山中岩大師〜ナースバシ〜岩ヶ谷・味間北城/火ともし山(平井山城)〜御釈迦山
篠山市 (五万図=篠山)
T山中岩大師〜ナースバシ〜岩ヶ谷〜味間北城・味間南城 H18年04月08日
U 西古佐〜火ともし山(平井山城)〜三釈迦山 H15年07月20日
近畿の山城 平井山城(小屋床・西古佐城) 味間北城味間南城
味間の里から岩ヶ谷(中央 )〜ナースバシへの山並みを望む

丹波の名を冠した丹波栗・丹波黒(大豆)・丹波大納言(小豆)をはじめ・名を記さなくともブランドの猪肉・松茸等、丹波特産品のなかでも大化年間(645〜650)より伝わり其の魁となった 丹波茶が静岡茶・宇治茶の名に霞んで知名度を失っているようです。しかし品種改良が進められ丹波霧の里で栽培される 三田の母子(もうし )・味間の里に代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素は大きいと思える。県下の主産地として良質の丹波の茶所は名刹大国寺と共に兵庫県の観光百選に指定されています。
阿弥陀堂と右手に味間北城・鞍部に堀切がある

住吉川に沿った山間の味間谷は其の東口付近には八上城の西を守備する城砦が、 東北には桂ヶ谷等の古墳群丹波並木道中央公園(平成19年開園)が有る味間谷北側の小さな山域で、判り難い案内ですが丹波の里山・歴史ハイキングのポイントとして参考にしてください。



T 山中岩大師〜ナースバシ(味間山)〜岩ヶ谷〜味間北城 H16.04.08

JR福知山線沿いに篠山市へ向う県道77号線が川代渓谷に入る手前の”川代公園”入口看板を見て右折・踏切を渡ると丹波竜発見・発掘調査現場の見学駐車場が30m程先に有り、阿草集落内の鳥居西側山手に見えるのが阿草地区の守り本尊 :木ノ中地蔵を祀る地蔵堂。難産・苦痛・難病を救うと信仰をあつめ、秘仏として25年に一度開帳されています。今回は平成16年(2004)5月9日 ・昼過ぎ迄殆ど雨の中を850年祭が行なわれたが午後から出掛けたので既に法要等終わり、紅白の幕だけが 祭りのあった事を伝えているが次回25年も先ならもう見る機会は無さそうです。
熊野大権現の鳥居

奈良時代の僧・行基菩薩の作と伝えられる「?羅佗山(はんらだせん)地蔵尊」は巨木から彫り出された一本三体の地蔵尊で、 中央の像は此処丹波阿草に有る木の中地蔵尊、他の二体は但州(兵庫県)城崎町の木上(きがみ)の地蔵尊・江州(滋賀県)木之本町に木下(きもと)の地蔵尊で「日本3体」の地蔵尊とされています。阿草川沿い道のカーブする地点に 一際目立つ 木造の大鳥居の扁額には「正一位熊野三所大権現 」の社号が掲げてある。旧扁額は桃山時代当初:永禄2年(1559)大和守寄進とあり町指定 (昭和54.3.13)文化財となっています。 大和守については不明ですが土居の内・土居の下の地名が残る。在地領主の館が在ったとすれば木の中地蔵堂と隣の熊野神社付近が適所と思えるが?。
木の中地蔵尊 H16.5.9

此れほどの地蔵尊像が殆ど知られることも無いまま埋もれているのは、文化財価値が無いのか?地元の守り本尊としてまた・秘仏として25年に一度開帳される事とPR不足か?。 阿草集落を抜け篠山市と西脇市を結ぶ県道36号と小峠で繋がる県道292号を山中川に沿って走っていると鞍掛橋手前で、川向かいの山際に山中岩大師と記された白い木柱と東屋が見えてくる。 以前は橋から其処まで車で入って行けたが今はチェーンが張られ、 東屋も以前は橋の近くに壊れかけた参拝者休憩小屋があった。長い板に・ご詠歌「都への道は遥かなり山中の大師を拝む旅ぞ安けり」や、 長文の”御和讃”が書かれています。(現在は新しく出来た東屋に掲げてある)此れに詠まれる通り、平安期「延喜式」山陰道の駅家(うまや)小野駅<篠山市福住>を発って次の佐治宿(丹波市)に向かう街道筋です。
山中岩大師

官吏が馬に乗って越すには難所の鐘ヶ坂を柏原へ越えるルートや川代渓谷を避けて味間を抜ける小峠を経由して阿草〜井原を通って氷上回廊 【播磨灘から日本海側の若狭湾へ僅か標高 Ca94mで抜ける日本最低値の中央分水界水分れがあり、加古川と由良川流域を繋ぐ河畔(平地)ルート】が旧の山陰道で、 郡境に位置する山間の地・阿草地区には 宿場もあった事でしょう。東屋の上方にある6m程の岩に大師の像が浮かぶというが正面の鏡面の岩に、其の姿が浮かんでいるとは思えません。ただ中央部・祠背後の岩角の形が、法衣を纏った旅姿大師の像には見えてきます!!?。 山南町には平家の落人伝説にまつわる「首切地蔵尊」が有って、首から上の願い事が適うとして受験期に 合格祈願の参拝が多いと云う。此処・自然石に像が浮かぶという大師像も足元が不確かな為か?街道を辿る旅人の安全を祈願し・特に足の無事を祈願し足の病や神経痛・癌完治等に参拝する人があり、像の足許の岩壷に滲み出した清水??に霊験があると云われます。 地元で史跡周辺整備等環境保存に尽力され、旧街道や民間信仰の様子が垣間見られ、長文の山中岩大師御和讃を書き留めておきます。
山中岩大師

【緑の山に抱かれて 眠るが如き穏やかな 阿草の里の水上の 京大阪への 通ひ路に不思議や姿現れて 衆生を済度なし給ふ  その有難き因縁と 功徳を唱えあげまつる 天地をゆるがす雷の音諸共に山裂けて 崩れ落ちたる山の端の 屏風の如く立つ岩に  勿体なくもお大師の尊像奇しくも浮かびたり 里人これを仰ぎ見て 遠く高野のお山より 弘法大師の再来と 深く信じて供養する  幾百年の雨風に  打たれ給ひて欠けいたみ 像(かたち)さだかに拝めねど  足の下より滴るは 乾く事なき玉の露 岩を通して湧き出ずる 疲れ果てたる旅人の ようよう此処に辿り着き 此の霊水を頂けば 足の痛みも夢と消え  旅安らかに助けらる 未だいとけなき嬰児は 流行り病に襲はれて  身を灼く熱に今はただ 息絶えだえに呻くのみ 見守る若き両親の  心の中ぞいかならむ
山中岩大師御和讃(阿草老人クラブ)

これを見兼し隣人 夜道を走り山中の大師の前に額づきて  祈る心も気忙しく 此の霊水を頂きて 光明真言唱えつつ 頭にのせて冷しなば 霊験忽ち現れて  さしもの高き熱冷めて 愛しき笑顔見せにけり これぞ大師の慈悲の水 伝え聞きたる人々の 後の世迄も語り継ぐ 諸人ここに詣り来て 吾が身に余る悩み事 大師を信じ祈りなば 峯吹き渡る松風に悪事災難祓われて  無病息災幸せに家睦まじく栄えあり 権勢極むる王者にも悟究めし聖者にも天の定むる命あり  老少不定のあわれなる大師を常に念づれば 永患いの憂いなく 天壽を全うする時も 眠るが如く安らかに 極楽浄土に導かる  邪念を捨てゝ縋(すが)るとき願の叶はぬ事ぞなし 此の限り無きあらたかな廣大無辺の功徳をば 信ずる者こそ恵まれて必ず成就させ給ふ 老も若きも幼きも誠盡(つく)して願ふべし 南無有難や岩大師 南無有難や岩大師】

(現地木の中地蔵案内板 阿草文化財管理委員会・山中大師和讃は 阿草老人クラブ 黒田逸治作歌 参考)

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目指すナースバシ(大谷山 )は地元での呼び名から「兵庫丹波の山」に紹介され此の名で 知られるがナガスラシと呼ばれた山。点名では味気ないので?奇妙なナースバシの名で統一します。 長都羅志山コケズラシの山名も 用材搬出に関わる同意語なのでしょう。急斜面を利用して木材搬送する”木ずらし”かスラやシュラ(修羅)の音からは木橇に載せて滑らせて、
市境の北尾根からCa430m分岐ピーク

川代渓谷(篠山川)に降ろし筏に組んで 加古川へ運ばれたようです。ナースバシ周辺の木材も陸運に代わるまでは、北の大谷 ?側へ下ろし廃棄物処理場施設のある出合いへ運び出され、 川代渓谷を筏で流したのでしょうか?。山南町阿草から篠山市大山下の川代ダム迄続く川代渓谷沿いは対岸の廃棄物処理場施設に渡る橋が一箇所有るだけ、 しかも南山裾を福知山線が走るが殆ど絶壁に近く、無事降り立っても危険な線路上です。ナースバシ三角点は南北に走る山南町との市町界尾根上から少し外れており其の上・山中岩大師から登ると北側ピークCa430mに着く。
岩ヶ谷 (4等三角点)はなんでもない尾根道の途中にある

北面は山抜け状態の荒れた地表だが快適な山道(松茸山のテープや針金)が其の北方の 川代渓谷へ向うので注意です。此れより点名 :岩ヶ谷を経て尾根末端の味間北集落の阿弥陀堂へと向いますが、逆ルートを辿っても迷い易いうえに殆ど展望の無い尾根筋です。其れに比べて北方へは快適な山道と展望の良さにツイ迷い込むが、山南町側に川代公園の吊橋が見え・列車の音で方向誤りは 気付かれることでしょう。高山〜猿藪〜平石 白髪岳〜松尾山の稜線を身近に夏栗山や三尾山へと眺望が良いので少し外れた北の尾根上で休憩してから 元の境界分岐ピークに戻りましょうか…。
ナースバシ(点名:味間山3等)

ピーク付近の猪鹿避けネットを潜って細い踏み跡を辿り 「山中岩大師」と記された赤テープの有る分岐に戻って正規ルート ?の東尾根をナースバシに向い小さな鞍部の直ぐ先が山頂です。東尾根分岐から小峠への南尾根に入り左手の山道を下ってもナースバシ(太谷山 点名:味間山3等439m)の三角点標石を見て 東の稜線を下り、鞍部からの山道を谷沿いに下っても県道36号(西脇篠山線)沿いの熊野神社前に降り立ちます。ナースバシ付近に限らず・岩ヶ谷三角点近くの Ca400mも広い山道が延びる北への尾根に向い易いので、尾根ではなく山腹を捲くように付けられた 山道はコースを読み誤りやすく注意。ナースバシの樹木に囲まれ展望の無い狭い山頂部からは、 ネットが延びる南側直ぐ下方に TV受信アンテナが立つ。
味間北城主郭を取巻く帯曲輪

小さな起伏の緩やかな東尾根は展望の無さを除けば 概して倒木や雑木藪も無く快適です。樹間越しに金山夏栗山多紀アルプスの 西ヶ嶽・三嶽も時々は姿を見せてくれます。406mピーク付近の快適な山道は東の Ca400mピークへ続くが尾根上の山道は北に向かうので要注意地点です。只・間違えても直ぐ下方に廃棄物処理場施設の白い煙突が見えたらミスコースに気付かれるでしょう。以前逆コースで御霊神社(大国寺の東北400m程)から登ったので分かったが、 尾根筋の北側を捲く様に 降って行く道が
味間北城の堀切

東尾根ルートです。間違えやすい分岐ピークではなく、 少し下った平坦な山道の途中に岩ヶ谷(4等三角点356m銅標No.106585)が有る。三角点を示す白い木柱が無ければ、蹴つまずかなければ気付かず 通り過ぎるかも…!。下りはじめて少し藪っぽくなるが集落内の人声が聞こえる程近くなる。 南側へ降れば名刹 :大国寺は直ぐ其処です。 尾根がやや北に向きを変える辺り、 共同アンテナの残骸を見て下れば配水施設を過ぎ、大国寺と阿弥陀堂の中央付近・住吉川に架かる 神堂橋を渡った御霊神社(八上城主:波多野秀治を祭神として、味間の里に隠棲した秀治の二男甚蔵(波多野源左ヱ門(尉)定吉(尚)が創建)に降りてきます。 もう少し我慢して面白くない尾根筋を辿れば味間山(ナースバシ)東尾根の末端部です。
味間南城東裾の空掘土塁

鹿避けフエンスを 開閉して出た所が味間北城の堀切で、北側へは工場裏手・南へ50m程で赤い屋根の阿弥陀堂に出てきます。県道36号線を小峠に戻る道すがら、茶畑の拡がる先に岩ヶ谷〜ナースバシの山容を望み、 八上城主:波多野秀治の遺児・甚臓が篠山藩に仕えた頃の長屋門や、峠にさしかかる手前・集落端にある茶の専門店をチラッと覗き、隣に在る熊野神社に寄ってから 山南町阿草への林道?(県道292号)を山中岩大師の駐車スペースへ戻った。


U 西古佐〜火ともし山(平井山城)〜御釈迦山〜味間北城   H15年(2003)07月20日

多紀アルプス西岳北方の定利山〜高王山でも 日本海側の由良川と篠山川から瀬戸内海へ流れ出る谷中分水界にある複雑な河川争奪について触れましたが、舞鶴自動車道やJR丹波大山駅付近でも篠山川が西北へ 少し折れ曲がる辺りから 南へ流れ出る細い小川は武庫川となり、篠山川主流は宮田川と合流して川代渓谷を経て 加古川へと流れる分水界です。石生の水分と同様に殆ど高低差の無い一帯は 僅かに流れが南に変われば篠山川は武庫川に 流れを変えていたかもしれません。
精明園附近の貯水池から三釈迦山

前々から気になっていた川代渓谷から大山城と少将山へと訪ねてみたが 「桜の道 」から 川代ダムやメロディ橋の架かる篠山川の対岸を丘陵裾に沿って JR福知山線が走る。その丘陵上部が段々削られ姿を変えていく樣は R176東側の住吉台のようなニュータウンになるのかと思ったが県立川代並木道中央公園の整備事業(2007年春 OPEN予定)が進んでいた様です。
丹波並木道中央公園としてオープンH19.10.14

此の上方に望む低い山へも一度は 行って見たいと思っていました。 幸い近くに山城のある火ともし山があるので此処から縦走してみます。目的の山は御釈迦山(三釈迦山)で御釈迦は"御射"が語源の御狩神事の対象の山だったようです。神代に昔・諏訪の神族が三釈迦山の上に立ち、 弓に矢をつがえて湖底の神竜の頭を射ると湖水の水は枯れて竜が其の全姿を現したという。この事は諏訪神族の多くが此処に移り住んで、篠山川の川代渓谷側工事によって、 広大な耕作田が造成されていったという丹波地方開墾の説話で、此処に多くの古墳群が見られます。
丹波並木道中央公園・森林活動センタを望む

随分と以前から三釈迦山の北麓へ延びる尾根が篠山川へ落ちていく丘稜一帯は、並木道中央公園整備に着手されていますが、桂ヶ谷・ずえが谷・灰高等の遺跡群や古墳群が発見されており、平成11年から3年にわたった発掘調査によると、 此処に弥生時代中期から古墳時代後期までの遺跡が多く残されていています。高地集落は一般的には敵から身を守るため一時的に設けられるもので桂ケ谷の集落遺跡のように場所を変えながらも途切れることなく (五十棟の竪穴住居跡を確認)集落が営まれ、弥生時代から古墳時代まで長期間にわたり維持され続けた例は珍しく、稲刈りに使う石庖丁の出土やイノシシ捕獲の落とし穴や墳墓群も見つかっています。 ずえが谷遺跡では弥生時代終末期の方形周溝墓(丹波地域では初めて)が見つかり、丹後地方の王墓と共通する舟形木棺の出土では北近畿とのつながりをも暗示させます。灰高では篠山市内最古級の横穴式石室の発見が相次いだようです。
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三釈迦山(御釈迦山)へは「並木道中央公園」からだが、もう一つの山を巡りますので国道 ・西古佐から味間への分岐へ向います。R176から住吉川に沿って 丹波の茶ところ"味間"から山南町阿草や西脇市・今田町や清水寺へ抜ける山越えの県道36号に入って直ぐ山立谷に架かる北山橋 (PM1:00)を渡ります。山立谷に沿って続く農道も三釈迦山への直登コースになるが、もう一つの目的は北山橋の直ぐ北端に迫っている小山に登ることで取付点を探します。
平井山城(火ともし山)味間北・山立谷の農道から

雑木藪で隠れていた山道を見つけて辿るが直ぐに急登になり踏み跡も薄くなって、やがて消えたが稜線に出ると境界の赤いプラ杭のある踏み跡が現れて山頂も近くなった。 うっかり山頂直前の段差を見るまで、小さくて気付かなかったが最高所の本丸の曲輪だけは分かった。南面の土塁によってやっと 2m程の高さの曲輪に出るとスギや雑木に囲まれて展望は無いが 平井山城本丸跡に着きます。火ともし山(Ca320m PM1:25)と呼ばれるが城の別名:小屋床が示す常駐の見張所が置かれた砦だったのでしょうか。主郭部の削平は甘く、城址だと意識していないと自然地形を利用した尾根上の曲輪さえ気付く事が無いかも!!?。 主郭を北西へ降って堀切・土橋を渡ると三釈迦山への尾根が続く。尾根筋を外して東の谷沿いに下ると精明園の建物 ??が見えて きます。 林道は最奥の貯水池横を経て直ぐ上部の分譲地かと思っていた平坦地(桂ヶ谷の墳墓群跡だったか)まで通じています。池の配水溝を飛び越えて此の林道へは池と溝と林道工事の為か踏み跡からは藪漕ぎで飛び出てきます。
丹波並木道中央公園(H19.10.14)内の灰屋(はんや)

池面には三角頭を突き出した御釈迦山が姿を映している。ポチャッと音のした方を見ると大鼠が対岸に向って泳ぎ出したのがヌートリア。 広い平坦地の下方にも広場や散策道らしい所、伐採されている場所があるのは発掘調査された遺跡群跡か?公園として整備される所でしょう。眼下には篠山川が流れ先程寄った 少将山や大山城、波賀尾山から高畑山〜金山、目立つ双子山は 夏栗山と黒頭峰、多紀アルプスから八上城の支城や其の向城が南面を除き見渡せます。此処はキッと展望公園になるところでしょう。コスモスの咲く斜面とスギの植林の間を詰めて、平井山城へ繋がる鞍部には 猪鹿除けフェンスがあって味間側へ通じていますがフェンス内へ入らず右手から尾根を詰め上がると境界プラ杭が続き御釈迦山(3等三角点 三釈迦山  点名:大山下村 318m PM2:10)へ道案内してくれます。山頂部は少し切り開かれてはいますが雑木に遮られ南側に直近する白髪岳・松尾山・音羽山の山蔭さえ展望皆無です。
丹波並木道中央公園内の茅葺民家

三釈迦山から西へ続く稜線に踏み跡は明確で、山塊最高332mピークまで行って見ようと思ったが何処かでタオルを落としたらしい。炎天下に此の後続けて味間北城や 名刹・大国寺〜大谷山(ナースバシ)も計画に入れていたが此処で打ち止め。332m峰への鞍部から山立谷を下り超プチ周回コースを終えて帰路についた。丹波並木道中央公園平成19年10月14日上記写真は樹齢約400年のムクの大木の 記念碑(銘板)は井戸県知事・篠山丹波の両市長等の手で除幕されました。灰屋(はんや)とは畑の肥料となる焼灰を作るため土壁で作られた小屋の事。実際に利用され、灰は園内での耕作田等に使用される様です。また・民家は此処より北方約 3km程の大山新の旧中道家を平成17年に移築されたもの。森林活動センタには本格的な製材機器が備えられ、木工施設が併設されています。



平井山城 味間北城 味間南城

平井山城(西古佐小屋床・西古佐城) 火ともし山 Ca320m 丹南町西古佐イミノ木南・味間北平井山

川代渓谷沿いの県道77号から R176号に出て篠山川に架かる丹南橋を渡ると三和町に通じる県道97号線の合流地点に少将山城が在る。 篠山川を望む南方の高台:住吉台住宅地の丘陵西端がR176号に落ち込む所・西古佐の三差路交差点で西脇方面道路標識のある県道36号線へ右折して住吉川沿いに西走する味間谷・丹波茶と大国寺で知られる味間集落へ入っていきます。
主郭の土塁から南面の曲輪

県道36号線へ分岐する西北側丘陵の山頂に目的の山城が在る。味間北から山立谷に沿うように御釈迦山(三釈迦山)から南東に延びる 尾根の末端にある 火ともし山(Ca320m)に”小屋床”とも呼ばれた平井山城が有ります。北に篠山川と南麓に流れる住吉川や山立谷に挟まれた山塊の南端のピークに有った平井山城は火ともし山や小屋床とも呼ばれる別名が示すように、波多野氏の八上城の最西端の守りとして、山麓は山陰道が通る要衝でもあり北方の鐘ヶ坂や播磨・清水寺への間道ともなる西方からの侵入に備えた城砦群の一つとして、常駐の見張所が置かれた砦だったのでしょう。
主郭南面曲輪の土塁と切岸

平井山城へはいずれも・途中で踏み跡が消えるが取付点は幾つか有る。南枝尾根筋を辿る北山橋からの取付点か 北山橋とR176号線側葬祭会館側からも鹿猪除フェンスを開閉して急斜面を詰めるが、雑木藪に隠れていた明確な山道を見つけて辿る。谷よりに進んだので急登になってくると 薄くなりやがて 消えたが稜線に道は続いている様?。踏み跡が現われると其処は山頂に近い城域で、
横矢掛の主郭北面切岸と帯曲輪

削平は荒いが下草も少なく遺構は確認し易い状態。南端の小曲輪らしい段差の上に幅広く主郭側の高さは無いが切岸も明確な帯曲輪が東枝尾根側に長く延び出す自然地形の 曲輪側から主郭部を北へと廻している。 東枝尾根上の約50m程はある長い自然地形の曲輪の先端・傾斜増す付近の尾根筋は崩れているが、僅かの低位置ながら北側から南へ小曲輪が竪堀の側 (そば)まで捲く。下方に曲輪が有れば片堀切と観るが足元から北へ一直線にR176号線側?に落ちる一条の竪堀を見る。
主郭南面曲輪の土塁と切岸

国道向いに宅地造成の住吉台側に元は久下氏(丹波市)の持城西山城が在った。鎌倉時代からの盟友で天正期の八上城攻め ・黒井城攻め支城として応戦し共に落城したが中世後期 :大山城の中澤氏・玉巻城の久下氏が拠ったと云われ、西山城と国道筋を挟んで呼応しあった往時の平井山城遺構か?。主郭は主尾根上を北へ二曲輪で 構成され上段南端から東・北<殆ど高さは失われているが>へ低土塁を廻すが、二曲輪間の南端土塁(高さ1.5-2m)東端部は、主曲輪側に横矢掛りを意識しており、東枝尾根から侵攻の敵に対して副郭は正面・主郭側の突出す位置からも 横矢で東尾根側の帯曲輪が狙える。
平井山城主郭の土塁

三釈迦山へ続く西北への尾根の主郭端は高さ 3-4m程の切岸下に埋もれかけてか土橋付き・浅いが幅2m程の溝状を残す堀切で城域を確保しているが、尾根続き下方に遺構を見ない!!?。主郭部の北側は大きく崩れて 崖になっています。城域の北西面に沿う 曲輪の切岸は高く、北東側に二段程の帯曲輪を廻らしているようですが、本丸の土塁に 城址を感じるだけで削平段は小さく、自然地形に近い曲輪の粗い削平には小さな歴史も 残されていないのでしょうか !!??
平井山城:城域北西端の土橋付堀切<

天正年間 (1573-92)織田信長の天下布武による丹波攻略は部将:明智光秀があたり 八上城波多野氏を攻め、其の前哨戦として八上城を守備する周辺の 支城群を次々と攻め落としていきます。R176号線沿いJR篠山口駅の西方丘陵部に初田酒井党の 酒井勘四郎が守備する大沢城・禄庄城・佐幾山城がある。味間谷を播磨西脇方面に抜ける間道は鐘ヶ坂を越えて柏原・氷上へ抜けるのが難所だった旧山陰道(延喜式)で、味間から山南町阿草へ谷を下り篠山川沿いに加古川(旧佐治川)の氷上回廊を氷上〜佐治への道を辿ります。足利尊氏も此のルートを 石龕寺(山南町)へ逃れてきます。
平井山城主郭:堀切側から西面の切岸

R176号から此の旧街道筋 (県道36号西脇篠山線)に入る味間谷の入口となる「火とぼし山」を最高所とする低丘陵に平井山城が在りました。街道筋の南:文保寺付近に味間南城が、 北には街道に接する極少丘陵の尾根先に味間北城が在って八上城の西を守備する城砦群を形成していました。R176号線東側の今は丘陵全体が宅地開発された住吉台にも 西山城があり、鎌倉時代からの盟友で天正期の八上城攻め ・黒井城攻め支城として応戦し共に落城したが 玉巻城久下氏・大山城中澤氏が拠っていたとされます。 西山城の在った住吉台と平井山城の在った山塊の北を篠山川が流れ・県道分岐点付近は武庫川との谷中分水界にもなっています。
平井山城:東尾根先の竪堀

篠山川沿いの北には河川段丘の崖上に位置する平城の大山城が在り、此処を攻めた武将には 若き藤堂高虎の名があります。味間の地には天正7年(1579)八上城落城寸前に女畷を逃れた城主:波多野秀治の遺児甚蔵が此処に逃れて後、定吉を名乗り篠山藩主松平氏3代:忠国に仕え、味間から黒石 ・市原等7ヶ村の代官になっており、味間には波多野甚蔵屋敷の長屋門が残り・波多野秀治の墓所もある。



味間北城  六山 Ca240m   篠山市丹南町味間北六山

味間北集落を西脇市に抜ける 県道36号の北方に小峠(山南町阿草への分岐)からナースバシ(点名:味間山439m)〜岩ヶ谷(4等356m)〜大国寺背後へと東に延びる丘陵の最東端に味間北城があります。以前・この城を探して判らず一つ西側の丘陵山裾に御霊神社が見えたので此処から配水施設〜共同アンテナ〜岩ヶ谷(4等三角点 356m)へ辿った時、余ほど此方の方が城址としては適所と思えたのですが、
県道36号から住吉川支流と味間北城

実は民家の陰に隠れて気付かず通り過ぎてしまう程に低い比高 25-30m程の丘陵上に在ったが、味間コミュニテイセンタと民家の直ぐ背後 なので、けたたましく吠え続ける犬には閉口してしまう。 此処から登城出来れば簡単ですが取付き出来そうにないので、城域の東麓を北方から 住吉川(県道に沿って味間地区の中央部を流れる谷川)に流れ込む小川の側にある○○会社の駐車場から
阿弥陀堂前に祀られる城主?の供養塔と五輪塔

北側裏手をとれば僅か7〜80mで主郭に着く距離だが此処は南西麓に朱色の屋根が目立つの阿弥陀堂の前には 味間北城主の 供養塔らしいが、宝篋印塔や五輪塔の残欠が集められ祀られているが、以前の画像と見比べていると五輪塔が一基少ない?。 一石五輪塔ではないが、元々小さな五輪塔なので頭部の空輪や風輪が崩れてか ・欠けているだけで地輪や台石は残っているのかも!!?。
味間北城の堀切(北の工場側から)

阿弥陀堂から低丘陵の鞍部に延びる山道は歩き始めて直ぐ鞍部は堀切が尾根を遮断して城域を防衛しています。今では!!山側の方が選り強力な鹿避けフエンスで強固な防御ラインを張っている。堀幅5m程の堀切を北に下ると八柱神社への参道と工場駐車場との中程に出て工場と味間北集落北端の幅狭い車道に出る。
味間北城主郭と帯曲輪(西面から)

宅地が迫る東や南斜面は削られ5m以上の切岸を立てる。堀切から主郭へは自然地形の緩やか傾斜を最初の帯曲輪に入ると 2〜3mの段差で更に主郭一段下の帯曲輪に入り1.5m程の切岸上が主曲輪(約15x10m)で僅かに緩斜面に低段差の 小曲輪が東方に向って突き出す様に延びる。 主郭部は2段の帯曲輪(いずれも3-4mと幅広い)も東端から曲輪に入口が有り、東側が大手口の様。北面が藪で判りにくいが主郭を軸にグルリと四方を同心円状に二段の帯曲輪が取巻く輪郭式。
味間北城:主郭西に二段の帯曲輪と緩斜面が堀切まで延びる

崖状の南面を除いては要害とも思えない低位置に有って 背後に一本の堀切を見る以外には 土塁・切岸加工で防備を増強している様子もない城ながら戦国末期の築城と考えられており城主は安村丞太夫か谷後和泉守の居城と云われる。 山裾には谷後姓の民家も在るが、味間谷は土豪味間(三崎)伊豆守秀友安村丞太夫が勢力を持っていたとされ安村氏の城とするのが優勢の様です…!!?
味間北城:二段の帯曲輪と最奥の主郭 (北面から)

丹波・播磨境の国境・八上城の西口を押さえ播磨側に入る味間谷の東口を平井山城・味間北城・味間南城が呼応して警備に付いていたのでしょう。 此の城も天正6年(1578)明智光秀の”丹波攻略”に八上城を固める周辺の諸城が先に次々と落とされ大沢城・禄庄城・佐幾山城が攻められた際 ・同時に攻め落とされたものと思われます。


味間南城   xxx 山 Ca270m   篠山市丹南町味間南字今社

JR篠山口駅前から国道176号線を北へ”丹波茶の里・大国寺”の案内板が立つ 西古佐の三叉路を左折して西脇市に抜ける県道36号に入るコーナー北の火燈し山に平井山城が有り、更に山裾通って5〜600m先・味間北の集落入口北方には、集落の宅地内に隠れ気付かず 通り過ぎてしまう程の低丘陵部に味間北城が有ります。
文保寺・二松神社参道口から味間南城

松尾山?白髪岳への登山者の殆どはJR古市駅からの住山ルートだが、丘陵尾根北方の山裾にある古刹・文保寺からも松尾山経由の白髪岳登山コースがあります。文保寺山門から本堂に向い、谷通しに進む中程から振り返れば味間北城と登り口の阿弥陀堂の赤い屋根が見えます。
味間南城主郭南端:幅広の櫓台大土塁

尾根に達して松尾山山頂に立つと此処に南矢代城主 酒井主水介氏治の築いた酒井党の最後の”詰め城”松尾城(高仙寺城)があったところです。松尾 山〜音羽山へ東に延びる主尾根の東端部には初田酒井党の大沢城と禄庄城 ・佐幾山城(壊滅)が有りました。これ等・八上城を取巻く多くの支城群に中で列記した城砦群が播磨・摂津に通じる味間谷東の入口を固め、
味間南城主郭と南端の大土塁

味間南集落の文保寺参道入口に立つ二村神社の石鳥居から向かう車道東の低丘陵尾根北端に味間南城もある。味間南城は松尾山から 北へ派生した 尾根先が文保寺山門東側で一気に高度を落としながらも、さらに北へ突き出す比高僅か45m程の低丘陵上に大きな2段の削平地を持ち、 山側の城域最高地点の南西・尾根続に幅広に土塁を残しています。
副曲輪から上り土塁道を主曲輪に入る虎口

文保寺山門前からの取付を丘陵側の墓地奥に採って鹿避けフエンスを抜けると外側高さ2m・幅2m・長さ25m程の空掘状の遺物が有る。L字状の空掘りは 北端でそのまま山の斜面に抜け出ていて 治山や猪避けの濠とは思えません。平坦地もあり城の搦め手口に有って確証は無いが居館跡とも思える。只・此の城が城域を分ける堀切や土塁 ・曲輪の切岸で防備を強化する工夫が
味間南城主曲輪北の上り土塁虎口

余りされていないようなので濠(後世のものか?)や城の使用目的等 ・不明の築城時期を含め郷土の城史研究に期待したいところです…此処から緩やかな尾根を伝い鞍部も無く城域下部の肩に着いた。小前某氏他 2〜3姓による共同の先祖供養石標が一基建てられている所から10m程、急斜面の上方に主郭部の南西端土塁の高まりが見える。此の城の関係子孫の 慰霊塔だったのでしょうか?
主郭部北の土塁虎口 :下方に城域北出曲輪(櫓台!)が在る

小さな自然地形?の段差を越えて櫓台が有ったと思える幅広い土塁(土壇)に立つ。主郭部曲輪から3m程の切岸を 2段目に降りる。 左右に帯曲輪を廻した細長い曲輪の様ですが崩れてか!削平は粗い。尾根沿いの北端に少し高い(1m程)円形テラスがあり此処から下方への道は直ぐ山腹の墓地に出て、 丘陵北末端の集合住宅地に接します。此の墓地の下段には”白髪仏神従属”?の石碑が建ち
味間南城・北曲輪(櫓台か大手門?)

四角石柱三面には二段組で石仏が浮彫されており五輪塔も祀ってある。南端の主郭大土塁から北端の櫓台跡まで約100m程の緩やかな稜上に位置す味間南城は北方約800m地点にある味間北城と呼応して旧多紀郡(篠山)から播磨や、旧山陰古道が通っていた旧氷上郡(山南町から氷上町)を抜け但馬へ通じる要衝の
味間南城・東に突出す 二段の曲輪(櫓台)

味間谷入口を押さえていたのでしょう。しかし此の低丘陵の 尾根筋・谷筋共に要害といえる地形でもなく 堀切で遮断して、防御性を高めたり 城域を確保しているところは無いが、尾根末端の主郭から西・北・東の三方に短く突き出す支尾根先には各一つずつ、自然地形か不整地ながら物見の櫓台跡と思われる 約5-8mX7-10m程度の平坦地が有る。此の様な縄張りを持つ城は
文保寺参道側の西曲輪

丹波の城には珍しく 貴重な遺構と思われます。其々は味間谷の西方(味間奥・文保寺から松尾山:高仙寺城に通じる登城ルート)・中央(味間北・南は 味間谷入口を平井山城・味間北城と呼応しての監視)・東方(味間新はR176号の要衝を眼下に篠山盆地から八上城までも遠望が効く。北方に味間北城・平井山城、北東方に飛ノ山城・吹城へ、更に本拠城への狼煙台(通信基地)?…
味間南城・東裾の土塁空掘

低山ながら篠山盆地をカバー出来る監視位置に有る。此処も酒井党の砦だったか?。八上城を主城として西域の守備に付いた 城砦の一つだったのでしょう。戦国時代末期には城主平野酒造之丞(または主馬之丞)が拠っていたと云われます。文保寺参道側の味間南城西南麓の墓地と田圃の端や、 東南山麓の集合墓地裏手には高く深いほぼ同規模の空堀・土塁が遺る。
味間南城・東裾の土塁空掘

西南山麓に居館跡と推定した茶畑の奥の祀られる地神さんは平野株(平野家)で管理されている事を地主さんに聞いた事がある。文保寺とは味間南城の 尾根を挟んだ東側に位置する福井谷館は平野酒造之丞の居館だったのでしょう…!。
味間南城 ・西裾の文保寺側空堀・土塁

此の居館推定地の茶畑から斜上する山道は直ぐ稜上に出て、先述の供養碑前に出るが、祀られる石碑<大正5年造立!!?>は 小前株の一族先祖講によるもの…。城史不詳で城址との関連は不明だが、碑に至る東下方からの山道は集合墓地から。墓地裏手の土塁・空掘が隠れている。墓地と地区道沿いの谷川を天然の濠に取込んだ居館跡であったかは定かでないが・・・



【大国寺】 篠山市味間奥162

JR丹波大山駅の南西、R176号から西脇方面に向う県道36号が住吉川に沿って味間谷を抜けていきます。車道の左右の段丘には茶畑が緑色の波のウネリを見せて何処までも続いています。
大国寺

静岡と宇治で代表される日本茶ですが、丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)や味間で代表される 丹波茶の方が高級茶葉となる要素が 大きいように思えるが・・・昭和42年には兵庫県の観光百選に指定されている丹波の茶所・味間の里の奥に新丹波七福神霊場 (大黒天)の安泰山大国寺(天台宗)があります。
虚無僧の尺八の音を先導に大国寺に到着した茶壷道中

大化年間(645-650)法道仙人(空鉢仙人とも呼ばれる)により開基されたと伝えられます。 天平時代・行基により開創開山されたが年代等は不明です。 天暦年間(947-957)に兵火により焼亡したが正和年中(1312-17)花園天皇の帰依により伽藍が再建され”安泰山大国寺”の称号を受け如来を安置して四海の安泰を祈願されたといわれます。
キャンペンガールによる大茶盛 H18.6.3

室町時代初期に建てられた本堂の外観は入母屋の純和風建築ですが、内部の外側柱は円柱ですが内裡部の柱は エンタチス風に膨らんでいたか?確認しなかったが上部が先細り状に丸みをもっており、唐風と和風の折衷様式が珍しく昭和36年(1961)国の重要文化財指定を受けています。本堂には藤原時代(平安時代 )中期〜後期の本尊:薬師如来(大日如来)・脇侍に大日如来・阿弥陀如来と持国天・増長天像の5体が安置されており、いずれも大正11年(1922)4月に国の重要文化財に指定されています。第28回(H20.6.7)茶まつり ・献茶式後:ご住職より本尊仏について興味有るお話を伺いました。
秋の大国寺

薬師如来といわれるが体は大日如来 ・手印は後世に手が加えられ法界定印を結ぶ胎蔵界の阿弥陀如来像ですが、他仏像の指に比して、デフォルメされているのか異常に大きく見えます。薬師如来といわれ薬壺(やっこ)は有るが手印を結んでいる為、一般的に?薬壺を片手に持つお姿ではない!!。天台宗における「一仏三体」(一つの像から三つの仏を見る )思想を反映したものといわれます。
茶壺道中は茶畑の傍を通り大国寺に向う H20.6.7

説明を聞かなければ気も付かなかったが…解かってみると後補の有無より・此の様な作風の仏像は非常に珍しく 「一仏三体」思想を明確な容で表現している 像の文化財価値の重要性を改めて感じ、 漆箔の塗りが浮き剥がれかけたお姿を、国で修復出来ないものかと…国宝だったら既に修復されているのかも知れないと残念な思いです。天正年中(1573〜92)織田信長の命により丹波攻略にあった明智光秀の八上城攻めの兵火によって殆どの寺社が焼かれ、持出されて僅かに残された篠山市の仏像等には国宝は無いが重要文化財指定が15件ほど ・其の内 5体の仏像が大国寺に安置され「丹波の正倉院」とも呼ばれるそうです。
茶壷に納められた一番茶を駕籠に乗せて

丹波市の 達身寺も”丹波の正倉院”と呼ばれ・下腹部に特徴ある 達身寺様式の仏様が宝物館に保存展示されていますよ。お茶の生産量は兵庫県下でも篠山市が他地域に比べ 群を抜いて盛んなのは篠山藩が茶の栽培を奨励したことに起因するのでしょう。篠山藩3代藩主:松平忠国の 御下屋敷も広大な敷地には茶園が有り、茶の湯を楽しむ為の池泉庭園を造り、茶会や諸行事の使用するためだけの別邸としていたようです。毎年5〜6月一番茶の摘み取り時期の頃(今では第1土曜と日曜日 )に茶の里会館のイベント広場や大国寺周辺で「大国寺と丹波茶まつり」が開催され今年(H18.6.3)は第26回を迎え民俗芸能や煎茶の野立、大国寺では秘仏が一般公開され賑わいます。
本堂での煎茶の点前 H18.6.3

茶壷道中で 大国寺へ運ばれた新茶の茶葉は、住職(福住職)の手による格調高い「棚の点前」で入れられ、本堂内で控えているお茶子さん (と云うのかどうか?)の女の子に運ばれて須弥壇に安置される本尊如来像(薬師如来と云われるが大日如来!!?)の前に供えられます。輿で運ばれてきた茶壷も 壇上に納められています。

点前の新茶はお茶子(?)に運ばれ本尊前に供えられます


古来 ・中国では薬用として飲まれていた茶が嗜好品として普及し、日本へは弘仁年間・延暦24年(805)に最澄によって唐から”茶の実”が持ち帰られ、比叡山山麓に植えられたのが始めとされ其の後、畿内一円で茶樹が植えられ、京中にも官営の茶園が造られていきます。 仁安3年(1168)僧栄西が持ち帰った茶種を、京都・栂尾高山寺の明恵上人に贈ったものが”抹茶法”とともに宇治から奈良・丹波へと拡がって寺社から農民へと茶畑を持っていったものと考えられ、近年では栽培法や製茶技術の改良によって丹波 (味間・住山・後川等の篠山市地区内)の製茶量は県の60%近くのシエアをもち県下最大の産地となっています。
(現地 大国寺の由来 案内板を参照)
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