日本一低い中央分水界とヒカゲツツジの回廊 水分れ公園〜向山連山〜清水山〜剣爾山
丹波市(五万図=篠山)
水分れ公園〜向山連山(滝山古墳・向山・蛙子峰・清水山・剣爾山 2002年4月13日
日本一低い谷中(こくちゅう)中央分水界  明願寺
丹波のお話  狼橋・藤ノ木橋物語
近畿の山城 朝日城 石生西河原城 四ノ山砦(天ヶ嶽砦) 浄福寺砦
水分れ橋から向山連山(三ノ山)

高谷川に架かる「水分れ橋はR175号とR176号の合流地点でJR石生駅近く。車や電車でほんの一瞬で通過してしまう地点です。 今は小公園に説明板や海に流れ出る最初の一滴を表現したものか!!モニュメントや橋にも水を表わすカラー表示が無ければ、平坦地の地区内の車道に架かる橋と・小さな川(高谷川)に分水界と気付く人は殆どいません。 日本一低い谷中分水界・いそべ神社付近から城山(ガンジュウジ城)への尾根南末端部まで約1250mにわたる谷中中央分水界の中程にかけられた橋で 「身分れ」と同じ音なので別れることをきらい、嫁入りの行列はこの橋を渡らず「おおかみ橋」を通りました。 此の水分れ橋で101m・新町橋(東小学校前)で95.4m。古来より日本海側と瀬戸内海側をつなぐ人・物・文化・情報が交流する交差点です。
ヒカゲツツジの向山連山から千丈砦〜黒井城を望む

高瀬船による加古川や由良川への水運等交通の要となる地点でもあり「氷上回廊」とも呼ばれます。上記写真の水分れ公園に向う左手車道が中央分水界です。 なを向山連山へはR175号線から朝日集落奥に八幡台分譲地から下記:朝日城のある西側山麓の中池と其の上部の墓地横を経て、北近畿豊岡自動車道の隧道を抜けて東沿いに向山への登山道があるが駅から遠く・駐車場所も無いので 此のコース利用者は少ない様です。


向山連山(向山・蛙子峰・五ノ山)〜清水山〜鳳翔寺 H14.04.13

低山徘徊派関西支部のヒカゲツツジ回廊オフは日本一低い中央分水界から向山連山へ…とは云ってもまだ馴染みの薄い山名かも知れないが、氷上町石生の水分れ公園駐車場が集合場所。此処は日本一低い 谷中中央分水界があり、駐車場に入る直前に 渡った高谷川沿いは桜の名所となっていて、いそ部神社・水分れ公園へ続く道から硅石山を経て向山へ向うか、観音堂の横から山道に入り滝山古墳から二ノ山〜四ノ山を経て向山〜五ノ山〜硅石山へと周回する分水界展望コースが整備されています。
いそ部神社

今回・花の丹波オフですので女性が半数を占める参加者24名と大盛況。 低山徘徊派から発起人兼・世話係の「たぬきさん夫婦」にNORIKAさん・みーとさん・大加茂さん・幸さん・呉春さん・さとゆきさん・佐竹さん・松田さん・島田さん・三文さん・貴公子さん・兼武さんも追っ駆け参加、MLや無線のお仲間からは 「山を駆ける風になれ」織田さん一行は都合で来られなかったが山喜多さん・八木さん夫婦・椎谷さん・米田さん・丸山さん・小林さん・田中さん・山南町の 西山さんもドタ参と、賑やかなお花見ハイク一行の出発とはなりました(AM10:20)。
水分れ・水路分岐点傍らの親水公園

今回初顔合わせのメンバ共に広い駐車場内で大きなサークルをつくり自己紹介の後スタートです。駐車場を出たところに「分水界展望ルート・向山連山登山道」案内板があり、説明文や展望所の位置等確認しておくのも良いでしょう。 観音堂からいきなりの急登も和気藹々で話に夢中、其処此処にピンクの花を精一杯開いて歓待のミツバツツジを愛でつゝ登る。 気がつけば滝山古墳(昭和33年に発見され鉄剣、鉄鏃、銅鏃などが出土し石棺内には40歳位の男性の遺骨が今も眠っているという古墳)の前。二ノ山(滝山 298m)山頂は目の前15m程上部(AM10:40)。尾根 コースは左折して行くが右手に露岩を見ます。
満開のヒカゲツツジ

このコース第一番目の展望台岩座展望所で西南方向が開けて高見城山を正面に 石生の集落や田園風景が拡がり篠が峰から竜ヶ岳を望み中央分水界を俯瞰確認できますよ(AM11:00)。五ノ山(最高点)を過ぎて本日のコース予定としたい硅石山からし水山への先には分水界展望所の素晴らしい露岩展望台があり写真は其処でと休憩展望のみでメンバの到着を待ちます。三ノ山(Ca470m AM11:15)からの急斜面の降りになる頃には ヒカゲツツジの淡い檸檬色が北斜面に目立ち始め感歎の声があがり始めます。
JR石生駅付近から西尾根の先に三ノ山と四ノ山


鞍部から 登り始めると足下には風化した露出亜炭の黒っぽい土砂が目立ち始めますと「亜炭展望所」で谷間の暗い影をバックに咲くミツバツツジの鮮やかさに何人かの同行者はカメラを向けています。蛙子峰〜硅石山〜清水山が望めます。此処から登り切った小さな広場が 四ノ山(511m AM11:20)。下り始めて直ぐ休憩展望地「松の台展望台」があるが、 食事休憩中の先客パーティの為立ち寄りも出来ず先へ進みます。縦走路に深坂北峰(Ca521m AM11:50)があるが二ノ山〜深坂北峰へと続くピークはいずれも展望の効かない潅木の中の特徴のない平坦地形で、山名標識が無ければ気付かず 通り過ぎてしまうようなポイントです。、
蛙子(がえるご)展望所

いよいよヒカゲツツジ・ロードに入っていきます。 北や東側だけに目立っていたヒカゲツツジが西面にも現われてくるとトンネル状態で明るい展望ポイントに出ます。ツツジが丘展望所からはヒカゲツツジを前景に辿ってきた2〜4ノ山を望み暫し足を止め、またツツジのトンネルを抜けて向山 (三角点569m PM12:00〜PM12:55)に到着です。「腹へった〜」連発の声に条件反射して賛同の声もあがり、 それではと山頂の中央に陣取る先客の周りに 散らばって 食事タイム!!!!たぬきさんからは丹波の銘酒・OAP(八木さん)からワイン、NORIKAさんからは鴨肉の差し入れでスッカリお花見モードとなりました。
ツツジが岡展望所から三ノ山(左)と四ノ山(右)を望む

雑木の中のピークは黒井城跡を望む北面のみが少し開けて見えます。 《僅かに30m程先の「向山平展望所」が先客もなく、以前と比べ切り開かれており休憩・展望共に良い。黒井川沿いに拡がる盆地を眼下に、遠望は効かないが目前に黒井城〜五大山〜五台山〜親不知へ山並みが続いています》此処からが向山連山のヒカゲツツジ・スポットです。向山平も 黒井城を正面にチラリと見ただけで素通りしますが、俄然メインの花のレモン色が目立ち始めます。
四ノ山山頂は城郭!!

岩峰の蛙子(かえるご)展望所から続く蛙子の瘠せ尾根は西に千ヶ峰 篠ヶ峰や笠形山を、北と東には五大山〜黒井城 三尾山三嶽の展望も開けますが、今日は岩場の足下や行く先々に咲き誇るヒカゲツツジの益々派手な 歓迎に応えるだけで精一杯。向山連山最高峰の五ノ山(591m)も平坦な一通過点で、精々記念写真のポイント程度!!。露岩の裾を捲くように西の稜上に出ると硅石山と 譲葉山が見えてくる。巻いてきた右手の岩峰に立つと中々の好展望が拡がりますが生憎の天気で遠望は望めません。蛙子(がえるご)展望所 (PM1:25)からは蛙子峰(562m)へと短いが 瘠せた露岩混じりの蛙子尾根が続きます。
向山山頂

蛙子峯からは静かな、 な〜んにもない(ヒカゲツツジもコバノミツバツツジさえ姿を消して)新緑の丹波の山道を下り譲葉山分岐を経て水分れ公園への下降点に着きます(PM13:45)。雨がポツリと来たが此処から水分れ公園へは展望なくトラロープでの激降りが待っているだけ。少々の雨なら見所の多い清水山経由で鳳翔寺への 当初設定コースを実行に移します。硅石山頂への道を捲くように「清水山・鳳翔寺登山口へ」の道標に従って進むと硅石鉱山跡に出てくる。
イルカ岩側を降って天狗岩へ・・

何ヶ所もの掘削跡が崩壊した崖のような姿を露呈している。写真の鉱山跡は下部がトンネル状になり谷側に抜け出ています。硅石鉱山跡を通り抜けると 快適な雑木の中に山道が続き、ほどなく反射板のある清水山542mに到着です。フェンス越に柏原の町が下方に拡がり丹波の森公苑背山の坊の奥- 高見城山へ丘陵が延びています。東には三嶽・西岳の前に特異な三尾山の姿・丸い黒頭峰が頭を覗かせています。
鳳翔寺背山の岩座 :天狗岩展望所

ゆっくり山名を同定していたい所ですが午後から雨の予想は外れそうに有りません。清水山山頂からは「鳳翔寺へ」の道標に従って急坂を下り続けるとイルカ岩を見る。柏原・多田の明願寺への分岐を左手に見送って直ぐ(50m)程で博打岩(4〜5人車座になれる平坦な岩場が有るからか!!?)側を過ぎて亀岩(甲羅から顔を出す亀に似ているからか ?)横を抜けると剣爾山416m。足下に水分公園を見下ろしスタート地点から 歩いてきた二の山からのコースが望まれます。更に下って”領家の頭”(分水界を見渡す露岩の展望所)の下で 正面に岩場が現れると尾根の先端にある展望絶佳の天狗岩に着く。
鳳翔寺・ツガの巨木

鳳翔寺背山のいそべ神社の岩座でズバリ分水界展望所です。正面には 西へ真っ直ぐ延びる中央分水界・高谷川から加古川へと 母坪城跡の北を廻り込んでいきます。中程右に見える向山(城山)からは五大山〜五台山〜穴の裏峠〜烏帽子山へと続く分水界尾根で右手前は黒井川で由良川へ西側は加古川となります。央左(南側)は柏原川で 当然加古川を経て瀬戸内海へ流れ出ます。石戸山・高見城山白山弘浪山篠ヶ峰へと氷上盆地を取り囲む 山々が見渡せる本日最後のビューポイント。
硅石山山頂の南西下方は硅石採掘跡

オフ参加の皆さんには丹波の山々を同定しながら 堪能できたでしょうか…草花に造詣の深いメンバも多いので鳳翔寺西側の山門下付近や雑木の間に種々の花を見つけて撮影モードに入っています。分水界展望所を後に林間の道を下り猪垣を抜け出た所が白雲山鳳翔寺(黄檗宗 PM15:05)です。境内西側の山門と塀の側には氷上町指定天然記念物(平成5年11月9日)「鳳翔寺の大ツガ」 (高さ約31m,目通幹廻り3m)があり、ツガとしては兵庫県内最大の巨木とされています。鳳翔寺は貞享元年(1684)創建なので、その時植えられたものとしても樹齢約 320年を経ていることになります。


日本一低い谷中中央分水界

石生からJRや国道176号線で柏原に向うと 直ぐ高谷川に架かる水分橋を渡ります。此処が日本列島の中央分水界が通っているところ(瀬戸内海へ注ぐ加古川と、日本海へ流れ出る由良川の水が分かれる)。分水界の大抵は高い山々の尾根にあり・氷上盆地の平地の中にあっては、そのことに気付く人など殆どいない?様。京都の戻り橋などと同様に此処「水分橋」も 「水分れ」が「身分れ」に通じるとして昔から嫁入りでの行列は、この橋を通らず遠回りされます。
水別れ(取水口右手は日本海へ)

この付近では 栗柄峠や鼓峠にも谷中分水界があります。水分れ公園・いそ部神社から高谷川右岸(北側の車道)堤防上を通り、新町(行者山東端)まで約1250mの間(海抜100m前後)の平地で分水界を形造っており日本一低い分水界として知られています。(此処の標高は最も低い所は新町交差点で95.45m、水分れ橋では101.04m) よく例えられる話で水別れ資料館の模型にもありますが、
高谷川は桜の名所

もし氷が解け海面が100m上昇すると海峡となって 日本列島は此処で二分される事になると…駐車場から「いそ部神社」・水分れ公園へ続く 高谷川沿い堤防が分水界となる加古川と由良川の源流で、桜の名所ともなっています。いそ部神社への赤い橋を渡れば水分れ資料館・周辺には人工の水分れ滝の広場 ・四季の花園・多目的広場があり、水と親しみながら自然とふれあうコミニュティの場が提供されています。車道から林道へと直進すればゲートを通って 向山連山周回や硅石山〜清水山への森林浴コースがあります。トラロープの続く急登の楽しみが待ってますよ。



おおかみ橋と 藤の木橋

おおかみ橋
R176号線は柏原北交差点で南多田から柏原警察前〜稲継交差点でR175号線に合流するバイパス道と、直進してJR石生駅から春日町南西玄関口の歌道谷に至る・福知山線と並走する旧来のR176号に分かれます。旧来からにR176号線石生駅の南約150m程小さな橋とモニュメントの有る「水分れ」交差点に着く。
高谷川と狼橋

柏原川〜佐治川を経て加古川を瀬戸内へ流れ出る源流の高谷川に架かる「水分れ橋」は”身別れ”に通じ、 昔から婚礼の行列は此の「水分れ橋」を渡ることを避け、直ぐ上流3〜40m程に架かる狼橋へと迂回したそうです。婚礼の際に近づかないとされる橋は諸処に多く、京都:一条戻り橋の様に、 嫁が実家に戻って来ないように:橋名から忌み嫌われるが、渡辺綱に腕を切り落とされた鬼が、綱の義母に姿を変え腕を取り戻した伝説や、世界大戦中には招集される兵や家族が無事な帰国を願ってこの橋を渡ったとも云われます。 江戸時代:文化年間頃の「丹波志」に”此辺りに住んでいた狼を捕らえ、売ったお金で橋を架けた事から名付けられた”と伝えられます。狼が高値で取引されたとも思えず・狼を退治した事で橋の新設が代官から許されたものと解します!!?。狼橋の上流 7〜80m(水分れ公園駐車場前)の藤ノ木橋<上記:丹波のお話を参照ください>が縁切り橋、下流の水分れ橋身別れ橋なので、 真ん中の狼橋は「おおかん橋(おかん橋)」は神様が守ってくださる安全な大神橋(おおかん橋・おかん橋)だとも云われたと伝えられます。
藤ノ木橋の藤棚と向山連山

藤ノ木橋物語
昔、此の石負(いそう)の地に”玉の太夫”という地頭が住んでいた。 一人娘の”玉姫”は、玉のように美しく近在の若者達の憧れの的でした。そのうち何処からともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、凛々しい若者が玉姫のもとに 通ってくるようになりました。玉の太夫は其の若者が何処から来るのか気になり、突き止めようと腰に赤い糸をつけて 後を追っていくと藤ノ木橋を渡り・遠い山里の大きな池の深みに入っていく!!、その古池の大蛇の化身だったのです。驚いた玉の太夫は、 いし石部神社の神様のお告げを受け藤ノ木橋の 「藤ノ木」にお願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。それからは二度と其の男が玉姫のもとに訪ねて来る事はなくなったということです。
<「おおかみ橋」/「藤ノ木橋」の案内板より>

 
明願寺 :難波金兵衛(義継)の石仏  丹波市柏原町南多田2069

丹波市内の城砦廻りで立寄った茶臼山城は明智光秀による黒井城攻めの陣城として知られますが、其の西山裾の萬松寺には石の笛を作り・日本一の石工と謳われた丹波佐吉の手になるとされる地蔵尊がある。春日町野村出身の伊助が柏原町大新屋に移って金兵衛を名乗り、但馬にいた佐吉を養子として引きとり石工の育てます。
町家長屋門を残す旧家

其の後:初代難波金兵衛には実子・義継(2代目金兵衛)が生まれます。其の作品を見てこよう。春日町黒井から氷上町石生へ 谷中分水界「水分れ橋」を過ぎ柏原町南多田の明願寺へ。山麓道が判らず柏原中学校前から北への道を進む。 グラウンド西北隅からは中庭に保存される 昭和池(久原)古墳群8号墳が見える。 明願寺は此の車道北詰めでL字状に東へ折れるコーナー部に四方を石垣・裏手から表へ 三方は溝谷が囲み、南正面には両サイドに覗き窓を備えた長屋門の建つ旧家がある。東山側に土塀を境に内側には庭園と茶室だろうか!!?数奇屋風の茅葺屋根を載せて趣の有る一画もある。
明願寺(左隅に僅かに見える?石仏)

丹波では名園の幽石軒。現在使用されている一般民家なので、庭を拝見するわけにはいかないが、当家初代は京都御所での宮仕えの際 ・柏原藩織田家(何代の誰 ??・後期織田家5代信守とは思えず6代信古<のぶもと>の事かと…?)と懇意の仲!!!柏原へ帰任の際、誘われ柏原に移り住み此の邸を建てられたと云う。初代の兄:児玉某氏は大路の松森(春日町)の出で、第一次丹波黒井城攻めの 天正3年以前より明智光秀に付いていたものか、一帯を八上城主:波多野氏が領しており、第二次丹波攻めの天正5年頃には光秀方に降りていたものか? 兄弟が”本能寺の変”で敵対した織田と明智に因縁が有とは!!。此の旧家の西側石垣沿いに本田山明願寺 (曹洞宗・旧氷上郡西国札所第十番)と墓所への参道が延びており 上り詰めた先には高さ6m程の石垣の上に山門と鐘楼が建つ。白壁沿い西側に新しい石造観音立像が立ち、 其の並びに小さな石像が見える。此れが目指す「薬師如来坐像」で、台座部分に「柏原町難波金兵衛」の銘が刻まれた二代目金兵衛(義継)の作です。
難波金兵衛(義継)の薬師像

柔和な顔立ちで・おちょぼ口、小さく”可愛い”表現が合います。タラコ唇だったら・・と 木食上人の微笑仏を想像してしまう!!。柏原町最北の高台に在って南に入船山(八幡神社)・柏原の町を見渡せる此処・南多田には徳川家とは婚姻関係に有る本多家が、 柏原藩織田家監視の役目をもって柏原周辺の土地を領有したと思われ、水野壱岐守や:多田・挙田・市辺等には旗本:本多淡路守(・・?)が代官所を置いたところから、領主を祀った位牌の家紋・寺紋も葵、山号の本田山も本多家に通じます。
(ふる里の寺(丹波新聞)・柏原伝「こころの半世紀」?(柏原文華社!!)を参照)


 朝日城 石生西河原城 四ノ山砦 浄福寺砦

朝日城  537m   氷上郡春日町 朝日城

黒井城の西南約2km・向山連山の北端が落込み 黒井川を挟んで保月城(黒井城)と呼応し、南から北へ舌状に突き出した比高約40mの丘陵に荻野秋清の朝日城があった。此の朝日城の西方約5kmの新郷は赤井氏本拠の後屋城が在った。赤井氏は荻野氏と同族で、天文年間(1532〜55)荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主に乞われ 後谷(後屋)城主赤井時家の次男・才丸(後:黒井城主・荻野(赤井)直正)を養子に迎えて、
少林禅寺 H15..3.9

城を継いだ荻野氏の本拠城朝日城
【朝日通れば下馬して通れ 朝日輝く殿どころ…】当時、臼挽き唄にも歌われるほどに、朝日集落には武者屋敷が 山の手に厳しく建ち並んでいました。集落内の山手には疎林・竹藪の間に見る段差をもった方形の平坦地が点在しており、 石垣や石積みを覗かせる土塁状もある。古墓地も点在するので後世に造成・開発等に手を入れられたものかもしれませんが、朝日城西裾の山間から集落内へと拡がる平坦地の幾つかは、当地土豪:荻野氏家臣団屋敷跡なのでしょうか?。
少林禅寺境内・荻野18人衆の慰霊塔?(宝篋印塔) H15.4.26


土塁囲みの方形居館跡・朝日城城域の貴重な遺構が 残されていた北半分は、土取りされ新興住宅地「八幡台分譲地」として開発され消滅してしまったが、「北近畿豊岡自動車道」の通る南側の荒れた丘陵部に見る遺構等は其の頃(以降に記す)のものと思われます。赤井直政は天文23年(1554)に主家の黒井城主 荻野秋清を刺殺して 自ら城主となり悪右衛門を名のり、本拠を朝日城から黒井城へと移します。天正3年1575)には太田垣氏の守る 竹田城(朝来市)をも占拠しています。但馬山名氏を脅かす奥丹波の赤井・荻野氏に対し兼ねて山名氏より救援を要請されていた織田信長は此の天正3年 (1575)より部将:明智光秀を派遣して天下布武による「丹波攻略」が始まります。
北端(V郭部)の土塁曲輪【此れより北部は壊滅】

五輪塔についてこんな話が:天正7年(1579)8月19日明け方から始まった戦いは明智軍6千に対し赤井軍1700余り、城に残っていた軍勢はわずか、城と運命を共にしょうと 奮戦した荻野彦左衛門道朝(八上城・波多野七組頭の一人)・八左衛門勝家等 18人も無念の一心を再挙に託して此処・ 朝日に隠棲していた。戦いの中に育ち戦いに明け暮れた彼等にとって太刀取らぬ事への侘しさ「・・腕が泣くのう…」「いかさま…殿の弔い合戦がいたしたいわい」「ご同様じゃ…しかし待てば海路の日和もあろうぞ」…やがて星移り年変わって 大阪城の戦いが風の便りに伝わってきた。
本丸部からU郭・V郭部の大小曲輪が段差を持って続く


遂に待望の日が来たと彼等は期せずして 朝日に集まってきた。「…どうやら海路の日和が来たようじゃ…」「…おのおの方、一刻を争うぞ支度、支度」何時か来るきょうの日に備えた鎧櫃から甲冑を取り出し身ごしらえも厳重に散らばっている郎党を駆り集めた一党は、その夜のうちに朝日を発って大阪の陣に向かい、激しいに乱戦の中に華々しい最後を遂げていった。不幸にも、この一行に発ち遅れたものは千載一隅の戦いに間に合わず、情やみがたく遂に高野山に登って剃髪したといわれます。討死した者の首は其々の家臣が馬につけて朝日へ持ち帰り丁寧に葬った。
少林禅寺裏・主郭(T郭)東斜面の畝状竪堀群】

今も少林寺境内に残る宝篋印塔はこの首塚だといわれ、武運めでたく朝日へ帰りついた人々は此処に永住して 同輩の冥福を祈って栄え、久しく・・"朝日輝く殿どころ"の名を歌われたといいます。黒井城落城5年後の天正12年(1584)4年:赤井直正の末弟赤井(芦田)時直は織田信長の後継者争いが起因となった「尾張小牧・長久手の戦い」に羽柴秀吉と対戦した織田信長の子:信雄(のぶかね)と徳川家康との戦いに家康の誘いに呼応して黒井城と余田城に挙兵した。やはり信長の”丹波攻め”による敗戦の弔い合戦として 徳川方に加勢したものか?もっと深い意味があるのかも…!赤井氏一族が”丹波攻め”により滅亡した話は聞きません。これ等赤井 ・荻野両氏の其の後の動向不詳が要因を複雑にしている様です。時直はこの功により文禄2年(1593)徳川家康から500石の家禄を受け御家人となっています。国道175号線でバイパスの城山トンネルを抜け朝日の天満宮東、岸部卯吉商店(はきもの卸)角を南へと 細い車道を進むと多賓山少林禅寺(臨済宗相国寺派本尊・釋迦牟尼佛)に行き着きます。
朝日城北端(V郭)から壊滅したW〜X郭(宅地)越に黒井城〜千丈砦を望む

舞鶴自動車道の春日インターから分岐して、青垣町から遠阪トンネルへ繋がり朝来・和田山を経て豊岡方面へと抜ける豊岡自動車道が氷上町まで完成し少林禅寺背後・向山からの尾根北末端部の山裾を トンネルで抜け通じています。専用道(豊岡自動車道)側から舌状に延び出した低丘陵がR175沿い朝日集落に北末端部を落とします。丘陵東側には少林禅寺が有り、丘陵末端部をとり囲む様に周辺には荻野(赤井)18人衆とよばれた、一族の家臣団屋敷跡が残り、黒井城を北東約2kmに望む比高3〜40mの尾根上には荻野氏の居城:朝日城が有りました。春日・氷上間の工事も完了後に再訪したが、益々城域は荒れ、藪や倒木によって目視でも曲輪・土塁・堀切が、なんとか確認できる程度。少林禅寺背後の畝状竪堀群と竪土塁!!、尾根を掘り切った南端部の最高所には物見台(矢倉台)が有り、北側へ広いT郭(主郭部)と2m程の段差で北端部に土塁の残る?V郭に下りる。 しかし北側の城域は此処までで、土取りで削り取られた急斜面の下に拡がる平坦地は新興住宅地となっている。
地神さんを祀る数段の平坦地は 武家屋敷群跡か?


朝日城で最も特異な縄張りが残るW郭〜X郭部を確認したかった。 夢と消えた荻野氏家臣団の屋敷や城郭、兵庫丹波の城には例の少ない堀切と数本の竪堀を 組み合わせたフオーク形竪堀が有った。さらには明智方により黒井城向城としても改修して使用されたと思える「食い違い虎口」や、黒井城を望む東北斜面に輪郭状に幾重にも築かれた小曲輪群には 茶臼山城と共に明智光秀による黒井城攻略(天正3〜7年)による陣城ともなったと 思える織豊系縄張りの特徴が見られたという。朝日集落から新興住宅地を眺めると、小祠が建ち鳥居が見える。この祠から宅地の並ぶ上部 ・削られた斜面の延長上に、今となっては縄張り図を見ながら空想するだけ、失われた貴重な歴史遺産・とりわけ荻野 ・赤井氏にとっては本拠城、
深い溝状の谷川側にコの字形土塁?囲みは居館跡?

保存の為の回避や其れも無理なら城跡顕彰碑に朝日城の城史を留める事も考えられるのですが…?。土取りと云えば火山城というのが此の朝日城と先述の茶臼山城の間にあって、同様に春日インターから豊岡に向う自動車道路の側にあった。数基の古墳群が点在する尾根のすぐ上方に有って、其の名さえ知らなかったが此の工事により消滅したようで?完成した自動車道を直ぐ下方に望んで低丘陵の道路側に削られた山肌と、荒涼とした平担地を見せています。詳細は未詳ですが山側に浅い堀切一本のみ、要害の地でも規模も極少・中世以前の城らしいので、それとて稀有な丹波では貴重な遺構・遺跡となるのですが…(^^ゞ

朝日城西山裾に方形台地が在る:石積みと石組みの井戸跡は居館跡か?


破壊・消滅した遺構を想いながら集落内を抜けてR175号線に出た。国道の西方 ・城山トンネル上方に台形の丘陵地が見える。其のガンジュウジ山城(向山城)も公園として広い平坦地として整地されてしまった。珍しく城跡の案内板まで有るのに往時の低い段差で 区画されていたはずの曲輪等、城跡を感じさせる遺構は無い。ただ黒井盆地と黒井城砦群を望み、石生方面に連絡する要衝にあって此処も名の示す黒井城の向城となったのでしょう。城域北末端部の堀切・広い曲輪部や空掘等は開発で 消失したものか?急斜面となり下方に駐車空地や宅地が見える。東の少林禅寺付近や西の墓地や中池(貯水池)となっている付近の 平坦地には一族の家臣団の 屋敷が建ち並んでいた事でしょう。これ等屋敷跡からは石垣や井戸跡等 ・中世土豪の集団住居の貴重な遺構が残っている。
城域南の堀切上部は主郭の櫓台

少林寺は建武年間(1334-36)江州(彦根)茂賀山城主・小林渡之助宗政が、その遠祖・木曾義仲父子三代の菩提を弔う為、後醍醐天皇の勅許により創建されました。 その後元和元年(1615)月山海和尚により再建・中興開山として現在に至っている。この間・文化5年(1808)に大改修されています。主郭部から続く連郭式曲輪を連らね、畝状空掘や西方へ竪堀を延ばす家臣屋敷等が建ち並んでいたと 思われる、丹波では珍しい群郭式遺構の見られる山城でしたが、残念ながら此れ等の核心部遺構は但馬へ抜ける高速道路 (和田山・豊岡自動車道)工事の土取りや宅地造成による開発事業によるものか?其の為広範囲に城域の尾根部半分は面影もなく切崩され壊滅状態です。
東の少林禅寺側への竪堀

国史跡黒井城の城主関連からも朝日城の遺構は保存されるだろうと期待していたが…。朝日集落内には土塁と堀を廻らす居館跡が2〜3残っていらしいが、土塁?方形の曲輪らしい平坦地以外よくは分からなかった。旧氷上郡春日町版の埋蔵文化財分布調査報告書でも所在が記載されている様なら、確認しながら再訪してみたいものです。
(由緒を尋ねて 丹波新聞社 昭和 31年発行/現地:少林禅寺の沿革案内板等 参照)


石生西河原城   Ca300m   氷上町石生北野!!・西ヶ原

水分れ公園のいそ部神社前の林道をとって直進すると向山連山ハイキングコースが、硅石山から清水山542mや向山569mへ続く稜線上へと延びています。コース途中分水界展望所からは 眼下に拡がる石生の町並みや広々と見渡せる平野の中を緩やかな流れを見せる加古川・柏原川・黒井川の水が日本海や瀬戸内海へと流れ出る要の位置にあるとは思えない 長閑な展望です。
段曲輪群の中央を割いて延びるの特異な遺構は登山道整備によるものか?

此の展望所に今まで石生城 (仮称)としていた石生西河原城が在りました。城名や位置の概要だけでも判ればと旧 「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書:氷上郡教育委員会」の資料を探したが、 氷上町編だけが報告作成されていない。誰が何時頃築城したものか城名・城主等は一切不明。存在は古くから知られている様で、東屋休憩所・水分れ水汲み場に古城跡説明板が立つ。
石生西河原城:分水界展望所からH22.02.06

兵庫県遺跡分布図には備考欄等空白のままで石生西河原城の名称はある。水分公園からの向山連山登山口地形からしても、 向山の西山麓に拡がる緩斜面の谷が字名:西河原の様です!!?。登山道の右手に深く真っ直ぐ突き上げる溝が分水界展望所のある曲輪の直下数mまで延びています。木材の切出し用とも思えず、自然地形なのでしょうが見事な竪堀になっています。 此の竪堀が切れた数m上部が分水界展望所となっている曲輪の一段下?の腰曲輪西角にあたります。 腰曲輪から切岸を施した曲輪が展望所で東角に幅広の土塁の残欠?を思わせる高盛があるが、山林作業用ワイラーやトタン板が残り、曲輪内には小屋掛けが在った。展望台も広場として大きく改変され元の遺構は不明。
分水界展望所・狭いが緩斜な尾根上に続く段曲輪

此処より続く尾根上の登山道には切岸を落とす3-4段の曲輪に続き、小さな曲輪が10数段続き、その先に主郭部と思える切岸はないが 2段程の曲輪と、端の狭い尾根筋の先に土塁と尾根を遮断する二重堀切を見る。堀切の先土塁道の様に細長い登山道の東面には城域で一番広い !?平坦地が有り、 さらに下段にも一段の曲輪を備えています。 此処より先の尾根筋は細い尾根・ロープ続きの急斜面が硅石山へと高度を上げながら続くだけで、山上に城・砦はなさそうです。
分水界展望所・西北端曲輪の切岸

尾根の途中の低位置・幅狭い尾根上に極小の段曲輪を連ね、城域を二重堀切で遮断した外に城域内最大規模の曲輪がある?…等々、丹波の城に限らず・奇妙な形態は他に例を知らない。 地形を上手く使いきっていない稚劣な?、または築城技術を持たない土豪クラス?か、古い城の様だが、緊急・応急対応の陣城とも推察出来そう?。所領地を望まず!!?・且つ袋小路の様な目立たない位置にあって領民らの「逃げの城」か、三次氏・内藤氏が芦田・足立氏が 赤井・荻野一族と争った香良合戦に、芦田・足立氏に加勢の為既に布陣し様子を監視していたか?、天正3年明智の第一次黒井城攻めでは、波多野氏等と西から侵攻した際は 柏原八幡に陣して石負(石生)砦には妻木主計助範資が居て出陣準備をしていた様で、兵の駐屯地となったか?、四ノ山砦(下記)は見張・監視に利用されたのかも?。
二重堀切手前の段曲輪群

入り込んだ地形は高見城等の赤井氏方の出撃に備えての防備か?。 天正6〜7年の黒井攻めにも、西口の監視警護を固めて至近距離にある駐屯地として使用されたものかも。尾根上の曲輪は狭く・籠城には向かない事から駐屯 ・出撃の為の待機所?とも推察してみます。いずれにしても・尾根上の曲輪や二重堀切に気付く人は少ないようです。向山の尾根を隔てた北の山裾には後の黒井城主で丹波の赤鬼と怖れられた荻野直政(才丸の頃)が初陣した (幾度か侵攻して来た内藤氏を此処で追い返した?)野山砦や、其の才丸を頭首として迎えた朝日城があります。
土塁上から二重堀切:尾根続きに大土塁曲輪がある

皇室領だった石負(いそう)荘 <現在の石生>は承久の乱(1221)で幕府に没収されたが、後に返され室町時代初期まで皇室領だったらしいが、 応永31年(1424)知行していた中御門中納言宗宣も死去により返却されたが其の後は不明。在地国人によって横領されたとみられます。元亀2年(1571)の古文書に・柏原八幡宮護摩堂への寄進状があり、赤井氏の先祖ともされる芦田(赤井)源太兵衛直家が武運 長久、子孫繁栄を願って自分の領地・石負荘塚本の田を寄進する】とあり、芦田氏が領有しており、芦田氏一族の山城であったとも推測できます。柏原八幡宮より古い由緒ある水分の延喜式内社いそ部神社には何か手掛かりが残っているのかも知れません。天正期黒井城主・赤井(荻野)直政に与した芦田氏ですが、
二重堀切外(尾根続き)に城域最大の大土塁曲輪がある


それ以前の丹波波多野氏(霧山城)?に抗していた頃の、香良城や沼城(共に氷上町)の芦田氏一族の砦だったとも考えられます。芦田直家については、赤井氏・荻野氏の先祖とされること等が 良く解からないので…芦田城(吼子尾城)の歴史を追ってゆけば手掛かりが 掴めるのかも知れないが…?土豪としては稲次(稲継)氏も候補に入るのかも!?…
(現地水分れ公園説明板・丹波の荘園 細見末雄著 を参照)


四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称>   四ノ山 Ca511m    氷上町石生

4月の中頃には、 日本一低い谷中分水界の有る「水分れ公園」を起点に向山連山への登山者が増える。 登山コース途中・各所に有る岩の展望台からの眺望も楽しみの一つですが、此の時期のお目当ては尾根上に見るヒカゲツツジの群生。 ゴールデンウイークを過ぎてから見頃となる石楠花と同種のヒカゲツツジが,淡い黄緑色の花を咲かせ、コバノミツバツツジの淡いピンクの花と相俟って 厳しい登行の疲れを癒してくれます。
四ノ山砦:西端の展望曲輪?


三角点峰の向山への登りではヒカゲツツジのトンネルも待っています。瀬戸内海と日本海への谷中分水界となる高谷川沿いに、いそ部神社・水分れ公園滝の広場を右に見て、山裾への林道を直進すると西ヶ原の硅石山への分岐に着く。此処は向山連山を半欠け茶碗に例えれば、其の中央底付近が此処か。
四ノ山山頂・西側の切岸!?

右手(東)前方の丘陵尾根筋へと谷筋沿いに通じる登山コースの分水界展望所が 石生西河原城で尾根続きに二重堀切を持つが硅石山へはさらに嶮しい登りが待っています。 向山連山縦走には幾つかのコースが有りますが(仮称)四ノ山砦(天ヶ嶽砦)へは此の半欠け茶碗の縁沿いに、北方の観音堂の取付き点から二ノ山(山頂に滝山古墳が有った)・三ノ山(山頂部は小広い平坦地形で、 少し西方へ下った絶壁端の岩頭は黒井盆地の西南入口を押さえる重要ポイント!?。
四ノ山砦:主郭の北正面に黒井城を望む>

正面直近には赤井氏か霧山城を控えての西波多野氏の居館か?、黒井攻めの際 ・秀吉の陣城となったとも云われる?ガンジュウジ城(横田城)と、赤井直正(幼名:才丸の時)初陣の城 ・野山城を望んで、呼応・対峙する位置にある見張台か?)。三ノ山からは細い尾根筋でしかも急斜面 (フィックス・ローブが有る)の登り下りで四ノ山へと辿り着く。春日町側の歌道 (うとう)谷南奥に聳え立つ四ノ山は、天ヶ嶽とよび麓に祀られる船城神社の御神体ともなっている神奈備の山。
四ノ山東鞍部の浅い堀切

展望も無い平凡な尾根筋のうえ、此のピークから先・引きも切らずに・咲き誇るヒカゲツツジの群生に目を奪われてか、広くもない尾根筋の小さな段差を持つ段曲輪 ・腰曲輪に城砦遺構と気付く人は、殆どいないと思われます。私も何度か通り過ぎたが、 今回は花のシーズンオフにジックリと付近を探索してみた。先程の半欠け茶碗の縁沿い説明が途中なので続けると、四ノ山から向山569mを経て蛙子峰562mへと続き、
四ノ山砦:主郭西側曲輪の南下に腰曲輪!?

半欠け茶碗の縁から外れ譲葉山へと延びていきますが、此の譲葉山山頂に二箇所の城遺構があり、 織豊系に見る土塁囲み遺構から明智軍の「丹波攻略」主に黒井城や三尾城を意識した陣城とみられます。此処を下った 柏原八幡山城金山城から移った明智氏の本陣です。蛙子峰562mに戻って進む茶碗 の縁を硅石山に向います。 此処からロープ便りの急斜面を下っていくと石生西河原城です。尾根続きを清水山に向います。
四ノ山山頂の主郭

清水山の南尾根は明智の本陣:柏原八幡城へ通じ、四ノ山砦とは間を遮るものなく正対して呼応出来る位置にあり、黒井城を直接監視出来る為、最も早く正確な黒井城情報が発信でき、清水山経由で本陣や譲葉山城への知らせ(通信・連絡)の立地にあって、 四ノ山砦を明智方の向城・見張所と考えて見ますが、陣城に堀切を設ける例は余り無く、堀切より切岸加工される事が多い事から、明智の向城説は可能性薄い様です!!?。 清水山から剣爾山416mを経て麓の鳳翔寺へと茶碗縁を降りてきます。ところで城域尾根東端・三段程の小曲輪を下った鞍部に見る ・埋もれかけた浅い堀切をどう見るか・・・!!。
黒井城攻めの石負砦は此処に在ったか?

荘園監視には遠過ぎる・高過ぎる・で戦国期の赤井(荻野)勢力下の城砦と考えれば、荻野(赤井)氏の朝日城方面からは、不動滝経由で丹波野林道から直接此処:四ノ山と深坂北峰 521m間の中間点 ”松の台展望所”付近へ登って来る登山コースもあるのですが、朝日城も明智軍の向城として改修されている様で、四ノ山砦が朝日城改修後の遺構だとすれば・・・??。T氏・M氏の現地案内時にでも意見・助言・感想を期待したい!!。


浄福寺砦<仮称>  xxx山 Ca130m    氷上町石生南多田

谷中分水界のある「水分れ公園」・いそ部神社から高谷川沿いに公園駐車場(藤ノ木橋)から、またはいそ部神社の西隣・千代田池側を抜けて、R176号線へ出る車道は白雲山鳳翔寺(黄檗宗)門前を通る。 車道からも望める:いそべ神社の岩座(天狗岩)は展望絶佳の中央分水界展望所で、剣爾山416m〜清水山542m〜硅石山から向山連山へと周回できる。
水分れ公園駐車場前の高谷川から浄福寺砦(台形尾根先)

登山ルートの鳳翔寺西南約150m先には、剣爾山へ向う登山ルートの尾根筋とは別に、西南への町界尾根沿いから、そのまま西へ・更に山麓から比高15〜20mの平坦尾根が、 北に100〜150mばかり突き出して集落内に先端部を落とす。
浄福寺砦・北郭南側2段目の腰曲輪?(自然石の切岸!!)

JR福知山線と並走するR176号線【柏原北交差点から稲継交差点へ向う R176号南多田バイパスとは別に交差点を北へ直進する旧来のR176号】が、 清水山から柏原八幡神社(入船山)や明願寺へ延び出す丘陵山裾沿いに 「水分れ橋」〜JR石生駅駅前を抜けてR175号に合流する春日町歌道谷・石才に出るが、此処は黒井盆地に入る西南部の玄関口。
浄福寺砦北郭:主曲輪の段差下2段目の腰曲輪

東に向山連山、西には霧山(霧山城が在ったとされる。篠山の八上城主:東の波多野氏に対し西波多野の波多野宗長 ・宗貞父子が居たと伝わる。天文年中(1532‐55)細川氏の内乱に、晴国に付いた波多野氏が晴元側に付いた赤井氏を攻め穂壷城等を落として、波多野氏が一時期・氷上郡を領した際に一族を置いたものか?。赤井氏が氷上に復帰した元亀・天正頃の動向は不詳ですが、 天正7年:氷上城の波多野宗貞は、久下重治の玉巻城に拠り、光秀の救援に播磨から侵攻した羽柴秀長軍との 合戦に討死している)から野山(野山城が在り、
浄福寺砦北郭主曲輪の北端三箇所に大き目の自然石が在る!?

赤井直正(幼名:才丸)が八木城の内藤氏を 追い返して初手柄を立てた砦)を経て 丘陵末端付近にガンジュウジ城(波多野宗長の居館とも・・向山城の名からは黒井城を正面に望む秀吉勢の陣城とも?)が在り、現在直下を北近畿豊岡自動車道(R483)や、稲継交差点からR175号線がトンネルで抜ける。丘陵南端山麓を高谷川が真西に流れ、約1500mで柏原川と合流する。 此処に穂壷城が在り、佐治川(現:加古川)とも合流する。

浄福寺砦・南郭北端曲輪と主曲輪の段差 (切岸1.5m程)

明智光秀による黒井城攻め第一回目の攻撃が行われた天正3年(1575)、鐘ヶ坂の金山城に明智光忠400を留め、柏原八幡神社を本陣に明智光秀の本隊3500・石負砦(石生砦が何処にある城砦なのか未確定 ・?不詳)に 妻木主計助範賢500・竹田方面には波多野秀治(篠山:八上城主)・栗柄方面に義弟の二階堂秀香・牛河内方面には当然 :霧山城(氷上城)の波多野宗長・宗貞父子等により総攻撃が開始されます。妻木範賢の石負砦は・広い平野 ・盆地を横切ってくるとも思えず、黒井城西南の咽喉元に迫る歌道谷へは、旧来のR176号線沿いの侵攻と思えます。
浄福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪端の切岸2m程下に帯曲輪<東側>

柏原八幡本陣に近い道筋の低丘陵西北末端部 浄福寺砦(以後は仮称省略)は、比高も僅か(15〜20m程)で比較的緩斜面の尾根上に曲輪を並べるが、堀切・竪堀・土塁も無く曲輪の切岸も低く防備性は劣る。曲輪と思える数段の平坦地や、自然地形の空掘・片堀切・竪堀らしいものは有るが、 山城遺構としては判然としない・・?防御性は劣る。旧芦田氏の城だったと思われる 石生西河原城の前衛に位置して、石生の領内監視の砦だったか?。
浄福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪端の切岸は1.5〜2m程度だが明確<西側>

山麓に荻野姓民家が目立つので、 同族の芦田氏や足立氏を制し、氷上郡・天田郡・但馬へも 勢力を拡大していった赤井・荻野一族の城砦として存続していたものか?。明智光秀の「黒井城攻め」一回目(天正3年9月!!)の侵攻から総攻撃まで1週間ばかり…石負砦の妻木範賢は西河原城を主基地として、四ノ山砦を黒井本拠城の監視 ・浄福寺砦を将兵の駐屯所としたのでは!!?・・と思えてきた。 浄福寺砦は鳳翔寺の西南、連浄山浄福寺北方を境する比高15〜20mの低丘陵に在って、 規模は:浄福寺墓地から鳳翔寺へ越える丘陵鞍部から北へ約200m程の平坦な尾根上に曲輪をおく。
浄福寺砦南郭南側の堀切状鞍部からは清水山へ急登が続く(右手:浄福寺へ)

中程に低鞍部があり、曲輪群を此処で北郭部と南郭部に分けてみます。 中央鞍部の東北は緩斜面で下方に新池や古墓地が有る。 城域丘陵の北端から西側裾を狭い車道が浄福寺墓地へ通じる。 西面の急斜面は道路拡張工事によるものと思われるが 6〜10m程の断崖状。北郭部主曲輪(8mX12m程)は北側曲輪線沿いの三箇所に、残石が有るが城施設の遺構かは不明?。 尾根沿い南側に段差1〜1.5m程で小曲輪(5X8m程)と帯曲輪状を見るが、主曲輪 ・小曲輪共に自然石を切岸に利用している様。 中央鞍部東は緩斜面で新池や鳳翔寺墓地へ、西面は竹林だが急斜面を民家・車道側に落とすが堀切はない。
浄福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪

北郭は全体に円状だが・鞍部から高低差6〜7m・斜面上の南郭部は幅7m〜10m程・長さ40m程の尾根上に2〜3段の曲輪を、左右に帯曲輪、 西面には其の下方にも数箇所に小曲輪もある。 南郭の左右(東西)切岸は1.5m程と高くは無いが明確。主曲輪の北端に土塁か土壇跡らしい低い盛上がりがあるが、流れ・崩れてか!?其の痕跡のみ?。 猪垣(鹿猪除けフエンス)が廻る南端部で堀切状の鞍部となり、東北へは谷沿いに鳳翔寺へ・直進尾根は清水山へ、西南下へは平坦地形を幾つか見て浄福寺墓地へ降り立つ。
福寺砦南郭主曲輪の 東西曲輪端の切岸2m程下に帯曲輪<東側>

尾根上の平坦地形以外に堀切・竪堀・空掘・土塁等、山城の特徴となる遺構を見ないだけに 城砦との断定に疑問はのこるが、柏原から石生〜春日町へと、山際沿いに進む街道筋にあって、特異な縄張り(狭い城域の有効性や防御性は曖昧で無頓着!!?)の西河原城・余りにも高所にあり過ぎる四ノ山砦・反対に低すぎるが街道筋の山際沿いで、 黒井盆地西南の玄関口に向う浄福寺砦と云い、先述の天正3年”黒井城攻め”妻木範賢の石負砦を照し合わせてみると、陣城・向城・兵を置いた駐屯所として使用されたものと思えるのですが・・!!?。 (氷上町史 等を参照)

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