山中岩大師~ナースバシ~岩ヶ谷・味間北城/火ともし山(平井山城)~御釈迦山
Ⅰ山中岩大師~ナースバシ~岩ヶ谷~味間北城・味間南城 H18年04月08日
Ⅱ西古佐~火ともし山(平井山城)~三釈迦山 H15年07月20日
近畿の山城 平井山城(西古佐城) 三釈迦山砦
 味間北城 味間南城・味間南城上砦 井根山城
味間の岩ヶ谷(中央)~ナースバシへの山並み

丹波の名を冠した丹波栗・丹波黒(大豆)・丹波大納言(小豆)をはじめ名を記さなくともブランドの猪肉・松茸等、丹波特産品のなかでも大化年間(645~650)に伝わり其の魁となった丹波茶が静岡茶・宇治茶の名に霞んで知名度を失っているようです?。しかし品種改良が進められ丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)と味間に代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素は大きいと思える。
阿弥陀堂と右手に味間北城・鞍部に堀切がある

県下の主産地として良質の丹波の茶所は名刹大国寺 と共に兵庫県の観光百選に指定されている。住吉川に沿った山間の味間谷は其の東口付近には八上城の西を守備する城砦が、東北には桂ヶ谷等の古墳群丹波並木道中央公園 (平成19年開園)がある味間谷北側の小さな山域で判り難い案内ですが丹波の里山・歴史ハイキングのポイントとして参考にしてください。



Ⅰ 山中岩大師~ナースバシ(味間山)~岩ヶ谷~味間北城 H16.04.08

JR福知山線沿いに篠山市へ向う県道77号線が川代渓谷の川代公園手前で右折し踏切を渡ると丹波竜発掘調査現場見学駐車場が40m程先にあるが阿草集落内に直進し鳥居西側山手に見える地区の守り本尊木ノ中地蔵を祀る地蔵堂は難産・苦痛・難病を救う秘仏として25年に一度の開帳は 平成16年5月9日昼過ぎ迄殆ど雨の中を850年祭が行なわれたが
熊野大権現の鳥居

午後から出掛けたので既に法要等終わり紅白の幕だけが祭りのあった事を伝えているが次回25年も先ではもう見る機会はなさそうです。奈良時代の僧行基菩薩の作と伝えられる羅佗山(はんらだせん)地蔵尊は巨木から彫り出された一本三体の地蔵尊で 中央の像が此の木ノ中地蔵尊、他二体は但州(兵庫県)城崎町木上(きがみ)の地蔵尊・江州(滋賀県)木之本町木下(きもと)の地蔵尊が日本3体地蔵尊。阿草川沿い道の一際目立つ木造の大鳥居の扁額に「正一位熊野三所大権現」の社号を掲げた旧扁額は永禄2年大和守寄進とあり町指定(昭和54.3.13)文化財。大和守にについて不明だが土居の内・土居の下の地名が残る。 領主の館があったなら木ノ中地蔵堂隣の熊野神社付近が適所と思える?。
木の中地蔵尊 H16.5.9

地蔵尊像が殆ど知られることなく埋もれ文化財価値がないのか?地元の守り本尊で秘仏として25年に一度しか開帳されない事やPR不足?。阿草集落を抜け篠山市と西脇市を結ぶ県道36号と小峠で繋がる県道292号を山中川に沿って走ると鞍掛橋手前で 川向かいの山際に山中岩大師と記された白い木柱と東屋が見える。以前は橋から車で入って行けたが今はチェーンが張られ東屋も以前は橋の近くに壊れかけた参拝者休憩小屋があった。長い板にご詠歌都への道は遥かなり 山中の大師を拝む旅ぞ安けりや長文の”御和讃”に詠まれるとうり延喜式山陰道の駅家(うまや)小野駅(篠山市福住)を発って次の佐治宿(丹波市)に向かう街道筋です。
山中岩大師

官吏が馬に乗って越すには難所の鐘ヶ坂を柏原へ越えるルートや川代渓谷を避けて味間を抜ける小峠を経由して 阿草~井原を通って氷上回廊【播磨灘から日本海側の若狭湾へ僅か標高94mで抜ける日本最低中央分水界水分れがあり加古川と由良川流域を繋ぐ河畔(平地)ルート】が山陰道で郡境に位置する山間の地阿草地区にも宿場があったでしょう?。東屋の上方6m程の岩に大師の像が浮かぶというが正面の鏡面の岩に其の姿が浮かんでいるとも思えない。ただ中央部・祠背後の岩角の形が法衣を纏った旅姿大師の像に見えてくる。自然石に像が浮かぶという大師像も足元が不確かな為か?街道を辿る旅人の安全を祈願し特に足の無事を祈願し足の病や神経痛・癌完治等に参拝する人があり、像の足許の岩壷に滲み出した清水に霊験があると云われる。地元で史跡周辺整備等環境保存に尽力され旧街道や民間信仰の様子が垣間見られ長文の山中岩大師御和讃を書き留める。
山中岩大師

【緑の山に抱かれて 眠るが如き穏やかな 阿草の里の水上の京大阪への 通ひ路に不思議や姿現れて 衆生を済度なし給ふその有難き因縁と功徳を唱えあげまつる 天地をゆるがす雷の音諸共に山裂けて崩れ落ちたる山の端の 屏風の如く立つ岩に 勿体なくもお大師の尊像奇しくも浮かびたり 里人これを仰ぎ見て 遠く高野のお山より 弘法大師の再来と 深く信じて供養する 幾百年の雨風に打たれ給ひて欠けいたみ 像(かたち)さだかに拝めねど 足の下より滴るは乾く事なき玉の露 岩を通して湧き出ずる 疲れ果てたる旅人の ようよう此処に辿り着き此の霊水を頂けば 足の痛みも夢と消え 旅安らかに助けらる 未だいとけなき嬰児は 流行り病に襲はれて 身を灼く熱に今はただ 息絶えだえに呻くのみ 見守る若き両親の 心の中ぞいかならむ
山中岩大師御和讃(阿草老人クラブ)

これを見兼し隣人 夜道を走り山中の大師の前に額づきて 祈る心も気忙しく 此の霊水を頂きて 光明真言唱えつつ 頭にのせて冷しなば 霊験忽ち現れてさしもの高き熱冷めて 愛しき笑顔見せにけり これぞ大師の慈悲の水 伝え聞きたる人々の 後の世迄も語り継ぐ諸人ここに詣り来て  吾が身に余る悩み事 大師を信じ祈りなば 峯吹き渡る松風に悪事災難祓われて 無病息災幸せに家睦まじく栄えあり 権勢極むる王者にも悟究めし聖者にも天の定むる命あり 老少不定のあわれなる大師を常に念づれば永患いの憂いなく天壽を全うする時も  眠るが如く安らかに 極楽浄土に導かる 邪念を捨てゝ縋(すが)るとき願の叶はぬ事ぞなし 此の限り無きあらたかな廣大無辺の功徳をば 信ずる者こそ恵まれて必ず成就させ給ふ 老も若きも幼きも誠盡(つく)して願ふべし 南無有難や岩大師 南無有難や岩大師】

(現地木の中地蔵案内板 阿草文化財管理委員会・山中大師和讃は 阿草老人クラブ 黒田逸治作歌 参考)

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地元での呼び名ナースバシ(大谷山)はナガスらしと呼ばれた山。点名では味気なく奇妙なナースバシの名で統一します。長都羅志山コケズラシの山名も用材搬出に関わる同意語か?。急斜面を利用して木材搬送する”木ずらし”スラやシュラ(修羅)の音からは木橇に載せて滑らせて川代渓谷(篠山川)に降ろし筏に組んで
市境の北尾根からCa430m分岐ピーク

加古川へ運ばれたようです。ナースバシ周辺の木材も陸運に代わるまでは北の大谷側へ下ろし廃棄物処理場施設のある出合いへ運び出され川代渓谷を筏で流したのでしょうか?。山南町阿草から篠山市川代ダム迄続く川代渓谷沿いは対岸の廃棄物処理場施設に渡る橋が一箇所あるだけ、南山裾を福知山線が走るが殆ど絶壁に近く無事降りても危険な線路上。ナースバシは南北に走る市境界尾根から少し外れており其の上・山中岩大師から登ると北側ピーク430mに着く。
岩ヶ谷(4等三角点)はなんでもない尾根道の途中にある

北面は山抜け状態の荒れた地表だが快適な山道(松茸山のテープや 針金)が其の北方の川代渓谷へ向うので注意です。此れより点名:岩ヶ谷を経て尾根末端の味間北集落の阿弥陀堂へ向かうが逆ルートも迷い易いうえ殆ど展望のない尾根筋だけに北方への快適な山道と展望の良さについ迷い込みやすい?。高山~猿藪~平石白髪岳~松尾山の稜線を身近に夏栗山や三尾山へと眺望が良いので少し外れた北の尾根上で休憩してから元の境界分岐ピークに戻る。
ナースバシ(点名:味間山3等)

ピーク付近の猪鹿避けネットを潜って細い踏み跡を辿り「山中岩大師」と記された赤テープのある分岐に戻って正規ルート?の東尾根をナースバシに向い小さな鞍部の直ぐ先が山頂。東尾根分岐から小峠への南尾根に入り左手の山道を下ってもナースバシ(太谷山 点名:味間山3等439m)の 三角点標石を見て東の稜線を下り鞍部からの山道を谷沿いに下っても県道36号(西脇篠山線)沿いの熊野神社前に降り立ちます。
味間北城主郭を取巻く帯曲輪

ナースバシ付シ付近に限らず岩ヶ谷三角点近くの400mも広い山道が延びる北尾根に向いやすいので尾根ではなく 山腹を捲くように付けられた山道はコースを読み誤りやすく注意。樹木に囲まれ展望のないナースバシの狭い山頂からはネットが延びる南側直ぐ下方にTV受信アンテナが立つ。小さな起伏の緩やかな東尾根は展望のなさを除けば概して倒木や雑木藪もなく快適です。樹間越しに金山夏栗山多紀アルプスの西ヶ嶽・三嶽も時々姿を見せる406m付近の快適な山道は東の400mピークへ続くが 尾根上の山道は北に向かうので要注意地点。間違えても直ぐ下方に廃棄物処理場施設の白い煙突が見えたらミスコースに気付くでしょう?。以前逆コースで御霊神社(大国寺の東北400m程)から 登ったので分かるが尾根筋の北側を捲く様に降って行く道が東尾根ルートです。間違えやすい分岐ピークではなく、
味間北城の堀切

少し下った平坦な山道の途中に 岩ヶ谷(4等三角点356m銅標No.106585)がある。三角点の白い木柱に蹴つまずかなければ気付かず通り過ぎる?かも。下りはじめて藪っぽくなるが集落内の人声が聞こえる程近くなる。南側へ降れば大国寺は直ぐ其処。尾根が北に向きを変える辺り 共同アンテナの残骸を見て下れば配水施設を過ぎ大国寺と阿弥陀堂の中央付近住吉川に架かる神堂橋を渡った御霊神社(八上城主:波多野秀治を祭神として味間の里に隠棲した秀治二男 甚蔵(源左ヱ門(尉)定吉(尚)が創建)に降りてくるが、少し我慢して面白くない尾根筋を辿れば味間山(ナースバシ)東尾根の末端部です。
味間南城東裾の空掘土塁

鹿避フエンスを開閉して出た所が味間北城の堀切で北側へは 工場裏手・南へ50m程で赤い屋根の阿弥陀堂に出てくる。県道36号を小峠に戻る道すがら茶畑の拡がる先に岩ヶ谷ーナースバシの山容を望み八上城主波多野秀治の遺児甚臓が篠山藩に仕えた頃の長屋門や、峠にさしかかる集落端の茶専門店をチラッと覗き、 隣の熊野神社に寄ってから山南町阿草への県道292号を山中岩大師駐車スペースに戻る


Ⅱ 西古佐~火ともし山(平井山城)~御釈迦山~味間北城 H15年(2003)07月20日

多紀アルプス西岳北方の定利山~高王山でも日本海側の由良川・篠山川から瀬戸内海へ流れ出る谷中分水界にある複雑な河川争奪について触れたが舞鶴自動車道やJR丹波大山駅付近でも篠山川が西北へ少し折れ曲がる辺りから南へ流れ出る細い小川は武庫川となり、篠山川主流は宮田川と合流して川代渓谷を経て加古川へと流れる分水界。石生の水分と同様に殆ど高低差のない一帯は僅かに流れが 南に変われば篠山川は武庫川に流れを変えていたかもしれません。
精明園附近の貯水池から三釈迦山

前々から気になっていた川代渓谷から大山城と少将山へと訪ねてみたが桜の道から川代ダムやメロディ橋の架かる篠山川対岸の丘陵裾をJR福知山線が走る。丘陵上部が段々削られ姿を変えていく県立川代並木道中央公園の整備事業(2007年春 OPEN)が進んでいるが此の上方に望む低い山へも一度は
丹波並木道中央公園としてオープンH19.10.14

行って見たいと思っていた。幸い近くに山城のある火ともし山があるので此処から縦走するが目的は御釈迦山。御釈迦は御射が語源の御狩神事対象の山だったようです。神代に諏訪の神族が三釈迦山上に立ち、弓に矢をつがえ湖底の神竜の頭を射ると湖水の水は枯れ竜が姿を現したという。この事は諏訪神族の多くが移り住み篠山川の川代渓谷側工事により 広大な耕作田が造成されていったという丹波地方開墾説話で多くの古墳群があり-随分と以前から 三釈迦山北麓へ延びる尾根が篠山川へ落ちていく丘稜一帯は 並木道中央公園整備に着手されているが
丹波並木道中央公園・森林活動センタを望む

桂ヶ谷・ずえが谷・灰高等の遺跡群や古墳群が発見されており平成11年から3年にわたった発掘調査によると此処に弥生時代中期から古墳時代後期の遺跡が多い。高地集落は一般的には敵から身を守るため一時的に設けられるもので 桂ケ谷の集落遺跡のように場所を変えながらも途切れることなく(五十棟の竪穴住居跡を確認)集落が営まれ、弥生時代から古墳時代まで長期間にわたり維持され続けた例は珍しく稲刈りに使う石庖丁の出土やイノシシ捕獲の落とし穴や墳墓群も見つかっている。 ずえが谷遺跡では弥生時代終末期の方形周溝墓(丹波地域では初めて)が見つかり丹後地方の王墓と共通する舟形木棺の出土では北近畿とのつながりをも暗示させます。灰高では篠山市内最古級の横穴式石室の発見が相次いだようです。
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三釈迦山(御釈迦山)へは「並木道中央公園」からだが、もう一つ目的の山があり国道・西古佐から味間への分岐へ向かう。R176から住吉川に沿って丹波の茶ところ味間から 山南町阿草や西脇市や今田町や清水寺へ抜ける山越えの県道36号に入って直ぐ山立谷に架かる北山橋を渡り山立谷に沿って続く農道も三釈迦山への直登コースになるが、 もう一つの目的は北山橋の直ぐ北端に迫っている小山に登ることで取付点を探します。
平井山城(火ともし山)味間北・山立谷の農道から

雑木藪で隠れていた山道を見つけて辿るが直ぐに急登になり踏み跡も薄くなり、いつか消えたが稜線に出ると境界の赤いプラ杭のある踏み跡が現れると山頂も近い。うっかり山頂直前の段差を見るまで小さくて気付かなかったが最高所の曲輪だけはわかった。 南面の土塁によってやっと2m程の高さの曲輪に出るとスギや雑木に囲まれ展望のない平井山城火ともし山(320m)と呼ばれ小屋床が示す常駐の見張所を置いた砦だったのでしょう。主郭部の削平は甘く、 城址だと意識しても自然地形尾根上の曲輪さえ気付く事がないかも?。主郭を北西へ降り堀切土橋を渡ると三釈迦山への尾根が続く。尾根筋を外し東の谷沿いに下ると精明園の建物が見える。林道は最奥の貯水池横を経て直ぐ上部の分譲地かと思えた平坦地は 桂ヶ谷墳墓群まで通じている。池の配水溝を飛び越えて此の林道へは池と溝と林道工事の為か踏み跡からは藪漕ぎで飛び出てきます。
丹波並木道中央公園(H19.10.14)内の灰屋(はんや)

池面には三角頭を突き出した御釈迦山が姿を映している。 ポチャッと音のした方を見ると大鼠が対岸に向かい泳ぎ出したのがヌートリア。広い平坦地の下方にも広場や散策道らしい所、伐採されている場所があるのは発掘調査された遺跡群跡か公園として整備される所でしょう。 眼下に篠山川が流れ先程寄った少将山・大山城・波賀尾山から高畑山~金山 目立つ双子山は夏栗山と黒頭峰、多紀アルプスから八上城の支城や其の向城が南面を除き見渡せます。此処はキッと展望公園になるところでしょう。 コスモスの咲く斜面とスギの植林の間を詰め平井山城へ繋がる鞍部には猪鹿除けフェンスがあって味間側へ通じているがフェンス内へ入らず右手から尾根を詰め上がると境界プラ杭が続き御釈迦山(3等 点名大山下村318m)へ案内してくれる。山頂は切り開かれているが雑木に遮られ南側に直近する白髪岳・松尾山・音羽山の山蔭さえ展望皆無です。
丹波並木道中央公園内の茅葺民家

三釈迦山から西へ続く稜線に踏み跡は明確で山塊最高332mピークまで行ってみたいが炎天下に此の後続けて味間北城や名刹・大国寺~大谷山(ナースバシ)への計画もあり此処で打止め。 332m峰への鞍部から山立谷を下り超プチ周回コースを終えて帰路についた。丹波並木道中央公園平成19年10月14日上記写真は樹齢約400年のムクの大木の記念碑(銘板)は井戸県知事・篠山丹波の両市長等の手で除幕されました。 灰屋(はんや)とは畑の肥料となる焼灰を作るため土壁で作られた小屋の事。実際に利用され灰は園内での耕作田等に使用される様です。また民家は此処より北方約3km程の大山新の旧中道家を平成17年に移築されたもの。森林活動センタには本格的な製材機器が備えられ 木工施設が併設されています。


平井山城 味間北城 味間南城・味間南城上砦 井根山城 三釈迦山砦

平井山城(西古佐小屋床・西古佐城) 火ともし山 320m 丹南町西古佐イミノ木南・味間北平井山

県道77号からR176号に出て篠山川に架かる丹南橋を渡ると三和町に通じる県道97号の合流地点に少将山がある。篠山川を望む南方の高台:住吉台住宅地の丘陵西端がR176号に落ち込む所・西古佐の三差路交差点で西脇方面道路標識のある県道36号線へ右折し住吉川沿いに西走する味間谷は丹波茶と
主郭の土塁から南面の曲輪

大国寺で知られる味間集落へ入っていく。県道36号線へ分岐する西北側丘陵の山頂が目的の山城。 味間北から山立谷に沿うように御釈迦山(三釈迦山)から南東に延びる尾根末端にある火ともし山(320m小屋床)平井山城が北に篠山川と南麓の住吉川や山立谷に挟まれた山塊の南端ピークにある。波多野氏の八上城最西端の守りとして山麓は山陰道が通る要衝で北方の鐘ヶ坂や播磨・清水寺への間道。西方からの侵入に備えた城砦群の一つで常駐の見張所が置かれた砦だったのでしょう。
主郭南面曲輪の土塁と切岸

平井山城へはいずれも・途中で踏み跡が消えるが取付点は幾つかある。 南枝尾根筋を辿る北山橋からの取付点か北山橋とR176号線側葬祭会館側からも鹿猪除フェンスを開閉して急斜面を詰めるが雑木藪に隠れていた明確な山道を見つけて辿る。 谷よりに進んだので急登になってくると薄くなりやがて消えたが稜線に道は続いている様?。踏み跡が現われると其処は
横矢掛の主郭北面切岸と帯曲輪

山頂に近い城域で削平は荒いが下草も少なく遺構は確認し易い状態。南端の小曲輪らしい段差の上に幅広く主郭側の高さはないが切岸も明確な帯曲輪が東枝尾根側に長く延び出す自然地形の曲輪が主曲輪を北に廻し尾根上の約50m程はある長い自然地形の曲輪の先端・傾斜増す付近の尾根筋は崩れているが僅かの低位置ながら北側から南へ小曲輪が竪堀の側まで捲き一直線にR176号側に落ちる一条の竪堀を見る。
主郭南面曲輪の土塁と切岸

宅地造成中の住吉台に久下氏(丹波市)の持城西山城があり鎌倉時代からの盟友で天正の八上城攻め・黒井城攻め支城として 応戦し共に落城したが中世後期:大山城の中澤氏・玉巻城の久下氏が拠ったと云われ西山城とは国道筋を挟んで呼応した平井山城の主郭は主尾根上を北へ二曲輪で構成され 上段南端から東・北(殆ど高さは失われている)へ低土塁を廻すが二曲輪間の南端土塁(高さ1.5-2m)東端部は主曲輪側に横矢掛りを意識しており東枝尾根から侵攻の敵に対して副郭は正面・主郭側の突出す位置からも
平井山城主郭の土塁

横矢で東尾根の帯曲輪が狙える。三釈迦山へ続く西北への尾根の主郭端は高さ3-4m程の切岸下に埋もれかけの土橋付きの浅いが幅2m程の溝状を残す堀切で城域を確保するが 尾根続き下方に遺構はなく主郭部の北側は大きく崩れた崖。城域の北西面に沿う曲輪の切岸は高く北東側に二段程の帯曲輪を廻らしているようだが本丸の土塁に城址を感じるだけで 削平段は小さく自然地形に近い曲輪の粗い削平には小さな歴史も残されていないのでしょうか!?
平井山城:城域北西端の土橋付堀切

天正年間(1573-92)織田信長の天下布武による丹波攻略は部将:明智光秀があたり八上城波多野氏を攻め、其の前哨戦として八上城を守備する周辺の支城群を次々と攻め落としていく。R176号沿いJR篠山口駅の西方丘陵部に初田酒井党の酒井勘四郎が守る大沢城・禄庄城・佐幾山城がある。味間谷を播磨西脇方面に抜ける間道は鐘ヶ坂を越えて柏原・氷上へ抜けるのが難所だった旧山陰道(延喜式)で味間から山南町阿草へ谷を下り篠山川沿いに加古川の氷上回廊を氷上~佐治への道を辿る。足利尊氏も此のルートを石龕寺(山南町)へ逃れくる。
平井山城主郭:堀切側から西面の切岸

R176号から此の旧街道筋(県道36号西脇篠山線)に入る味間谷の入口となる火とぼし山を最高所とする低丘陵に平井山城がある。街道筋の南:文保寺付近に味間南城・北には街道に接する極少丘陵の尾根先に味間北城があって八上城の西を守備する城砦群を形成している。R176号東側の今は丘陵全体が宅地の住吉台にも西山城があり鎌倉時代からの盟友で天正期の八上城攻め黒井城攻め支城として応戦し共に落城した玉巻城大山城が拠ったとされる。 西山城があった住吉台と平井山城のある山塊の北を篠山川が流れ・県道分岐点付近は武庫川との谷中分水界になっている。
平井山城:東尾根先の竪堀

篠山川沿いの北には河川段丘の崖上に位置する平城の大山城があり此処を攻めた武将に若き藤堂高虎の名がある。味間の地には天正7年(1579)八上城落城寸前に女畷を逃れた城主:波多野秀治の遺児甚蔵が此処に逃れて後、定吉を名乗り篠山藩主松平氏3代:忠国に仕え、味間から黒石・市原等7ヶ村の代官になった波多野甚蔵屋敷の長屋門が残り波多野秀治の墓所もある。



味間北城  六山 Ca240m 篠山市味間北六山

味間北集落を西脇市に抜ける県道36号の小峠(山南町阿草への分岐)からナースバシ(点名:味間山493m)~岩ヶ谷(4等356m)~大国寺背後へと東に延びる丘陵の最東端に味間北城がある。この城を探して判らず一つ西側丘陵裾の御霊神社から配水施設~共同アンテナ~岩ヶ谷へ辿った時、
県道36号から住吉川支流と味間北城

余ほど此方の方が城址としては適所と思えたが民家の陰に隠れて気付かず通り過ぎてしまう程に低い比高30m程の丘陵上にあるが 味間コミュニテイセンタと民家の直ぐ背後。だが取付き判らず城域の東麓を北方から住吉川(味間地区の中央部を流れる谷川)に流れ込む小川の側にある○○会社の駐車場から北側裏手をとれば
阿弥陀堂前に祀られる城主?の供養塔と五輪塔

僅か7~80mで主郭に着く距離だが此処は南西麓に朱色の屋根が目立つの阿弥陀堂の前には 味間北城主の供養塔らしいが宝篋印塔や五輪塔の残欠が集められ祀られているが以前の画像と見比べていると五輪塔が一基少ない。一石五輪塔ではないが元々小さな五輪塔なので 頭部の空輪や風輪が崩れ・欠けているだけで地輪や台石は残っているのかも?。阿弥陀堂から低丘陵の鞍部に延びる山道は
味間北城の堀切(北の工場側から)

歩き始めて直ぐ鞍部を堀切で遮断し城域を防衛している。今では選り強力な鹿避フエンスが強固な防御ラインを張る。堀幅5m程の堀切を北に下ると八柱神社への参道と工場駐車場との中程に出て工場と味間北集落北端の幅狭い車道に出る。宅地が迫る東や南斜面は削られ5m以上の切岸を立てる。堀切から主郭へは自然地形の緩やか傾斜を最初の帯曲輪に入ると2~3mの段差で
味間北城主郭と帯曲輪(西面から)

更に主郭一段下の帯曲輪に入り1.5m程の切岸上が主曲輪(約15x10m)で僅かに緩斜面に低段差の小曲輪が東方に向って突き出す様に延びる。 主郭部は2段の帯曲輪(いずれも3-4mと幅広い)も東端から曲輪に入口があり東側が大手口の様。北面が藪で判りにくいが主郭を軸にグルリと四方を同心円状に二段の帯曲輪が取巻く輪郭式。
味間北城:主郭西に二段の帯曲輪と緩斜面が堀切まで延びる

崖状の南面を除いては要害とも思えない低位置にあって背後に一本の堀切以外は 土塁や切岸で防備を増強している様子もない城だが戦国末期の築城と考えられ城主は安村丞太夫か谷後和泉守の居城と云われる。山裾には谷後姓の民家もあるが味間谷は 土豪味間(三崎)伊豆守秀友安村丞太夫が勢力を持っていたとされ安村氏の城とするのが優勢の様です!?
味間北城:二段の帯曲輪と最奥の主郭(北面から)

丹波・播磨境の八上城の西口を押さえ播磨側に入る味間谷の東口を平井山城・味間北城・味間南城が呼応して警備に付いていたのでしょう。此の城も天正6年(1578)明智光秀の”丹波攻略”に八上城を固める周辺の城が先に次々落とされ大沢城・禄庄城・佐幾山城と同時に攻め落とされたものと思われます。

味間南城  xx山 Ca270m 篠山市味間南字今社
味間南城上砦 394-520m 篠山市味間南

JR篠山口駅前からR176号を北へ「丹波茶の里・大国寺」案内板が立つ西古佐の三叉路を左折して西脇市・加東市に抜ける県道36号に入るコーナー北丘陵に火燈し山平井山城が更に山裾通って5~600m先・味間北の集落入口北方集落の宅地の奥に隠れ気付かず通り過ぎてしまう程の低丘陵部に
文保寺・二松神社参道口から味間南城

味間北城がある。松尾山~白髪岳登山メインはJR古市駅・住山ルートだが味間南の古刹・文保寺からも松尾山経由の白髪岳コースがある。文保寺山門から本堂に向かう谷通し中程から振り返ると味間北城と登り口の阿弥陀堂の赤い屋根が見える。尾根に達して立つ松尾山は矢代酒井党 南矢代城主酒井主水介氏治の築いた酒井党最後の詰城松尾城(高仙寺城)
味間南城主郭南端:幅広の櫓台大土塁

あったところ。松尾山から音羽山へ東に延びる主尾根の東端部には初田酒井党の大沢城・禄庄城・佐幾山城(壊滅)がある。これ等八上城を取巻く多くの支城群の中に列記した酒井党の城砦群が播磨・摂津・丹波から但馬に通じる篠山盆地西玄関口と播州方面に抜ける 味間谷東の入口を固めている。
味間南城主郭と南端の大土塁

味間南集落の文保寺参道入口に立つ二村神社の石鳥居から向かう車道東の低丘陵尾根北端に味間南城もある。味間南城は松尾山から北へ派生した尾根先が文保寺山門東側で一気に高度を落としながらも、さらに北へ突き出す比高僅か45m程の低丘陵上に大きな2段の削平地を持ち山側の城域最高地点の南西・尾根続に
土塁道を主曲輪に入る虎口

幅広の土壇(櫓台土塁)を残している。味間南集落の文保寺参道入口に立つ二村神社石鳥居から直近:比高僅か45m程の低丘陵尾根先端部に位置する味間南城から松尾山・白髪岳縦走路を肩越の辻(文保寺からの登山道に合流する)までにも尾根縦走では文保寺塔頭寺院の屋根が見えてくる急斜面尾根上の城砦遺構を味間南城上砦として紹介する。先ず味間南城へは文保寺山門前の丘陵部西側から
味間南城主曲輪北の上り土塁虎口

墓地奥の鹿避けフエンスを抜けると高さ2m程の土塁、幅2m・長さ25m程の空掘状遺物をみる。L字状の空掘は北端でそのまま山の斜面に抜け出るので治山や猪避濠とも思えず平坦地形もあり城の搦め手口にあり確証はないが居館跡とも思える。謎の空堀土塁群が周辺の山麓にある。此処からは緩やかな斜面を尾根の城域下部の鞍部に着くと小前株他2ー3氏姓による共同の先祖供養石標が一基建つ。
主郭北の土塁虎口

味間南城西南山麓に居館跡と推定の茶畑の奥へと斜上すると道は直ぐ稜上に出て供養碑前に出る。祀られる地神さんは平野株・小前株で管理されている事を地主さんに聞いた事がある。文保寺とは味間南城の尾根を挟んだ東側に位置する福井谷館は平野酒造之丞の居館だったのでしょう。石碑は福井谷居館の背後にあり 此の城主?関係子孫の慰霊碑かは不詳だが墓碑銘に如来・菩薩を示す梵字?が彫られ背面に
味間南城・北曲輪(櫓台か大手門?)

…大正5年(1916)…とあり”大正の疫病”が流行り始めた頃の造立?。此の城の関係子孫の慰霊塔かも?。碑に至る東下方の山道の集合墓地裏手にも土塁・空掘が隠れている。墓地と地区道沿い谷川を天然の濠に取込んだ居館跡であったかは定かでないが濠(後世のものか?)や城の使用目的等・不明の築城時期を含め郷土の城史研究に期待したいところです。
味間南城・二段の曲輪と櫓台

味間南城は南端の主郭大土塁から北端の櫓台跡まで 約100m程の緩やかな稜上に位置して北方約800m地点にある味間北城と呼応し篠山市から播磨や旧山陰古道が通じていた山南町から 氷上町へ抜ける要衝味間谷入口を押さえていたのでしょう。しかし此の低丘陵の尾根筋・谷筋共に堀切で遮断し防御性を高め城域を確保しているところはないが
文保寺参道側の西曲輪

主郭から西・北・東尾根先へ短く突き出す各一方に自然地形か不整地ながら物見の櫓台跡と思われる約5-8mX7-10m程度の平坦地がある。此の様な縄張りを持つ城は丹波の城には珍しく貴重な遺構と思われます。其々は味間谷の西方(味間奥・文保寺から松尾山:高仙寺城に通じる 登城ルート)・中央は味間北方の味間谷入口を平井山城・味間北城とも呼応して監視)・東方はR176号の要衝を眼下に篠山盆地から八上城までも遠望が効く。
味間南城・東裾の土塁空掘

北方に味間北城・平井山城、北東方に飛ノ山城・吹城へ更に本拠城へと低山ながら篠山盆地西部をカバー出来る監視位置にあり八上城波多野氏配下の酒井党が西域の守備に付いた城砦の一つだったか戦国時代末期には城主平野酒造之丞(または主馬之丞)が拠っていたと云われます。一帯の城砦群は大山城の中澤氏(長沢氏)や大沢城の初田酒井党 酒井勘四郎傘下にあり多紀郡領主:波多野氏に付き八上城西の要衝監視・警護していたが
味間南城東裾の土塁空掘

織田信長「丹波国攻略」の将:明智光秀の八上城攻略の前哨戦の際周辺の小城は悉く落城。戦闘記録や伝承はない?が多勢に無勢・光秀からの勧告を受けて城を降り光秀に付いて以後従軍したか帰農したものか?
。主郭の土壇は幅ある櫓台土塁曲輪から北へ延び出す低丘陵上に大きな2段の削平地を持ち3m程の切岸?(虎口!)を尾根沿いに降ると北端に高さ1m・5m程の
味間南城 ・西裾の文保寺側空堀・土塁

円形テラス「城域三方の尾根先に見張・監視用の一曲輪」がある。此処から北下方への道は直ぐ山腹の古墓地(集合墓地に移されたか等現状は知らない)に出て丘陵北末端の集合住宅地に接する。此の墓地の下段には”白髪仏神従属”?の石碑が建ち
味間南城南尾根鞍部(平野一族?か大正5年建立の供養碑か?) 

四角石柱三面には二段組で石仏が浮彫されており五輪塔も祀ってあった(現状を知らず古墓は近年整備移設されたかも?)。 南端の主郭大土塁から北端の櫓台まで約100m程の緩やかな稜上に位置する味間南城は北方約800m地点にある味間北城と呼応し旧多紀郡から播磨や旧山陰古道が通っていた旧氷上郡(山南町から
文保寺本堂参道から南味間城上砦(仮称)望む

氷上町)を抜け但馬へ通じる要衝の味間谷入口を押さえていたのでしょう。 しかし此の低丘陵の尾根筋・谷筋共に要害といえる地形でもなく堀切で 遮断し、防御性を高めたり城域を確保しているところはないが尾根末端の主郭から 西・北・東の三方に短く突き出す支尾根先には各一つずつ自然地形か不整地ながら
味間南城上砦(仮称):南尾根続きの土橋付堀切

物見の櫓台跡と思われる約5-8mX7-10m程度の平坦地がある。其々は味間谷の西方(味間奥・文保寺から松尾山:高仙寺城に通じる登城ルート)・中央(味間北・南は味間谷入口を平井山城・味間北城と呼応しての監視)・東方(味間新はR176号の要衝を眼下に篠山盆地から八上城までも遠望が効く。北方に味間北城・平井山城、北東方に
味間南城上砦

飛ノ山城・吹城へ、更に本拠城への狼煙台(通信基地)?…低山ながら篠山盆地をカバー出来る監視位置にあり酒井党の砦だったか?。戦国時代末期には城主平野酒造之丞(または主馬之丞)が拠っていたと云われます。文保寺参道側の味間南城西南麓の墓地と田圃の端や、 東南山麓の集合墓地裏手には高く深いほぼ同規模の空堀・土塁が遺る。
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味間南城上砦  394-520m 篠山市味間南

味間南城上砦へは福井谷居館の背後にある鞍部の石碑から徐々に傾斜を増す尾根筋を辿る394m地点に 砦規模の城郭遺構を見るが結構離れた先に土橋付き堀切、更に登り続け緩斜面になると、
味間南城上砦

丘陵上から下方の文保寺塔頭寺院が西斜面に竪堀!を見る。竪堀(自然地形か?)は10数mで急斜面のガレ場で消えるが直ぐ延長線からも塔頭寺院から続く短い林道の側まで落ちているので 近隣の山林伐採・運搬作業による木滑(ズラシ)の溝跡なのかも?。味間谷の呼び名ナースバシ(大谷山)はナガスらしと呼ばれた山。長都羅志山コケズラシの山名も用材搬出に関わる同意語?。
味間南城上砦

急斜面を利用し木材搬送する”木ずらし”のスラやシュラ(修羅)の音からは木橇に載せて滑らせる。尾根筋は「肩越の辻」で文保寺からの登山道に合流するので、二村神社からの文保寺西尾根(送電線鉄塔アリ・味間地区展望もあり)「釣鐘の辻」まで200m?程の白髪岳縦走路に出る新登山ルートともなるが
釣鐘の辻

井根山城からの尾根筋・味間新からの谷筋や大沢ロマンの森周辺の禄庄城・大沢城・火燈山(初田酒井党の城砦群)への尾根筋も 全て!!が「肩越の辻・釣鐘の辻」を経て南矢代城主:酒井主水介氏治の築いた矢代酒井党最後の詰め城松尾城(高仙寺城)に繋がる。味間南城が堀切もなく曲輪の切岸も山麓からの防御性には弱い!?だけに尾根筋は詰城:松尾山城に入って体勢を立直す「逃げの城・退却ルート」か。


井根山城 409m 篠山市味間南

「初田酒井党城砦群」としては初田酒井党若き闘将:大沢城主の酒井勘四郎氏武)がおり、大沢城の出城:佐幾山城に家老の杉本氏・支城の禄庄城にも杉本氏・石野氏が拠った。
井根山東麓の音羽谷川沿い丘陵山麓一帯が”夙廃村”跡か?

大沢城・禄庄城・佐幾山城から火とぼし山城(砦)へ繋がる尾根筋は矢代酒井党の多くの諸城ともに矢代酒井党・初田酒井党の最後の詰め城松尾城(高仙寺城)に繫がる。 味間は名刹大国寺を中心とした丹波茶の茶所だが天正7年(1579)八上城落城寸前に 城主秀治の遺児:甚蔵が此の地に逃れ、文保寺の徒弟として入門・31歳で還俗し源左ヱ門(尉)定吉を名乗り
井根山城:主郭の段曲輪群(岩上神社側)

篠山藩主松平山城守忠国に仕え(味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石)の代官に任命された波多野甚蔵屋敷(長屋門)が遺り背山には 八上城主波多野秀治の墓碑が祀られる。八上城が立地する篠山盆地西の玄関口は摂津・丹波・北播磨と京街道が交差する要衝の地でもあり、街道の監視・守護する味間には波多野氏の家臣団や 安村・三崎・谷後・平野…ら在地領主の
防御の主は東斜面(岩上神社側・宝篋印塔側の両尾根間の谷正面切岸)

城砦群がある。築城主はじめ城史不明の平井山城(火ともし山320m)や大規模宅地造成地で消滅したが中世後期:丹波市の 玉巻城の久下氏・共に関東から来住で鎌倉時代からの盟友:大山城の中澤氏が拠ったと 云う”西山城”があり、味間谷に入って三釈迦山砦 味間北城味間南城…等があり、旧延喜式山陰道が味間奥から丹波市山南町阿草から久下・井原を経て”氷上回廊”を但馬・
主郭と二段の帯曲輪

福知山市方面に向かう。井根山城へのスタート地点とした”味間新の地蔵堂”は 往時「丹後成相寺巡礼道」で地蔵堂前の摩耗した三角柱の道標が「左:久下播磨(25番:清水寺)・右:丹後成相寺(28番宮津の成相山)」への西国観音霊場巡礼道を示す。初田酒井党酒井勘四郎の家老:杉本氏の佐幾山城(殆ど壊滅)の西約600m程の丘陵上409mには井根山城(仮称)があり城主等城史一切不明だが味間北城・味間南城の
主郭から宝篋印塔側尾根筋の高い切岸下には犬走(?通路)と谷筋俯瞰の帯曲輪

平野氏・安村氏…ら地侍の城より谷一つ隔てるだけだが、城の規模からも初田酒井党家臣の杉本与右衛門や石野久兵衛配下の城郭かと推察します。 酒井勘四郎は八上城:波多野秀治に属して味間谷の土豪等と篠山盆地(八上城)西玄関口の守備に付いていたものか。天正:光秀の侵攻には多勢に無勢・戦いを解き勘四郎自身は八上城に入り、 落城後は光秀に降り天正10年(1582)山崎合戦に従軍し大津瀬田で討死(享年18歳)したという。味間南城レポートにも触れた謎の土塁・空堀群が城砦遺構でない!?と思える事象が”井根山城”東山麓の岩上神社や、
主郭直下を落ちる竪堀は兵の横移動を禦ぐ為か!:南尾根続きに堀切?がある

加茂神社(夙村の氏神だった)旧跡敷地内?の宝篋印塔(南北朝期の造立?)は 醍醐天皇皇妃陵墓(皇妃塚)との説あり篠山市指定文化財)等の…音羽谷川沿いのスギ・ヒノキ林の中に遺る!!?。此の一帯には地図からも消息途絶えた夙村があった。江戸時代中期頃?から一時期80戸を数えた夙村だが嘉永年間(1848ー54)には 僅か7戸を数えるほどに減少「多紀郡地誌」には明治17年(1884)全戸がなくなった夙村の記述がある。ただ空堀・土塁群と”柿渋師としての渉りの技術集団だった「夙村」との関連…は不明。井根山城(仮称)も市遺跡分布地図や郷土史・市誌等に未報告?の城砦。井根山城からは岩上神社への北東尾根・”ケアハウス丹波の郷付近への東南尾根側に数段の曲輪を並べるが殊に東南側の
井根山城域南尾根続き鞍部の土橋付(堀切?は喰違竪堀状)

曲輪切岸は高い。両尾根筋の間にも曲輪と両尾根を繋ぐ犬走り?と比較的長い帯曲輪(2ー3段)は、 宝篋印塔・加茂神社旧跡付近から直上する谷からの侵入に備えたものか?。主郭409m東北面を二段の帯曲輪が廻る。東下段曲輪は北に廻り込み上段曲輪に入る平入り虎口状?で東南にも1-2段曲輪を廻す。主郭の曲輪・帯曲輪は広い所でも幅8m程と籠城する居住空間は少ないが南北150m x 東西70m程の城郭規模は初田酒井党の主城:大沢城に次ぐ。此処までか?と思えた主郭から 南へ下る尾根続きに一本の長い竪堀状と、
肩越の辻:文保寺/味間南城/味間新・火燈山

鞍部に土橋付堀切(左右の堀切が喰違いの縦堀状?)をみる。長い竪堀状は此の堀切を越え侵攻する敵の斜面横移動を禦ぐ施設と思われる。上り返して更に進む南のピーク(主郭と粗同比高)迄に遺構はない…が 送電線鉄塔の建つ470m付近やを経て、初田酒井党諸城砦群は矢代酒井党の最後の詰城松尾山城(高仙寺城)にも繋がり、大沢城~火燈山の砦?からの尾根筋が「釣鐘の辻」で合流する。

三釈迦山砦 御射迦山 318m  篠山市西古佐山

兵庫県立丹波並木道中央公園(篠山市大山下・西古佐)の中にある「三釈迦山(3等三角点 318m)」には中世山城の物見櫓台を模した山頂展望台があり公園事務所・森林活動センター間を周回する登山路が整備されている。尾根続き近く東に平井山城(西古佐城)があり中央公園造園整地や遺跡発掘調査期間中だったので
丹波並木道中央公園内の茅葺民家

三釈迦山手前R176号公園大山下側入口へ降りた。御釈迦山(三釈迦山)の御釈迦は[御射]が語源の御狩神事の対象の山だったようで…公園整備中の発見:調査や設備等はⅡ西古佐…味間北城の項を参照して下さい。また丹波市・篠山市に跨がる篠山層群(1億1千万~1億年前の地層)からは丹波市側で
展望櫓が見える直下の長い堀底道状は旧山道?

丹波竜「タンバティタニス・アミキティアエ」が発見され:発掘現場付近には丹波竜の里公園がある。篠山市側でも2011年公園内で小型の獣脚類恐竜「トロオドン類」の化石が見つかり、新しく出来た施設「太古の生きもの館」内に模型展示されている。 三釈迦山山頂には砦の望楼風展望台があるが砦跡と知っての築造設備なのだろうか?数多くの古墳群・高地集落遺跡…等々の古跡を示す案内板・説明板は一切ないが、
三釈迦山山頂の展望櫓

公園管理棟・移築茅葺民家近くに三釈迦山登山入口案内板を見る。三釈迦山の東には尾根続きに火ともし山があり土塁・土橋付き堀切を備える平井山城(西古佐城・小屋床・)がある。山麓のR176向かいには久下氏の西山城(宅地造成で消滅?)があった。今田町や西脇市へ通じる篠山盆地の西端部:入口付近には
展望台から望む篠山盆地:右手奥に八上城

味間北城・南城があり篠山川R176側には古城少将山城・公園北方には篠山川を挟んで大山城がある。三角点標石の埋まる単郭曲輪に公園施設として大きな改修はなさそう。明智光秀軍が天正6年大山城を攻めた際:織田信澄の家臣に藤堂高虎(篠山城築城時の奉行)がいた。三釈迦山砦は平井山城の出曲輪か?篠山盆地西端部に位置し味間を通る旧山陰街道なり 西脇や今田方面へ抜ける
櫓台から尾根続き下部に堀切!!

街道監視・警戒を数ヶ所の砦と連携する砦の一つだったか?。三釈迦山山頂からは多紀アルプス三山のうち 小金ヶ岳を覆い隠す盃ヶ嶽から矢代城砦群大山城に対する監視から
金山城に向かう街道側に夏栗山(砦)と黒頭峰の双耳峰、北正面に八上城を望みJR篠山口付近には大沢城・禄庄城・佐幾山城
三釈迦山周回コース終端で古墳群名残の横穴式石室の石積を見る

吹城・網掛城・西吹城…等数多の八上城砦群・落城後明智方の付城…が見通せる。三釈迦山砦も付城として有効…だが築城目的…他一切不詳。展望台南東手前の竪堀状(旧山道か?)・展望台から登山道を下ると堀切がある。尾根伝い急斜面から緩斜面になる付近に:唯一?の古墳・封土が流れ落ち露出する横穴式石室を持つ一基を見て見晴らし(東屋)ベンチに降立つ。


【大国寺】 篠山市味間奥162

JR丹波大山駅の南西R176号から西脇方面に向う県道36号が住吉川に沿って味間谷を抜けていく。車道の左右の段丘には茶畑が緑色の波のウネリを見せて何処までも続いています。
大国寺

静岡と宇治で代表される日本茶だが丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)や味間で代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素が大きいように思えるが昭和42年に兵庫県の観光百選に指定されている丹波の茶所味間の里の奥に新丹波七福神霊場(大黒天)の安泰山大国寺(天台宗)があります。
虚無僧の尺八の音を先導に大国寺に到着した茶壷道中

大化年間(645-650)法道仙人(空鉢仙人とも呼ばれる)により開基されたと伝えられます。天平時代・行基により開創開山されたが年代等は不明。天暦年間(947-957)に兵火により焼亡したが正和年中(1312-17)花園天皇の帰依により伽藍が再建され”安泰山大国寺”の称号を受け如来を安置して四海の安泰を祈願されたといわれます。
キャンペンガールによる大茶盛 H18.6.3

室町時代初期に建てられた本堂の外観は入母屋の純和風建築だが内部の外側柱は円柱・内裡部の柱はエンタチス風に膨らんでいる?確認しなかったが上部が先細り状に丸みをもっており、唐風と和風の折衷様式が珍しく昭和36年(1961)国の重要文化財指定を受けた。本堂には藤原時代(平安時代)中期~後期の本尊:薬師如来(大日如来)・脇侍に大日如来・阿弥陀如来と持国天・増長天像の5体が安置され、いずれも大正11年(1922)4月に国重要文化財に指定されている。第28回(H20.6.7)茶まつり・献茶式後ご住職より本尊仏について興味ある話を伺った。
秋の大国寺

薬師如来といわれるが体は大日如来・手印は後世に手が加えられ法界定印を結ぶ胎蔵界の阿弥陀如来像だが他仏像の指に比してデフォルメされているのか異常に大きく見える。薬師如来といわれ薬壺はあるが手印を結んでいる為一般的に?薬壺を片手に持つお姿ではない!。天台宗における「一仏三体」(一つの像から三つの仏を見る)思想を反映したものといわれます。
茶壺道中は茶畑の傍を通り大国寺に向う H20.6.7

説明を聞かなければ気も付かなかったが…解かってみると後補の有無より此の様な作風の仏像は非常に珍しく「一仏三体」思想を明確な容で表現している像の文化財価値の重要性を改めて感じ、漆箔の塗りが浮き剥がれかけたお姿を国で修復出来ないものかと…国宝だったら既に修復されているのかも知れないと残念な思いです。天正年中(1573~92)織田信長の命により丹波攻略にあった明智光秀の八上城攻めの兵火により殆どの寺社が焼かれ、持出されて僅かに残された篠山市の仏像等に国宝はないが重要文化財指定が15件ほど・其の内5体の仏像が大国寺に安置され「丹波の正倉院」とも呼ばれるそうです。
茶壷に納められた一番茶を駕籠に乗せて

丹波市達身寺も”丹波の正倉院”と呼ばれ下腹部に特徴ある達身寺様式の仏様。お茶の生産量は兵庫県下でも篠山市が他地域に比べ群を抜いて盛んなのは篠山藩が茶の栽培を奨励したことに起因するのか?。篠山藩3代藩主松平忠国の御下屋敷も広大な敷地に茶園があり、茶の湯を楽しむ為の池泉庭園を造り、茶会や諸行事の使用するためだけの別邸としていたようです。毎年5~6月一番茶の摘み取り時期の頃(今では第1土曜と日曜日)に茶の里会館のイベント広場や大国寺周辺で大国寺と丹波茶まつりが開催され今年(H18.6.3)は第26回を迎え民俗芸能や煎茶の野立、大国寺では秘仏が一般公開され賑わいます。
本堂での煎茶の点前 H18.6.3

茶壷道中で大国寺へ運ばれた新茶の茶葉は住職(福住職)の手による格調高い「棚の点前」で入れられ 本堂内で控えているお茶子さん?の女の子に運ばれて須弥壇に安置される本尊如来像(薬師如来と云われるが大日如来?)の前に供えられる。輿で運ばれてきた茶壷も壇上に納められる。古来・中国では薬用として飲まれていた茶が嗜好品として普及し弘仁年間・延暦24年(805)に最澄によって、

点前の新茶はお茶子(?)に運ばれ本尊前に供えられます


唐から”茶の実”が持ち帰られ比叡山山麓に植えられたのが始めとされ其の後、畿内一円で茶樹が植えられ京中にも官営の茶園が造られていく。仁安3年(1168)僧栄西が持ち帰った茶種を京都・栂尾高山寺の明恵上人に贈ったものが”抹茶法”とともに宇治から奈良・丹波へと拡がって寺社から農民へと茶畑を持っていったものと考えられ、近年では栽培法や製茶技術の改良によって丹波 (味間・住山・後川等篠山市地区内)の製茶量は県の60%近くのシエアをもち県下最大の産地となっています。
(現地 大国寺の由来 案内板を参照)
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