い栗柄の養福寺に至り不動滝の水行で終わる裏行の胎蔵界廻りの他、周辺の山・峰に修行の廻峰行のコースがあった様で、峰々に僧坊跡や行場跡を伝える所は多く、今も東の覗き・西ヶ嶽付近には西の覗き ・不動岩 ・愛染窟等の行場が点在しています。役行者は大峰を開く前には葛城の他、 此処・多紀アルプスの山々でも修行したといいます。 隆盛を誇る丹波修験道は次第に衰微していく大和(葛城・吉野・大峰)修験道にとっては脅威の的となり、本山の大峰山への参拝を求めるが御嶽は応じず「丹波志」には文明14年(1482)6月
福泉寺城域中郭部の低土塁曲輪

大峰修験の僧兵宗徒の攻撃を受けて 多紀連山の山岳寺院は尽く焼失し、勢力争いに敗れた丹波修験道は滅んだといわれます。小金ヶ岳から県道301号線の小金口へ下る登山道の福泉寺を示す分岐道標からは、直ぐ旧福泉寺跡の広い平坦地形に着きますが、 道標の指示板方向の無い緩斜な尾根沿いを直進する南に進むと、大タワ方向の西へ延びる枝尾根に向かい殆ど段差無く・幅広く長い大土塁とも思える福泉寺城城域最高所の曲輪?に入る。丹波では足利義詮が父 :高氏の東上を待って仁木ョ章等に護られて留まった石龕寺城、その尊氏勢と戦った南朝方:荻野朝忠・児島高徳が拠った弘浪山高山寺城等寺院を臨時の城として城塞化される例は珍しくなく、 大坂・石山本願寺が戦国大名と対抗し寺内町を形成したり、一向一揆を指揮して戦った拠点も多いのですが山城でも僧徒が自衛手段に城砦を築き籠もった例は珍しいのでは!!。
福泉寺城東郭端の大土塁状?曲輪から城域は南尾根沿いに曲輪群が続く

遺構は南への尾根に曲輪・土橋付堀切・大土塁を見るが、南端付近で大きく崩され巨大な空堀状になった珪石採鉱跡で途絶え、 東へ下降していく採鉱現場の巨大空堀沿いの尾根筋に、段曲輪跡・空堀道状の窪地がある。 小金口からの登山道がある谷筋から福泉寺に至る侵攻に備えたものか?、採石場で遺構消滅は考えられるが、南に続く尾根筋にも城址遺構が残るかは未確認です。福泉寺城の築城年代や城主・守将等は不明だが、 福泉寺を守衛する様に手前の尾根筋に築かれているところから、 大峰山修験と対抗する緊張状態にあった御嶽修験の山伏・僧兵宗徒等が大峰勢力の来襲に馬駈場や堀切も備えて築いたものとされます。”丹波志”には文明14年大和大峰修験の僧兵宗徒・僅か300余の勢力が 遠く丹波へ来襲し、其の抗争に敗れて壊滅したという御嶽修験側の勢力や戦いが、
福泉寺城南郭:尾根上曲輪と土塁(右端)に囲まれた窪地(曲輪?)

どんなものだったのか?、比高340mもの高地に築かれた福泉寺城が此の時に使用された城なのかは?、 不甲斐無い一方的な敗戦の様子からも信じ難い。とはいえ其の後・戦国期の在地勢力の畑氏等により、 修築・改築されて利用されたものかも不明です。旧西紀町本郷や藤坂から京丹波町三和や瑞穂側へ抜ける 間道があったとしても交通の要衝にあったとも思えず!?、領内監視や国境警備の見張所としても適地ではなさそうです。小金ヶ岳を挟んで主稜線の北側には天田郡を領した細川方の塩見氏の川阪砦があり 福泉寺城の南山麓・火打岩には山名氏が拠った茶臼山城があって 丹波修験道が文明14年(1482)滅亡した以降にも使用されたかが微妙です。丹波守護・山名氏/細川氏の勢力抗争の続いていますが細川氏が丹波守護になった後、
南郭の大土塁から堀切

永正年間(1504-21)頃には守護代内藤氏の臣・塩見氏が天田郡に移住しており 川阪砦からは直近で尾根続きに小金ヶ岳を経て繋がる兵庫丹波側にある福泉寺城を砦として利用したのではないだろうか?。時代考証等は未調査のまま勝手な推理です …比高約340mは訪城だけが目的ではキツイかも?。小金ヶ岳から主稜線を辿らず南への枝尾根を畑山に向うと登山道は大タワへと下っていきます。此処に「福泉寺跡」道標を見るが”行止り”の尾根筋を直進していくと畑山(595m)です。 山頂から二方の枝尾根も平坦な地形が目立ち、中には空掘りを思わせるような場所もあるが、 自然のものなのでしょうが僧坊跡があっても不思議ではありません。元の登山道に戻り 「福泉寺跡→」を辿るが段々と下草や雑木で足元は荒れ、
福泉寺城の大堀切と土橋!

小金ヶ岳何面の岩場や岩柱の景観が望めるが写真には写り込まないので残念だが 丹波修験の”福泉寺跡”は直ぐです。50m程の長い平坦地の先、数段の曲輪を経て幅広く深い大堀切を見ます。堀切に土塁を積んで更に高く深くしている南正面と左(東)下方にも比較的明確な小曲輪群が 低い段差で並んでいますが 南端のピーク直下には尾根を10数m岩壁を垂直に掘切った幅10〜15m・長さ約70m程の空掘りが出現!!。 珪石の採掘跡ですが、切り崩され城域の端は土塁か土塁道のような高まり、その内側は細長いがひろく綺麗な曲輪がある。
城域南側の大空堀は珪石採掘跡

大空堀状の採掘跡を越えて南端ピークへは行けなかったが、八百里城や茶臼山城をはじめ八上城周辺の篠山盆地の眺望が効きそうです。 要衝ではなくとも奥畑・火打岩から大タワを越え天田郡側への間道があれば 其の監視にも適した見張場所なので、守護代内藤氏の北方の守備に就いている塩見氏の動向が気になります。 寺跡には礎石が散在するが、尾根上の城域からは東下方の井戸(泉)跡が残る辺りが福泉寺跡なのでしょうか?。 福泉寺は本山の御嶽に大岳寺が開創された数十年後に小金ヶ嶽南尾根筋に建てられ、その奥の院には宝塔が建ち、大日如来像と脇侍の四天王像が安置してあったといわれます。
福泉寺城南郭末端付近の空堀道状地形

背後の山の稜上に 大堀切や土塁で防備強化を図った曲輪を備えた”詰め城”的体制を整えて、大和大峰修験の宗徒の来襲に備えた城が築かれたようです。福泉寺城が東方を護るならば、西の口を護る城砦が宮田川沿いの峰や栗柄峠付近、 藤岡川沿いなら岩谷観音の東窟寺辺りあっても当然かなと思うのですが…?
(現地:福泉寺跡案内板 篠山五十三次ガイド 「…丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究」を参考)
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