日本一低い中央分水界とヒカゲツツジの回廊 水分れ公園~向山連山~清水山~剣爾山
水分れ公園~向山連山(向山・蛙子峰・清水山・剣爾山 2002年4月13日
日本一低い谷中(こくちゅう)中央分水界 明願寺
丹波のお話 狼橋・藤ノ木橋物語
近畿の山城 朝日城 石生西河原城 四ノ山砦(天ヶ嶽砦) 滝山砦 浄福寺砦
    牛河内南城・牛河内北城
水分れ橋から向山連山(三ノ山)

高谷川に架かる水分れ橋はR175号/R176号JR石生駅近くにあるが車では一瞬で通過してしまう。小公園に説明板や海に流れ出す最初の一滴:濫觴を表現した?モニュメント・小さな橋に水を表わすカラー表示がなければ分水界と気付く人は殆どいない。日本一低い谷中分水界・いそべ神社付近から横田城への尾根南末端部まで約1250mにわたる谷中中央分水界の中程に架かる橋が「身分れ」と同じ音なので嫁入りの行列はこの橋を渡らず狼橋を通った。水分れ橋で101m・新町橋(東小学校前)で95.4m。
ヒカゲツツジの向山連山から 千丈砦~黒井城を望む

古来より日本海側と瀬戸内海側をつなぐ人・物・文化・情報が交流する交差点。高瀬船による加古川や由良川への水運等交通の要となる 地点でもあり「氷上回廊」とも呼ばれます。


向山連山(向山・蛙子峰・五ノ山)~清水山~鳳翔寺 H14.04.13

低山徘徊派関西支部のヒカゲツツジ回廊オフは日本一低い谷中中央分水界から向山連山へ…と云ってもまだ馴染みの薄い山名だが集合場所は氷上町石生の水分れ公園駐車場。高谷川沿いは桜の名所・いそ部神社・水分れ公園へ続く道から硅石山を経て向山へ向うか、観音堂から滝山古墳-二ノ山-四ノ山-向山-五ノ山-硅石山へ周回する分水界展望コースが整備されている。
いそ部神社

花の丹波オフだけに女性が半数を占め参加者24名と大盛況。低山徘徊派から発起人兼武さんが追っ駆け参加・世話係「たぬきさん夫婦」にNORIKAさん・みーとさん・大加茂さん・幸さん・呉春さん・さとゆきさん・佐竹さん・松田さん・島田さん・ 三文さん・貴公子さん・MLや無線のお仲間からは「山を駆ける風になれ」織田さんは都合で来られなかったが一行の4-5人に山喜多さん・八木さん夫婦・椎谷さん・米田さん・丸山さん・小林さん・田中さん・山南町の西山さんもドタ参加と賑やかなお花見ハイク一行です(AM10:20)。
水分れ・水路分岐点傍らの親水公園

今回初顔合わせのメンバ共に 広い駐車場内で大きなサークルをつくり自己紹介の後スタート。駐車場を出たところに「分水界展望ルート・向山連山登山道」案内板がある。観音堂からいきなりの急登も 和気藹々其処此処にピンクの花を精一杯開いて歓待のミツバツツジを愛でつゝ登るが気がつけば滝山古墳。鉄剣・鉄鏃・銅鏃などが出土し石英斑岩の板石組合箱式石棺内には40歳位の男性の遺骨が今も眠っているという古墳の前15mが二ノ山(滝山298m)山頂。
満開のヒカゲツツジ

コース第一番目の展望台岩座展望所の露岩は西南方向が開けて高見城山を正面に石生の集落や田園風景が拡がり篠が峰から竜ヶ岳を望み中央分水界を俯瞰確認できる(AM11:00)。五ノ山(最高点)を過ぎ本日のコース予定としたい硅石山から清水山への先には分水界展望所(露岩展望台)があり其処で休憩展望でメンバの到着を待つ。三ノ山470mから急斜面降りになる頃ヒカゲツツジの淡い檸檬色が北斜面に目立ち始め感歎の声があがり始まる。
JR石生駅付近から西尾根の先に 三ノ山と四ノ山


鞍部から登り始めると足下に風化した露出亜炭の黒っぽい土砂が目立つ「亜炭展望所」で谷間の暗い影をバックに咲くミツバツツジの鮮やかさに何人かの同行者はカメラを向け蛙子峰-硅石山-清水山が望める。此処から登り切った小さな広場が四ノ山(511m AM11:20)。下り始め直ぐ休憩展望地「松の台展望台」は食事休憩中の先客パーティあり先へ進む。縦走路に深坂北峰(Ca521m AM11:50)があるが二ノ山~深坂北峰へと続くピークはいずれも展望の効かない潅木の中の平坦地で山名標識がなければ気付かず通り過ぎてしまうが、いよいよヒカゲツツジ・ロードに入ってくる。
蛙子(がえるご)展望所

北や東側だけに目立っていたヒカゲツツジが西面にも現われてくるとトンネル状態で明るい展望ポイントツツジが丘展望所からはヒカゲツツジを前景に辿ってきた2-4ノ山を望み暫し足を止め、ツツジのトンネルを抜け向山(569m PM12:00-PM12:55)に到着。「腹へった~」連発の声に条件反射し賛同の声あり山頂の中央に陣取る先客の周りに散らばって食事タイム!!たぬきさんから丹波の銘酒・OAP(八木さん)からワイン・NORIKAさんからは鴨肉の差し入れでスッカリお花見モードとなりました。
ツツジが岡展望所から三ノ山(左)と四ノ山(右)を望む

雑木の中のピークは黒井城跡を望む北面のみが少し開けて見えるが僅か30m程先「向山平展望所」は先客なく・以前に比べ切開かれて休憩展望共に良い。黒井川沿いに拡がる盆地を眼下に・黒井城-五大山-五台山~親不知へ山並みが続く》此処からが向山連山のヒカゲツツジ・スポットです。向山平も黒井城を正面に望むが素通り、俄然メインの花のレモン色が目立ち始めます。
四ノ山山頂は城郭!!

岩峰の蛙子(かえるご)展望所から続く蛙子の瘠せ尾根は西に千ヶ峰篠ヶ峰や笠形山を・北と東に五大山-黒井城三尾山三嶽の展望も開けるが今日は岩場の足下や行く先々に咲き誇るヒカゲツツジの益々派手な歓迎に応えるだけで精一杯。向山連山最高峰五ノ山(591m)も1通過点・精々記念写真ポイント程度!。露岩の裾を捲くように西の稜上に出ると硅石山・譲葉山が見える。巻いてきた右手の岩峰に立つと中々の好展望が拡がるが生憎の天気で遠望は望めません。蛙子展望所(pm1:25)からは蛙子峰(562m)へと短いが 瘠せた露岩混じりの蛙子尾根が続きます。
向山山頂

蛙子峯からは静か・な~んにもない(ヒカゲツツジもコバノミツバツツジさえ姿を消して)新緑の丹波の山道を下り譲葉山分岐を経て水分れ公園への下降点に着く(PM13:45)。雨がポツリと来たが此処から水分れ公園へは展望もなく トラロープの激降りが待っている。少々の雨なら見所の多い清水山経由で鳳翔寺への当初設定コースを実行に移す。硅石山頂への道を捲くように「清水山・鳳翔寺登山口へ」の道標に従って進むと硅石鉱山跡に出てくる。
イルカ岩側を降って天狗岩へ…

何ヶ所もの掘削跡が崩壊した崖のような姿を露呈した鉱山跡は下部がトンネル状になり谷側に抜け出ている。硅石鉱山跡を通り抜けると快適な雑木の中に山道が続き反射板のある清水山542mに到着です。フェンス越に柏原の町が下方に拡がり丹波の森公苑背山の坊の奥-高見城山へ丘陵が延びる。東に三嶽・西岳と前に特異な三尾山の姿・丸い黒頭峰が頭を覗かせています。
鳳翔寺背山の岩座:天狗岩展望所

ゆっくり山名を同定していたい所だが午後からの雨の予想が外れそうになく清水山から「鳳翔寺へ」の道標に従って急坂を下り続けるとイルカ岩を見る。柏原・多田の明願寺への分岐を左手に見送って直ぐ博打岩(4~5人車座になれる平坦な岩場があるからか?)側を過ぎて亀岩(甲羅から顔を出す亀に似ている?)横を抜けると剣爾山416m。足下に水分公園を見下ろしスタート地点から歩いてきた二の山山からの コースが望まれます。更に下って”領家の頭” (分水界を見渡す露岩の展望所)の下で正面に岩場が現れると尾根の先端にある展望絶佳の天狗岩に着く。
鳳翔寺・ツガの巨木

鳳翔寺背山のいそべ神社の岩座でズバリ分水界展望所です。正面には西へ真っ直ぐ延びる中央分水界・高谷川から加古川へと母坪城跡の北を廻り込んでいきます。中程右に見える向山(城山)から五大山-五台山-穴の裏峠-烏帽子山へと続く分水界尾根で 右手前は黒井川で由良川へ西側は加古川となります。央左(南側)は柏原川で 当然加古川を経て瀬戸内海へ流れ出る。石戸山・高見城山白山弘浪山篠ヶ峰へと氷上盆地を取り囲む山々が見渡せる本日最後のビューポイント。
硅石山山頂の南西下方は硅石採掘跡

草花に造詣深いメンバも多く鳳翔寺西側の山門下付近や雑木の間に種々の花を見つけ 撮影モードに入っています。分水界展望所を後に林間の道を下り猪垣を抜け出た所が白雲山鳳翔寺(黄檗宗 PM15:05)です。境内西側山門と塀の側には氷上町指定天然記念物「鳳翔寺の大ツガ」(高さ約31m,目通幹廻り3m)がある。ツガとしては兵庫県内最大の巨木とされています。鳳翔寺は貞享元年(1684)創建なので、その時植えられたものとしても樹齢約320年を経ていることになります。


日本一低い谷中中央分水界

石生からJRや国道176号線で柏原に向うと直ぐ高谷川に架かる水分橋を渡ります。此処が日本列島の中央分水界で瀬戸内海へ注ぐ加古川・日本海へ流れ出る由良川に分かれる。分水界の大抵は高い山々の尾根にあり・氷上盆地の平地の中にあっては、そのことに気付く人など殆どいない?様。京都の戻り橋などと同様に此処「水分橋」も「水分れ」が
水別れ(取水口右手は日本海へ)

「身分れ」に通じるとして昔から嫁入りでの行列は、この橋を通らず遠回りされます。水分れ公園・いそ部神社から高谷川右岸(北側の車道)堤防上を通り、新町(行者山東端)まで約1250mの間(海抜100m前後)の平地で分水界を形造っており日本一低い分水界として知られています。(此処の標高は最も低い所は新町交差点で95.45m・水分れ橋で101.04m)よく例えられる話で水別れ資料館の模型にもあるが、もし氷が解け海面が100m上昇すると海峡となって日本列島は此処で二分される事になると…
高谷川は桜の名所

駐車場から水分れ公園へ続く高谷川沿い堤防が分水界となる加古川・由良川の源流で桜の名所ともなっています。いそ部神社への赤い橋を渡れば水分れ資料館・周辺には人工の水分れ滝の広場・四季の花園・多目的広場があり水と親しみながら自然とふれあうコミニュティの場が提供されている。車道から林道へと直進すればゲートを通って向山連山周回や硅石山~清水山への森林浴コースがある。トラロープの続く急登の楽しみが待ってますよ。



おおかみ橋と 藤の木橋

おおかみ橋
R176号線は柏原北交差点で南多田から柏原警察前-稲継交差点でR175号線に合流するバイパス道と直進してJR石生駅から春日町南西玄関口の歌道谷に至る・福知山線と並走する旧来のR176号に分かれます。旧来からにR176号線石生駅の南約150m程小さな橋とモニュメントのある「水分れ」交差点に着く。
高谷川と狼橋

柏原川~佐治川を経て加古川を瀬戸内へ流れ出る源流の高谷川に架かる「水分れ橋」は"身別れ"に通じ昔から婚礼の行列は此の「水分れ橋」を渡ることを避け直ぐ上流3~40m程に架かる狼橋へと迂回した。婚礼の際に近づかないとされる橋は 諸処に多く京都一条戻り橋の様に嫁が実家に戻って来ないように橋名から忌み嫌われるが渡辺綱に腕を切り落とされた鬼が綱の義母に姿を変え腕を取り戻した伝説や、世界大戦中には招集される兵や家族が無事な帰国を願ってこの橋を渡ったとも云われます。江戸時代:文化年間頃の「丹波志」に”此辺りに住んでいた狼を捕らえ、売ったお金で橋を架けた事から名付けられた”と伝えられる。狼が高値で取引されたとも思えず・狼を退治した事で橋の新設が 代官から許されたものと解します。狼橋の上流7-80m(水分れ公園駐車場)前の藤ノ木橋縁切り橋、下流の水分れ橋身別れ橋なので真ん中の狼橋は 「おおかん橋(おかん橋)」は神様が守ってくださる安全な大神橋だとも伝えられる。
藤ノ木橋の藤棚と向山連山

藤ノ木橋物語
昔、此の石負(いそう)の地に”玉の太夫”という地頭が住んでいた。一人娘の"玉姫"は玉のように美しく近在の若者達の憧れの的でした。そのうち何処からともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた凛々しい若者が玉姫のもとに通ってくるようになりました。玉の太夫は其の若者が何処から来るのか気になり突き止めようと 腰に赤い糸をつけて後を追っていくと藤ノ木橋を渡り・遠い山里の大きな池の深みに入っていく!!その古池の大蛇の化身だった。驚いた玉の太夫は石部神社の神様のお告げを受け藤ノ木橋の「藤ノ木」に願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていた。それからは二度と其の男が玉姫のもとに訪ねて来る事はなくなったということです。
「おおかみ橋」/「藤ノ木橋」の案内板より


明願寺:難波金兵衛(義継)の石仏   丹波市柏原町南多田2069

茶臼山城は明智光秀による黒井城攻めの陣城として知られるが其の西山裾の萬松寺には石の笛を作り日本一の石工と謳われた丹波佐吉の手になるとされる地蔵尊がある。春日町野村出身の伊助が柏原町大新屋に移って金兵衛を名乗り但馬にいた佐吉を養子として引きとり石工の育てます。
町家長屋門を残す旧家

其の後:初代難波金兵衛には実子義継(2代目金兵衛)が生まれます。其の作品を見てこよう。春日町黒井から氷上町石生へ谷中分水界「水分れ橋」を過ぎ柏原町南多田の明願寺へ。山麓道が判らず柏原中学校前から北への道を進む。グラウンド西北隅からは中庭に保存される昭和池(久原)古墳群8号墳が見える。明願寺は此の車道北詰めで L字状に東へ折れるコーナー部に四方を石垣・裏手から表へ三方は溝谷が囲み南正面には両サイドに覗き窓を備えた長屋門の建つ旧家がある。東山側に土塀を境に内側には庭園と茶室だろうか!!?数奇屋風の茅葺屋根を載せて趣のある一画もある。丹波では名園の幽石軒。現在使用されている一般民家なので庭を拝見するわけにはいかないが当家初代は京都御所での
明願寺(左隅に僅かに見える?石仏)

宮仕えの際・柏原藩織田家(何代の誰?・後期織田家5代信守とは思えず6代信古(のぶもと)の事か)とは懇意の仲!!柏原へ帰任の際、誘われ柏原に移り住み此の邸を建てられたと云う。初代の兄:児玉某氏は大路の松森(春日町)の出で第1次丹波黒井城攻めの天正3年以前より明智光秀に付いていたものか一帯を八上城主:波多野氏が領しており第二次丹波攻めの天正5年頃には 光秀方に降りていたものか?兄弟が本能寺の変に敵対した織田と明智に因縁有とは!!。此の旧家の西側石垣沿いに本田山明願寺(曹洞宗・旧氷上郡西国札所第十番)と墓所への参道が延びており上り詰めた先には高さ6m程の石垣の上に山門と鐘楼が建つ。白壁沿い西側に新しい石造観音立像が立ち其の並びに小さな石像が見える。此れが目指す「薬師如来坐像」で台座部分に 「柏原町難波金兵衛」の銘が刻まれた二代目金兵衛(義継)の作です。
難波金兵衛(義継)の薬師像

柔和な顔立ちで・おちょぼ口、小さく”可愛い”表現が合います。タラコ唇だったら…と 木食上人の微笑仏を想像してしまう!!。柏原町最北の高台に在って南に入船山(八幡神社)・柏原の町を見渡せる此処・南多田には徳川家とは婚姻関係に有る本多家が柏原藩織田家監視の 役目をもって柏原周辺の土地を領有したと思われ水野壱岐守や:多田・挙田・市辺等には旗本:本多淡路守が代官所を置いたところから領主を祀った位牌の家紋・寺紋も葵、山号の本田山も本多家に通じます。
(ふる里の寺(丹波新聞)・柏原伝「こころの半世紀」?(柏原文華社!!)を参照)


朝日城 石生西河原城 四ノ山砦 滝山砦 浄福寺砦 牛河内南城・牛河内北城

朝日城137m  氷上郡春日町 朝日城

黒井城の西南約2km・向山連山の北端が落込み黒井川を挟んで黒井城と呼応し南から北へ舌状に突き出した比高約40mの丘陵に朝日城があり西方約5kmの新郷には赤井氏本拠の後屋城があった。赤井氏は荻野氏と同族で天文年間(1532~55)荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主に乞われ後谷(後屋)城主赤井時家の次男才丸(後の荻野直正)を養子に迎えて、
少林禅寺 H15..3.9

城を継いだ荻野氏の本拠城朝日城
【朝日通れば下馬して通れ 朝日輝く殿どころ…】 当時:臼挽き唄にも歌われるほどに朝日集落には武者屋敷が山の手に厳しく建ち並んでいました。集落内の山手には疎林・竹藪の間に見る段差をもった方形の平坦地が点在しており石垣や石積みを覗かせる土塁状もある。古墓も点在するので後世に造成・開発等に手が入ったものかもしれないが朝日城西裾の山間から集落内へと拡がる平坦地の幾つかは当地土豪:荻野氏家臣団屋敷跡なのでしょうか?。
少林禅寺境内・荻野18人衆の慰霊の宝篋印塔 H15.4.26


土塁囲みの方形居館跡・朝日城城域の貴重な遺構が残されていた北半分は土取りされ新興住宅地「八幡台分譲地」として開発され消滅してしまったが「北近畿豊岡自動車道」の通る南側の 荒れた丘陵部に見る遺構等は其の頃(以降に記す)のものと思われる。荻野直政は天文23年(1554)に主家荻野秋清を刺殺し自ら城主となり悪右衛門を名のり本拠を朝日城から黒井城に移す。天正3年1575)には太田垣氏の守る竹田城をも占拠し山名氏を脅かす奥丹波の赤井・荻野氏に対し兼ねて山名氏より救援を要請されていた織田信長は此の天正3年(1575)より部将:明智光秀を派遣して天下布武による「丹波攻略」が始まります。
北端(Ⅲ郭部)の土塁曲輪【此れより北部は壊滅】

五輪塔について: 天正7年(1579)8月19日明け方から始まった戦いは明智軍6千に対し赤井軍1700余り城に残っていた軍勢は僅か城と運命を共にしょうと奮戦した荻野彦左衛門道朝(八上城・波多野七組頭の一人)・八左衛門勝家等18人も無念の一心を 再挙に託して朝日に隠棲していた。戦いの中に育ち戦いに明け暮れた彼等にとって太刀取らぬ事への侘しさ「…腕が泣くのう…」 「いかさま…殿の弔い合戦がいたしたいわい」「ご同様じゃ…しかし待てば海路の日和もあろうぞ」…やがて星移り年変わって 大阪城の戦いが風の便りに伝わってきた。
本丸部からⅡ郭 ・Ⅲ郭部の大小曲輪が段差を持って続く


遂に待望の日が来たと彼等は期せずして 朝日に集まってきた。「どうやら海路の日和が来たようじゃ」 「…おのおの方、一刻を争うぞ支度・支度」何時か来るこの日に備えた鎧櫃から甲冑を取り出し身ごしらえも厳重に散らばっている郎党を駆り集めた一党はその夜のうちに朝日を発って大阪の陣に向かい激しい乱戦の中に華々しい最後を遂げていった。不幸にも、この一行に発ち遅れたものは千載一隅の戦いに間に合わず、情やみがたく遂に高野山に登って剃髪したといわれます。討死した者の首は其々の家臣が馬につけて朝日へ持ち帰り丁寧に葬った。今も少林寺境内に残る宝篋印塔はこの首塚だといわれ、武運めでたく朝日へ帰りついた人々は此処に永住して同輩の冥福を祈って栄え、久しく"朝日輝く殿どころ"の名を歌われたといいます。
少林禅寺裏・主郭(Ⅰ郭)東斜面の畝状竪堀群】

黒井城落城後天正12年(1584)4年荻野直正の末弟赤井(芦田)時直は織田信長の後継者争いが起因となった「尾張小牧・長久手の戦い」に羽柴秀吉と対戦した織田信長の子:信雄(のぶかね)と徳川家康との戦いに家康の誘いに呼応して黒井城と余田城に挙兵した。やはり信長の”丹波攻め”による敗戦の弔い合戦として徳川方に加勢したものか?もっと深い意味があるのかも…!赤井氏一族が”丹波攻め”により滅亡した話は聞かない。これ等赤井・荻野両氏の其の後の動向は不詳が要因を複雑にしているよう。時直はこの功により文禄2年徳川家康から500石の家禄を受け御家人となっている。R175号線でバイパスの城山トンネルを抜け朝日の天満宮東の
朝日城北端(Ⅲ郭)から壊滅したⅣ~Ⅴ郭(宅地)越に 黒井城~千丈砦を望む

岸部卯吉商店(はきもの卸)角を南へと細い車道を進むと多賓山少林禅寺(臨済宗相国寺派本尊・釋迦牟尼佛)に行き着きます。豊岡自動車道が氷上町まで完成し少林禅寺背後:向山からの尾根北末端部の山裾をトンネルで抜け通じています。専用道(豊岡自動車道)側から舌状に延び出した低丘陵がR175沿い朝日集落に北末端部を落とす。丘陵東側には少林禅寺があり丘陵末端部をとり囲む様に周辺には荻野(赤井)18人衆とよばれた一族の家臣団屋敷跡が残り、黒井城を北東約2kmに望む比高3-40mの尾根上には荻野氏の居城:朝日城があった。
地神さんを祀る数段の平坦地は 武家屋敷群跡か?

春日・氷上間の工事も完了後に再訪したが益々城域は荒れ、藪や倒木によって目視でも曲輪・土塁・堀切がなんとか確認できる程度。少林禅寺背後の畝状竪堀群と竪土塁、尾根を掘り切った南端部の最高所には物見台(矢倉台)があり、北側へ広いⅠ郭(主郭部)と2m程の段差で北端部に土塁の残る?Ⅲ郭に下りる。しかし北側の城域は此処までで土取りで削り取られた急斜面の下に拡がる平坦地は新興住宅地。朝日城で最も特異な縄張りが残るⅣ郭~Ⅴ郭部を 確認したかったが!。夢と消えた荻野氏家臣団の屋敷や城郭、兵庫丹波の城には例の少ない堀切と数本の竪堀を組み合わせたフオーク形竪堀があった。さらには明智方により黒井城向城としても改修して使用されたと思える食い違い虎口や黒井城を望む東北斜面輪郭状に幾重にも築かれた小曲輪群には茶臼山城と共に 明智光秀の黒井城攻略の陣城ともなった織豊系の特徴が見られたという。朝日集落から新興住宅地を眺めると小祠が建ち鳥居が見える。
深い溝状の谷川側にコの字形土塁?囲みは居館跡?

この祠から宅地の並ぶ上部・削られた斜面の延長上に今となっては縄張り図を見ながら空想するだけで失われた貴重な歴史遺産・とりわけ荻野・赤井氏にとって本拠城、保存の為の回避や其れも無理なら城跡顕彰碑に朝日城の城史を留める事も考えられるのですが…?。土取りと云えば火山城というのが此の朝日城と先述の茶臼山城の間にあり同様に春日インターから豊岡に向う自動車道路の側にあり数基の古墳群が点在する尾根上方にあり其の名さえ知らなかったが此の工事により消滅したようで?完成した自動車道を直ぐ下方に望んで低丘陵の道路側に削られた山肌と荒涼とした平担地を見せている。詳細未詳だが山側に浅い堀切一本のみ、要害の地でも規模も極少・中世以前の城?ならそれも稀有な丹波では貴重な遺構となるのだが…(^^ゞ

朝日城西山裾に方形台地が在る:石積みと石組みの井戸跡は居館跡か?


破壊・消滅した遺構を想いながら集落内を抜けR175号線に出た西方・城山トンネル上方に台形の丘陵地が見える。其の向山城も公園として広い平坦地として整地されてしまった。珍しく城跡の案内板まで有るのに往時の低い段差で区画されていたはずの曲輪等城跡を感じさせる遺構はない。ただ黒井盆地と黒井城砦群を望み石生方面に連絡する要衝にあって 此処も名の示す黒井城の向城となったのでしょう。城域北末端部の堀切・広い曲輪部や空掘等は開発で消失したものか?急斜面となり下方に駐車空地や宅地が見える。
城域南の堀切上部は主郭の櫓台

東の少林禅寺付近や西の墓地や中池(貯水池)となっている付近の平坦地には一族の家臣団の屋敷が建ち並んでいた事でしょう。これ等屋敷跡からは石垣や井戸跡等・中世土豪の集団住居の貴重な遺構が残っている。少林寺は建武年間(1334-36)江州(彦根)茂賀山城主・小林渡之助宗政がその遠祖木曾義仲父子三代の菩提を弔う為、後醍醐天皇の勅許により創建され元和元年(1615)月山海和尚により再建・中興開山として現在に至るが文化5年(1808)にも大改修されている。主郭部から続く連郭式曲輪を連らね畝状空掘や西方へ竪堀を延ばす家臣屋敷等が建ち並んでいたと思われる丹波では珍しい群郭式遺構の山城だが、此れ等の核心部遺構は但馬へ抜ける高速道路 (和田山豊岡自動車道)工事の
東の少林禅寺側への竪堀

土取りや宅地造成による開発事業によるものか?其の為広範囲に城域の尾根部半分は面影もなく 切崩され壊滅状態です。国史跡黒井城の城主関連からも朝日城の遺構は保存されるだろうと期待していたが…。朝日集落内には土塁と堀を廻らす居館跡が2-3残っていたようだが土塁?方形の曲輪らしい平坦地以外よくは分からなかった。
(由緒を尋ねて 丹波新聞社 昭和31年発行/現地:少林禅寺の沿革案内板等 参照)

石生西河原城  Ca300m  氷上町石生北野!!・西ヶ原

水分れ公園いそ部神社前の林道を直進すると向山連山ハイキングコースが硅石山から清水山や向山へ続く。 コース途中分水界展望所からは眼下に拡がる石生の町並みや広々と見渡せる平野の中を緩やかな流れを見せる加古川・柏原川・黒井川の水が日本海や瀬戸内海へ流れ出る位置にあるが長閑な展望です。
段曲輪群の中央を割いて延びるの特異な遺構は登山道整備によるものか?

此の展望所に今まで石生城としていた石生西河原城がある。城名や位置の概要だけでも判ればと旧「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書:氷上郡教育委員会」の資料を探したが氷上町編だけが報告作成されていない。築城の城主・城名等一切不明。存在は古くから知られている様で東屋休憩所・水分れ水汲み場に古城跡説明板が立つ。
石生西河原城:分水界展望所から H22.02.06

兵庫県遺跡分布図には備考欄等空白のままで石生西河原城の名称があり、向山西山麓に拡がる緩斜な谷が西河原!?。登山道の右手に深く真っ直ぐ突き上げる溝が分水界展望所のある曲輪の直下数mまで延びる。木材の切出し用とも思えず自然地形だが見事な竪堀にみえる。此の竪堀が切れた数m上部が分水界展望所となっている曲輪の一段下の腰曲輪西角にあたる。展望所の東角に幅広の土塁の残欠?を思わせる 高盛があるが山林作業用ワイヤー・トタン板が残り曲輪内には小屋掛けがあった。展望台も広場として大きく改変され元の遺構は不明。続く尾根上の登山道には切岸を落とす3-4段の
分水界展望所・狭いが緩斜な尾根上に続く段曲輪

曲輪に続く小曲輪が10数段続きその先に主郭部と思える切岸はないが2段程の曲輪と端の狭い尾根筋の先に土塁と尾根を遮断する二重堀切を見る。堀切の先土塁道の様に細長い登山道の東面には城域で一番広い!?平坦地の下段にも一段曲輪を備えている。此処より先の尾根筋は細い尾根・ロープ続きの急斜面が硅石山へと高度を上げながら続くが尾根途中の低位置・幅狭い尾根上に極小の段曲輪を連ね城域を二重堀切で遮断した城域最大規模の曲輪がある!?。
分水界展望所・西北端曲輪の切岸

地形を上手く使いきっていない?築城技術を持たない土豪クラスか?緊急・応急対応の陣城とも推察。所領地を望めず!?且つ袋小路の様な目立たない位置にあり領民らの「逃げの城」?。天正3年明智の第一次黒井城攻めでは波多野氏等と西から侵攻した際は柏原八幡に陣して石負砦に妻木主計助範資がいた様で兵の駐屯地となったか?四ノ山砦は見張・監視に利用されたのかも?。入り込んだ地形は高見城等の赤井氏出撃に備えた防備か?。天正6-7年黒井攻めにも西口の監視警護を固め至近距離にある駐屯地として使用されたか?。
二重堀切手前の段曲輪群

尾根上の曲輪は狭く籠城には向かない事から駐屯・出撃の為の待機所?とも推察 。向山の尾根を隔てた北の山裾には後の黒井城主:荻野直政(才丸)が初陣の後も幾度か侵攻してきた内藤氏を追返した野山砦日城がある。皇室領だった石負荘は承久の乱(1221)で幕府に没収され、後に返され室町時代初期まで皇室領だったらしいが応永31年(1424)知行していた
土塁上から二重堀切:尾根続きに大土塁曲輪がある

中御門中納言宗宣の死去により返却された後は不明だが在地国人に横領されたものか!?。元亀2年(1571)の古文書に柏原八幡宮護摩堂への寄進状があり赤井氏先祖とされる芦田(赤井)源太兵衛直家が 武運長久・子孫繁栄を願って自分の領地・石負荘塚本の田を寄進する】とあり芦田氏が領有しており芦田氏一族の山城であったと推測できる。柏原八幡より古い由緒ある延喜式内社いそ部神社に何か手掛かりが残っているかも知れない。
二重堀切外(尾根続き)に城域最大の大土塁曲輪がある


天正期黒井城主・荻野直政に与した芦田氏ですが、それ以前は香良城や沼城の芦田氏一族の砦だったとも考えられます。芦田直家については赤井氏・荻野氏の先祖とされること等が良く解からないので…芦田城(吼子尾城)の歴史を追ってゆけば手掛かりが掴めるのかも知れないが…?土豪としては稲次(稲継)氏も候補に入るのかも!?…
(現地水分れ公園説明板・丹波の荘園 細見末雄著 を参照)

四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称> 四ノ山 Ca511m  氷上町石生

4月中頃からは日本一低い谷中分水界のある「水分れ公園」を起点に向山連山への登山者が増える。登山コース途中・各所に有る岩の展望台からの 眺望も楽しみの一つだが此の時期のお目当ては尾根上に見るヒカゲツツジの群生。
四ノ山砦:西端の展望曲輪?


ゴールデンウイークを過ぎてから見頃となる石楠花と同種のヒカゲツツジが,淡い黄緑色の花を咲かせ、コバノミツバツツジの淡いピンクの花と相俟って厳しい登行の疲れを癒してくれる。三角点峰の向山への登りではヒカゲツツジのトンネルも待っている。瀬戸内海と日本海への谷中分水界となる高谷川沿いに、いそ部神社・水分れ公園滝の広場を右に林道を直進すると西ヶ原の硅石山への分岐に着く。此処は向山連山を半欠け茶碗に例えれば其の中央底付近が此処か。
四ノ山山頂・西側の切岸!?

右手(東)前方の丘陵尾根筋へと谷筋沿いに通じる 登山コースの分水界展望所が石生西河原城で尾根続きに二重堀切を持つが硅石山へはさらに嶮しい登りが待っています。向山連山縦走には幾つかのコースがあるが四ノ山砦(天ヶ嶽砦)へは此の半欠け茶碗の縁沿いに北方の観音堂の取付き点から二ノ山(山頂に滝山古墳があった)・三ノ山(山頂部は小広い平坦地形で少し西方へ下った絶壁端の岩頭は黒井盆地の西南入口を押さえる重要ポイント!?。
四ノ山砦:主郭の北正面に黒井城を望む

正面直近には赤井氏か霧山城を控えての西波多野氏の居館か?、黒井攻めの際・秀吉の陣城となったとも云われる?横田城と荻野直正(幼名:才丸の時)初陣の城・野山城を望んで呼応・対峙する位置にある見張台か?)。三ノ山からは細い尾根筋でしかも急斜面(フィックス・ローブが有る)の登り下りで四ノ山へと辿り着く。春町側の歌道(うとう)谷南奥に聳え立つ四ノ山は天ヶ嶽とよび麓に祀られる船城神社の御神体でもある神奈備の山。展望もない平凡な尾根筋のうえ、此のピークから先・引きも切らずに・咲き誇るヒカゲツツジの群生に目を奪われ、広くもない尾根筋に小さな段差をもつ曲輪
四ノ山東鞍部の浅い堀切

・腰曲輪を城砦遺構と気付く人は殆どいないよう?。先程の半欠け茶碗の縁沿い説明が途中なので続けると 四ノ山から向山569mを経て蛙子峰562mへと続き、半欠け茶碗の縁から外れ譲葉山へとむかう。譲葉山も二箇所の城遺構があり織豊系に見る土塁囲み遺構から明智軍の「丹波攻略」黒井城・三尾城を意識した陣城とみる。此処を下った柏原八幡山城金山城ともに明智本陣です。
四ノ山砦:主郭西側曲輪の南下に腰曲輪!?

蛙子峰に戻って進む茶碗 の縁を硅石山に向かう。此処からロープ便りの急斜面を下っていくと石生西河原城。尾根続きを清水山に向かい清水山の南尾根は明智の本陣:柏原八幡城へ通じ四ノ山砦とは間を遮るものなく呼応出来る位置にあり黒井城を直接監視出来る為、最も早く正確な黒井城情報が発信でき清水山経由で本陣や譲葉山城への知らせ(通信・連絡)の立地にあって四ノ山砦を明智方の向城・見張所になったとも考えてみる。
四ノ山山頂の主郭

陣城に堀切を設ける例は余りなく堀切より切岸加工される事が多い事から黒井城砦群の一つが殆ど改未改修のまま明智勢の向城に利用されたものか…。清水山から剣爾山416mを経て麓の鳳翔寺へと茶碗縁を降りてきます。ところで城域尾根東端・三段程の小曲輪を下った鞍部にみる・埋もれかけた浅い堀切をどう見るか…!!。荘園監視には遠過ぎる・高過ぎる・で戦国期の赤井(荻野)勢力下の城砦と考えれば
黒井城攻めの石負砦は此処に在ったか?

荻野(赤井)氏の朝日城方面からは不動滝経由で丹波野林道から直接此処:四ノ山と深坂北峰521m間の中間点”松の台展望所”付近へ登って来る登山コースもあるが朝日城も明智軍の向城として改修されているよう、四ノ山砦が朝日城改修後の遺構だとすれば…?。T氏・M氏の現地案内時にでも意見・助言・感想を期待したい!!。

滝山砦  xxx 240m  向山連山二の山(滝山298mからの西尾根)氷上町石生字滝山

JR石生駅前:高谷川に架かる[水分れ橋]交差点傍には説明板や海に流れ出る最初の一滴:濫觴を表現したモニュメント‼?のある小公園。橋にも水を表わすカラー表示がなければ、小さな川(高谷川)に分水界と気付く人は殆どいない。R176号線は柏原から多田バイパス利用の稲継交差点経由がおおいのだが
二の山(滝山)山頂

JR石生駅前を通るR176号を春日町黒井に向かう。城山トンネルを抜け此の地点こそ氷上町側から春日町黒井盆地に入る南玄関口で横田城から北方の霧山城へ延びる丘陵へと向山連山が氷上町・春日町境の幅300m程と極幅狭い場所にJR福知山線・水分れを発し日本海側最初の黒井川へ流れ出る所。護る黒井城側・攻める明智光秀側にとっても攻守共に最重要な要衝なだけに激戦が展開された筈!!。
滝山砦:第三曲輪…

水分れ公園内の延喜式内社いそ部神社は和銅3年(710)創建を伝え:主祭神に奇日方命(クシヒカタノミコト)を祀り後:八幡宮を勧請されている。社伝によると永禄年間(1558‐69)再建・宝暦2年(1752)に改修されているが柏原八幡宮より歴史が古いと云う。石負荘は勅使田を持つ皇室領だったが鎌倉幕府に没収・後に返還され室町初期頃まで皇室領だった様だが戦乱期:在地国人に横領されたよう!で 元亀2年(1571)の古文書には芦田?(赤井)源太兵衛直家が武運 長久…を祈願し
滝山砦:第三から第二曲輪へ

自領:石負荘塚本の田を寄進した】と云う。いそ部神社前の林道をとって直進する向山連山ハイキングコース中には石生西河原城があり芦田氏の領有地・芦田氏一族の山城であったと推測されているよう?だが香良合戦(弘治元年 1555)に足立氏・芦田氏の多くは赤井・荻野氏傘下に与している。氷上町北部から青垣町が本願地の足立・芦田氏所領地は香良合戦に敗戦!?・氷上郡内を総括する黒井城(赤井・荻野氏)幕下にあって、芦田氏領内とも思えない所領地?が安堵されていたかは不詳。
第二曲輪から土橋付き空堀状を第一曲輪(主郭!?)に…

三木の別所重宗の子:別所豊後守吉治が家督を継ぎ(天正19年1591…慶長20年1615には大坂の陣の戦功に綾部等に5000石加増された)氷上由良荘の領主として入封しており、神仏への崇敬から所領の寄進等善政を施し「軍神」を奉る(八幡神社)いそ部神社にも燈明田(一石)を寄進しており石生西河原城が芦田氏の城であったか?・縄張りの特異性からは黒井盆地南入口に近く、天正3年明智の一次黒井城攻めに柏原八幡城からは少し遠いが
主曲輪外の虎口受曲輪?から竪土塁線沿いの片堀切!?

妻木主計助範資の兵駐屯地・出陣準備をしていた「石負砦」とも思われ、四ノ山砦も見張・監視に利用されたのかも?向山連山二の山(滝山 4等298m)から登山道を外れて西尾根に下る。細長い流れ尾の平坦地形先端部240mに滝山砦(仮称)がある。石生西河原城を領内監視の国人領主の城とするには村から外れ・しかも周囲を山に囲まれた擂鉢状の中腹部では眺望も余り効かず城域最下部の分水界展望台からも高谷川沿いに横田城・母坪城を山陰に望む程度!!だが滝山砦(仮称)からは(水分れ公園)西面の死角をカバーし、城趾への通行監視は勿論領内?のJR石生駅周辺から
主郭南端の:竪土塁線

R175・R176号が春日町側へ抜ける城山トンネル・北近畿自動車道が抜ける大崎横田トンネルが春日町歌道谷(うとうだに)トンネル間を黒井川が流れ東西300m程の極幅狭い春日盆地への山間の出入り口をもカバーし監視できる位置にある。三ノ山470m西北尾根の見張所?ともに黒井城側の監視所としては絶妙の地。四ノ山城は朝日城背山にあり黒井城を北東正面に・南には清水山を通して南山麓には柏原八幡城がある。石生西河原城の西手前R175の南多田にも明智方駐屯基地のような浄福寺砦(仮称)がある。横田城を明智方陣城とみるのはも少し後…?かも。
向山登山口は右端の観音堂から:二の山(滝山)~滝山砦への稜線

妻木主計助範資の石負砦とは石生西河原城のことではないかと推察する。水分れ公園第一駐車場から向山連山登山口の観音堂取付点に向かう正面丘陵上に二ノ山を見て其の西方へ流れ出る尾根上の長い平坦地形(第三曲輪)の藪地を抜けると第二曲輪があり、土橋付き空堀を入る第一曲輪(主郭!?)の西端には切岸高低差を高くする竪土塁と土塁線沿いに片堀切を落とす。第一曲輪切岸下の小曲輪は虎口受け曲輪か?、氷上町北野の熊野神社付近の谷筋からが城趾への近道かも…?

浄福寺砦<仮称>xx山 Ca130m  氷上町石生南多田

谷中分水界のある「水分れ公園」のいそ部神社から高谷川沿い公園駐車場(藤ノ木橋)からや、いそ部神社西隣・千代田池側を抜けてR176号線へ出る車道は白雲山鳳翔寺(黄檗宗)門前を通る。車道からも望める:いそべ神社の岩座(天狗岩)は展望絶佳の中央分水界展望所で剣爾山416m~清水山542m-硅石山から向山連山へと周回できる。
水分れ公園駐車場前の高谷川から浄福寺砦(台形尾根先)

登山ルートの鳳翔寺西南約150m先には剣爾山へ向う登山ルートの尾根 筋とは別に西南への町界尾根沿いから西へ・更に山麓から比高15~20mの平坦尾根が北に100~150mばかり突き出して集落内に先端部を落とす。
浄福寺砦・北郭南側2段目の腰曲輪?(自然石の切岸!!)

柏原北交差点を北へ直進・JR福知山線と並走する旧来のR176号が清水山から柏原八幡神社(入船山)や明願寺へ延び出す丘陵山裾沿いに「水分れ橋-JR石生駅駅前」を抜けR175号に合流して春日町歌道谷・石才に出る黒井盆地の西南部玄関口。東に向山連山・西には霧山(霧山城が在ったとされ、篠山八上城主:東の波多野氏に対し西波多野の波多野宗長・宗貞父子が居たと伝わる。
浄福寺砦北郭:主曲輪の段差下2段目の腰曲輪

天文年中(1532‐55)細川氏の内乱に晴国に付いた波多野氏が晴元側に付いた赤井氏を攻め穂壷城等を落として波多野氏が一時期・氷上郡を領した際に一族を置いたものか?。赤井氏が氷上に復帰した元亀・天正 頃の動向は不詳だが天正7年:氷上城の波多野宗貞は久下重治の玉巻城に拠り、光秀の救援に播磨から侵攻した羽柴秀長軍との合戦に討死している)から野山(野山城が在り、
浄福寺砦北郭主曲輪の北端三箇所に大き目の自然石が在る!?

赤井直正(幼名:才丸)が八木城の内藤氏を追い返して初手柄を立てた砦)を経て丘陵末端付近にガンジュウジ城(波多野宗長の居館とも…向山城の名からは黒井城を正面に望む秀吉勢の陣城とも?)があり、現在直下を北近畿豊岡自動車道(R483)や稲継交差点からR175号線が トンネルで抜ける。丘陵南端山麓を高谷川が真西に流れ、約1500mで柏原川と合流する。此処に穂壷城があり、佐治川(現:加古川)とも合流する。 明智光秀による黒井城攻め第一回目の攻撃が行われた天正3年(1575)、鐘ヶ坂の金山城に明智光忠400を留め、

浄福寺砦・南郭北端曲輪と主曲輪の段差(切岸1.5m程)

柏原八幡神社を本陣に明智光秀の本隊3500・石負砦(石生西河原城かは不詳?)に妻木主計助範賢500・竹田方面には波多野秀治(八上城主)・栗柄方面に 義弟の二階堂秀香・牛河内方面には当然:霧山城(氷上城)の波多野宗長・宗貞父子等により総攻撃が開始されます。妻木範賢の石負砦は・広い平野・盆地を横切ってくるとも思えず黒井城西南の咽喉元に迫る歌道谷へR176号線沿いの侵攻と思えるが?。柏原八幡本陣に近い道筋の低丘陵西北末端部浄福寺砦は比高も僅か(15~20m程)で比較的緩斜面の尾根上に曲輪を並べるが
浄福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪端の切岸2m程下に帯曲輪<東側>

堀切・竪堀・土塁も無く曲輪の切岸も低く防備性は劣る。曲輪と思える数段の平坦地や自然地形の空掘・片堀切・竪堀らしいものはあるが山城遺構としては判然としない…?防御性は劣る。旧芦田氏の城だったと思われる石生西河原城の前衛で石生領内監視の砦か?。山麓に荻野姓民家が目立つので同族の芦田氏や足立氏を制し氷上郡・天田郡・但馬へも 勢力を拡大していった赤井・荻野一族の城砦として存続していたものか?。
浄福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪端の切岸は1.5~2m程度だが 明確<西側>

明智光秀の「黒井城攻め」一回目(天正3年9月!!)の侵攻から総攻撃まで1週間ばかり …石負砦の妻木範賢は西河原城を主基地として四ノ山砦を黒井本拠城の監視・浄福寺砦を将兵の駐屯所としたのでは!!?…と思えてきた。浄福寺砦は鳳翔寺の西南、連浄山浄福寺北方を境する比高15~20mの低丘陵にあって規模は:浄福寺墓地から鳳翔寺へ越える丘陵鞍部から北へ約200m程の平坦な尾根上に曲輪をおく。中程に低鞍部があり曲輪群を此処で北郭部と南郭部に分けてみる。中央鞍部の東北は緩斜面で下方に新池や古墓地がある。城域丘陵の北端から西側裾を狭い車道が浄福寺墓地へ通じる。
浄福寺砦南郭南側の堀切状鞍部からは清水山へ急登が続く(右手:浄福寺へ)

西面の急斜面は道路拡張工事によるものと思われるが6-10m程の断崖状。北郭(8mX12m)の主曲輪は北側曲輪線沿いの三箇所に 残石があるが城施設の遺構かは不明?。尾根沿い南側に段差1~1.5m程で小曲輪(5X8m程)と帯曲輪状を見るが主曲輪・小曲輪共に自然石を切岸に利用している様。中央鞍部東は緩斜面で新池や鳳翔寺墓地へ西面は竹林だが急斜面を民家・車道側に落とすが堀切はない。北郭は全体に円状だが・鞍部から高低差6~7m・斜面上の南郭部は幅7m~10m程・長さ40m程の尾根上に2~3段の曲輪を、
浄福寺砦南郭主曲輪東西帯曲輪(西の上り土塁虎口?)

左右に帯曲輪、西面には其の下方にも数箇所に小曲輪もある。南郭の左右(東西)切岸は1.5m程と高くはないが明確。主曲輪の北端に土塁か土壇跡らしい低い盛上がりがあるが流れ・崩れてか!?其の痕跡のみ?。猪垣(鹿猪除けフエンス)が廻る南端部で 堀切状の鞍部となり東北へは谷沿いに鳳翔寺・直進尾根は清水山へ、西南下へは平坦地形を幾つか見て浄福寺墓地へ降り立つ。尾根上の平坦地形以外に堀切・竪堀・空掘・土塁等、山城の特徴となる遺構を見ないだけに城砦との断定に疑問はのこるが、
福寺砦南郭主曲輪の東西曲輪端の切岸2m程下に帯曲輪<東側>

柏原から石生~春日町へと、山際沿いに進む街道筋にあって特異な縄張り(狭い城域の有効性や防御性は曖昧で無頓着!!?)の西河原城 ・余りにも高所にあり過ぎる四ノ山砦・反対に 低すぎるが街道筋の山際沿いで黒井盆地西南の玄関口に向う浄福寺砦と云い、先述の天正3年”黒井城攻め”妻木範賢の石負砦を照し合わせてみると陣城・向城・兵を置いた駐屯所として使用されたものと思えるが…?!。


牛河内南城と北城
 xx山 Ca130m  氷上町石生南多田

由良坂(牛河内坂):荻野直正が天文23年:黒井城主の叔父:荻野秋清を刺殺し「悪右衛門」を名乗り黒井城主となった翌年弘治元年(1555)に香良合戦が勃発。芦田目留(光遠)・足立権太兵衛(基則)からの要請を受け「細川氏綱・三好長慶と
新才城(正面)と三日月山ーヨコガワ峰ー千丈寺砦(黒井城は僅かに画面外)

内藤宗勝(松永長頼)」が支援。一方「足利義輝・細川晴元」の支援を受けた赤井時家・荻野直正ら赤井一族による代理戦争とされる…?が三好・内藤勢にとって丹波の赤井氏荻野氏を討つ千載一遇の絶好機だったが弘治元年・三好方に軍勢を差し向ける余裕があったか?。春日町から足立氏・芦田氏連合が陣する氷上町香良側へは
分水界尾根:亀の座(五郎兵衛)からの枝尾根先端:新才城(牛河内坂入口)

伝承?・通説?では荻野・赤井氏勢に助力したとされる西波多野氏!?の波多野宗高の霧山城があり、其の東山裾の天王坂を越えれば氷上町南由良や桟敷に下る。”桟敷”の北方約1.5kmが香良合戦の主戦場となった絹山・伊佐口だが「陣道ヶ原」香良集落入口・加和良神社南前付近:「桟敷」と云い
長王城からの主尾根から:東に牛河内南城主郭と堀切状!

「加和良(川原)神社」の名が示す一帯は湿地・沼地だった。また天王坂は元禄14年(1701)4月:大石良雄の妻りくが子を連れ従者:寺坂吉右ヱ門を伴い京都山科より鎌谷を経て多紀郡に入り鼓峠・栗柄峠を春日町栢野より天王坂を越え佐治宿に向かっているが栗柄峠も明智光秀の黒井城合戦頃は未だ行止りの閉鎖道。香良合戦時の春日町から氷上町側への侵攻は天王坂ではなく由良坂(牛河内坂)を使用。
牛河内北城:主郭南東端小曲輪群上部から千丈寺砦と黒井城を望む

此の合戦では辛勝したが自らも負傷し絹山地区から勝坂を経て由良坂(牛河内坂)を黒井領内に戻るが、瀕死の重傷を負った直正だけに新才地区の長見城(長王城)が近場とはいえ南方正面の朝日城や東方の山田城や本拠:黒井城・山麓の屋敷に入るより緊急待避で長見城に担ぎ込まれた…と推察します?。天正7年(1579)明智光秀の黒井合戦時には前年荻野直正が病死:但馬竹田城出兵中の
長見城:稲荷古墳へ抜ける?間道取付虎口曲輪の切岸

赤井幸家が急遽黒井城に戻る際にも氷上町側からは由良坂(春日町側の牛河内坂)を利用している。由良坂には牛河内砦があり城史不詳の砦だが峠通行監視の関所砦か?・尾根続き東丘陵側は黒井城遠見の付城だったのかも?。羽柴秀長軍が遠阪峠から侵攻・芦田・足立氏本拠の小室城山垣城も落城していったが…香良合戦後に赤井・荻野氏傘下に付くのを嫌った足立氏一族の
牛河内最奥の浄光寺:左:由良坂・右の谷詰め牛河内北城・正面奥に三日月山

足立弥三郎基助は明智方に降りていた。嫡男基依は足立氏本拠の山垣城にいたものか!?落城により牛河内に逃れ此処に隠棲したとも。霧山城も・2代目は兎も角:初代宗高自身は皇室が衰え御大典の式も挙げられない正親町天皇即位に際し:窮状を知った宗高が中国の毛利元就の誘いを受けて八上城
牛河内南城:主郭北の曲輪段

波多野秀治や北陸の朝倉義景等と資金を集め永禄3年1月無事に式典を終え…この忠勤により宗高と秀治は正四位・侍従の位と桐の御紋・桐の旗を賜り(霧山城名の所縁か?)面目を施こしたという戦時の国威掲揚の為に創作された人物の様!(詳細:霧山城)。【黒井城合戦:黒井城西・黒井川北の支城群と光秀の付城群…】黒井城の支城として牛河内坂の西南丘陵先端部には
牛河内南城:主郭北の曲輪段と堀切状・西面の切岸

長見城があり、牛河内坂の東側低丘陵尾根を隔て長見城と黒井城の中程に山田城があり赤井幸家が黒井城代として光秀に対戦していた頃は、山田城の山田庄八郎が長見城・牛河内城の三砦を預る守将だったか?。黒井城を望める三城砦の何れもが落城後は光秀軍の付城に転用されたものと思われる。牛河内集落最奥部に浄光寺が在る。
牛河内北城主郭西南尾根側の切岸

集落へ向かう入口が春日町新才に新才城、天王坂口の舟城神社背後には舟城神社砦(何れも明智方の付城か?)がある。黒井川沿いの東正面に千丈寺砦と黒井城舟城神社砦は約3.5km・新才城は約2.5kmを望む光秀軍の向城で比高40m程の東斜面に6段ほど帯曲輪を廻す黒井戦最期の築造か?。新才城主郭(4等三角点134m)からの稜線尾根筋を辿る途中鞍部で愛宕社からの稜線上には監視曲輪跡?らしい平場を
牛河内北城:主郭北の尾根続きに一条の堀切(急斜だが一方は短い)

数ヶ所見掛ける!?。長見集落真北の稜上に長い平坦地が続き、北面に二段程の曲輪?からは牛河内坂集落中央部を眼下に見る。長見城からの枝尾根から主尾根筋に着く鞍部の直ぐ東側に切岸を立てる牛河内南城(仮称)240mがある。手前南側に長い竪堀?状が落ち其の東先に土橋付堀切?、尾根幅3mと広いので左右に落ちる浅い竪堀か?。北に3段曲輪付き単郭の主曲輪。北東斜面の曲輪からも牛河内集落を眺望できるので由良坂を越え
牛河内北城:主郭北・西の切岸

牛河内坂を春日町に入る通行監視所か?。浄光寺前の牛河内坂を挟む北東の尾根筋には牛河内北城(仮称)390mがある。位置的にも由良坂・牛河内坂の通行監視所と考えたが由良坂往来の監視は不向き。浄光寺側尾根(西面)の主郭切岸・北尾根筋に片堀切(西に短いが掘込みあり堀切か?)、東斜面には畝状4本ばかりの竪堀・主曲輪から南東へ延び出す尾根筋の数段の小曲輪群が千丈寺砦・黒井城側に並ぶ。小曲輪群から東の谷に下り春日町山田へ、
新才城ー牛河内南城の尾根続きを亀の座(五郎兵衛・長見三角点)へ

また尾根筋南下方へは長く広い平坦地形の緩衝帯から牛河内坂を新才分岐付近へ降りるか!?。新才城とともに春日町山田や古河へ討って出る将兵の駐屯地か?。長見城から牛河内南城(仮称)に寄り、西への稜線を辿れば霧山の裾:天王坂から亀の座(4等3角点:長見318m・五郎兵衛の名称が気になるが…)から由良坂を五大山・愛宕山・鷹取山・五台山に至り香良合戦場も香良・伊佐口へと、日本一低い「谷中分水界」を縫って分水界の径ルート内「五台の径」が通じる。

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