篠ヶ峰への道:延命寺山~カザシ~/高釣瓶~/五ヶ野林道~/大海山~
丹波市 (五万図=生野)
Ⅰ西谷~篠ヶ峰林道~篠ヶ峰~岩屋山~カザシ~延命寺山 2000年03月20日

前篇延命寺山~カザシ~岩屋山~篠ヶ峰 後編赤井~高釣瓶~古天神へ
五ヶ野林道~鉄梯子~篠ヶ峰~岩屋山~五ヶ野林道 2006年05月05日
牛坂峠~樺坂~大海山(552m)~小野寺山(483m)~  2000年05月04日
別ルート篠ヶ峰への道 =白山・新郷・赤井・篠ヶ峰(827m)
延命寺山とカザシから連なる篠ヶ峰への道・岩屋山鉄塔から

校歌・故郷の山和田中学校 ♪xxx…さみどり匂う篠ヶ峯…♪
        西小学校  ♪松風ひびく篠ヶ峰XXX…♪
西の岩屋山清水寺
丹波のお話 赤井五郎の隠れ家と五郎塚 牛岩

篠ヶ峰は山頂にTV中継所があり林道が通じていて登山としては余り紹介されいないが無線で遊ぶ人には絶好のロケーション。山頂から延びる五つの尾根を辿る計画は清水坂を経て竜ヶ岳への縦走が林道で断たれ実施していないが 赤井~新郷~白山高釣瓶~古天神 蛇山・岩尾城岩屋山~カザシ~延命寺山坂~大海山~大見坂 ~小野寺山の郡町尾根は超マイナーな山域だが特徴のある山・尾根・歴史をもつ。岩屋山石龕寺(山南三山:足利尊氏・義詮父子 てゝうち栗伝説)に対して西の岩屋山と呼ばれる山腹に岩屋山清水寺がある。
山本の薬師堂

坂尻川上流にある大きな岩窟に祀られる役行者・不動尊像は西岩屋山清水寺(丹波修験道)の痕跡を求める。篠ヶ峰周辺は石楠花群生地で花の季節が待ち遠しい限りですが山名の示すとおり山頂に生じているササはアラクマザサといい、 特産でササ・ササガミネンシスと名付けられている。延命寺山は山麓に延命寺があるが 三組尾も点名が延命寺。丹波修験の道場が此処にあったものか?山腹の岩場には大峰山所縁の祠があるとも・女人禁制とも…地元に居て未だこの寺を訊ねた事はないので…詳細は不詳です。
延命寺:大師堂の紅葉


高野山真言宗延命寺は氷上郡(丹波市)西国第十五番札所:御詠歌に”この世での命を延ぶるもろびとは 蓮のうてなの如意と祈らん”とある。石造りの仁王像から続く石段の先・高石垣に白壁塀が廻る山門・本堂裏手には紅葉した樹々が・上方には延命寺山が頂部を覗かせている。掃き清めらた砂地の庭を抜けるには偲びず・本堂脇から西端の白壁塀・石段参道を大師堂 ・開山堂へと進むと晩秋には紅葉が本堂屋根や青空を背景に、鮮やかな錦を染め抜いて照り映える。人影もなく静かに自然と対話出来る空間を隠れスポット・名所として雑踏の場に曝したくはないが!!。


笹ヶ峰林道~篠ヶ峰~岩屋山~カザシ~延命寺山 H12.3.20

富士型の美しく整った西の岩屋山から篠ヶ峰へ…いつかは登りたいと思っていた。30年ほど前に坂尻バス停(JR谷川駅発の終点)から赤井経由で登り清水坂~竜ヶ岳を氷上・成松へ辿ったことがあったが大井戸山分岐付近の蟻の戸渡りの様な尾根や小規模だがキレットがあった。 中継所や林道で辿る尾根道が消え清水峠までトレース。坂尻バス停前生活改善センタAM7:00から出発です。
牧山橋からの延命寺山 H14.5.25

西谷川に沿って笹ヶ峰林道を辿る。林道終点からオトカタワ沢に入ると道はあるが藪道で時々道を外れて オャッと思い道を探して戻ります。稜線近くなってくると 昨夜降った雪が薄っすら辺りに白さが目立つ。篠ヶ峰(827mAM8:45)の無線中継所(近畿地方建設局)から山道を西に下れば 150m程で巡視路分岐をNo37方向が岩屋山(726mAM9:25)だが展望も頂上のイメージ薄いがR175から遠望する山容は富士型の美しい山。 すぐ近くにモノレール終点プラットホームがありその少し先が能勢・山崎線鉄塔工事現場です。カザシ手前ピークから急な露岩混じりの道を 急下降して 藪交じりのトラバース赤布に助けらたカザシ560m(AM10:30)には赤布の主:大柿氏の山名プレートあり東に多紀アルプス・西に千が峰を望みますが南北は展望余りなし。
延命寺仁王像・山門から望む延命寺山

延命寺山への登りでは分岐の鞍部に数本のテープがあるが下降点は五ケ野方面だけの様です。西谷側は幾つかの岩場を隠した急斜面だが下降は可能と思える。 下方で犬の鳴き声・鈴の音で足を止める。延命寺山山頂(465m AM11:00)より鞍部へ引き返して道なりに下ると山本金毘羅神社に出てきます。此方から登る場合は境内の西から二箇所道があるが左手は作業道らしく途中でコースを外れる様?だが右手の階段状からなら ・すんなり稜線にのれる様です。宮前バス停に出て牧山口~延命寺口~生活改善センタへ戻る(AM11:50)。



山本~延命寺山~カザシ~岩屋山~篠ヶ峰  H14.05.25

H12.3に西谷川沿い林道を篠ヶ峰~延命寺山へ降りた・逆ルートで篠ヶ峰へ向かう。また 応地坂- 古天神山-高釣瓶へと辿ったときは雨で篠ヶ峰への縦走を断念して高釣瓶の先から藪突いて坂尻川へ下った為、未トレース部分を残しているので篠ヶ峰からの帰路に此の尾根を選ぶ。も一つ大きな理由は 古天神の岩頭に是非もう一度立って見たいと…。
山本の薬師堂

県道86号線を小野尻峠に向って走り蛇山(岩尾城)行者山に挟まれたような 牧山集落へは富田橋を渡ると直ぐ右折。正面には裾から一気に突き上げるような延命寺山の姿が目に飛び込みます。今日の篠ヶ峰馬蹄形ルートの基点は神姫バス終点坂尻手前にある山本薬師堂。右手の民家の奥に入母屋風の寄棟造り・茅葺き屋根が見えるが山南町では最古・氷上郡内でも数少ない室町建築の一つで柱には天正期丹波攻めで明智軍がつけたと伝える刀傷の跡が残っています。薬師堂前の祠堂には多くの小石が数珠の様にぶら下げられています。石に小穴を穿き紐を通して下げられている光景は奇異だが目・耳・鼻の通りが良くなるまじないなのか?由緒は分からないが 石仏も県指定文化財らしい?。
登山口の山本金毘羅神社


薬師堂(県文化財<昭和49年3月22日指定>の 創建は不詳だが天和3年(1683)の棟札からは室町時代(南北朝期)の応永2年(1395)に再建され室町時代末期の弘治3年(1557)に大修理が加えられ 江戸時代初期~中期の承応2年(1653)と天和3年(1683)にも補修されたものと推定されている。同じ棟札に野瀬倉山仏光寺薬師如来堂と記され 槙山(現在の牧山五ヶ部落)の村中が施主となっている。建物は一部仏壇廻りが円柱であるほかは 大面取りの方柱で四隅には舟肘木が用いられ、外廻りの柱間は羽目板張り等、簡素ながら室町時代の様式を止めています。現建物は昭和63年(1988)1月より半解体修理し平成元年(1989)3月に完了。
延命寺の紅葉


山本の薬師堂前の坂尻口橋 (AM6:20)からは延命寺山とその奥にカザシが 二つ並んで尖り耳をそば立ています。も少し戻ったところに薬師橋があり 此処から山裾に向かう。集落東の墓地の横に山本金毘羅神社の幟が立ち、細い道を通って金毘羅宮の祠やベンチのある広場に着く。此処で二本ある登山口の右の急な山道をとる。 山裾から望む通りの急斜面登行だが道は概ね明確です。北の肩、カザシ側へ回り込むようにして鞍部に着き延命寺山へ往復する。千ヶ峰の広くなだらかに裾引く優美な姿は篠ヶ峰への道すがらにも常に目に飛び込んできます。延命寺山(465m AM7:05)の山頂を示すものは大柿氏の登頂記念石標のマジック書き文字だけ。
延命寺:大師堂から

雑木で遮られ展望は望めないので直ぐ鞍部へ戻りカザシに向かう。露岩の稜線伝いもあり左右に展望も開けてくる。延命寺山以上にそそり立つカザシの尖鋒と鉄塔を肩に載せる岩屋山・その奥には帰路に通る予定の 点名:赤井・西面には三国山-千ヶ峰-飯盛山がなだらかなスカイラインを見せている。大海山や妙見山、振り返れば延命寺山と三組尾への稜線上にはジャンダルムの様に立ちはだかる行者山の鋭鋒が望まれます。「記念林境」の石柱が建つ辺り(AM7:30)が絶好の 展望尾根で傾斜も緩やかになると藪っぽくなって鹿除けネットが現われてくる。ネットに添って歩き 折れたネット柱が宙に浮いた状態のところでネットを潜ると側に カザシ(3等三角点 560m AM7:35)の石標が埋まる。此処からは鹿除けネット添いを辿り無名のピークCa520からネットは北西への尾根に下っていく。
山本薬師堂前の祠・石を穿ち吊るされた小石が並ぶ!

此処が岩屋山への縦走分岐点で播磨方面の最後の展望地点でもある。右手に通り抜けられるよう丸くネットが切られている(AM7:55)。展望の良さに釣られネット添いの道を左へ行かないように。ネット添いの道から開放されると自由になった鹿の気持が分かります!!。 しかも此処からは「五ヶ野部落・松茸山入山禁止」や 「松茸止山入山厳禁・五ヶ野部落」の札が目立つが御蔭で静かな散策道が続きやがて不粋な岩屋山肩の鉄塔に着く(AM8:35)。なお5分程で「火の用心No71, 72」への巡視路分岐を直進し岩屋山山頂に向かう(726m AM8:45)。雑木の尾根上の一通過点で展望もなーんにもない山頂にはMTBロールアウト大柿氏のプレートがあるだけ。 しかし此処から篠ヶ峰の間は見事な程の石楠花林が続くが時期既に遅く残念無念の結果です。
カザシへの露岩尾根から延命寺山の尖峰

送電線鉄塔工事用に設置されていたモノレールのプラットホームや軌道は綺麗に撤去されて跡形なし。先に進み「奥多々良木線No37」高圧鉄塔(AM9:15)下を抜けて「火の用心No36,38」巡視路分岐で 大海山~小野寺山からの尾根に合流します。広い遊歩道のような巡視路を経て林道に出ると サンTVやNHK無線中継固定局やアンテナ施設が建っています。 大井戸山の先に飯盛山~千ヶ峰~三国へと続く稜線・竜ヶ岳に隠れるように加美アルプスが見える。車道から尾根に出て二つの局舎の間に立ちと篠ヶ峰山頂 (2等三角点 827m AM9:35)に到着。
篠ヶ峰山頂

展望と暫しの休息を楽しむために東の反射板下へ移動すると三国山・粟鹿山・安全山や岩屋山・五台山~五大山・弘浪山~東峰山白山~点名:赤井の二つの尾根が氷上カントリ-を挟むように此処篠ヶ峰に稜線を連ねている。さて此れから後半はもう一つの篠ヶ峰への道を下ります。 巡視路沿いに五ヶ野へ降る道も展望や岩に架かる鉄梯子伝いの最短!!下山コース。私は点名:赤井から高釣瓶~古天神~点名:大谷~応地坂経由で出発点へ戻るつもり。 応地坂からは蛇山(岩尾城)へも直ぐ。


五ヶ野林道~鉄梯子~篠ヶ峰~岩屋山~五ヶ野林道   2006年05月05日

西脇市からR175号を北上して 篠山川と旧佐治川(加古川)の合流する井原橋を渡って丹波市の山南町に入ると北西に送電線鉄塔を肩に置いてはいるが美しい富士形の岩屋山が望まれる。足利尊氏の嫡男義詮が後丹波守護となった仁木頼章や僧兵に護られ逗留した名刹:石龕寺背後の岩屋山の対して西の岩屋山と呼ばれます。この岩屋山~篠ヶ峰の短絡コースにシャクナゲの開花を楽しみに出掛けてみました。
鉄塔No.39・40分岐から始まる篠ヶ峰への急斜な枝尾根(手前)
(切戸を抜ける林道は点名:赤井~篠ヶ峰の稜に向う)


井原交差点から県道86号線を小野尻峠へ向かい旧佐治川に架かる船戸橋を渡ると和田岩尾城を見て牧山川沿いに薬草薬樹公園前を抜け富田橋を右折し五ヶ野川を遡ります。坂尻地区から応地坂を越えて氷上町に向う車道を見送り五ヶ野集落最奥部の広場に着くと 此処に五郎塚がある。昔は赤井五郎と斃れた馬を 弔った馬塚もあったが 畑地の開墾整備で石の塚は埋もれたのか行く方不明との事。今は五ヶ野林道入口の畑地の隅に五郎塚といわれる小祠が祀られています。東に蛇山(和田岩尾城址)から古天神~高釣瓶~篠ヶ峰へ延びる稜線の点名:赤井から南へ延びる枝尾根と 西を延命寺山~カザシ~岩屋山~篠ヶ峰への稜線に挟まれて五ヶ野川が流れ出る。
プラ階段に続いて現れる鉄梯子


今回は其の少し手前から篠ヶ峰に向う短いが急登の続くダイレクト尾根です。関電の巡視路なので険しい岩場を乗っ越す場所には鉄梯子が三つ続き、だいぶ離れて最後の鉄梯子を越えると送電線鉄塔継ごう4箇所架けられています。奥多々良木線鉄塔No.39と No.40の分岐表示標のある篠ヶ峰への取付き点からも、林道は更に山稜の切通しを抜けて延びてはいるが相当に荒れた悪路。林道を100m程引き返した「大場所」の広場?前で橋を渡ったカーブ地点「栗ノ木ガ谷」の名札と播磨中央線鉄塔No.73の表示のある処が 岩屋山への直登ルートですが、此処も急登が充分予想されますが短時間で岩屋山の肩にある鉄塔No.72に登り付けるでしょう。此のページのログⅠ:Ⅱ:Ⅲコースを知る絶好のビューポイントですので充分眺望と同定を楽しんでください。 逸る気持ちを抑えて元の篠ヶ峰への取付きに話を戻します。のっけから鼻を擦る程の急登だが振り返れば五ヶ野の谷が眼下に拡がり此の後向う岩屋山への稜線も望めます。 前方の岩場に鉄梯子が現れてくると、いくら何でももう遅いと思われたヒカゲツツジがピンクのツツジに混じって目立ちはじめる。
シャクナゲのトンネルを潜って岩屋山へ向う

岩稜となり3本の鉄梯子を登り鉄塔No.39に着く。岩屋山への縦走も此処から眺めると大変そうだが見上げる次の鉄塔No.38までもきつそうです。細い尾根を辿り鹿除けネットが現れる辺りはヒカゲツツジも華やかに迎えてくれますが ネットを潜るように綻びかけた石楠花がアチコチから顔を出しています。先の三つの鉄梯子からは随分距離があり、もう無いかと思った最後の岩場に有る四っ目の鉄梯子を越して出た展望岩場の先で直ぐ左(西)側20m程の処に鉄塔No.38があり、 谷を隔てて岩屋山への稜線が見える。分岐からは快適な展望の尾根歩き、今年は見納めのヒカゲツツジの向こうに点名:赤井を雄雄しく望み、 岩峰の古天神~大谷から岩尾城へ続く稜線が見える。踏み跡に従って赤井へ向う尾根の分岐には手前からトラバースして合流すると広がる稜線の尾根筋は笹の原となります。
鉄塔No.38付近からの点名:赤井

弘浪山~東峰山や水山・岩屋山(パラグライダー基地のある青垣町の山)・粟鹿山や五台山~愛宕山等々が見えてくる。笹原の斜面の上に反射板を見上げながら最後の登りでサンやNHKテレビ中継施設前に2等三角点標石が埋まる篠ヶ峰山頂に立ちます。やっと着いた山頂なのになぜか落ち着かない。眺望も悪くはないのに 其のまま車道西側に続く巡視路に降ると鉄塔No.36(小野山~大海山~樺坂から妙見山へと続く尾根)との分岐に立つ。No.37が示す岩屋山~カザシ~延命寺山へ向ってプラ階段を下り始めると周辺は咲き始めたツツジに囲まれる。踏み跡はあるが倒木や雑木藪の急斜面の下降で周囲の展望も無くなると尾根筋を踏み誤らないように。岩屋山への最後の登りが近付くにつれてシャクナゲも目立ち、やがてシャクナゲを掻い潜って進む程になってくるが、

岩屋山付近から今日のコース(鉄塔尾根~篠ヶ峰)を望む


尾根を覆う様な倒木の通過には手間取ります。展望のない平坦な岩屋山山頂を抜けるとパツと南が開けて播磨中央線鉄塔No.72に着く。鉄塔から先の尾根続きにはカザシ~延命寺山や更に南には三組尾~大海山~篠ヶ峰への稜線 ・東には篠ヶ峰から点名:赤井~点名:新郷からは白山方面への主尾根を分け南へ延びる尾根が見える。高釣瓶~古天神~大谷~応地坂へと延びる稜線だ。 このままカザシを目指したいが”五郎塚”探索ついでに寄って周回してみただけなので送電線に沿って五ヶ野林道へ降るべく鉄塔No.73への巡視路は予想通りの急傾斜で随所に大きな露岩や岸壁を見る。其の基部が岩小屋だったり岩窟状になっている様だが 麓の岩屋神社跡?付近を初め山岳宗教臭は此処には見出せない。東方の高釣瓶西麓の坂尻林道には不動明王を祀る大きな岩窟があるが西の岩屋山は五ヶ野川と坂尻川の挟まれた 点名:赤井から南へ突き出した尾根周辺にあったのかも知れない。
鉄塔No.72から尾根続きのカザシ~延命寺山

岩屋山~カザシ主尾根から南東へ延び出した尾根先付近にも石垣・石積みの残る社寺跡があるようですが 「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(山南町版)」には此の付近に寺院や古墳の分布・調査の記載はなかった…?。岩屑の台地の上にある鉄塔No.73からは 篠ヶ峰最短?!の見上げるような鉄梯子ルートが望まれる。容赦のない急な下降の連続で「栗ノ木ヶ谷」の巡視路取付きではなく五ヶ野川を挟んで「大空谷段」「大空谷滝奥」への巡視路対岸のゴウロへ降り立った。林道沿いに多くの名称「XXX」を記した名札を見かけるように テープの縄張りはなくても一帯は松茸山のようです。


茶屋跡が残る忘れられた古道{樺坂}から篠ヶ峰へ大海山~小野寺山~笹ヶ峰 H12. 05.04

牛坂峠~樺坂~妙見山を 山南町西谷側から 大見坂川に沿って広い林道を辿る。山名の大海山は”海が見えたかも知れない”海見=大見(大海)坂に転じたと穿って考えてみます。岩屋山~カザシ~延命寺山の時と同じく 西谷生活改善センター前から出発です(AM5:55)。大見坂川に沿って牛坂峠(AM6:30)ですが岩屋山~篠ヶ峰にかけて・まだ黒いシルエットを纏っています。 終点のガードレールを右に入ると直ぐ横に露天掘りの坑道が口を開けており、細く深そうな坑道が奥に続いているが体がやっと入れる狭い入口なので奥に進む気にはならない。此れより先樺峠の石仏まで古道が続いている。
西谷川から延命寺(右端)と延命寺山

途中には茶屋跡の石積みが残っており古道は牧野大池からと加美町杉原の観音寺から樺坂を経て山南町西谷へと通じていたのでしょう。茶屋の手前に小滝のある谷があり絶好の水場。樺坂の石仏(AM6:45)から妙見山へ辿りたいが今回は石仏横を右手の稜線を進むと千ヶ峰の展望が開けてきます。此処にも小道の横に露天掘りの竪鉱の跡があり大海山 (552m四等三角点AM7:10)からは春霞の山南町側が望まれる。 2~3の瘤を越えて下ると大見坂 !杉原へは今この辺りで始まった 能勢・山崎送電線工事の現場でこの道が利用されているようでハッキリした道がありますが、うっかり山南側への下降路と此処に在るモミの大木を思い出しもせず見過ごし通過。 古道としては先の樺坂より地理的にはずっと近いよう。工事用の広い道は小野寺山に続き、鉄塔をくぐり展望良好の最高所へ出て休みます。此処が小野寺山(483m AM8:00)工事中のため作業員がいれば随分気を使う所です。幸いなことに存分に千ヶ峰の稜線を始め播州方面は 明るく展望が開けています。次のピークも重機や工事のロープで邪魔されるが此処も展望は素晴らしい。
林道から望む千ヶ峰と大井戸山

これより踏み跡程度となるが直ぐ先の稜線には山南町側からのモノレール終点(工事No.69AM8:10)尾根上に踏み跡程度なら現れます。 枝尾根が無いので道は消えても気を使わずにズンズン進んで大丈夫。高低差の殆ど無い尾根の中でいくつかのピークを越す此れからしばらくは自分が何処にいるのか・どちらに進んでいるのか分からなくなる藪の中を進む。 テープは有る…がテープのあるところへは中々行けない。付かず離れずに進みやすい方向を見つけ進む。ここを抜けると!!??無名峰の四等三角点だが山頂ではなく稜線のわずか下方(AM9:10)の、なぜ?と首を傾げたくなるような場所に石標が埋められています。 ここからは岩屋山の尖がりを望みながら夢のプロムナードが続きます。(苦労して抜けてきた藪の中を思えば)既設の鉄塔(AM9:35 篠ヶ峰手前の689mピークの鉄塔から続く)へ出れば目前に篠ヶ峰の姿が…しかし中々近くに見えて到達出来ません。 カヤと篠竹の林の中を分けて岩屋山に向う巡視路付近に出てきて合流します。篠ヶ峰(827m AM10:05)へは記念に一寸寄ってみます。西谷川に沿って下るつもりでしたが尾根筋を忠実に進んだためか下降点を見逃してしまい前回同様の岩屋山~カザシ~のコースを 取りカザシ手前の鞍部から(道など踏み跡もないが谷に沿っての急だが藪の無いところを選んで)下り始めます(AM11:30)。露岩の多い谷筋だが浮石も多く注意です。突然15m程度の逆層の滝頭に出て一寸迷うが古い炭焼き釜の跡を見つけてそちらの方へ移動します。 ここから道があらわれ林道に飛び出したところは関電資材置き場の近くです。分譲住宅地~杉原・篠ヶ峰林道の石標のある分岐に出て生活改善センターに戻ります。(PM12:15)



牧山の牛岩さん赤井五郎の隠れ家と五郎塚

牧山の牛岩さん   山南町和田(西谷・牧山谷)

薬草薬樹公園から小野尻峠に向かう県道86号線で牧山川に架かる富田橋を渡って右手・坂尻方面へ向かうと「西の岩屋山」の山麓・牧山谷の奥:五ヶ野の五郎塚を紹介しているが富田橋からは直ぐ北方に姿を見せる尖峰の美しい延命寺山を望み、西谷川に沿って西谷集落に向かう。西谷集落の奥で篠ヶ峰に向かう篠ヶ峰林道と牛坂峠を越えて~樺坂~妙見山や 多可郡中町の牧野大池へまた大海山~小野山を経て篠ヶ峰への登山コースが考えられます。
延命寺山を望む西谷川の奥に伝説の牛岩が…!

昔:三方を山に囲まれた 牧山の西谷の奥に高さ6m程の牛が寝ている形の巨岩があって【篠ヶ峰の頂上近くにあったとも云われる】村の人々は牛馬の神様”牛岩さん”と呼んで崇めていました。此の話を南総里見八犬伝で知られる滝沢馬琴が文化4年(1807)和田村に来た際に伝え聞き 「園の露」を編んで紹介し広く知られたと云う。
牛買いが「牧山の牛は山を歩き回るので足腰は強いが肉が固い・峠を越えた牧野の牛の様に美味しい草を食べさせればよいのだが …」ある日のこと・牧山の子供たちが牧山の子牛に牧野の草を食べさせました。それを見た牧野の人が「牧野の草を食べて大きくなっているので子牛は牧野のものだ」と怒って其の子牛を捕まえてしまいました。
粉砕した牛岩の残岩か?ツツジの広場に散在している

困った牧山の人は平素崇めている”牛岩さん”に「どうしたものか…?」とお願いしました。 すると:其の夜・牛岩が神入りして 牛になり子牛たちを連れ戻しました。牧山では以来:良い牛が育たなくなり牛飼いを止めてしまい、牛岩を祀る事も無くなっていました。年月が経って此の話も忘れられた淳和天皇(弘仁14~天長10年823-833)の頃、雨の夜・牛岩が神入りし猛牛となり毎夜里に出ては田畑や桑畑を荒らしました。此の牛岩の難儀に悩んでいる村人達の話を聞いて全国行脚で和田村に巡錫中の弘法大師 【西谷川と坂尻川が合流するが水量の少ない牧山川にも伝承がある。
粉砕した牛岩の残岩か?…

民家に立ち寄り水を所望する旅僧に、与える水はないと断わると僧が杖で地面を突くと、牧山川の水は地に吸い込まれ・水は枯れてしまった。其の僧が弘法大師であったと云う。】
が牛岩に向かってお経を唱えると牛岩から南に向かって稲光りが飛び出し 大きな音とともに牛岩は粉々に砕けてしまったということです。伝承地”牛岩さん”の東方の山裾に見える 延命寺も弘法大師が開いた真言宗の寺。 約4.5km先にあるという西谷の牛岩(場所不詳!)の場合は弘法大師が此れを鎮められ「この山を牧として牛馬を養い、牧の守護神として
延命寺

石を崇め祀っれば大いに利あり・天災疫病に対する霊験もある…と」村人たちは喜び、いらい大師の言に従って牛岩を此の里の守り神として祀り、里を牧山と呼び・篠ヶ峰山系の此の山を牛坂嶺と名付けたという。 現在牛岩は山上から二つに分かれて麓に転がり西谷と五ヶ野に有ると云います。地理的位置なら牛坂嶺はカザシだろうか?山稜東面の五ヶ野川沿い林道脇にあった大岩が 其の一つだったのかな?
(現地 牛岩伝説の説明板と 由緒を尋ねて・昭和30年丹波新聞社版を参照)


赤井五郎の隠れ家と五郎塚
   山南町和田(五ヶ野)

西の岩屋山の山麓・牧山谷の奥にある五ヶ野(ごがの)には五郎塚があり茅野山の峰には約5mx10mの屋敷跡があったと(和田本丹波志・山南町誌)記されて落人伝説が残ります。天正7年(1579)5月第二回(天正5-6年を二回とし第三回合戦があったとする説もある)の明智光秀の攻撃に奥丹波本拠城:黒井城主・荻野悪右衛門直正の幕下に付いていた芦田氏・足立氏をはじめとして土豪達の氷上郡内(丹波市)の諸城は次々と陥落していきます。
西の岩屋展望所より :五郎塚のある五ヶ野最奥地を望む

天正3年(1575)に始まった黒井城への侵攻に第1回目は 八上城(篠山市)波多野氏との共同戦術により明智勢を敗走させた荻野直正の軍も高見城・穂壷城に籠もったが赤井氏発祥の本拠地後谷(屋)城に留守部隊を置く程の余裕はなかったと思われます。「井上(赤井)為家が氷上町新郷に移り赤井姓を名乗り為家から9代目の赤井伊賀守忠家から時家・家清と4代続いた赤井一族の本拠が後谷城です」そんななか本拠保月城と支高見城はまだ健在でした。しかし明智の大軍に諸処の城砦を攻め続けられ高見城最後の城主(直正の甥)赤井新五郎忠家は其の救援に転戦中・僅かの留守部隊を残しただけの高見城も 金山城に居た明智次郎右衛門光忠や藤田伝五・四方田政孝等に攻められ落城します。
林道と畑地の間に祀られる五郎塚(2000年)

高見山城から直線距離約4km地点が柏原町の中心街で、此処の八幡山に明智光秀の本陣が置かれた頃!八幡山合戦(柏原八幡山城)に大将赤井五郎宗夏(赤井五郎時重とは彼の事か?)数箇所に 傷を負って播磨を指して落ちたというが赤井五郎が忠家なら柏原八幡山から篠山との境界にある鐘ヶ坂の金山城に本陣を移した後の事と思われるが悪右衛門直正を宗重とした記あるので、宗夏は赤井忠家と同一人物なのかも知れない?。赤井五郎は神尾山城に柳本賢治を救援し、天田郡領地拡大に勢力をもって悪右衛門直正と共に横山城(福知山城)を攻め鬼ヶ城の城主にもなって 活躍している武将なのですが…??。
山腹の籠り堂が移された岩屋神社

いずれにしても播磨へ逃れるルートとして、加古川沿いには南から羽柴秀吉軍が明智の援軍として侵攻し、霧山城の波多野氏?等が救援に駆けつけていた久下氏の 玉巻城を攻め何れは和田岩尾城にも迫ってくる頃でした。高見城や後屋城からは加古川(旧佐治川)西岸に沿って山南町に入り、 和田岩尾城の北尾根続きにある応地坂を越え坂尻に下り此の話にある五ヶ野で傷を癒してから小野尻峠を越え・多可郡から播磨へは別所氏を頼って抜けられたのでしょう。嘗て赤井氏衰退の一時期には別所氏を頼り其の後・多可郡中町の在田氏の 貝の城・段の城を攻めた際には荻野直正等が与力して在田氏を滅亡させています。
林道と畑地の間に祀られる五郎塚(2020年)

赤井五郎は”由緒を尋ねて”丹波新聞社版では赤井五郎時重と推察されているが!!どの赤井家家系図に登場する人物なのか知らない?
●伝承では天正7年(1579)氷上町新郷の 後谷城も落ち 一族の赤井五郎も討死覚悟を決めていたが再起を期して僅かの兵と共に落ちる城を後にして和田岩尾城主・日向守が拠る和田庄を目指して逃れたが途中・野盗に襲われ 供の兵は討たれ五郎はただ一人、矢傷を受け鎧の袖は千切れ・髪は乱れ・眼は血走り・肩で息しながらも辛うじて馬の手綱をとって 応地坂を (現:牧山トンネル上)坂尻に越え五ヶ野村へと逃れてきた。傷つき斃れた愛馬を葬る気力も無いほどに弱っていた五郎でしたが近くの農家に居た百姓達を手招きして、馬を葬むった五郎は「武人は潔い最期を以って花とする。
西の岩屋山:元禄年間まで存続した清水寺の堂宇跡

さだめし卑怯者と笑うであろうが自分は再挙を図る身なれば、此処で自害し馬と共に葬った」という事にして欲しいと頼んだ。百姓等は和田城主・日向守様とは所縁の有る方らしいと察し、五ヶ野の奥を三町ばかり入った山奥の岩屋神社!?の篭り堂に連れ込み、 半年ばかりの間・食事を運んで傷の静養をさせた。やがて傷も癒えた時重は明智軍の探索の目が及んできた事を察しだ五郎は百姓等に見送られ・京都を指して夜陰の乗じ村を去ったという。 今も岩屋山の中腹?に残る塚を五郎塚といい隠れ住んだ跡!!?があるという。
岩屋展望所より延命寺山(尖峰)-カザシ(中央)

地元の古老の話では五郎塚の上には馬塚も在って碑石があったが畑地整備で埋められたものか所在は不明だったが。五郎塚は寺か神社関蓮者の意見からお祀りされているようで小さな石祠には文字も判別出来ない御札が数枚残っていた。 馬塚の石は昔・疱瘡が流行った時等には撚った藁を左巻きに石に縛って病除けの”おまじない”をしたとも聞きました。林道を少し入った辺りに石垣等が残る一帯が岩屋神社!跡なのか?(岩屋さんと呼ばれているのが其れらしいが?)の背後に延びる山の尾に籠り堂があって石垣等も残っていると云われます。林道脇に有る馬塚跡や五郎塚の西麓に小さな社が建つ。
西の岩屋跡

此処に其の”お籠り堂”を山から下ろして移設したそうで山本地区の延命寺の管轄らしく年に1度か?祈祷か法要?が行われるようです。また岩屋神社の方も堂の鍵を山本地区に預けて出て行かれた?様で此処でも山本地区から堂跡へ来られて”護摩焚き”等が行なわれる。天正3年から始まって八上城に続き天正7年 (1579)8月・奥丹波の牙城:黒井城が落城して明智光秀の長かった丹波攻略は終わった。芦田・足立・波多野・久下・余田・吉見・高見等多くの丹波の土豪が滅亡します。光秀に降りて帰農した一族もあるが赤井一族で降伏した例を知らないが、
「西の堂」跡の地蔵菩薩像

秀吉に付き・また家康に付いて各地に生き残ります。黒井城主直正が病没後、城代として落城時まで奮戦していた直正の弟三尾山城の幸家さえも生き残り老後は縁故を頼り篠山に戻って亡くなったといいます。これ等の事からも天正6年(1578)羽柴秀吉の家臣:脇坂安治(後の龍野城主)が降伏勧告の使者として二人が合った際、直正は赤井家の家宝”テンの毛皮”を与えているが直正は自分の病状や病没後の戦況をも知って脇坂氏を通して秀吉方とは既に密約が有ったとも推察されます。赤氏が落城してなお断絶せず旧知縁故を頼って逃れ!?ます。赤井五郎は高見城主伊賀守忠家かその子の時家ではなかったかと考えてもみます。
西の岩屋山の役行者

赤井忠家は討死したともされるのですが其の後:文禄元年(1592)秀吉に仕えて朝鮮へ出征、 翌年には播磨の美嚢郡 (三木市)に1千石を領し、次に伏見に移った後には徳川家康に仕えて慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に戦功があり播磨の他・大和十市郡内(桜井市!付近)に采地(知行所)を得、2千石を領し慶長10年(1605)4月に病死したとされます

(由緒を尋ねて 丹波新聞社版 昭和30年 及び山南町史 を参照)


西の岩屋山清水寺  山南町和田(五ヶ野)

岩屋山の東尾根・点名:赤井から南へ延び出す尾根を別けて東の谷筋が坂尻川・西の谷筋が五ヶ野川。坂尻川上流に大きな岩窟の内部に役行者・不動尊像が祀られているが、五ヶ野川を詰め上がる山腹にあった「西の岩屋山清水寺跡」に大きな岩窟があり、役行者と地蔵菩薩が祀られる。五ヶ野川の林道入口(五ヶ野集落最奥部)に、 赤井五郎を葬ったとする「五郎塚」と
岩屋神社

愛馬を葬った「馬塚」があるが其の西約150m?程に岩屋神社がある。林道は途中で左に分岐するが「従是本堂十八丁」岩屋山清水寺への町(丁)石がたつ。石塔は女人禁制の結界を具現した顕石か!?。谷沿いから斜面上のトラバース道に移るが急登の連続で直接岩屋山から尾根上529m頂部(展望所)へ続く道。尤も和田地区の小野尻・富田…山本付近から北方の篠ヶ峰に向かう山岳一帯に丹波修験道の痕跡が遺るようで2000年3月頃の山行記録: 行者山ー三組尾延命寺山-カザシー岩屋山 点名赤井ー高釣瓶ー古天神、延命寺山ーカザシー高釣瓶ー等は 篠ヶ峰を根本中堂とした丹波修験(山岳宗教)のルートだったか‼?。
「東の岩屋山」岩屋山石龕寺 には足利将軍の帰依を受けて
西の岩屋跡

京都岩屋山志明院 金光峯寺を再興(正平4年 1349)した雲暁が井原郷に石龕寺領寄進を受け来錫されていたものか?。井原下荘(井原地区?)の石龕寺に対し井原上荘(和田地区?)に「西の岩屋山」と呼ばれる 岩屋山清水寺が岩屋山に向かう尾根筋中腹にある。林道入口の岩屋神社には岩屋山清水寺に祀られていた六所権現(如来・菩薩・明王・高僧…等々種々)が遷された 『西堂に早尾大権現不動明王・気比大権現大日如来・大宮大権現釈迦如来?』・『東堂に大行事権現毘沙門天・客人大権現馬頭観音・聖如大権現山雲暁禅師か中興の祖:愚中和尚休堂の三棟≺昭和32年?移す>が建つ。HPに神社でも寺でもなさそう…?な…と記していた岩屋神社については由来記案内板が設置されてあり参照するが、 本地垂迹(神仏習合思想の一で仏が権現<神の形>で仮に現れる八百万の神々
岩屋山清水寺

=様々な仏の化身…)。坂尻川の石龕(役行者と不動尊)に比べ五ヶ野のは石龕は少し広く岩窟内隅の窪地に磐から染み出た清水が溜まり(寺名の由来か?)、岩窟内に祀られていた役行者と地蔵菩薩像(江戸時代中期:享保3年(1718)が 現在位置に場所を少し移されているよう。急斜面上にあり岩窟の在る境内南の谷全面には規模の大きな石垣で整備され、西堂跡に地蔵尊・石階段東側端の石積み基壇が東堂・岩屋の前が本堂跡?。

 丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system